Inicio / 恋愛 / その魔法が解ける前に / Capítulo 31 - Capítulo 40

Todos los capítulos de その魔法が解ける前に: Capítulo 31 - Capítulo 40

53 Capítulos

第30話

「…んん、」 アラームの音が静かに部屋に響き、私はまどろみの中でゆっくりと目を開けた。 カーテン越しに差し込む朝の光が、まぶしすぎず、やさしくまぶたを撫でていく。 意識が徐々に覚める感覚に、少しだけ新鮮な気持ちを覚えた。 体を伸ばしながら、深く息を吸い込む。 「こんなにぐっすり眠ったのはいつぶりだろう…」 ベッドがふかふかで、寝心地が良かったのが理由だろうか。 いやきっと、昨夜の壱馬さんの言葉と、あの穏やかな空気が、私の心をほどいてくれたからだ。 部屋全体に感じる穏やかな空気が、心を静かにほぐしていく。 窓の外に目をやると、鮮やかな朝が広がっていた。 雲ひとつない空。その光景に、つい見入ってしまう。 「こんな朝を迎えるなんて…」 思わず、そう呟いていた。 普段の忙しない日常からふっと解き放たれたような、どこか夢の中にいるような感覚だった。 壱馬様が起きる前に、ご飯の準備と、掃除もしておかないと。 私にできることなんて、ほんの些細なことばかり。 特別な才能があるわけでもないし、壱馬様の力になれる何かを持っているわけでもない。 それでも、私なりにできることがあるとしたら、 それは、日々の小さなことを、丁寧に積み重ねていくこと。 目立たなくても、誰にも気づかれなくても、それでもそこに心を込めることなら、私にもできる。 私はゆっくりとベッドを降り、リビングへと向かった。 キッチンの方へ目をやると、テーブルの上に何かが置かれているのが見えた。 近づいてみると、それはピンク色の可愛い付箋紙だった。 "おはよう。本当は9時出勤なんだけど、ゆっくり寝て欲しくて嘘ついちゃった。テレビでも見てゆっくりしててね。行ってきます" その文字を目で追ううちに、壱馬さんの声が耳元で聞こえたような気がして、胸の奥がじんわりと温かくなる。 嘘ついてま
last updateÚltima actualización : 2026-01-23
Leer más

第31話

一通りの家事を終えた私は、ふぅっと小さく息を吐いてソファーにもたれた。 掃除も洗濯も終わり、キッチンも片付いている。 今日の自分にできることは、もうほとんど済ませた。 「あとは夕食の準備が終われば…」 夕食の準備という最後のタスクが、まるで一日の締めくくりの儀式のように、私の中で静かに重みを持っていた。 そのとき、手元のスマホが小さく震えた。 "今夜は、レストランで食事でもどう?" 画面に表示されたその短いメッセージを見た瞬間、胸の奥がふっと跳ねた。 壱馬様と、外で、ふたりきりで食事。 それは、どこか夢のようで、でも確かに、今この手の中に届いた現実だった。 私はスマホを握る手に力が入るのを感じた。 どう返事をすればいいのか、頭の中で何度も言葉を組み立てては崩して、指先がスマホの画面を行ったり来たりした。 ぜひ! そう伝えたいけれど、表現に迷ってしまう それだけでは軽すぎる気がして、壱馬様の誠実さに見合う言葉を探した。 "ありがとうございます!ぜひご一緒させていただきたいです" ようやく打ち込んだメッセージは、少し堅いかもしれないけれど、私なりの精一杯の気持ちだった。 送信ボタンを押したあと、画面を見つめる指先がわずかに震えていた。 "良かった。じゃあ六時に迎えに行くね" 再びスマホが震え、画面に表示されたその言葉を見た瞬間、私は思わず息を呑んだ。 まるで、特別な誰かになれたような気がして、頬がふわりと熱を帯びた。 「迎えに来てくれるなんて…」 ぽつりと漏れたその言葉は、誰に向けたわけでもなく、ただ自然と唇からこぼれた。 私はスマホの画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。 その言葉の中に、私を大切に思ってくれている気持ちが込められている気がして、嬉しさと同時にどこかくすぐったいような、夢を見ているような気持ちになった。 私は、そっと深呼吸をし
last updateÚltima actualización : 2026-01-24
Leer más

第32話

「お待たせ」 壱馬様が車から降りてきたその瞬間、私は思わず息を呑んだ。 お見合いの時に見た紋付袴の凛とした姿も印象的だったけれど、今目の前にいるスーツ姿の壱馬様は、また違った魅力を放っていた。 シャープなラインのジャケットに、控えめなネクタイの色合い。 シャツの第一ボタンを外した無造作さが、どこか余裕のある大人の男の雰囲気を醸し出している。 私はただ、見惚れることしかできなかった。 鼓動が早まるのを感じながら、私はそっと唇を引き結び、心を落ち着かそうとした。 「…壱馬様。お仕事お疲れ様です」 言葉を発した瞬間、自分の声が少しだけ上ずっているのに気づいた。 でも、それを隠すように、私は微笑んだ。 「ありがとう。どうぞ、」 壱馬様が車のドアを開けてくれたその瞬間、胸の奥がふわっと温かくなる。 こんなふうに、さりげなく気遣ってくれるところが、本当に壱馬様らしい。 私は、軽く会釈をしながら一歩踏み出し、開かれたドアの前に立った。 「ありがとうございます」 乗り込む瞬間、自然と体が壱馬様に近づいた。 その距離はほんのわずかだったけれど、彼の香りがふわりと鼻先をかすめ、胸がきゅっと締めつけられる。 壱馬様は運転席側のドアを開け、ゆったりとした動作で車内に乗り込んだ。 ドアが閉まる音が静かに響き、車内の空気がふたりだけのものになる。 ほんの少しだけ、彼の体温と香りが流れ込んできて、私は思わず背筋を正した。 そのとき、彼がふと口を開いた。 「いつもと雰囲気違うね」 その一言が落ちた瞬間、胸の奥がドクンと大きく跳ねた。 それが褒め言葉なのか、それとも…不安が一気に押し寄せてくる。 私は、そっと自分の服の裾を見下ろした。 このワンピース、やっぱり地味すぎたかな。 髪型も、もっと華やかにした方がよかっただろうか。 メイクも、濃すぎたかもしれない。 壱馬様の隣に立つにはまだまだ頼りなくて、どこか浮いてしまっているんじゃないかと、そんな思いが頭をよぎる。 私は、そっと彼の横顔を盗み見た。 「変ですか…?」 自分でも、こんなに小さな声になるとは思っていなかった。 けれど、胸の奥に広がる不安を抑えきれず、自然と口をついて出てしまった。 壱馬様の目に、私はどう映っているのだ
last updateÚltima actualización : 2026-01-25
Leer más

第33話

レストランの入口に立った私は、煌びやかな建物の外観に圧倒されていた。 ガラス張りのファサードに反射する街の灯り、重厚な扉の向こうから漏れる柔らかな光。 まるで異世界の入り口のようで、足元がすくむような感覚に襲われる。 ワンピースの裾をそっと整えながら、私は自分の姿がこの場所にふさわしいのかを考えていた。 「行こうか」 壱馬様の穏やかな声が耳に届いた瞬間、私はハッと我に返った。 彼は私の様子を気遣うように、やさしく微笑んでいた。 その笑顔に少しだけ安心しながらも、胸の高鳴りは収まらない。 私は慌てて頷き、小さく返事をした。 「は、はい」 自分でも分かるほど声が震えていた。 その震えが彼に伝わっていないか、恥ずかしさが胸の奥に広がる。 緊張してるのがバレてないといいけど…。そんなことを思いながら、私は壱馬様の後ろを慎重に歩いていく。 大きな扉が開かれると、中から柔らかな照明と洗練された空気があふれてきた。 ───こんな所、初めてきた。 高い天井、落ち着いた色調のインテリア、大理石の床に反射する光。 私は彼の背中を追いかけるようにして、レストランの中へと足を踏み入れた。 壱馬様が受付に向かい、レストランの係の方と話を進めている。 私は少し離れたところでその姿を見つめていた。 周囲の視線が気になって仕方がない。 チラチラと見られている気がして、胸の奥がざわつく。 被害妄想めいた思いが頭をよぎる。 「こちらへどうぞ」 係の方の穏やかな声に促され、私は壱馬様の後に続いて静かに足を運ぶ。 一歩一歩進むたびに、胸の鼓動が速くなる。 この空間に自分が馴染んでいなさすぎて、今すぐ逃げ出したい衝動を必死に抑えていた。 席に着くと、係の方が丁寧に椅子を引いてくれた。 私は小さな声で「ありがとうございます」とお礼を言
last updateÚltima actualización : 2026-01-26
Leer más

第34話

「まさか。むしろ花澄の初めてを一緒に祝えるなんて、嬉しいよ」 その言葉の選び方が、あまりにも優しくて、私は思わず視線を落とした。 どうしてそんなに優しいんだろう。 初めてを笑われることはあっても、祝ってもらえるなんて思ってもみなかった。 何かを知らないことは恥で、経験がないことは劣等の証だったから。 冷たい目で見下されるのが当たり前だった 可哀想にと憐れむふりをして、その実、優越感に浸るための材料にされる。 壱馬様といると安心すると思える理由が、きっとそれに詰まってる。 決して人を見下さず、こんな不甲斐ない私にも笑顔で接してくださる。 ふと視線を上げると、壱馬様がワインボトルを静かに持ち上げていた。 ボトルの傾き、グラスとの距離、注がれるワインの細い流れ────── どれもが美しく、無駄がない。 私は思わずその手元に見入ってしまい、自分が声をかけるタイミングを逃していたことに気づく。 私は、慌てて口を開いた。 「あ、私が…」 声をかけたものの、すでにワインは注がれていて、その流れを止めるには遅すぎた。 「いいから」 その一言は、私の焦りをすべて包み込むような、やわらかな響きを持っていた。 壱馬様は、微笑みながら、何事もなかったかのようにワインを注ぎ終えた。 「すみません…」 お父様からよく言われていた。 気の利く女になれ。それぐらいしか取り柄がないんだからと。 その言葉は、まるで呪いのように、私の中に染みついている。 何かを言われる前に察して動くこと。 空気を読み、先回りして、誰かの手を煩わせないようにすること。 気が利かない女は、見捨てられる。 そんな声が、今も心の奥で囁いている。 「はい。乾杯」 壱馬様がグラスを軽く持ち上げ、やわらかな声でそう言った瞬間、空気がふわりと変わっ
last updateÚltima actualización : 2026-01-27
Leer más

第35話

「言いわけないだろ?」 その一言が放たれた瞬間、空気がピンと張り詰めたように感じた。 壱馬様の声は低く、静かで、確かな拒絶の意志が込められていた。 ちゃんと断ってくれた。 その事実に、心の底から安堵する。 私ひとりでは、きっと何も言えなかった。でも、壱馬様は迷いなく、私たちの時間を守ってくれた。 「えーどうしてー?」 莉沙さんの声は、わざとらしく不満を含んでいて、その響きが場の空気をさらに重くする。 私は思わず視線をテーブルの端に落とし、グラスの縁を指でなぞった。 …気まずい。 彼女の無邪気を装った態度が、かえって場の緊張を際立たせていた。 私は静かに息を吐き、この空気が早く過ぎ去ってくれることを願った。 「一人が嫌なら家に帰って食べればいい。家にシェフがいるだろ」 壱馬様の言葉は、決して怒鳴るわけでも、感情的でもない。 ただ、事実を淡々と突きつけるような、静かな強さがあった。 私はその横顔を見つめながら、この人は本当に、誰にも媚びないんだと、改めて思った。 「一緒に食べる人がいないと寂しいじゃん」 その言葉に、私は思わず胸の奥がざわついた。 そんなことを言われると、断るのが少し申し訳なる。 「それはそっちの都合だろ」 その一言は、まるで迷いを断ち切るように、はっきりと放たれた。 こんなふうに冷たくあしらうなんて…。 「か、壱馬様」 気づけば、私は焦るように彼の名前を呼んでいた。 自分でも驚くほど、その声はかすれていた。 そんなふうに言ったら、さすがに彼女も傷ついてしまう。 そう思った瞬間、胸の奥に、自分の優しさなのか、弱さなのか分からない感情が広がっていく。 「いいの。莉沙は昔から我儘だから、こ
last updateÚltima actualización : 2026-01-28
Leer más

第36話

「悪いが、そんなやつとは一緒にいられない」その言葉が壱馬様の口から放たれた瞬間、空気が一変した。「…この前は酷いこと言っちゃってごめんなさい。私のかずくんを取られた気になって、」その言葉が耳に届いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。私のかずくん…か。その響きが、謝罪の言葉よりも強く心に残る。私が彼を奪ったという前提で語られていて、それが事実であるかのように響いた。まぁ、事実ではあるのだろう。私自身、ぽっと出の人間に好きな人を奪われる悲しさは、知っている。だからこそ、彼女の言葉が、どこか他人事に思えなかった。「あ、いえ。謝らないでください。私の方こそ───」言葉を返そうとした瞬間、胸の奥にいくつもの感情が渦巻いた。私は、彼女が怒った理由を、どこかで理解しようとしていた。もしかすると、普段の彼女は人の悪口を言うような子じゃないのかもしれない。あの時だけ、感情が爆発してしまっただけかもしれない。そう思いたかった。私の中にはずっと、私なんかがという思いがこびりついていて、それが、彼女の言葉を正当化しようとする。だから、謝ろうとした。その瞬間だった。「花澄は謝らなくていいから」その声が、私の迷いを断ち切るように、やさしく響いた。それは、私には非がないと、私の存在を肯定してくれる言葉だった。私は、何を謝ろうとしていたのだろう。 彼女の気持ちを逆撫でしたこと?彼女が納得できるほど魅力的な人間じゃなかったこと?それとも、彼女の大切な人の隣に、今こうして座っていること?「それで…謝ったから、一緒に食べていい?」その言葉が放たれた瞬間、胸の中で何かが静かに弾けた。まるで、謝罪を交換条件にして、この場に加わる権利を得たかのような言い方だった。
last updateÚltima actualización : 2026-01-29
Leer más

第37話

「花澄さんもそう言ってることだし、遠慮なく!」その言葉が明るく響いた瞬間、胸の奥で小さな痛みが走った。私は、グラスの脚を指先でぎゅっと握りしめ、冷たさを感じながら自分の弱さを噛みしめる。店員が気を利かせ、すぐに椅子を準備し始めた。カーペットの敷かれた床に、椅子の脚が軽く擦れる音が響く。その丁寧な動作が、まるでこの場の流れが最初から決まっていたかのように感じられて、胸の奥がさらに重くなる。テーブルの配置が少し整えられ、自然に莉沙さんのスペースが作られていく。彼女は何の迷いもなく、さっと腰を下ろした。リラックスした様子でテーブルに手をつき、軽く背筋を伸ばす。私から先に声をかけるべきなのか。何を言うべきなのか。頭の中で考えるけれど、声にならない。喉が固く閉じてしまったようで、ただ黙って彼女の存在を受け入れるしかなかった。やがて、静かに食器が触れ合う音とともに料理が運ばれてくる。銀色のトレイが手際よく傾けられ、皿がテーブルの上に並べられていく。鮮やかに盛り付けられた料理から、ほのかな香りが漂う。食事の時間が始まる。その事実が、どこか特別な意味を持っているように感じられた。けれど、私の心は料理に集中できない。見た目は美しく、味もきっと美味しいのだろう。それでも、胸の奥に広がる緊張と不安が、食欲を静かに奪っていく。 「かずくんとこうやってレストランで食事するのも、久しぶりじゃない?」そう言いながら、軽やかにナイフを動かしていた。無駄のない動きで、柔らかくステーキを切り分けていく。その様子を横目で見ながら、手元に意識を戻す。私は、ステーキナイフを握る指先に、いつもより力が入らない。刃が肉に沈む感触は確かにあるのに、思うように切れない。握る力が足りないのだろうか…いや、心のどこかが緊張で固まっていて、ナイフをしっかりと扱えな
last updateÚltima actualización : 2026-01-30
Leer más

第38話

「俺はお前の世話係じゃない」その言葉が落ちた瞬間、空気がわずかに震えた。莉沙さんは、ほんの一瞬だけ目を瞬かせた。その表情は驚きとも不満ともつかず、ただ思い通りにならなかったという幼い戸惑いが滲んでいた。「どうして花澄さんはよくて、私は駄目なの」その言葉は、まるで私が特別扱いされていることを責めるようで、同時に、私自身がその理由を知らないことを突きつけてくる。私は、視線を皿に落とした。「花澄は俺の婚約者だ。扱いが違うのは当然だろ」その言葉が落ちた瞬間、世界が一瞬だけ止まったように感じた。その言葉は、私が彼にとって特別であることを、誰よりも明確に示していた。まだ本当の意味で恋人と呼べる関係ではないけれど、それでも、彼の口からその言葉が自然に出てきたことが、どうしようもなく胸を熱くした。莉沙さんの表情がわずかに揺れた。その揺れが、痛いほど伝わってくる。「お願い〜手首痛いんだもん」その甘えた声が響いた瞬間、胸の奥に冷たいものが落ちた。ほんの少し身を寄せるような仕草。やっぱり、私よりも彼女の方が…そんな考えが、胸の奥で静かに膨らんでいく。彼女は迷いなく甘えられる。思ったことをそのまま口にできる。距離を詰めることに躊躇いがない。私は、そんなふうに誰かに近づいたことがあっただろうか。「大学生になるやつが言うことか?」その声は冷静で、感情の揺れを一切含まない。私は、胸の奥で小さく息を吐く。その冷静さが、どこか救いのように感じられた。「大学生でも、まだまだ子供でしょ」軽やかに弾む声。その響きは明るくて、まるで何も気にしていないかのようだった。こんなふうに話せることが、眩しい。食事をしながら、くだらない話をして、それに相手が自然に
last updateÚltima actualización : 2026-01-30
Leer más

第39話

まるで冗談の延長のように、深刻さの欠片もなく放たれた一言。 けれど、その軽さがかえって鋭く、心の柔らかい部分に触れてくる。私は、ゆっくりと息を吸い込む。 胸の奥が少しだけ痛む。 呼吸をするたびに、その痛みが広がっていく。「そう…なんでしょうか」まるで、触れられたくない部分を指先で軽く押されたような、そんな感覚。否定したい気持ちは確かにあるのに、言葉にして返す勇気が喉の奥で固まってしまう。私はただ、空気を震わせる程度の声で返すしかなかった。問いかけでも反論でもない、ただの反応。テーブルの下で、指先がそっと動いた。何かを掴もうとするように、無意識に手のひらがわずかに丸まる。「かずくんの前だからいい人ぶってるのかと思ったけど、ただいい人にしかなれない人なんですね」いい人にしかなれない。その言葉が、心の中で何度も反響する。褒め言葉ではない。むしろ、欠点を指摘されているような響き。「それはどういう…」言葉が喉の奥で絡まり、最後まで発することができなかった。問いかけたはずの言葉が、途中で途切れてしまう。自分の中でその答えを探そうとしても、霧の中を手探りするように何も掴めない。漠然とした違和感が生まれる。それは何か。遠回しに、偽善者だと言われているのだろうか。「譲ってばかりじゃ、損しちゃいません?」その言葉が落ちた瞬間、心臓がひとつ跳ねた。損という概念が、私の中にはほとんど存在していなかったからだ。譲ることが損につながるという考え方を、私はこれまで一度もしたことがない。目の前のことを淡々とこなすだけで、それが自分にとってどういう結果を生むのか、深く考えたことがなかった。誰かが嫌な思いをしないなら、それでいい。自分がどうなるかなんて、興味すらなかったのかもしれない。
last updateÚltima actualización : 2026-01-31
Leer más
ANTERIOR
123456
ESCANEA EL CÓDIGO PARA LEER EN LA APP
DMCA.com Protection Status