LOGIN「悪いが、そんなやつとは一緒にいられない」
その言葉が壱馬様の口から放たれた瞬間、空気が一変した。「…この前は酷いこと言っちゃってごめんなさい。私のかずくんを取られた気になって、」その言葉が耳に届いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。私のかずくん…か。その響きが、謝罪の言葉よりも強く心に残る。私が彼を奪ったという前提で語られていて、それが事実であるかのように響いた。まぁ、事実ではあるのだろう。私自身、ぽっと出の人間に好きな人を奪われる悲しさは、知っている。だからこそ、彼女の言葉が、どこか他人事に思えなかった。「あ、いえ。謝らないでください。私の方こそ───」言葉を返そうとした瞬間、胸の奥にいくつもの感情が渦巻いた。私は、彼女が怒った理由を、どこかで理解しようとしていた。もしかすると、普段の彼女は人の悪口を言うような子じゃないのかもし「だ、駄目です。体壊しちゃいます」口から出た言葉は少し震えていた。自分の料理が彼の体を壊すかもしれない、そんな極端な想像が胸を締め付ける。「こんな失敗するなんて、珍しいね」壱馬さんの穏やかな声に、胸の奥がちくりと痛む。優しい言葉なのに、失敗を指摘された事実が心に重くのしかかる。視線を合わせられず、テーブルの木目をじっと見つめる。「はぁ。本当にすみません」深いため息とともに、言葉が漏れる。謝罪の言葉は自分を責めるようで、余計に情けなさが募る。肩が落ち、背中が小さく丸まる。「責めてるわけじゃないから謝らないで。それに、これはこれで美味しいし」壱馬さんはそう言って、ためらいなくシチューを口に運ぶ。壱馬さんの喉が動くのを見て、思わず息を止める。味をどう感じているのか、表情に出るのではないかと不安で仕方がない。けれど彼は穏やかな顔のまま、ゆっくりとスプーンを置いた。「そんなわけないです」思わず否定の言葉が出る。自分の中では美味しいとは到底思えず、壱馬さんの優しさに甘えることが怖い。「甘いのも意外と美味しいよ?」壱馬さんの軽やかな調子に、心が揺れる。私は視線を上げかけて、すぐに逸らす。頬が熱を帯びる。「気まで使わせてしまってすみません」再び謝罪の言葉が口をつく。壱馬さんの優しさに甘えてしまっている自覚が、胸を締め付ける。「もう、そんな顔しないでよ」壱馬さんの声は少し困ったようで、それでも優しい。私は自分がどんな顔をしているのか想像し、余計に恥ずかしくなる。視線を落としたまま、唇を震わせる。「…自分が情けなくて」私にできることなんて家事ぐらいなのに。そう思うと、余計に自分の価値が小さく見えてしまう。壱馬さんの前ではもっとしっかりした自分でいたいのに、料理ひとつまと
「花澄…?」その声が耳に届いた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。「あ、はい」慌てて返事をする声は少し上ずっていた。自分でも不自然だと分かるほどに、言葉が急ぎ足で口からこぼれる。視線を合わせるのが怖くて、思わずテーブルの上に目を落とす。シチューの湯気を眺めながら、ぼんやりしてしまっていたみたいだ。「大丈夫?元気ないみたいだけど」壱馬さんの問いかけは優しく、心配の色が濃く滲んでいた。隠し事をしている自分が情けなくて、彼の優しさを正面から受け止められない。「元気です。ただ、少し考え事してて」必死に笑みを作りながら答える。実際には少しじゃない。胸の奥では樹との会話がまだ重く残っていて、壱馬さんの前で平静を装うことが難しかった。「何か心配なことでもあるの?」壱馬さんの問いはさらに深く踏み込んでくる。胸の奥で葛藤が渦を巻き、答えを探す時間が苦しい。「いえ…」短い返事を絞り出す。声は小さく、視線は逸らしたまま。「俺に気を遣わなくていいんだよ」その優しさが逆に胸を痛める。「大丈夫です。本当に大したことじゃないので」必死に声を整え、笑みを浮かべる。自分でもどうしてさっきのことを隠そうとしているのか分からない。樹の元に戻るつもりがある訳でもないのに…。むしろ、彼は「話してくれてありがとう」と言ってくれるかもしれない。そう分かっているのに、口にすることができないのは、私自身が壱馬さんの前で過去をさらけ出すのが怖いからだ。私の心の奥にずっと残っている影のせい。壱馬さんの前では、今の私だけを見ていてほしいと願ってしまう。過去の一部分を知られてしまったけれど、それはほんの断片に過ぎない。私の中にはまだ言葉にしていない記憶や感情がたくさんあって、それを話さない限り、湊さんは想像することしか出来ない。「そっか。何かあったらいつでも言ってね」
「花澄?」 後ろから声をかけられた瞬間、心臓が跳ねるように大きく脈打った。振り返る前に、胸の奥で冷たい不安が広がる。 樹との会話がまだ耳に残っている状態で、壱馬さんの声が重なったことに動揺を隠せない。 振り返る動作さえぎこちなく、呼吸が浅くなる。 「壱馬さん、」 名前を呼ぶ声はかすれていた。 壱馬さんの姿を目にした途端、安堵と緊張が同時に押し寄せる。笑みを浮かべようとするが、頬が強張ってうまく形にならない。 もしかして今のやり取りを聞かれていたんじゃ…。その考えが頭をよぎり、背筋が凍る。 「誰かと話してたみたいだけど、知り合い?」 壱馬さんの問いかけは穏やかで、疑いの色はない。けれど私の心臓は強く脈打ち、呼吸が乱れる。 彼に真実を知られるわけにはいかない。 「それは…」 言葉が喉で絡み、すぐには答えられない。視線を逸らし、指先をぎゅっと握りしめる。 沈黙が長引けば不自然になると分かっているのに、心の中で必死に言い訳を探していた。 「道でも聞かれた?」 疑いを持たずに自然に理由を与えてくれる彼の気遣いが、私を救うと同時に罪悪感を増幅させる。 「はい、そんな感じです」 必死に笑みを作り、言葉を返す。嘘をついている罪悪感が胸に広がるが、彼を傷つけたくない一心で選んだ答えだった。 「そっか」 短い返事に安堵が混じっていた。壱馬さんが深く追及しないことに救われる。 「いつもより早いですね」 私は話題を変えるように問いかける。自分の動揺を隠すための言葉だった。 「花澄に早く会いたかったから」
「違うよ」その言葉を口にする瞬間、胸の奥で強い葛藤が渦を巻いた。けれど樹の瞳を見てしまえば、黙っていることはできなかった。はっきり告げることが樹のためになると思った。彼を誤解の中に閉じ込めてしまうよりも、痛みを伴ってでも真実を伝える方が誠実だと感じた。「それ以外考えられないんだけど、だって気持ち悪いおじさんだって…」樹の声には苛立ちと困惑が混じっていた。彼は必死に理由を探し、私を理解しようとしている。沈黙の時間が長くなるほど、彼の心が揺れているのが分かる。私の返事ひとつで彼の世界が変わってしまうのだと思うと、胸が締め付けられる。「それは、お姉様が勝手に言っただけだよ。とても…素敵な人なの」私は必死に言葉を紡ぐ。心からの本音だった。噂だけが独り歩きして、彼の本当の姿を知らない人たちが勝手に色をつけてしまう。その歪んだ言葉が樹の口から出てしまったことが、どうしても耐えられなかった。壱馬さんはそんな人じゃない。私に幸せをくれて、支えてくれる存在。彼の穏やかな笑みや、さりげない気遣いに何度救われたか分からない。「それなら、花澄はもう俺のこと好きじゃないの…?」樹の声はかすれていて、今にも泣き出しそうだった。喉の奥で震えるその響きは、私の胸を強く締め付ける。「ごめん…ごめんなさい」涙が滲み、声が震える。謝罪の言葉しか出てこない。樹の表情が苦しげに歪むのが見え、胸が痛む。「花澄、」樹が名前を呼ぶ。その声には、まだ諦めきれない想いが込められていた。私は唇を噛み、視線を逸らす。「ごめん。今日はもう帰って」言葉を吐き出すと同時に、胸が締め付けられる。樹を拒絶する日が来るなんて思わなかった。樹は私にとって、過去の痛みと同時に温もりをもたらすものだった。けど今は、彼を受け入れることができない。それでも、この言葉を選んだのは彼を突き放すためではなく、お互いに考え
「もう飽きたんじゃない?」樹が口にした飽きたという表現は、まるでお姉様の行動を一言で片づけるような響きだった。「飽きた?」目の前の樹の表情を探るが、彼はただ淡々とした顔で私を見返す。その冷静さが、逆に胸を締め付ける。「俺に…いや、花澄に嫌がらせするのも、もう飽きたんだろ」「お姉様が…」言葉が喉で途切れた。続けようとしても、声にならない。彼女は昔から、私を傷つけるためなら何だって利用してきた。私の大切なものを奪い、心を試すように振る舞ってきた。笑顔の裏に隠された冷たい意志を、私は何度も見てきた。そんな彼女が、今さら飽きたなんてあり得るのだろうか。背筋に冷たいものが走り、指先が震える。「多分、花澄が他の人と婚約した時点で、俺と一緒にいる理由なんてなくなったんだと思う。あいつは俺のこと好きじゃなかったし」確かに、お姉様が樹を選んだ理由は、愛ではなく、私への嫌がらせだった。"貴方のものを奪うのが好きだからよ"そう言い放ったお姉様の冷たい笑みは、今でも鮮明に覚えている。あの時の瞳には愛情も迷いもなく、ただ私を苦しめることへの愉悦だけが宿っていた。「そう…なのかな」私の声はかすれていた。問いかけるように呟いたその言葉は、空気に溶けて消えていくように弱々しい。お姉様は、私の幸せを壊すことに執着していた。樹との婚約も、その執念の一部に過ぎなかった。彼女は私を不幸にするために、長年努力してきた。そんな彼女が今さら飽きて、私の幸せを許すなんて…そんなのありえない。けれど、そのことを樹には言えなかった。彼はあまりにも本当のお姉様のことを知らなさすぎるから。彼が見てきたのは、表面だけ。あんな生ぬるいいじめではない。お姉様の本当の残酷さは、心の奥底まで侵食し、内面を枯らしてしまう。それが彼女だった。私は唇を噛みしめ、胸の奥で渦巻く真実を押し殺すしかなかっ
いつものようにスーパーからの帰り道。壱馬さんと過ごす穏やかな時間が続くはずだったのに、突然聞き慣れた声が私を呼び止めた。「花澄」その声を聞いた瞬間、心臓が大きく跳ねた。振り返ると、そこに立っていたのは忘れたはずの人だった。スーパーの袋を握る手が震え、指先から力が抜けていく。壱馬さんと過ごす穏やかな日常の中に、突然昔の自分が割り込んできたようで、呼吸が乱れる。「…っ、どうして」声が震える。どうして今、どうしてこの場所に。「久しぶり」樹は、あの頃のように笑っていた。その笑顔は私の心を一瞬で過去へと引き戻す。「どうしてここに」問いかけながらも、答えを聞くのが怖い。「花澄を連れ戻しに来たんだよ」その言葉に胸が大きく揺れた。もしかして、そのために私に会いに来たの?あそこから抜け出してきたの?彼の真剣な眼差しが、ただの冗談ではないことを告げている。「何言ってるの、そんなことしたらお姉様が」思わず声が荒くなる。お姉様の意志に逆らうことは簡単ではない。それは私が一番よく知っている。あの人の決定は絶対で、従うしかない。だからこそ、壱馬様と出会えたのも、樹と別れることになったのも、すべてはお姉様の意志の延長線上にあった。私自身の選択ではなく、流れに身を任せるしかなかった結果だ。もしあの時、勇気を出してお姉様に逆らえていたら…樹と別れることはなかったかもしれない。彼の隣で笑っていた未来もあったのかもしれない。けれど、そうしていたら壱馬様と出会うこともなく、今の私の幸せは存在しなかった。「大丈夫。あいつとは婚約解消したから」予想もしなかった言葉に息を呑む。「え、どうして」声が震える。混乱が広がり、頭の中で理由を探すが見つからない。会社を守るために、ずっと必死に耐えていたじゃ
「どうしたの?」白シャツの袖に血がついているのを見て、壱馬さんの表情が一瞬で曇った。「ほんとにごめん」声は低く、申し訳なさが滲んでいた。普段なら軽く笑って済ませるような場面でも、彼は真剣に謝ってくる。こんなことで、謝らなくていいのに。私がこれまで過ごしてきた場所では、誰かに謝られることなんてほとんどなかった。失敗や傷は自分のせいにされ、耐えるしかなかったから、謝罪の言葉を受け取ることに慣れていない。「…仕方ないですよ」そう返すと、壱馬さんの肩の力が少
「壱馬さん?」背後から抱きしめられている感覚に、思わず声が漏れた。包み込むような温もりが背中に広がって、心臓が落ち着かなくなる。料理をしている最中なのに、意識は包丁ではなく彼の体温に奪われていた。呼吸が浅くなり、心臓の鼓動が早まるのを自覚しながらも、振りほどく勇気は出なかった。「ん?」壱馬さんの返事は軽く、まるで何も気にしていないようだった。私の困惑を理解していないのか、それとも分かった上で甘えているのか。「動きずらいです…」必死
「ただ?」私は一瞬、視線を逸らしてしまった。連絡先を交換したことや、遊びに行く約束をしたことを正直に話すべきかどうか…。その葛藤が心臓を締め付ける。彼に余計な心配をかけたくない。でも、壱馬さんに隠しごとをするなんて。そんな思いが交錯し、指先が落ち着かずスマートフォンを握り直す。「その、謝られて…」選んだ言葉は、ほんの一部の事実だった。莉沙さんが見せた意外な一面を思い出し、少し声が柔らかくなる。「莉沙が謝ったって?」壱馬さ
「ただいま」玄関の扉を開けて声をかけると、すぐに壱馬さんの声が返ってきた。「花澄…!どこ行ってたの!?」彼の声は焦りと心配に満ちていて、胸がきゅっと締め付けられる。置き手紙のひとつでも残していけばよかった。たった一言「スーパーに行ってきます」と書くだけで、彼の心配を少しでも減らせたはずなのに。「冷蔵庫に何も無かったので、スーパーに」そう答えながらも、胸の奥に罪悪感が広がっていた。本当は、ここまで心配をかけるとは思っていなかった。あの人達とは違うのに。







