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第38話

Author: Hayama
last update publish date: 2026-01-30 20:00:00

「俺はお前の世話係じゃない」

その言葉が落ちた瞬間、空気がわずかに震えた。

莉沙さんは、ほんの一瞬だけ目を瞬かせた。

その表情は驚きとも不満ともつかず、ただ思い通りにならなかったという幼い戸惑いが滲んでいた。

「どうして花澄さんはよくて、私は駄目なの」

その言葉は、まるで私が特別扱いされていることを責めるようで、同時に、私自身がその理由を知らないことを突きつけてくる。

私は、視線を皿に落とした。

「花澄は俺の婚約者だ。扱いが違うのは当然だろ」

その言葉が落ちた瞬間、世界が一瞬だけ止まったように感じた。

その言葉は、私が彼にとって特別であることを、誰よりも明確に示していた。

まだ本当の意味で恋人と呼べる関係ではないけれど、それでも、彼の口からその言葉が自然に出てきたことが、どうしようもなく胸を熱くした。

莉沙さんの表情がわずかに揺れた。

その揺れが、痛いほど伝わってくる。
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    「こんなに人のこと好きになったことないから、どうすればいいのか分からないんだよ」 壱馬さんの声は、少しだけ震えていた。 それは、怒りでも苛立ちでもなくて、戸惑いだった。不安だった。 そして、切実な想いだった。 「私は…いえ、なんでもないです」 言いかけた言葉を、飲み込んだ。 壱馬さんの気持ちに、どう応えればいいのか分からなかった。 「困らせてごめんね。花澄が振り向いてくれるま

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