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第41話

「あなたが落としてくれるなら、私……何でも言うことを聞く」「何でも言うことを聞く、か……」龍司は、真帆がこの金のネックレスのために、そこまで口にするとは思っていなかった。だが確かに、心が動いた。彼は、これ以上真帆の心を苦しめたくなかった。このところ、龍司は何度もこの結婚を立て直す方法を考えてきた。けれど、どこからどう見ても、悪いのは自分だった。だからこそここまで引き延ばしても、真帆に許してもらえる理由を、どうしても見つけられなかった。もし、この金のネックレスを落とすことで、彼女の気持ちが戻るのなら。たとえ数十億円など、一体何だというのか。そう腹を決め、真帆に安心させるような笑みを向けると、再び競売札を掲げた。「12億円……」「12億円」かすれた、年季を帯びた声が、その穏やかな声を押し流した。龍司は、はっとして眉を寄せる。「おばあちゃん……どういうつもり?」「家の者が欲しがっているなら、誰が競っても同じことでしょう」龍司の祖母は平静を装いながらも、瞳には明らかな不快を滲ませた。「それとも、年寄りには家の金を使う権限がないとでも?」「おばあちゃん、誤解だよ。そんな意味じゃ……」龍司は小さく息をついた。「ただ、真帆は本当に欲しがっていて……」「波が嘘をついてるとでも?」龍司の祖母の視線が、冷たく突き刺さる。その瞬間、会場のあちこちから、個室へ向けた視線が集まった。こんな場で身内同士が同じ品を奪い合えば、明日の見出しになるのは目に見えている。龍司はこれ以上、真帆に悪い噂が及ぶのを望まなかった。だから結局、競売札を下ろした。そして、真帆の手を軽く叩き、低く声をかけた。「オークションが終わったら、同じものを作らせる。いい?」同じものを、作る……真帆は、思わず苦く笑った。また、いつもと同じ対応……数か月前、苺が死んだときと何も変わらない……失ったなら、代わりを用意すればいい。そんな考え方。そもそも自分も、もうすぐ離婚する身だ。いずれ元夫になる人に、こんな頼みをする資格など、最初からなかったのだ。真帆は、そっとまつげを伏せ、龍司の手を離した。そして、何事もなかったかのように、自分の席へ戻って腰を下ろした。波は真帆が引き下がったのを見て、その瞳の奥に一瞬、勝ち誇った光を
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第42話

声は大きくなかったが、会場全体を揺るがすには十分だった。一瞬で、全員の視線が二階へと集まった。その声の主へ。木槌を振り下ろそうとした競売人の手が、空中で止まった。場内は、三秒ものあいだ、完全な静寂に包まれた。やがて、ひそひそとした囁きが広がった。「西園寺家の若造か?」競売での上乗せは珍しくない。だが、一雄のこの上げ方は、ほとんど反則に近かった。龍司の祖母は眉をひそめた。「どういうつもりなの」龍司も衝撃を受け、しばらくしてから我に返ると、声を落として浩一に指示した。「理由を聞いてこい」浩一はうなずき、数分後に戻ってきた。ひどく慎重な声で言った。「龍司さん、一雄さんは、この品は必ず手に入れると仰っています」そう言ってから、波と龍司の祖母をちらりと見やった。「こちらがいくら上げても、彼は降りる気はないそうです」その言葉に、波の顔色が一気に変わった。彼女はこっそり真帆を睨みつけ、すぐに龍司の祖母の腕に縋りつく。「おばあさま、私、本当にこの金のネックレスが好きなの。湊も絶対に喜ぶわ。ずっと言ってるでしょう、ひいおばあさまが一番自分を可愛がってくれてるって……」湊は鷹宮家の姓こそ名乗っていないが、実質的には、鷹宮家で唯一の曾孫にあたる子どもだった。祖母の表情に、ためらいが浮かんだ。さらに値を上げようとした、そのとき、龍司が手を上げて制した。「おばあちゃん、もういいでしょう」「何だい」龍司の祖母は鼻で笑った。「この星嶺市で、我が鷹宮家が西園寺家の顔色をうかがえとでも?」「顔色の問題じゃない。両家は姻戚関係だし、この場で争えば、家の評判に響くかもしれない」龍司の声は冷静だったが、その言葉は、確実に祖母の胸に届いた。彼女たちの世代は、個人よりも家を重んじる。どれほど孫を可愛がっていても、家そのものを賭けに出すことはしない。「じゃあ、波はどうするの」表情はなお険しいものの、龍司の祖母の態度には、明らかな揺らぎがあった。龍司は、ようやく息をついた。そして。少し考えてから言った。「波が本当に欲しいというのなら、オークション後に、俺が個別に叔父さんと話をする」望みが薄いことは、誰の目にも明らかだった。それでも、家で実権を握る二人がそう言った以上、波は歯を食いしばって、悔しさを飲み込むしかな
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第43話

レセプション会場には暖房が入っていて、肩を出したドレスでも寒さは感じなかった。だが、室内と屋外の温度差は十数度ある。真帆は外に出た途端、思わず身を震わせた。次の瞬間、まだ体温の残るスーツのジャケットが、肩に掛けられた。真帆は一瞬、動きを止めたが、すぐに手を伸ばしてジャケットを払い落とし、立ち去ろうとした。「あの金のネックレスが欲しいなら、ここにいろ」軽い口調だったが、その一言で、真帆の足は地面に縫い止められたように動かなくなった。手をきつく握りしめ、ゆっくりと振り返ると、予想どおり、男の長い指の間には、何年も前に失ったはずの、養母の形見が弄ばれていた。何度か深呼吸をし、奪い返したい衝動を必死に抑え込みながら、声を低くして言った。「それはどういう意味?」一雄はすぐには答えなかった。金のネックレスをしばらく見つめてから、ようやく、落ち着いた調子で口を開いた。「さっき言った言葉……本当か?」「何の話?」「俺がこの金のネックレスを落としたら、何でも言うことを聞くってやつだ」その瞬間、真帆の瞳がわずかに揺れた。それは波と争っていたとき、思わず口を滑らせた言葉だった。衝動的ではあったが、もし龍司が本当に落としてくれていたなら、彼女は否定しなかっただろう。しかし、その言葉を一雄に聞かれていたとは、夢にも思わなかった。返事がないのを見て、一雄は数歩距離を詰めると、わざと、金のネックレスを彼女の目の前にさらした。「どうした、忘れたのか?」真帆の意識は、完全にその手元に引き寄せられていた。目元が赤く染まり、掠れた声で答えた。「覚えてる……」苦しそうに、吐き出す。「でも、それがどうしたの?あなたがが落とした以上、それはあなたの物でしょう」「その通りだ。20億円の品だ。無償で渡すわけにはいかない。しかし……」「何?」「君は、俺の条件を聞く気はないのか?」死んだ魚のような真帆の瞳に、かすかな光が戻った。「どんな条件?」「簡単だ」一雄の声は気怠げだったが、視線は鋭く彼女を射抜いた。「龍司から離れろ」胸の奥が、ひやりと音を立てた。希望は、瞬く間に困惑へと変わった。「何を言ってるの?」「分からないか?」一雄は唇をわずかに歪め、長命錠を指先に掛け、揺らしてみせた。「龍司と離婚しろ。そうすれば、
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第44話

その言葉が落ちた瞬間、真帆の瞳は、信じがたいという光で満たされた。「何て言ったの?」「だから、君を、連れて、星ヶ丘へ帰るんだ」一雄は一語一語、区切るように告げた。「真帆、ちゃんと聞こえたか」「聞こえたわ……」心臓を強く掴まれたような痛みをこらえ、真帆は皮肉な笑みを浮かべて呟いた。「本当に、はっきり言うのね……」五年前、彼が彼女を追い払ったときと、まったく同じくらい、はっきりとした言葉。「真帆、これは冗談じゃない」彼女の唇に浮かぶ嘲りが、一雄の目を刺した。無意識のうちに、彼は半歩、距離を取った。そして、彼女が恐怖を感じない程度の、ぎりぎりの距離を保った。「龍司は君に合っていない。このままじゃ、君は幸せになれない」「幸せ?」真帆は、声を立てて笑った。「それって、何?」一雄は眉を寄せる。「ふざけるな。俺は真剣に話してる」「あなたが真剣だからって、私が聞かなきゃいけないの?」真帆が目を上げたとき、そこにあったのは、すでに押し殺された感情だけだった。「私はもう、昔みたいにあなたに誠心誠意尽くせる人ではない。二度目はないわ。もう一度捨てられる気はないから」そう言い切り、彼女は踵を返した。だが、一雄の手が、瞬時に彼女の手首を掴んだ。「誰が捨てるなんて言った」「今は捨てなくても、どうせそのうち捨てる」真帆は力任せに振り払った。五年前、彼が彼女を振り払った、あのときと同じように。「だって……誰が、頭のおかしい女を妻にしたいと思うの?」それは、彼がかつて、彼女に向かって吐いた言葉だった。彼女が本気になれば、口調も、視線も、仕草も、彼に似せることができる。五年前の光景が、鮮明に、彼の目の前に再現された。そして、自分の言葉がそのまま刃となって戻り、胸を深く貫いた。「真帆……」一雄は低く名を呼んだが、失望と虚無、そこに滲む涙を宿したその瞳を前に、何一つ言葉が出てこなかった。真帆が背を向けたのを見て、彼は反射的に叫んだ。「待て」一雄は、手の中のものを無意識に撫でて言った。「この金のネックレス……」「あなたが落としたものなんだから、好きにすればいいじゃない」真帆の声は、凍えるほど冷たく震えていた。どれほど、養母の形見を取り戻したかったか……でも、彼と星ヶ丘へ戻るなんて……そんなこと
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第45話

レセプションが終わったあと、龍司は浩一に頼み、真帆を探させた。ちょうど帰ろうとした、そのとき、どこからともなく、波が現れた。清純無垢な笑顔を浮かべて言う。「龍司、真帆さん。おばあさまは先に帰ったの。よかったら、私を一緒に乗せてくれない?」龍司は反射的に頷きかけたが、真帆の表情に気づき、一瞬だけ言葉を飲み込んだ。そして、様子をうかがうように呼びかけた。「真帆?」真帆は、ゆるく微笑んだ。「好きにして」「やっぱり真帆さんは優しいわ」波は満面の笑みを浮かべ、わざと身をかがめて、龍司の車椅子を支えた。胸元のラインを、いやらしく覗かせる。「龍司、そう思うでしょ?」龍司は反射的に視線を逸らし、小さく「ああ」と答えると、真帆を見て、柔らかな声で尋ねた。「長かったな。疲れてないか?」模範的な夫そのものの口調だった。真帆も、その芝居に付き合う。「大丈夫。疲れてないわ」横目で、波の顔が怒りで真っ赤になっているのを見て、胸の奥に、かすかな痛快さが走った。やがて浩一が駐車場から車を回してきた。降りて車椅子を押そうとした、その瞬間、波が突然、腹部を押さえた。「どうした?」龍司は眉を寄せ、心配がはっきりと表情に出ていた。「どこか痛いのか?」「お腹が……痛くて……」波は太腿をこっそりつねり、演技をより真に迫らせた。「大丈夫よ龍司。たぶん、さっきレセプションで変なものを食べただけ……」「だめだ」龍司の声には、拒む余地がなかった。「そんなに痛むなら、病院に行こう」「でも、病院って空気も悪いし、真帆さんが……」波は、そう言いかけて、困ったようにわざと口を閉ざした。龍司は、それも一理あると思ったらしい。少し考え、申し訳なさそうに真帆を見て言った。「真帆、先に波を病院へ送る。君は……」「平気よ」真帆は、微笑みながら遮った。「二人で行って。私はタクシーで帰るから」いつもどおり、物分かりがいいその態度に、龍司の胸に罪悪感が込み上げた。しかも、さきほど彼女が欲しがっていたあの金のネックレスすら、結局、手に入れてやれなかった。「分かった。家に着いたら、必ず連絡してくれ」真帆は、小さく頷いた。浩一が龍司と波を車に乗せ、車は走り去った。真帆は数歩進みながら、スマホでタクシーを手配した。渋滞を避けた場所にピンを立て、運
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第46話

驚いた直後、一雄の顔色が最悪と言っていいほど険しくなっているのを見て、直哉はそれ以上何も言わず、存在感を極力消した。清掃員がなかなか答えないのを見て、一雄は堪えきれず、手に力を込めた。「このはネックレスはどこで手に入れたと聞いている!」「ひ、拾ったんです……」清掃員は、これほど強烈な威圧感に晒されたことなどなく、足は震えていた。「どこで拾った」一雄は重ねて聞いた。「入口のところです。さっきゴミを捨てに行ったときに……」清掃員は、事の経緯を一つ残らず話し、目に涙を溜めた。「信じてください。私、持ち逃げするつもりなんて……仕事が終わったら、ちゃんとマネージャーに渡すつもりで……」本当は、渡すつもりなどなかったはずだ。ネックレスは切れていたが、そこに嵌め込まれた宝石は、紛れもない本物。売れば、それなりの金になる。直哉はそれに気づいたが、あえて口には出さなかった。「一雄さん、もしかすると……真帆さんは、ネックレスが切れたのを気づかないまま落としただけでは?」「違う」一雄は低く呟き、鷹のような視線で切れた部分を見据えた。そして、ネックレスをひったくるように奪い取った。「自然に切れた痕じゃない。人の手で、無理やり引きちぎられている」胸の奥に、言いようのない不安が広がった。一雄はすぐに振り返り、直哉に命じた。「会場入口周辺の監視カメラを全部洗え。必ず彼女の行き先を突き止めろ」……北郊外の廃工場。体型も雰囲気もばらばらな男たちが、床に倒れ、意識を失った真帆を囲み、下卑た笑い声を上げていた。「この女、身体弱すぎだろ。少量の睡眠薬しか使ってないのに、まだ起きないとはな」金髪の男が吐き捨てると、別の男がすぐに続いて言った。「冷水でもぶっかけて起こせ」「了解」男は応じ、すぐに氷水を張ったバケツを持って戻ってくると、ためらいもなく、それを真帆に浴びせた。「……ゴホッ……」水を吸い込み、真帆は肺が裂けそうになるほど咳き込んだ。ようやく顔を上げると、目の前には、見知らぬ男たちが立っていた。瞳孔が、きゅっと縮まる。「あなたたちは……誰?」「お嬢さん、俺たちが誰かはどうでもいい。問題はな……お前が、知るべきでないことを知っちまったってことだ」別の男が、スマホを彼女の目の前に突き出す。「ほら、いい子だか
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第47話

黒人の男が近づくにつれ、真帆の胸には、言いようのない既視感が強まっていった。だが、極度の恐怖の中で、人は冷静に考えることができない。しかも、男は彼女に考える時間を与えなかった。真帆を拉致した連中の頭目は、黒人の男を見るなり、露骨に媚びた笑みを浮かべた。「ボス、この女、口が相当固いです。いっそ俺たちで少し躾けてから……」男は手を上げて遮り、真帆の前にしゃがみ込むと、小さな注射器を取り出した。「これが何か、分かるか。これを体に入れれば、すぐに天にでも昇った気分になる。自分が誰かも、何が起きたかも、全部分からなくなる。そのあとは、お前はこいつらの下で転がされるだけだ。極端な快感と悦びを、何度も何度も味わうことになる……」拙い日本語と、無頓着な仕草が相まって、男の顔はいっそう陰険に見えた。「どうだ。パスワードを教える気になったか」真帆は、男の手にある薬剤を恐怖に歪んだ目で見つめた。本当かどうかは分からない。だが、中身が危険なものではないはずがなかった。薬剤を打たれる恐怖が、ついに彼女を打ち負かした。震えながら、真帆はスマホのパスワードを口にした。「賢い判断だ」男は満足げに立ち上がり、真帆の携帯を手に取ってパスワードを入力した。ロックを解除し、しばらく画面を操作したあと、男は鼻で笑った。「やっぱりな……」「この動画、バックアップはあるか?」男は再び真帆の前にしゃがみ、彼女の頬を軽く叩いた。思いのほか触感が良かったらしい。今度は指で頬をつまんだ。力が強く、真帆の頬はすぐに赤く染まった。真帆は痛みに震えながらも、必死に画面を凝視した。それは、数日前、温泉施設で撮った動画だった。波が一人で温泉施設に忍び込み、個室の前を通り過ぎる瞬間、黒く艶のある腕に引きずり込まれた、あの場面。黒い……真帆は、はっとして目を見開き、画面に目を向けた、映像の中の男は、目の前にいるこの黒人だった。つまり、波の裏の男。そして、この誘拐の黒幕は……「おい、聞いてるのか?」「バシッ」乾いた音とともに、もう一度、頬を叩かれた。男は真帆の顎を強く掴んでもう一度言った。「答えろ。バックアップはあるのか?」「な、ない……」ここで逆らってはいけない。真帆は必死に平静を装った。「拡散するつもりがあっ
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第48話

言葉の続きを口にしなくても、男同士なら、その意味が分からない者などいない。黒人の男は鼻で笑い、特に止める気もなさそうに言った。「好きにしろ。ただし、うっかり殺すなよ」「ありがとうございます、ボス!」頭目は満面の笑みを浮かべ、下卑た表情を隠そうともしない。「あの……ボス。さっき持ってた、あの注射器……」へへ、と笑いながら、無意識に両手をこすり合わせる。「俺たちも別に悪気があるわけじゃないんです。ただ、ボスは外国人だから守られてるけど、俺たちまで全部背負い込むわけにはいかないでしょう?あの薬、気持ちよくなれるし、終わったあと何も覚えてないなら……」話しながら、視線は何度も、男の手の中の注射器に吸い寄せられていた。まるで、喉から手が出るほど欲しい宝物でも見るかのように。黒人の男はすぐに察し、少し黙ったあと、その注射器を頭目に投げ渡した。「やるよ。だが加減しろよ」真帆の瞳が、恐怖で大きく見開かれた。そして、何度も首を横に振った。先ほどの言葉が、呪いのように耳の奥で反響する。逃げられない。振り払えない。頭目が一歩、また一歩と近づくにつれ、真帆は必死に後ずさった。だが、背中には冷たい壁しかなく、逃げ場はどこにもなかった。目の前で、頭目の卑猥な笑みが歪み、ぐらぐらと揺れた。吐き気が込み上げ、胃がひっくり返りそうになる。「さあ、これでお前は、俺たちのもんだ」頭目が背後の男たちに合図を送ると、数人の男が目の色を変えた。にやつきながら真帆を囲むと、真帆は腕を押さえつけられ、抵抗できなくなった。「やめて!」真帆は胸が張り裂けるほど叫んだ。意識が揺らぐ中、黒人の男がスマホを取り出し、誰かと通話しているのが、ぼんやりと見えた。そのあと、何かを頭目に告げると、頭目は急に態度を変え、深々と頭を下げた。黒人の男は、そのまま倉庫を後にした。「へへ……もう逃げられねえぞ」下卑た笑い声が、耳元で響く。薬が回り始め、視界は徐々に霞み、身体から力が抜けていく。抵抗する力も、次第に弱まっていった。男たちの手が、彼女の襟元に触れた、その瞬間、外で銃声が鳴り響いた。反射的に振り向くと、倉庫の扉が激しく蹴破られた。「ドン!」「くそっ、邪魔しやがって!」頭目が叫び、部下たちに武器を取らせようとしたが、間に合わなかった。
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第49話

歩くスピードは無意識のうちに速まり、真帆を車の後部座席に横たえると、一雄は切迫した声で運転手に命じた。「病院へ。急げ」運転手は一瞬も迷わず、アクセルを踏み込んだ。薬の影響で、真帆の顔は異様なほど赤く、身体はまるでストーブのように熱を帯びていた。小さく喘ぎながら、落ち着きなく、彼に縋ろうと手を伸ばす。「真帆……」一雄の神経は極限まで張り詰め、彼女を見ることすらできなかった。真帆のかすかな吐息一つ一つが、彼の理性に火をつける。「だめだ……」何度も、自分に言い聞かせた。彼女は薬を打たれている……正気じゃない……だから俺は……一雄は深く息を吸い、片手でネクタイを外すと、必死に押さえつけて、彼女の手を縛った。そして、自ら舌を噛んだ。血の味が口いっぱいに広がり、ようやく、わずかな理性を取り戻した。「準備しろ。今から人を連れて行く」スマホを取り出して電話をかけながら、運転手にも急がせた。深夜の病院は、静まり返っていた。消毒薬の匂いが薄く漂っている。一雄の電話を受け、景吾はすぐさま病院へ駆けつけた。ちょうどそのとき、一雄が真帆を抱えて、慌ただしく中へ入るのが見えた。全身が汗に濡れ、黒いシャツが肌に貼りついているのを見て、景吾の目が驚きに揺れた。「どうしたんだ。その汗」急いで後を追ったが、真帆の異常なほど赤い顔を見た瞬間、瞳孔を更に大きくした。これは……景吾は呆然と立ち尽くした。遠ざかっていく一雄を見て、ようやく我に返り、慌てて追いかけた。「何があった。どういう状況だ」「説明してる暇はない。薬を打たれてる可能性が高い。診てくれ」一雄は唇を固く結び、何かを必死に抑え込んでいるようだった。真帆を抱えたまま、一切顔色を変えずに彼女を治療台へ横わらせた。景吾は重くうなずき、マスクをつけて診察室へ入った。再び出てきたとき、一雄はすでに、いつもの冷静で高貴な顔に戻っていた。「容態は安定した」景吾はマスクと手袋を外しながら、和いだ声で言った。「外傷は軽い。表面的なものだけだ。ただ……問題はあの薬だな」眉を上げ、からかうように言う。「まさか、お前が調子に乗ったわけじゃないよな?」その瞬間、鋭い視線が飛び、景吾は即座に口を閉じた。何度も手を振り、否定した。「分かってる
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第50話

事実関係がはっきりする前に少しでも情報が漏れれば、すべてが水の泡になる可能性がある。直哉は慎重な性格だ。景吾もまた、無闇に根掘り葉掘り聞くつもりはなかった。彼は常に分をわきまえている人間で、柔らかな笑みを浮かべて言った。「普通のことだよ。たった一本の薬でも、一体何人の手を渡ってきたか分からない。しかも闇取引だ。直哉がどれだけ顔が広くても、こんな短時間で全部洗い出すのは無理だろ」その言葉に、直哉は感謝のこもった視線を景吾へ向けた。この一雄の友人は、平凡だが、空気を読む力に長けている。人当たりもよく、穏やかだ。直哉は、彼をすっかり身内のように感じていた。景吾も軽く微笑み返し、一雄の肩をぽんと叩いた。「まあ、今はいちばん大事なのは、彼女が無事だってことだ。ただ……」言葉を濁したのを見て、一雄がすぐに食いついた。「ただ、何だ?」景吾は含み笑いを浮かべた。「お前がそこまで必死になる相手って、どういう関係なんだ?」一雄は眉をひそめた。「暇なのか?」「暇じゃないよ。でもさ、ここまで気にかける相手なんて滅多にいないだろ。気になるくらい、いいじゃないか」「余計な詮索はするな」冷たい視線を向け、話題を切り替えた。「彼女は、いつ目を覚ますんだ?」「それは何とも言えないな」景吾は肩をすくめた。「数時間で起きる人もいれば、数日かかる人もいる。ケースバイケースだ」答えになっているようで、なっていない。一雄は確率論に興味がなく、病室へ向かいながら、直哉に低く命じた。「ここには、誰も入れるな。邪魔は一切させるな。それと、今日の出来事の痕跡は全部消せ」「はい、承知いたしました」直哉は即座にうなずいた。ふと思い出したように、一雄は顔を横に向けた。「龍司は、今夜何をしている」オークションでは夫婦として現れ、帰るときも一緒のはずだった。脚が不自由でも、龍司は鷹宮家の実権を握る男だ。誘拐犯がそこまで無謀になるとは考えにくい。真帆が一人だったなら、話は別だが。直哉は意外そうに一瞬目を瞬かせ、すぐに鼻で笑った。「監視映像を見ました。あの女が腹痛だって騒ぎ、彼は慌てて一緒に病院へ行きました」やはり……一雄は唇の端を吊り上げ、眠ったままの真帆の顔へ視線を落とした。「ほら見ろ。これが、君が命懸けで選んだ、役立たずの
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