All Chapters of その魔法が解ける前に: Chapter 51 - Chapter 60

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第50話

「壱馬さん、もう大丈夫です」壱馬さんの腕の中から、そっと顔を上げた。そんな言葉が、嘘にも似たように聞こえたのは、今の居心地が愛おしかったから。この静かな空間。抱きしめられている温度。それが、当たり前のように自分に向けられていることが嬉しくて、離れるのが怖くなっていた。心臓の音が耳の奥で静かに鳴り続けていて、彼の腕の温度が、背中にじんわりと染みていた。今すぐ離れてしまうのは、ちょっと惜しいと思ってしまうくらい、心地よかった。だけど、このままでは心が持たない。壱馬さんが優しくしてくれるたびに、期待してしまいそうになる。それが、怖かった。このぬくもりが壱馬さんの気まぐれではないかという疑念が、心の奥で静かに重なっていく。この安らぎが一時的なものなら、嬉しさがあとで痛みに変わってしまう気がした。「えぇ、もう少しこうしてちゃ駄目?」その声は、思っていたよりもずっと甘くて、耳元でふわりと響いた。心が跳ねる。もう少しという言葉が、まるで永遠を願っているように感じられた。私の気持ちを揺さぶる言葉を、何の気なしに口にするなんて。「もしかして、本当にこうしてたかっただけですか?」気づけば、ぽつりと問いかけていた。 想像していた理由は、きっと慰めるためだった。私が泣きそうだったから、彼は抱きしめてくれた。そう信じようとしていたのに、今の壱馬さんの言葉が、その前提を静かに揺らしてしまった。「最初からそう言ってるじゃん?」壱馬さんの返事はあまりに軽くて、ちょっと拍子抜けした。でも、同時に心が静かに跳ねる。それは、言葉の軽さとは裏腹に、隠しようもない本音みたいだった。「は、離れてください」声が不自然に高くなってしまった。喉の奥がざわついて
last updateLast Updated : 2026-02-11
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第51話

「は、はい」声が震えた。なんとか声を絞り出した。心臓が、鼓動を早める。壱馬さんの次の言葉が、私の何かを変えてしまう気がして。「まだ、俺の事好きじゃない?」その言葉が、まるで心の奥をそっと撫でるように響いた。優しくて、でも真っ直ぐで。私の曖昧さを、そっと問いかけてくる。その言葉には、彼の希望が滲んでいた。私がいつか、彼を好きになることを信じてくれている。でも、私はまだ…その答えを持っていない。壱馬さんのことをもっと知りたい。でも、それが好きという気持ちなのかは分からない。もちろん、人としては好きだけど…。壱馬さんの優しさも、強さも、全部、素敵だと思う。好きって、どんな感情だったっけ。誰かを思うとき、胸が苦しくなるのは、恋なの?それとも、ただの憧れ?「…私がここに来て、まだ2日しか経ってません」言葉を口にするまでに、少し時間がかかった。沈黙の中で、心の中の言葉を何度も並べ直していた。壱馬さんの問いかけに、すぐに答えられなかったのは、自分の気持ちがまだ形になっていないから。たった2日。それでも、心は確かに動いていた。でも、それを好きと呼ぶのは、まだ怖かった。「ははっ。確かに。それもそうだ」壱馬さんの笑い声が、少しだけ空気を和らげた。でも、その笑いの奥に、どこか寂しさのようなものが混じっている気がした。「ただ、壱馬さんのことをもっと知りたいと思います」言葉を紡ぎながら、自分の中で何かがほどけていくのを感じた。壱馬さんのことをもっと知りたいと思う気持ちは、心が動いている証。「それって俺に関心あるってこと?」壱馬さんの声は、少しだけ弾んでいた。でも、その奥に、どこか探るような響きがあ
last updateLast Updated : 2026-02-12
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第52話

「ん?」壱馬さんが、少しだけ首を傾けて私を見た。彼の表情はいつも穏やかで、優しくて、でも今日はその奥に、薄い影が差しているように見えた。それは、私が見慣れた彼の表情とは違っていて、胸の奥がふとざわついた。「どうして、悲しそうな顔するんですか」言葉にするまで、少し迷った。聞いてはいけない気もした。でも、どうしても気になってしまった。どこか寂しげだったから。「え、そう?俺どんな顔してる?」壱馬さんが少し笑いながらそう言った瞬間、胸がきゅっと締めつけられた。笑っているのに、その笑顔がどこかぎこちなくて。言葉にできない感情が、彼の目の奥に見えた気がした。それは、悲しみとも、寂しさとも違う。でも、確かに何かがあった。「…なんだか、遠くを見てるみたいな顔です」言葉が口をついて出た瞬間、胸の奥にひやりとした感覚が走った。言ってしまった。壱馬さんの表情に違和感を覚えて、それをそのまま言葉にしてしまった。でも、それが彼を傷つけてしまうかもしれない。その不安が、すぐに心を覆った。「…そっか、心配かけてごめんね」壱馬さんは、少しだけ目を伏せて言った。壱馬さんの「ごめんね」は、自分の気持ちを隠すための言葉のように聞こえた。「私、何か失礼なことを言ってしまったでしょうか」自分でも驚くほど弱々しい声だった。壱馬さんの表情が曇ったのは、きっと私のせいだ。本当の気持ちを何も知らないまま、踏み込んではいけない場所に踏み込んでしまった気がした。「ううん。ただ、花澄があまりにも沢山褒めてくれるから驚いただけだよ」壱馬さんは、嘘が下手だなぁ。彼の目は、まだ少しだけ曇っていた。私の言葉が、彼の中の何かを思い出させてしまったのかもしれない。
last updateLast Updated : 2026-02-13
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第53話

私はひとり、ぽつんとリビングにいた。 壱馬さんが浴室へと消えていったあと、部屋の中には、静けさだけが残った。 さっきまで彼の声が響いていた空間が、急に広く感じられて、その広さがどこか心細かった。 音のない空間は、まるで時間が止まったようで、壁にかけられた時計の針の音だけが、妙に耳についた。 その規則的な音が、逆に不安を煽る。 まるで、何かを待っているような、そんな感覚。 ソファに腰を下ろした。クッションの柔らかさが、今は心地よく感じられなかった。 身体を預けても、どこか浮いているような気がした。 指先が、膝の上でそっと絡まる。 無意識のうちに、何かを握りしめるようにしていた。 自分の手なのに少し冷たくて、その冷たさが、今の自分の心を映しているようだった。 何かを考えようとすると、彼の表情が浮かんでくる。 さっきの笑顔。 優しくて、穏やかで、でもその奥に、ほんの少しだけ曇りがあった。 あれは、私の思い過ごしだったのだろうか。 それとも、彼の中に、誰にも見せたくない何かがあったのか。 分からない。でも、知りたいと思ってしまった。 彼のことをもっと。 彼の過去も、今も、全部を知りたいと思ってしまった。 それは、彼に惹かれている証なのかもしれない。 でも、まだ好きとは言えない。 彼のことをもっと知りたい。でも、彼の心の奥に踏み込むのが怖い。 その矛盾が、胸の奥で静かに揺れていた。 まるで、深い湖の底で波紋が広がるように、静かだけれど確かに、心を動かしていた。 気を晴らすために、庭へ向かった。 夜の風が、頬を撫でる。 少し湿った空気が、この部屋の中よりもずっと呼吸しやすく感じた。 深く息を吸い込むと、胸の奥に溜まっていた重さが、少しだけ軽くなった気がした。 風の音、遠くの車の音が私を現実に引き戻してくれる。 庭の隅に、小さな花瓶が置かれていてそこには一輪の花が咲いていた。 サザンカだった。 淡いピンク色だけど、端が少し茶色くなっていて、今にも散りそうだった。 「綺麗…」 思わずそう呟いた。 枯れかけているのに、その姿はどこか儚くて、 目を離せなかった。 まるで、最後の力で咲いているような…そんな健気さがあった。 しゃがみ込み、花瓶
last updateLast Updated : 2026-02-14
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第54話

「そんなところで何してるの?」声が背後からふわりと届いた。その瞬間、心臓が跳ねた。風の音に溶けていた静けさが、彼の声で一気に現実に引き戻される。「壱馬さん、」名前を呼ぶだけで、喉が少しだけ詰まった。お風呂上がりの壱馬さんは、髪がまだ少し濡れていて、肌もほんのり赤くて……その姿が、直視できないほどにかっこよかったから。思わず目を逸らしてしまう。見てはいけないものを見てしまったような、そんな気まずさがあった。「風邪引くよ?」壱馬さんの声はいつも通り優しくて、でもその優しさが、今は少しだけくすぐったかった。「お花が、綺麗で」なんとか言葉を絞り出し、視線を花に戻す。枯れかけていたはずなのに、水をやったせいか、ほんの少しだけ元気になったように見えた。「あぁ、貰ったんだよ」壱馬さんの言葉に、胸がふっとざわついた。貰ったって、誰から…?その一言だけで、想像が勝手に広がっていく。「そうなんですね、」なんとか平静を装って返す。でも、心の奥では、小さな棘のようなものが刺さっていた。花を貰う関係の人って…。家族?友人?それとも、、特別な誰か?聞きたいけれど、聞けない。聞いてしまったら、何かが壊れてしまいそうで。だから、ただ言葉を返すだけで精一杯だった。「そういえば、最近忙しくて世話できてなかったな」壱馬さんの声が、少しだけ申し訳なさそうだった。忙しい日々の中で、この花はずっとここにいて、誰にも気づかれずに、静かに枯れかけていた。それが、自分自身と重なって見えた。「そう…だったんですね」サザンカを見つめる。
last updateLast Updated : 2026-02-15
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第55話

「あんまり乾かさないんだよね。めんどくさいし」首にタオルをかけたまま、壱馬さんは少しだけ肩をすくめた。その仕草が妙に自然で、まるで長年の癖のように見えた。彼は、きっと自分のことを後回しにする人なんだ。誰かのことは気にするのに、自分のことはつい雑に扱ってしまう。「それでも、」言いかけた瞬間、壱馬さんがふっと笑って言った。「じゃあ花澄が乾かしてよ。…なんて」その言葉に、心臓が跳ねた。冗談だって分かってる。でも、言葉の端に、ほんの少しだけ本気が混じっていた気がして。それが、胸の奥にふわりと落ちてきた。「分かりました」そんなに即答するつもりじゃなかったのに。でも、断る理由が見つからなかった。「え、いいの?」壱馬さんが目を丸くする。彼の声には、ほんの少しだけ期待が混ざっていた。「そんなことでいいなら喜んで。じゃあ、ドライヤー持ってきますね」言いながら、少しだけ背中が熱くなる。壱馬さんの髪に触れること。それは、思っている以上に距離の近い行為で。洗面所に向かう足取りは、少しだけ早かった。まるで、気持ちが先に走ってしまったみたいに。乾かしてよ、なんて。少しだけ甘えてくれたみたいで、嬉しかった。洗面所に入ると、少しだけ気持ちが落ち着いた。ドライヤーは洗面台の下。コードが少し絡まっていて、それをほどきながら、鏡に映る自分の顔をちらりと見る。頬が、ほんのり赤い。目も、少し潤んでいるように見えた。「しっかり…」小さく息を吐いて、気持ちを整えるように呟く。壱馬さんの前で、変に緊張しているのがバレたら恥ずかしい。でも、隠しきれる自信はなかった。リビングに戻ると、ソファーに壱馬さんが座ってい
last updateLast Updated : 2026-02-16
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第56話

「喜んでもらえたならよかったです」壱馬さんの幸せに少しでも触れられたことが、私自身の幸せにもなっていた。「たまに乾かしてくれる?」その言葉に、指先が止まりそうになる。それは、これからも隣にいてほしいという願い。それを、当たり前に言ってくれるから…。「私が、壱馬さんの隣にいるのなら、」小さな声だった。風に紛れてしまいそうなほどの、かすかな呟き。でも、私の中では、その言葉が何度も何度も響いていた。私の願いであり、同時に恐れでもあった。私がいつまで壱馬さんの隣にいられるか分からない。この穏やかな時間が、いつまで続くのか分からない。お姉様に見つかってしまったら、きっとすべてが終わってしまう。壱馬さんが優しくしてくださるから、その優しさに触れるたびに、心がほどけていく。ほどけて、ほどけて、気づけば、壱馬さんの隣が当たり前になってしまいそうで。でも、それが一番怖い。当たり前になったものほど、失ったときに痛みが大きい。壱馬さんの優しさは、私の心を癒してくれる。その分、いつか来る別れが辛くなる。あの時の、あの気持ちは、もう二度と経験したくない。彼の髪を乾かす手が、少しだけ止まりそうになる。でも、止めたくなかった。この時間を、少しでも長く続けたかった。「え、なんて?」壱馬さんが後ろを振り返った瞬間、その動きが予想よりも近くて、顔が、ほんの数センチの距離に迫った。「…っ、」息が止まった。目の前にある彼の瞳。濡れた髪から落ちる水滴。少しだけ開いた唇。そのすべてが、私の視界を埋め尽くしていた。その距離に、心臓が跳ねる。でも、逃げられなかった。
last updateLast Updated : 2026-02-17
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第57話

お風呂から上がったばかりの肌に、まだ湯気の余韻が残っている。 髪はタオルでざっと拭いただけで、首筋にしずくが落ちる。 それを気にする余裕もないほど、心の中はざわついていた。 リビングへと戻る足取りは、どこかぎこちなかった。 湯船の中で何度も考えていた。 さっきの距離。 あの瞬間。 鏡の前で触れた唇の感触。 全部がまだ、身体のどこかに残っている。 ドアの向こうにいる壱馬さんの顔を思い浮かべるたび、胸の奥がきゅっと縮こまる。 どんな顔して会えばいいんだろう。 壱馬さんは、あれをどう思っているんだろう。 私が動揺していたこと、気づいていたのかな。 それとも、何も気にしていないのかな。 私は、どうしたいんだろう。 彼に、どうしてほしいんだろう。 そんなことを考えているうちに、リビングのドアの前に立っていた。 そっとドアを開ける。 部屋の中は、静かだった。 柔らかな照明の中に、壱馬さんの姿があった。 「壱馬さ…」 名前を呼びかけた瞬間、声が喉の奥で止まった。 壱馬さんはソファーに横になって、眠っていた。 その姿を見た瞬間、胸の奥に言葉にならない感情が広がった。 髪が少し乱れていて、呼吸は穏やかで。 その姿があまりにも無防備で、胸がきゅっと締めつけられた。 「壱馬さん、こんなところで寝てたら風邪引きますよ?」 そっと近づいて、声をかける。 でも、彼は目を閉じたまま、微かに眉を寄せていた。
last updateLast Updated : 2026-02-18
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第59話

「少し、落ち着きましたか…?」 声をかけながら、壱馬さんの背中に添えていた手をそっと離す。 呼吸が静かになってきたのを感じて、私の胸のざわめきも、少しずつ落ち着いていく。 安堵しながらも、その静けさが嵐の後のように、どこか儚く感じられた。 彼が見せた弱さは、私にとって、どこか懐かしい痛みだった。 「うん、ごめん。ありがとう」 迷惑だと、思ったのだろうか。でも、私は…その迷惑になりたかった。 壱馬さんの痛みの中に、少しでも居場所を持てたなら、それは私にとって、何よりも嬉しいことだった。 「いえ。その…よく、うなされるんですか?」 言葉を選びながら、壱馬さんの顔を見ないようにしていた。 さっきの寝言。 あの震え。 それが、ただの夢ではないことは分かっていたから。 トラウマのような…そんなものなのだろうか。 「この時期になるとね、」 その言葉に、季節の重さを感じた。 それは壱馬さんにとって、何かを思い出させる季節。 風の匂い。空の色。夜の静けさ。 そのすべてが、彼の記憶を呼び起こしてしまうのだろう。 「そうですか、」 何があったのかは分からない。 でも、季節が記憶を呼び起こすほどの出来事が、彼の中にあるということだけは、はっきりと伝わってきた。 「暫く夢なんて見てなかったのに…」
last updateLast Updated : 2026-02-20
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