ログイン翌日の昼下がり。
前夜の雨が嘘のように上がり、大学のキャンパスには初夏を思わせる強い陽射しが降り注いでいた。 水溜りが蒸発していくアスファルトから、微かに湿った土の匂いと、若葉の青臭い香りが立ち昇ってくる。 講義を終えた学生たちが、カフェテリアや中庭へと向かう喧騒。 陽向は、雑踏の中を一人で歩いていた。 履き潰したスニーカーの底が、コンクリートを叩く規則的な音。 彼の右手は、ジーンズのポケットの中に突っ込まれたまま、そこにある小さな、四角い感触を確かめ続けていた。 昨夜、雨の駅前で結月から手渡された、安価なチョコレートの包み。 アルミの包装紙が、指先が動くたびにカサリ、カサリと微かな音を立てる。 その小さな音が耳に届くたび、陽向の胸の奥で、甘く、そして静かな熱がじんわりと広がっていくのを感じた。 あの雨傘の下で感じた、彼女の細い腕の柔らかな感触。 雨の匂いに混じって鼻腔をくすぐった、清潔な石鹸の香り。 天道邸という完璧で無菌な城の中では「……驚かせちゃったね」 レイがマグカップの縁を両手で包み込みながら、ぽつりと口を開く。 結衣は俯いたまま、小さく首を横に振った。「私こそ、勝手についてきて、覗き見みたいな真似をして……本当に、ごめんなさい」「いいよ。いつかは、ちゃんと話さなきゃって思ってたから」 レイの顔には、秘密を知られたことへの怒りは微塵も浮かんでいなかった。 あるのは、幼い子供を諭すような、静かな諦観だけだ。「路上で、女性が一人でギターを弾いて歌っていると、結構面倒なことが多いんだ。酔っ払いに絡まれたり、変な大人が声かけてきたり。だから、胸をサラシで潰して、男のふりをしてる方が、何かと安全でさ」 レイは自分の平坦になった胸のあたりを軽く叩き、自嘲気味に笑った。 その言葉が、結衣の胸の奥に残っていた甘い思い込みを、静かに崩していった。 冷たい白亜の牢獄から連れ出してくれると信じていた王子様。 あの高架下の暗闇で、熱い缶コーヒーを手渡し、涙を拭ってくれた大きな手。 すべてが、レイ自身の手によるものだったのだ。 恋い焦がれていた熱の正体が、幻のように指の隙間からこぼれ落ちていく。「……どうして、もっと早く言ってくれなかったの?」 結衣の声は、泣き出しそうに震えていた。「言えなかったんだよ。君が、僕の歌をあんなに真っ直ぐな目で聴いてくれるから。……それに」 レイはそこで言葉を区切り、マグカップをちゃぶ台に置いた。 琥珀色の瞳が、結衣の顔を真っ直ぐに射抜く。「僕には、君に隠していたことがもう一つある」「もう一つ……?」「君が『ユイ』って名乗ったあの日から、本当は全部知ってたんだ。君の名字が天道であることも。天道グループの、たった一人のお嬢様だってこともね」 結衣は弾かれたように顔を上げた。 息が止まる。 SPの目を盗み、制服の校章も隠していたはずだ。自分から素性を明かしたこと
結衣の身体は弾かれたように後ろへ飛び退き、その弾みでローファーの踵がコンクリートの床を硬く叩いた。 カツン、という鋭い音が、薄暗いアパートの通路に大きく反響する。 しまった、と息を呑み、慌てて口元を両手で塞ぐ。 だが、もう遅かった。 半開きになっていたアルミ製のドアが、内側からゆっくりと引かれる。 錆びた蝶番が、ギィッと不快な摩擦音を立てた。 ドアの隙間から姿を現したのは、色褪せたチェックのシャツを素肌の上に羽織り、前のボタンを不器用に留めかけているレイだった。 琥珀色の瞳が、通路で硬直している結衣を真っ直ぐに捉える。 先ほど鏡越しに見えてしまった秘密は、もうシャツの下に隠されている。だが、結衣の胸には、踏み越えてはいけない一線を越えてしまった罪悪感が、火傷の跡のように残っていた。「……ユイ」 レイの声は、いつもの透明な響きの中に、わずかな戸惑いを含んでいた。 結衣の膝が、ガクガクと小刻みに震え始める。 見られてはいけないものを見てしまった罪悪感と、信じていた世界が根底から崩れ去っていく喪失感。 逃げなければ。 そう命じる頭とは裏腹に、足の裏がコンクリートの床に縫い付けられたように動かない。「ごめんなさい……私、そんなつもりじゃ……」 震える唇から、切れ切れの言葉がこぼれ落ちる。 レイは小さく息を吐き出すと、シャツのボタンを一番上まで留め、ドアを大きく開け放った。「……立ち話もなんだし、入る? 散らかってるけど」 怒鳴られることも、冷たく突き放されることも覚悟していた結衣は、その穏やかな声に拍子抜けして目を瞬かせた。 レイは一歩身を引き、通路に立ち尽くす結衣が入れるだけの隙間を作った。 足を踏み入れた四畳半の空間は、先ほどドアの隙間から見えた通り、足の踏み場もないほど物が溢れていた。 擦り切れた畳の上に、剥き出しのギターの弦や、書き込みだらけの五線譜、空のペットボトルが無造作に転がっている
外階段の鉄板が、ミシミシ、ミシミシと錆びついた音を立てて軋む。 結衣はアパートの陰に身を潜め、見上げるようにして彼の動きを追った。 二階の一番奥の部屋。 レイが鍵を開け、ドアを押して中へと入っていく。 結衣は、ゆっくりと階段に足をかけた。 一段、一段、鉄の冷たさがローファーの底を通して伝わってくる。呼吸が浅くなり、心臓の音が耳元でうるさいほどに主張を始める。(何をしてるの、私……。こんなこと、ストーカーみたいじゃない) 内心で自分を叱りつけながらも、足は止まらなかった。彼の暮らす場所を知りたいという気持ちと、声をかける勇気のなさが、判断を鈍らせていた。 二階の通路は、狭く、薄暗かった。 一番奥の部屋の前に辿り着く。 ドアノブに手をかけようとして、手が止まった。 建付けが悪いのか、それとも閉め忘れたのか、アルミ製のドアが、わずか数センチだけ、隙間を開けて半開きになっていたのだ。 隙間から、室内の黄色い白熱灯の光が、細い線となって通路のコンクリートの床を照らしている。 中から、衣類が擦れる微かな音が聞こえてきた。 声をかけようとした瞬間、隙間の向こうの動きが目に入ってしまった。 狭い四畳半ほどの室内。壁には古いポスターが貼られ、床にはギターの機材や楽譜が散乱している。 その中央に、小さな姿見の鏡が置かれていた。 鏡の前に、背を向けて立っている人物。 レイだった。 チェックのシャツは傍らに掛けられ、レイは鏡の前でサラシを直しているところだった。 白い布――サラシが、胸元を隠すように幾重にも巻かれている。 結衣は慌てて目を逸らそうとした。けれど、鏡に映った輪郭が、すでに答えを告げていた。 レイの指先が、巻き直しかけたサラシの端で止まる。 鏡越しに、こちらの気配に気づいたのだろう。 レイの肩が、びくりと小さく揺れた。 その横顔を見た瞬間。 結衣は、レイが自分と同じ女性であることを悟ってしまった。 それは、覗いてはいけない相
何もない場所で、自分の身体一つで命の重みを確かめているレイ。「……贅沢なお姫様には、わかんないかな」 レイが少しからかうように目を細める。「ううん。わかるわ」 結衣は真っ直ぐにレイを見つめ返した。「私も……あの広い家の中で、自分が本当に生きているのか、わからなくなる時があるの。パパの用意した完璧な安全の中にいると、息の仕方を忘れてしまいそうになる。……でも、ここにきて、レイの歌を聴いている時だけは、自分の心臓がちゃんと動いているのがわかるのよ」 言葉が、堰を切ったように溢れ出していた。 レイは驚いたように少し目を見開き、やがて、困ったような、けれど愛おしそうな苦笑を浮かべた。「そっか。じゃあ、僕の歌も、一人の役には立ってるんだね」 その笑顔が、あまりにも眩しかった。 結衣の胸の奥で、長い間眠っていた感情が、一気に熱を持って膨らんでいく。 この人に、伝えたい。 天道家の令嬢としてではなく、ただの「ユイ」として、あなたのことが好きだと。 冷たい牢獄から私を連れ出してくれた、私の王子様。 結衣は深く息を吸い込み、唇を開きかけた。「あ、もうこんな時間か。今日はそろそろ引き上げないと、バイトに遅れちゃう」 レイがスマートフォンを覗き込み、慌てたように立ち上がった。「え……」「ごめんね、ユイ。また今度、ゆっくり聴いてよ」 手際よくギターをケースに納め、留め具をパチン、パチンと閉めていくレイ。 結衣は、喉の奥まで出かかっていた言葉を、飲み込むしかなかった。タイミングを逃した悔しさと、告白への恐怖が混ざり合い、指先が冷たくなっていく。「……ええ。またね」 引きつった微笑みを浮かべ、ケースを背負うレイを見送る。 レイは「じゃあね!」と軽く手を振ると、下町の薄暗い路地の向こうへと足早に歩き出した。 ◇ 一人残された高架下は、急に温度が下が
新しい、けれど決して高級ではないスチール弦が、硬い音を立てて空気を震わせている。 柱の影に、その人はいた。 色褪せたチェックのシャツの袖を腕まくりし、傷だらけの古いギターを抱えてパイプ椅子に腰掛けている。フードは被っておらず、癖のある少し長めの前髪が、街灯のオレンジ色の光を浴びて琥珀色に輝いていた。 周囲に足を止める聴衆は、今日もまばらだった。家路を急ぐサラリーマンや、スマートフォンに目を落とした学生たちが、レイの側を無関心に通り過ぎていく。 だが、レイは気にする風でもなく、ただ前を向いて、透明な歌声を響かせていた。 結衣は、邪魔をしないように少し離れた柱の陰に立ち、その姿をじっと見つめた。 三日前、三百万円のヴィンテージギターを巡ってレイと衝突した時。お金の力で相手の心を囲おうとした自分の傲慢さを、レイは鋭く拒絶した。けれど、泣き崩れた自分の涙を、あの硬い指先で優しく拭ってくれた。『次からは、手ぶらでおいでよ』 その言葉通り、今の結衣の手には、何もない。天道家の看板も、財力も、すべてビルの外に置いてきた。ただの一人の少女として、ここに立っている。 ポロロン、と最後のコードが掻き鳴らされ、歌が終わった。 レイは小さく息を吐き、前髪をかき上げながら顔を上げた。その琥珀色の瞳が、柱の陰に佇む結衣の姿を真っ直ぐに捉える。「……あ、やっぱり来た」 レイの唇が、柔らかい弧を描いた。その無防備な笑顔を見た瞬間、結衣の心臓が、トクンと大きな音を立てて跳ねた。「お疲れ様、レイ。今日も、素敵な歌だったわ」 結衣は歩み寄り、ビールの空き箱をひっくり返した簡易的な椅子に腰掛けた。制服のスカートが擦れる音。「ありがと。でも、今日はちょっと声が伸びなかったかな。夕方の風が少し冷たいからさ」 レイはそう言って、ギターのネックを愛おしそうにタオルで拭き始めた。その指先には、昨日裂けたという傷の跡が、小さな硬いかさぶたとなって残っている。「レイは……どうしてそんなに一生懸命に歌うの? 誰も足を止めない日だってあるのに」 結
クローゼットの鏡に向かって、左右のバランスを確かめるようにして制服の襟元を整える。一本の乱れもない黒髪は、毎朝ヘアスプレーで完全に固定されている。この完璧な令嬢の髪型を維持するために、どれほどの時間が費やされているかなど、周囲のクラスメイトたちは想像すらしていないだろう。 ふと、三日前に大理石の床へ座り込んで震えていた父親の姿が頭をよぎった。いつもなら見上げるほど高く、冷徹な仮面を被っていたあの背中が、母親の容態急変を前にして、あんなにも小さく縮むなんて思いもしなかった。「……パパも、ただの人だったのね」 小さく呟いた言葉は、無臭の広い自室に吸い込まれて消えた。母親が一命を取り留め、病室の空気が少しだけ緩んだからこそ、そんな不謹慎なツッコミを内心で入れる余裕ができたのかもしれない。 だが、父親への複雑な感情よりも、今の胸の奥を占めているのは、別の熱だった。 鞄の底に指先を滑らせると、あの汚れた高架下で手渡された、空のコーヒー缶の感触が蘇るような気がした。もちろん本物はすでに処分されて存在しないが、人工的な甘さと、手のひらを焦がすような熱さは、今も皮膚の記憶として鮮明に残っている。「お嬢様、お車の用意ができております」 一階へ降りると、SPの鈴木が直立不動の姿勢で頭を下げた。「ええ。行きましょう」 いつものように隙のない微笑みを浮かべ、黒塗りのセダンへと乗り込む。車内には、一切の雑音を遮断した無機質な空間が広がっていた。だが、滑り出した車の窓ガラスに映る自分の顔は、どこか浮足立っているように見えて仕方がなかった。 鈴木を出し抜くための言い訳は、昨日から完璧に組み立てていた。「鈴木。駅前の商業ビルで、友人の誕生日の贈り物を探したいの」「かしこまりました。では、同行いたします」「いいえ。女の子の秘密の買い物に、黒スーツの男性がついてくるなんて、相手へのサプライズが台無しになってしまうわ。ビルの入り口で待っていてちょうだい。三十分、いえ、四十五分で戻るから」 少しだけ茶目っ気を含んだ、けれど反論を許さない口調。父親の冷徹な威圧感を、都合よく令嬢のワガママに変換して出力する技
「ふぅーっ、はぁっ、はぁっ……」 一度息を吐き出し、再び波が来るのを待つ。 汗で滑る手を、征也が何度も握り直し、決して離そうとしない。 「……せ、や……くん……」 「俺はここだ。お前の前だ。……俺たちの子だ、莉子。俺たちの……証だ」 彼の声は、もう完全に涙声に変わっていた。 あの、他人の感情を踏みにじり、力ですべてを支配してきた冷酷な男が。
狭いキッチンの換気扇が、低く重たいモーター音を響かせている。 午後六時。窓の外の空はすでに鈍色に沈み、冷たい雨がトタン屋根を叩く不規則な音が絶え間なく聞こえていた。 私は丸椅子に腰掛けたまま、プラスチックのボウルの中で合挽き肉をこねていた。 絶対安静の身だ。立って作業を続けると下腹部に嫌な張りが生じるため、三田村さんが調達してくれたキャスター付きの丸椅子が今の私の定位置になっている。 指先に伝わる冷たい肉の感触。 手の熱で肉の脂が溶け出してしまわないよう、ボウルの下には氷水を張った別のボウルを重ねている。塩とナツメグ、少しの黒
「あなた……っ! よくもそんな口を……! 週刊誌を見たでしょう!? 世間はみんな知ってるのよ! あなたが汚い手を使って征也様をたぶらかしたって!」 彼女はバッグから、あの週刊誌を取り出し、私の顔の前に突きつけた。「見なさいよ! これが証拠よ! あなたはただの金目当ての家政婦! 私が正当なパートナーなの!」 唾が飛んできそうなほどの剣幕。 しかし、私は瞬き一つせず、その雑誌を一瞥しただけで視線を戻した。「……週刊誌の記事が、身分証明書代わりになると
目の前で、水滴の落ちる足がピタリと止まった。 彼は私を部屋の壁際へと追い詰めるように立つと、私の腕の中にある彼の枕へと視線を落とし、ふっと鼻を鳴らした。 「……他人の残り香を嗅ぐのが、お前の掃除のやり方か?」 「ち、違います! これは、シーツを換えようとして……」 慌てて弁解する私を遮るように、彼はわずかに顔を近づけてきた。 「ただの家政婦です、なんて顔をして。……相変わらず、お前は嘘が下手だな」 心臓が大きく跳ねる。核心を突かれたような気がして、私は思わず息を呑んだ。 「子供のころ、嘘ついた時の罰……覚えてるか?」 思考が止まる。 嘘? 罰? 子供の頃の記憶