Masuk「悪いが、そんなやつとは一緒にいられない」
その言葉が壱馬様の口から放たれた瞬間、空気が一変した。「…この前は酷いこと言っちゃってごめんなさい。私のかずくんを取られた気になって、」その言葉が耳に届いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。私のかずくん…か。その響きが、謝罪の言葉よりも強く心に残る。私が彼を奪ったという前提で語られていて、それが事実であるかのように響いた。まぁ、事実ではあるのだろう。私自身、ぽっと出の人間に好きな人を奪われる悲しさは、知っている。だからこそ、彼女の言葉が、どこか他人事に思えなかった。「あ、いえ。謝らないでください。私の方こそ───」言葉を返そうとした瞬間、胸の奥にいくつもの感情が渦巻いた。私は、彼女が怒った理由を、どこかで理解しようとしていた。もしかすると、普段の彼女は人の悪口を言うような子じゃないのかもし「うまっ! これめちゃくちゃ美味しい!」 雄大さんはスプーンいっぱいにすくった熱々のシチューを勢いよく口に運ぶと、目を大きく見開いて感動の声を上げた。 そのあまりにも素直で気持ちのいい食べっぷりに、料理を作った側としてはこれ以上ないほどの喜びを感じてしまう。 「お口に合ってよかったです」 私の返事を聞いて、雄大さんは「ほんと、お店に出せるレベルだよ!」と大げさに褒めてくれる。 彼はふと何か思いついたように顔を上げ、私の顔と、静かに食事を進めている壱馬さんの顔を交互に見比べた。そして、少し羨ましそうな、それでいて本気とも冗談ともつかないようなトーンで突然突拍子もない提案を口にした。 「いいなぁ、こんな美味いご飯が毎日食べられるなんて。俺も毎日通っちゃおうかな」 毎日通うだなんて、雄大さんらしい思い切った冗談に聞こえて笑ってしまう。仮にその突拍子もない言葉が半分、いや全部が本気だったとしても、嫌だとは思わなかった。毎日の食事の準備や買い出しは今より少しだけ大変になるかもしれないけれど、こんなにも美味しそうに私の作った料理を食べてくれる人がもう一人増えるのなら、料理を作る身としては凄く嬉しい。ただ、スーパーに行く回数が増えることだけが…。 「ふふっ、お時間がある時ならいつでも大歓迎ですよ」 私がにこやかにそう答えると、雄大さんは子供のように両手を上げてガッツポーズをした。 ズボンのポケットからゴソゴソと自分のスマートフォンを取り出すと、目を輝かせながら身を乗り出し、私に向けてそのスマートフォンの画面を突き出すように見せてきた。 「じゃあさ、行く前に連絡したいから連絡先教えてよ!」 確かに、いつ来るかわからない状態よりも、事前に連絡をもらえた方が食材の買い出しや準備の都合がつけやすくて断然助かる。それに、こうして親しくお話をするようになったのだから、連絡
「うわ、もうこんな時間か」 お玉でかき混ぜていたシチューの鍋からふわりと立ち上る温かな香りに包まれながら、私はゆっくりと雄大さんの方を見る。 リビングのソファでだらだらとスマートフォンを眺めていた雄大さんが、画面右上にある時計の表示でも見たのか、大きく伸びをしながら天井を仰いでいた。 窓の外はすっかり暗くなり、街灯のオレンジ色の光がカーテンの隙間から細く差し込んでいる。 今日は夕方から急に冷え込んできたから、温かい料理を作っていて正解だったかもしれない。 「よろしければ、夕食食べていきませんか?」 ちょうど多めに食材を買い込んでいたこともあり、お鍋の中には三人分でも十分に足りる量のシチューがたっぷりと煮込まれていた。 それに、賑やかな食卓になるのは私も嬉しい。 「え、マジ? いいの?」 彼の顔がパッと明るくなり、無邪気な表情が浮かんだ。ソファから勢いよく身を乗り出すあまり、クッションが床に落ちそうになるのを慌てて押さえている様子がおかしくて、私は思わずふふっと声を漏らして笑ってしまった。 まな板の上の野菜を片付けながら、私はカトラリーのセットを新しく用意しようと、食器棚の方へと歩みを進めた。 木製のスプーンとフォークを取り出しながら頷く。 「はい、多めに作ってあるので」 私の返事を聞いた雄大さんは、両手を軽く叩いて心底嬉しそうなジェスチャーを見せた。 「やった! じゃあお言葉に甘えて──────」 雄大さんの歓喜の言葉は、リビングの入り口に姿を現した長身の影によって無惨にも途中で遮られた。 「少しは遠慮しろ」 仕事帰りのはずなのに、その立ち姿には疲労感よりも特有の威圧感のようなものが漂っていて、ピシッと整ったスーツ姿がリビングの緩みきった空気を一瞬にして引き締める。 それなのに、雄大さんは悪びれる様子もなくへらへらと笑ってみせた。 「あ、壱馬。おかえりー」 雄大さんの気楽な挨拶に対して、壱馬さんは短く鼻を鳴らして応えた。 上着を脱ぎながらこちらへ歩いてくる彼の姿を追いながら、私も手を休めて正面に向き直る。 普段は夜遅くまで仕事に追われていることが多い壱馬さんが、こんなに早く帰宅するのは珍しいことだった。 「壱馬さん、おかえりなさい。今日は早かったですね」 私の問いかけに、壱馬さんはスーツのジャケットを椅子に掛けながら静
「花澄ちゃんがいてくれて、俺の方こそすごくホッしてるんだ」「私が……ですか?」思いがけない言葉に、私は思わず目を瞬かせた。「あいつ、昔から何でも一人で抱え込む癖があって。周りには平気な顔をして、自分だけで乗り越えようとするんだけどさ」少しだけ苦さを滲ませた声で呟き、雄大さんはふうっと短く息を吐いた。その吐息には、長年親友を見守ってきた彼ならではの、歯がゆさと慈愛が深く入り交じっているように聞こえた。 私が知っている壱馬さんの完璧な微笑みの裏側にある、決して誰にも見せようとしない脆さ。それを誰よりも知っている雄大さんの横顔は、明るく陽気な雰囲気からは想像もつかないほど静かで、どこかひどく切なげだった。「だからね、あいつが花澄ちゃんのことで一喜一憂したり、柄にもなく余裕なくしたりしてるのを見ると…。ああ、やっとあいつの心をこんなに揺さぶる人が現れたんだなって、嬉しくなるんだよね」からかうように悪戯っぽく片目を瞑ってみせる雄大さんに、私はどう返していいか分からず、再び熱を帯び始めた頬を隠すように小さく俯くしかなかった。私の些細な言動が、彼の中に波風を立てているのだとしたら。それはなんて恐ろしくて、なんて幸せなことなのだろう。「まだまだ、私にできることは少ないかもしれないですけど……」絞り出すように紡いだ私の言葉は、情けないことにかすかに震えていたかもしれない。背伸びをして彼にふさわしい自立した女性になろうとしても、その道のりは果てしなく遠く思えて、時折どうしようもない無力感に襲われる。それでも、少しでも彼の力になりたいという嘘偽りのない本音だけは、どうしても伝えたかった。「そんなことないと思うよ。ただ、そばにいてくれるだけで救われることだってあるから」その真っ直ぐで嘘のない声に、私は顔を上げた。気の利いた言葉が言えなくても、彼と対等な立場で支え合うにはまだ時間がかかるとしても、今の私なりにできることが確実にあるのだと、雄大さんが肯定
「え……?」ポツリと落ちた雄大さんの言葉に、私は弾かれたように顔を上げた。あんな顔って、一体どんな顔だったのだろう。私が知らない壱馬さんの表情を想像して、思わず聞き返してしまう。「あ、いや、何でもないよ。こっちの話」雄大さんは少し悪戯っぽく笑って、ひらひらと手を振った。深く追求してはいけないような気がして、私はそれ以上踏み込むことができず、微かに熱の残る頬を冷ますように小さく息を吐いた。「……でも、少し羨ましいです」ぽつりと溢れた私の声に、雄大さんが「ん?」と小首を傾げる。「壱馬さん、雄大さんと一緒にいる時はすごく自然体で…」カップの縁を指先でなぞりながら、私は自分の中にあるもどかしさを言葉にしていく。雄大さんと話す時の壱馬さんは、私が普段見ている彼とは少し違っていた。言葉遣いも少しだけ荒っぽくなって、どこか少年のような、飾らない等身大の男性という感じがする。私と一緒にいる時の壱馬さんは、いつだって完璧で、エスコートもスマートで、驚くほど優しい。雄大さんの前で見せるような、力の抜けた素の壱馬さんを引き出せるのは、長い時間を共に過ごし、深く理解し合っている雄大さんだからこそなのだと思う。私に向けてくれる甘く優しい微笑みももちろん大好きだけれど、本当はもっと、彼の中にある泥臭い部分、不器用なところにも触れてみたい。「私にはまだ……見えない壁があるというか。優しくしていただいている分、気を遣わせてしまっているんじゃないかって、時々不安になるんです」私に向けられる優しさが特別なものだとしても、彼にとって一番居心地のいい場所は、まだ私ではないのかもしれない。そんな身勝手な劣等感が、せっかくの嬉しい気持ちに薄い影を落としていた。彼が何の鎧も纏わずに、ただ息をするように傍にいられる一番安らげる場所が私であればいいのにと、そんな身の程知らずな独占欲が心の奥底で静かに渦巻いていた。沈黙が降りた数秒の間、私は自分のひねくれた感
「壱馬は…」雄大さんがふと言葉を区切り、どこか遠くを見るような目をした。彼らの間に流れる、私が立ち入れないほどの長い時間と深い絆の前に、急に自分がひどく場違いで、身の程知らずな存在に思えて仕方がなくなってしまった。「す、すみません。私なんかよりも、雄大さんの方が壱馬さんを知っていらっしゃるのに」自分の声が緊張で少し震えている。壱馬さんのことを知った風な口を利いてしまった自分が恥ずかしくて、顔が急激に熱くなっていく。どうにかしてこの気まずい空気を誤魔化そうと、私はぎこちなく口元だけで笑ってみせたけれど、きっと引き攣った表情になっていたに違いない。「いや、壱馬のことをちゃんと見てくれてるんだなって」予想に反して、雄大さんの声はどこまでも穏やかで、包み込むような温かさに満ちていた。呆れられたり、怒られたりするかもしれないという私の被害妄想は、その一言で見事に打ち砕かれる。「え?」間抜けな声が、思考よりも先に口から漏れてしまった。私は丸くした目をパチパチと瞬かせながら、雄大さんの次の言葉を待つことしかできず、ただただ固まってしまった。「よく素っ気ない奴って思われるけど、本当は誰よりも優しい奴んだよ」雄大さんの言葉が、私の心の中にある壱馬さんへの想いと完全に重なり合い、胸の奥がじんわりと熱くなっていく。「壱馬さんは、初めて会った時から私に手を差し伸べてくださって」気がつけば、溢れ出る想いを止められずに言葉が口から飛び出していた。壱馬さんの大きな手が、どれほど温かく私を引っ張り上げてくれたか。「壱馬にとって花澄ちゃんも同じだと思うよ」同じという響きが、あまりにも現実味がなくて、一瞬耳を疑う。壱馬さんにとって、私が? あの完璧で、どこか遠い世界にいそうな彼にとって、私のような存在が何か影響を与えているなんて、そんな大それたことを想像すらしたことがなかった。「壱馬さんも…?」かすれた声で、どうにかそれだ
「おじゃましまーす。壱馬の家来るの久しぶりだなぁ」雄大さんの屈託のない明るい声が、静かな玄関に響き渡る。壱馬さんのパーソナルスペースに別の男性を招き入れてしまったことへの申し訳なさと、この後どうやって間を持たせればいいのかという焦りが入り混じり、私は玄関口で立ち尽くしてしまった。何かおもてなしをしなければと頭をフル回転させるものの、手持ち無沙汰になった私は、緊張で少し震える手を隠すように、とっさに彼に向かってある提案を口にしていた。「コーヒーを…」緊張のあまり気の利いた言葉が浮かばず、半ば逃げるように口走ってしまった。私はそわそわと視線を泳がせながら、キッチンの方へと少しだけ体を向けた。「ありがとう」雄大さんの明るく気さくな声が、部屋に優しく響いた。そもそもこんな状況になっているのは、私が壱馬さんの過去について余計な詮索をしてしまい、その流れで雄大さんを巻き込んでしまったからで。壱馬さんの大切な友人にまで手間を取らせて気を遣わせている自分が情けなくて、私は咄嗟に謝罪を口にしていた。「私が余計なこと言ったせいで、すみません」戸棚からコーヒー豆とドリッパーを取り出し、お湯を沸かしながら慎重に準備を進めた。お湯を細く円を描くように注ぎ入れると、モコモコと粉が膨らみ、深く香ばしい匂いが部屋中に広がっていく。「そんなことないよ。俺も花澄ちゃんと仲良くなりたかったし」雄大さんはそういいながらソファーに座る。そのゆったりとした動作をキッチンの端から見つめながら、私は張り詰めていた肩の力を抜き、小さく息を吐き出した。震えそうになる手で、出来上がったコーヒーをそっと差し出した。「ありがと」マグカップを受け取る時、雄大さんがふと見上げたその眼差しは、とても優しくて人懐っこいものだった。壱馬さんとはまた違う、周囲の人間を自然とリラックスさせるような不思議な魅力が彼にはある。湯気が立ち上るコーヒーを前に、彼がホッと一息つく姿を見て、私も少し
「あ、ごめん」 樹の声は、壱馬さんの放った圧倒的な威圧感と怒気とは裏腹に、驚くほど穏やかで静かだった。 樹の指先が私の肩を微かにポンと叩いたように感じたのは、気のせいだったのだろうか。私を安心させようとするようなその不器用な優しさが、かえって私の胸をギュッと締め付けた。 「…昔付き合ってて、今も大切な子って」 壱馬さんの口から紡がれたその言葉は、まるで毒を含んだ棘のようだった。 それは、いつか樹がどこかで話した私のことなのだろうか。どうしてそれを壱馬さんが知っているのかは分からないけれど。 「うん。花澄のことだよ」 樹は壱馬さんの刺すような視線から少しも逃げることな
「壱馬さん、」目の前が真っ白になる。最悪のタイミング。樹の腕の中に収まったまま、私は金縛りにあったように動けない。壱馬さんの低い、地を這うような声が鼓膜を震わせ、心臓が跳ね上がる。「何してるの」冷たい声に、心臓がギュッと締め付けられた。壱馬さんの瞳には、いつも私に向ける柔らかな光は微塵も残っていない。ただ静かに、射抜くような鋭さで私を捉えている。その視線の冷たさに、体温がみるみる奪われていくのを感じる。「違っ、これは」
「家まで送ってくれなくて良かったのに」カフェで別れていれば、こんな風に胸の奥がザワつくこともなかったはずなのに。「俺が送ってあげたかったの 」その言葉の響きに、思わず足を止めそうになった。でも、これは愛じゃない。かつてお互いを一番に想い、そして苦しみ抜いて別れを選んだ者同士が持つ、腐れ縁のような情だ。「ありがとう」絞り出すように答えた一言は、午後の乾いた空気に溶けていった。私は視線を足元に落とし、自分の影が樹の影と付かず離れず並んでいる様子をじっと見
「花澄……」樹の口から漏れた私の名前は、ひどく掠れていて、今にも消えてしまいそうだった。「本当にごめんなさい。我儘だけど、理解して欲しい、です」絞り出した声は情けないほどに震えていた。謝罪を口にすればするほど、自分の身勝手さがどこまでも浮き彫りになっていく。理解してほしいなんて、傷つけた相手にこれ以上の思いやりを要求するなんて、本当に救いようのない我儘だ。それでも、中途半端な優しさを見せて樹を縛り続けることだけはしたくなかった。「…探してみるよ。花澄のいない世界で、幸せに生きれる方法を」







