All Chapters of 三年間、彼に恨まれた契約妻は、世界を魅了する仮面の天才音楽家だった: Chapter 51 - Chapter 60

127 Chapters

第51話

アメリカの朝は、澄み切った青空と共に静かに明けた。隠れ家の外に出て、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。手に持ったマグカップから立ち上る湯気が、朝の光に透けて揺れていた。「よく眠れたかい、音羽?」室内から現れたケビンが、優しく声をかけてくれる。彼の表情には、昨日までの緊迫感とは異なる、どこか落ち着いた余裕が漂っていた。「ええ、とてもよく眠れたわ。……不思議ね。日本にいた頃は、朝が来るのがあんなに怖かったのに」「それは君が、自分の人生の指揮権を取り戻したからさ。他人の思惑に踊らされる時間は、もう終わったんだよ」ケビンはそう言うと、持参したタブレット端末をテーブルの上に置いた。画面には、彼が提携している国際法曹チームとICPOの担当官からの通信ログが整然と並んでいる。「証拠書類の提出準備はすべて整った。数日内には、神崎家および背後の闇組織に対する国際的な捜査網が正式に敷かれることになる。君の口から直接、彼らの罪を証言してもらう場面も出てくると思うが……大丈夫かい?」「ええ、もちろん」私は迷うことなく頷いた。かつての私なら、神崎家の名を前に怯えていたかもしれない。けれど今の私には、守るべき祖母の誇りと、共に戦ってくれるケビンがいる。胸の奥には、確かな強さが宿っていた。一方、日本――神崎家の屋敷。朝の光が差し込む執務室で、神崎トオルは苛立ちを隠せない様子で爪を立てていた。デスクの上に置かれた端末には、海外の取引口座が次々と凍結され始めているという異常事態の報が届いていたのだ。「バカな……! なぜこんなに早く資産の動きが補獲されているのだ!?」トオルの額から嫌な汗が吹き出す。彼が神崎家の権力を維持するために利用してきた裏のネットワークが、目に見えない巨大な力によって一網打尽にされようとしている。そこへ、部屋の扉がノックもなしに静かに開いた。立っていたのは、身なりを整えた秘書だった。しかし、その表情はいつもと違い、青ざめ、怯えに満ちている。「トオル様……大変です。先ほど、本社の監査部門および関係機関から、緊急の査察が入るとの連絡がありました。さらに……組織の『ボス』と連絡が取れません」「何だと……!?」トオルの顔から、完全に血の気が引いた。神崎家が誇ってきた圧倒的な地位と財力。それが、まるで砂の城のように足元から崩れ去ろう
last updateLast Updated : 2026-08-12
Read more

第52話

神崎家の屋敷を包む空気は、もはや重苦しい不穏さに満ちていた。トオルの執務室では、鳴り止まない電話のベルが虚しく響いている。取引先からの問い合わせ、銀行からの融資引き揚げ、そして捜査機関からの事前通告。当主は青ざめた顔で書類を撒き散らしながら、必死に裏のルートへ連絡を取ろうとしていたが、画面に表示されるのは無情なエラー表示ばかりだった。「クソッ……! ボスめ、俺を……神崎家を切り捨てたというのか……!?」長年、影の組織と手を組み、権勢を誇ってきたトオル。だが、組織にとって神崎家など、目的を果たすための資金源であり捨て駒に過ぎなかったのだ。足元から崩れていく帝国を前に、当主は初めて「真の孤立」という恐怖に震えていた。一方、かつて音羽が使っていた部屋で、神崎蓮は力なく床に座り込んでいた。酒と薬のせいで荒れた身体は限界を迎えていたが、彼の頭の中を占めているのは、激しい後悔と音羽への不格好な愛着だけだった。「俺が……間違っていた……。音羽、頼むから俺の声を聞いてくれ……」蓮は震える手でスマートフォンを握りしめ、幾度目になるか分からない音羽の番号へ発信ボタンを押した。 未読のまま放置されたメッセージの山。繋がるはずもない通話。それでも、彼にはもうこれしか縋るものがなかった。その時だった。奇跡的に、通話口から微かな呼び出し音が鳴り響いた。「つ、繋がった……!? 音羽……! 音羽なのか!?」蓮は叫ぶように受話器に飛びついた。同じ頃、アメリカの隠れ家。夕暮れ時の静かな部屋で、私のスマートフォンが小さく震えていた。画面に表示された「神崎蓮」の文字。以前の私なら、その名前を見ただけで全身がすくみ、呼吸が浅くなっていたはずだ。けれど、今の私に恐怖はない。傍らで見守ってくれているケビンが、心配そうに私を見つめていたが、私は静かに首を振り、通話ボタンをスライドしてスピーカーモードにした。『音羽……! 音羽、よかった、出てくれた……! 俺が悪かった、全部俺が間違っていたんだ! だから戻ってきてくれ……頼むから……っ!』受話器の向こうから聞こえるのは、かつて冷酷に私を支配しようとしていた男の、情けなく掠れた懇願の声だった。私はしばらくの沈黙の後、静かに、けれど氷のように冷たい声で口を開いた。「……蓮。私に助けを求めないで」『音羽……!? そん
last updateLast Updated : 2026-08-13
Read more

第53話

ツーツー、という無機質な切断音が虚しく室内に響いた。神崎蓮は、自分の手に握られたスマートフォンを固まったまま見つめていた。拒絶の言葉、冷たく言い放たれた「二度と連絡しないで」という音羽の声。それが何度も彼の脳裏で繰り返される。「音羽……頼む……嘘だと言ってくれ……」画面をタッチし、再び同じ番号へ発信しようとしたが、呼び出し音すら鳴らなくなった。完全に着信拒否されたことを悟った瞬間、蓮の手から力が抜け、端末が硬い床へと落下して画面にひびが入った。彼がかつて誇っていた権力も、刺されてまで手に入れたと思っていた「許し」も、すべては己の身勝手な妄想に過ぎなかった。「う……あああああッ!」蓮は頭を抱え、獣のような叫び声をあげながら床に伏し転んだ。自分自身が犯してきた罪の深さ、音羽の心をどれほど踏みにじって痛めつけてきたのかという現実が、いまさら巨岩のような重圧となって彼の全身を押し潰していた。一方、神崎トオルの執務室のドアが乱暴に叩かれた。トオルが返事をする間もなく、扉が開かれる。入ってきたのは、いつもと違う重々しい雰囲気を纏った弁護士と、顔色を失った神崎グループの幹部たちだった。「神崎社長。大変なことになりました」「な、何事だ。ノックもなしに入ってくるとは無礼な……」トオルは強がりを口にしようとしたが、弁護士がテーブルの上に叩きつけるように置いた一束の書類を見て言葉を失った。「海外の主要取引先から、一斉に契約解除の通知が届きました。さらに、ICPOからの情報提供を受けた東京地検特捜部が、我が社の海外不法送金および裏組織との不透明な資金循環について正式な捜査を開始した模様です。……もう、隠しきれません」「何だと……!?」当主の顔が、瞬く間に土気色へと変わる。「そんな馬鹿な……! 我が神崎家が、長年築き上げてきたこの帝国が、たかが一度の捜査で揺らぐはずが……!」「一度の捜査ではありません」弁護士は冷ややかに首を振った。「内部の極秘データ、それも過去数十年にわたる裏帳簿の完全なコピーが、完璧な形で当局に提出されたのです。内部関係者の情報提供がなければ、これほど完璧な証拠が揃うはずがありません」トオルの脳裏に、かつて屋敷を去っていった音羽の冷ややかな眼差しと、彼女が持っていたあの「黒のストラディバリウス」の姿が浮かび上がった。あの
last updateLast Updated : 2026-08-16
Read more

第54話

神崎家の執務室には、痛々しいほどの静寂が広がっていた。机上に乱雑に散らばった財務書類、そしてICPOおよび東京地検特捜部からの捜査通告書。トオルは青ざめた顔でそれらを睨みつけながら、震える手で受話器を握りしめていた。「おい、どうなっている! 資金の海外逃避ルートがすべて塞がれているぞ! 約束が違うではないか!」電話の相手は、西園寺玲奈をすり替え、影から神崎家をコントロールしてきた組織の幹部だった。しかし、受話器から返ってきたのは、冷酷で乾いた笑い声だけだった。『神崎当主、状況が理解できていないようだな。君の役割はもう終わったのだよ』「な、何だと……!?」『あの音羽という娘とKJの手によって、我々の核心データがすでに警察へ渡っている。君の神崎グループは、当局の目を逸らすためのただの『トカゲの尻尾』だ。せいぜい一人で罪をかぶってくれたまえ』「待て! 待ってくれ! 玲奈はどうなる! 我が家の資産はどうなるのだ!?」トオルの悲痛な叫びも虚しく、ツーツーという切断音が響き渡った。長年、自分こそがすべてを支配していると思い込んでいたトオル。だが最後には、巨大な闇組織の手の中で踊らされ、切り捨てられた哀れな駒に過ぎなかったのだ。当主は力なく膝から崩れ落ち、頭を抱えて呻いた。一方、暗い密室に閉じ込められていた西園寺玲奈のもとへ、静かに足音が近づいてきた。重々しい扉の鍵が開けられ、中に入ってきたのは、髪を乱し、血の走った目で自分を見つめる神崎蓮だった。「……蓮」玲奈は膝を抱えたまま、冷めた瞳で彼を見上げた。酒と薬、そして絶望によって正気を失いかけている蓮は、ふらつく足取りで玲奈の前にしゃがみ込むと、彼女の肩を激しく掴んだ。「お前……どうして音羽のふりをした……? どうして俺を騙したんだ……!」「……騙した?」玲奈は自嘲気味にクスリと笑った。「騙されたのはあなたの方よ、蓮様。あなたは音羽しか見ていなかった。だから、音羽の服を着て、音羽の香水をつけただけの私に縋りついたんじゃない。……私を音羽にしたのは、あなた自身よ」「黙れ……! 俺が愛しているのは音羽だけだ! お前なんかに……お前なんかに用はない!」狂ったように叫ぶ蓮に対し、玲奈の瞳からツッと一筋の涙がこぼれ落ちた。「そうね……分かっているわ。最初から知っていた……。でもね、蓮。私はあ
last updateLast Updated : 2026-08-17
Read more

第55話

アメリカにあるICPOの厳重な会議室。重厚なオーク材のテーブルを挟み、私とケビンは特別捜査官たちと対峙していた。テーブルの上に置かれたのは、おばあ様の「黒のストラディバリウス」から取り出されたマイクロフィルムと、ケビンのチームが解析した膨大な暗号データだ。「……信じがたい。これほど完璧な裏帳簿と不法送金ルートのデータが存在していたとは」初老の捜査官が眼鏡のフチを触りながら、感嘆と驚愕の入り混じった溜め息を漏らした。画面に流れるデータには、神崎グループが長年行ってきた不正な資金洗浄だけでなく、彼らを影で操っていた闇組織の本拠地や、主要幹部たちの口座情報までが明晰に記録されている。「音羽さん、そしてKJ氏。あなた方が命がけで保全してくれたこの証拠により、本日付で国際的な一斉捜査本部が設置されます。日本側の特捜部とも連携し、ただちに強制捜査へと移行します」捜査官の力強い言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥にすっと静かな温もりが広がっていった。「ありがとうございます。……このデータは、私の亡き祖母が命をかけて遺してくれたものです。正しく使っていただけるなら、おばあ様もきっと喜んでいます」隣に座るケビンが、そっと私の手に自分の手を重ねてくれた。そのぬくもりが、私が歩んできた過酷な道のりが決して無駄ではなかったのだと教えてくれていた。一方、日本――夕闇に包まれる神崎家の屋敷。屋敷の外壁を取り囲むように、何台もの黒い車両が静かに停車した。車内から一斉に降り立ったのは、警察庁および東京地検特捜部の捜査員たちだった。重々しい玄関の扉が押し開けられ、ノックの音もなく踏み込んでいく。「神崎当主ですね。金融商品取引法違反および不法送金の容疑、ならびに組織犯罪処罰法違反の疑いで逮捕状が出ています」嵐のような捜査員のなだれ込みに、執務室で放心していた当主はガタガタと震え上がった。「な……何を言っている! 私は神崎家の当主だぞ! たかが警察ごときが私に手を触れるなど――」「往生際が悪いぞ。お前の裏口座も、組織との取引履歴も、すべて白日の下に晒されているのだ」手錠がかけられ、冷たい金属の感触が当主の腕を締め付ける。権力と威厳を誇ってきた男の哀れな没落の瞬間だった。その頃、屋敷の2階の廊下を、虚ろな目をした神崎蓮が彷徨っていた。下階から聞こえる怒号や足音すら、いま
last updateLast Updated : 2026-08-18
Read more

第56話

神崎家の屋敷は、悲鳴と怒号が飛び交う大混乱の中にあった。押収された大量の書類やPCが次々とトラックへ運び出され、手錠をかけられたトオルは報道陣のフラッシュを浴びながら連行されていった。長年にわたり政財界に君臨し、陰で闇組織と手を取り合って膨大な富を築いてきた「神崎グループ」の権勢は、一夜にして潰えたのだ。屋敷の応接室では、西園寺玲奈が一人、ソファーに深く腰掛けていた。捜査員たちが部屋に入ってきた時、彼女は逃げる素振りすら見せなかった。顔を上げ、静かに警察官たちを見つめる。「君が……西園寺玲奈さんだね。組織による身代わり工作と戸籍の改ざんについて、事情を聴かせてもらう」「……はい。すべて、お話しします」玲奈の声には、妙な清々しさが漂っていた。整形によって音羽の「身代わり」にされ、利用され続けた虚飾の日々。蓮に愛されたいと願うあまり、狂気へと足を踏み入れた愚かな自分。そのすべてから解放されたのだと、彼女は悟っていた。さようなら、蓮……。さようなら、偽りの私……手錠をかけられながら、玲奈は心の中でそっと呟いた。彼女もまた、自らが犯した罪と向き合うための長い時間を歩み始めることとなる。一方、太平洋を隔てたアメリカのコンベンションセンター。そこでは、ケビンの復帰を記念する世界的なガラ・コンサートが開催されようとしていた。楽屋の姿見の前で、私は白いドレスに身を包み、深呼吸を繰り返していた。「緊張しているかい、音羽?」タキシード姿のケビンが、ドアをノックして室内へ入ってきた。彼の温かい眼差しに、私の肩の力がすっと抜けていく。「少しね。でも……不思議と怖くはないわ。こんなに広い舞台で演奏するなんて、昔の私なら考えられなかったけれど」「君の音楽は、もう誰の支配下にもない。君自身の魂の言葉なんだ。自信を持って舞台へおいで」ケビンが差し出してくれた手を、私は力強く握り返した。静かに幕が上がり、満員の観客席からの惜しみない拍手が響き渡る。スポットライトの中心に立つ私とケビン。私はあご当てに「黒のストラディバリウス」を添え、ゆっくりと弓を構えた。溢れ出す第一音。それは、おばあ様から受け継いだ伝統の深みと、過酷な運命を乗り越えて手に入れた私自身の強さが混ざり合った、どこまでも澄み渡る美しい旋律だった。客席の最前列で聴いていた音楽関係者
last updateLast Updated : 2026-08-19
Read more

第57話

ホール全体に響き渡る「黒のストラディバリウス」の音色は、もはや過去の悲しみや抑圧を一切感じさせない、圧倒的な美しさを解き放っていた。私とケビンの弓が滑らかに交差し、旋律が重なり合うたび、満員の客席から息を呑む気配が伝わってくる。神崎家に閉じ込められ、自由を奪われていた頃の私にとって、ヴァイオリンは恐怖と痛みの象徴でしかなかった。けれど今、この手にある楽器は、私の魂そのものを解き放つ翼となっていた。演奏が最後の和音を静かに閉じると、一瞬の静寂ののち、万雷の拍手と歓声がホール全体を揺らした。「ブラボー……! ブラボーっ!」立ち上がり、惜しみない惜賛を送る観客たち。私は深々と一礼し、隣で温かい眼差しを向けてくれるケビンと視線を合わせた。彼がそっと私の手に触れ、低く静かな声で囁いた。「聞いたかい、音羽。これが君の本当の音だ。世界が君の音楽を認めた瞬間だよ」「……ええ。私、いま本当に生きているって感じがするわ」目元に溢れ出る熱い涙を拭いながら、私は心の底から微笑んだ。おばあ様が残してくれたこのバイオリンと、自分を信じて支えてくれたケビン。二人の存在があったからこそ、私は運命の暗闇を突き抜けて、この光の世界へと辿り着くことができたのだ。一方、日本――警察の取調室。取り調べを受ける西園寺玲奈は、机を挟んで座る捜査官に対して、取り乱すこともなく淡々と真実を語っていた。「……はい。私は神崎当主と組織からの指示で、整形手術を受け、音羽の『身代わり』として神崎家に入り込みました。蓮を欺き、神崎家の資産を裏口座へ移すための書類にもサインをさせました」「君自身も、組織の被害者だという認識はあるのかね?」捜査官の問いかけに、玲奈は静かに首を振った。「いいえ。最初は強要されたことでしたけれど……途中で蓮様の愛が得られるかもしれないと期待し、自らその偽りに縋りついたのです。私にも、消し去れない罪があります」彼女の瞳に映っていた狂気や激しい嫉妬は、すでに消え去っていた。自分が犯した愚かな選択と向き合い、自ら罪を受け入れることで、玲奈もまた歪んだ愛執の檻から脱出しようとしていた。そして、すべての栄華を失った神崎家の屋敷。差し押さえの黄色いテープが貼られた誰もいない大広間で、神崎蓮はぽつんと床に座り込んでいた。父は逮捕され、身代わりだった玲奈も去り、手元に
last updateLast Updated : 2026-08-20
Read more

第58話

コンサートの終演後、楽屋口には世界各国の有名音楽事務所のスカウトやメディア関係者が殺到していた。「素晴らしい演奏でした、音羽さん! ぜひ我がオーケストラとの共演を――」「KJとのデュオアルバムの発売予定はあるのでしょうか!?」矢継ぎ早に浴びせられる質問や称賛の嵐。かつて神崎家の離れで、息を潜めるようにバイオリンを弾いていた私が、世界の音楽界の中心でスポットライトを浴びている。夢の中にいるような感覚に包まれながらも、私は一人ひとりに丁寧にお辞儀を返した。関係者たちの対応をスマートに引き受けてくれたケビンが、人波を抜けるとそっと私の背中に手を添え、楽屋奥の静かなプライベートスペースへと導いてくれた。「お疲れ様、音羽。一晩で世界中の音楽関係者が君の名を覚えたよ」「ありがとう、ケビン。……なんだか、まだ信じられないの。私がこんな風に、たくさんの人に音楽を届けられるなんて」ソファーに深く腰掛け、そっと自分の手を見つめる。神崎蓮から受けた歪んだ執着、そして冷酷な支配。あの暗闇の中で擦り切れそうになっていた指先が、いまは人を感動させる音を紡いでいる。胸の奥からこみ上げてくるのは、自分を信じてくれたKJへの深い感謝だった。「これは君自身の手で掴み取った光だよ。神崎家という檻を壊し、運命から逃げなかった君の強さの証明だ」ケビンは温かい紅茶を私の前に置くと、穏やかな笑みを浮かべた。だがその直後、彼の胸ポケットに入っていたセキュリティ専用のスマートフォンが、短く無機質な電子音を鳴らした。ケビンが画面に目を落とすと、その洗練された表情に一瞬だけ微かな緊張が走る。「……ケビン? 何かあったの?」私が尋ねると、彼はスマートフォンの画面を伏せ、優しく首を振った。「いや、大丈夫だよ。ICPOから連絡が入っただけだ。日本での神崎グループの解体作業と、関係者の取り調べが順調に進んでいるという報告さ」そう言って微笑むケビン。だが、長年研ぎ澄まされてきた私の直感は、彼の瞳の奥に一瞬だけ浮かんだ暗い影を見逃さなかった。一方、日本――東京地検特捜部の取調室。重々しいパイプ椅子に腰掛けた神崎トオルは、疲れ切った顔で取調官と向き合っていた。かつての威厳は跡形もなく消え去り、高級仕立てのスーツはシワだらけになっている。「神崎当主、お前のグループが関与していた不法送
last updateLast Updated : 2026-08-21
Read more

第59話

華やかなコンサートの熱気が冷めやらぬアメリカの夜。隠れ家へ戻った私は、静まり返ったリビングで「黒のストラディバリウス」をゆっくりとケースから取り出した。柔らかな間接照明に照らし出される、深みのある木目。この一本のバイオリンが、私を過酷な運命へと引きずり込み、そして同時に自分を取り戻すための道標となってくれた。だが、あのおばあ様の形見に指を触れた瞬間、昼間の楽屋で見たケビンの表情が脳裏をよぎる。ケビンが見せていた、あのほんのわずかな緊張……。一体、何が起きているの……?私が思い悩んでいると、書斎のドアが静かに開き、ケビンが姿を現した。彼は私がバイオリンを見つめているのに気づくと、温かな微笑みを浮かべて隣に腰掛けた。「どうしたんだい、音羽? まだ興奮が冷めないのかい?」「ねえ、ケビン……。昼間の連絡、本当にICPOからの報告だけだったの?」まっすぐに彼を見つめて尋ねると、ケビンの瞳が一瞬だけ揺れた。彼は少しだけ困ったように息を吐くと、隠すのを諦めたように静かに頷いた。「……君の観察眼には敵わないな。隠すつもりはなかったんだが、コンサートの直後に不安にさせたくなくてね」「何か、新しい問題が起きたの……?」「日本警察の取り調べで、神崎の当主が妙な供述を始めたらしい。『バイオリンには、不法送金データ以外の秘密が隠されている』とね。そして……」ケビンは言葉を一度切ると、手元のスマートフォンを取り出し、画面を見せてくれた。そこに映し出されていたのは、地下オークションで私たちを襲ったあの「銀仮面のボス」に関する暗号化された追跡レポートだった。「あの組織のトップは、神崎家が倒れようと、警察の手が迫ろうと、諦めていない。彼らの本当の狙いは、最初からこのバイオリンそのもの……いや、おばあさんが遺した『ある楽譜』の復元にあるようなんだ」「おばあ様の……楽譜……?」想定していなかった言葉に、私は息を呑んだ。単なる裏金のデータだけではなく、おばあ様が残した音楽そのものに、組織が狂奔する理由が隠されているというのか。「心配いらないよ、音羽」ケビンは私の震える手の上に、そっと自分の手を重ねてくれた。彼の掌から伝わる確かな温もりが、私の不安を溶かしていく。「どんな秘密が隠されていようと、俺が君とこのバイオリンを守り抜く。君はもう、一人で恐怖に耐える必
last updateLast Updated : 2026-08-22
Read more

第60話

隠れ家の静けさの中、私は「黒のストラディバリウス」をそっと抱き抱えていた。おばあ様が私に遺したこの楽器。単なる裏金や不正取引のデータだけでなく、組織が喉から手が出るほど欲しがる「ある楽譜」が隠されているというケビンの言葉が、私の胸に静かに響いていた。「楽譜……おばあ様は一体、何を残そうとしたの……?」私の呟きに、デスクで資料を検分していたケビンが顔を上げた。彼は眼鏡を外し、疲れた瞳を優しく細める。「君のおばあさんは、若かりし頃、ただの演奏家ではなかった。政財界や裏社会の人間たちがこぞって彼女のサロンに集まっていたと言われている。彼女が遺した未発表の遺作――『終焉のソナタ』。そこに、組織の真の創始者の出自と、彼らが絶対に表に出したくない致命的な弱点が組み込まれているらしいんだ」「『終焉のソナタ』……」聞いたことのない曲名だった。けれど、幼い頃におばあ様の膝の上で聴かされた、どこか哀しくも美しいあの変形ソナタのメロディが、ふっと脳裏をよぎった。「もしその楽譜が完全に復元されれば、組織は社会的にも歴史的にも完全に終わりを迎える。だからこそ彼らは、神崎家が破滅しようとも、バイオリンと君を追い続けているんだよ」ケビンの力強い眼差し。彼が私をただ守る対象としてではなく、真のパートナーとして真実を語ってくれていることが嬉しかった。「私、弾いてみるわ」「え……?」「おばあ様が私に叩き込んでくれた指使いと記憶があるの。マイクロフィルムの暗号だけじゃない……私自身の記憶の中に、その楽譜の続きがあるかもしれない」私はヴァイオリンを顎に当て、そっと弓を滑らせた。隠れ家の部屋に、どこか幻想的で、重厚なマイナーコードの旋律が溢れ出していく。ケビンは息を呑み、その音色に静かに耳を傾けた。一方、日本――警察の管理下にある保護施設。身代わりとしての罪を受け入れた西園寺玲奈は、机に向かってペンを走らせていた。彼女が書いていたのは、神崎家と組織に関する知る限りの詳細な供述書、そして――音羽への手紙だった。『音羽様。私はあなたになりたかった。あなたの愛された世界を奪いたかった。けれど、偽物の私は何一つ手に入れることができませんでした……』便箋に落ちる涙の痕。かつては嫉妬と狂気に狂っていた彼女だったが、すべてを失ったことで初めて、己の愚かさと真に向き合おうと
last updateLast Updated : 2026-08-23
Read more
PREV
1
...
45678
...
13
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status