「ええ、すぐに行くわ」紫音は短く答えると、乱れた服の皺を伸ばし、ささくれ立った感情を瞬時に塗り込めた。踵を返して歩き出すその足取りは力強く、迷いがない。そこにはもう、感傷に浸る女性ではなく、冷徹な「経営者」の姿があった。蘭はその背中を、不安と痛ましさが入り混じった眼差しで見つめながら追随した。紫音の表情を盗み見るが、そこからは先刻までの激情など微塵も感じられない。あまりにも完璧すぎる仮面だった。だが、社長室のドアは開け放たれたままだった。あの泥沼の修羅場は、フロア中の社員たちの耳に筒抜けだったのだ。誰もが手元の作業をしながら、心配そうに視線を交わしている。創業メンバーである紫音は、これまで誰よりも社員を大切にし、利益を惜しみなく還元してきた理想の上司だ。その人望の厚さは、清也の比ではない。オフィスの空気は、傷ついた誇り高き彼女への同情と、静かなる支持で満ちていた。会議室では、紫音の到着を待つ役員たちが、重苦しい空気を共有するように言葉を交わしていた。「この会社がここまで成長できたのは、間違いなく紫音さんの手腕あってのことだ。それが退任とは……実に惜しい」ある役員が、嘆息交じりに首を振る。「ああ。それに比べて不破の小僧は、現状が見えておらん。このままでは会社を潰されかねんぞ」別の役員も深く憂慮し、重いため息をついた。彼らにとって、清也の経営手腕は不安の種でしかないのだ。「だが、どうする?彼女の『退く』という意志は固いようだ。我々が手を打たなければ、持ち株を外部に売却されかねん」そこへ、年配の重鎮が低い声で提案を投げかける。「左様。余所者に渡るくらいなら、我々で買い取るべきだ。そうすれば結束して不破への抑止力にもなる。少なくとも、奴より上の発言権は確保できるからな」その時、会議室の扉が静かに開かれた。紫音が姿を現すと、場の空気が一瞬にして引き締まる。役員たちは一斉に立ち上がり、恭しく頭を下げた。「京極常務」紫音は柔らかな笑みを浮かべて頷き、着席を促した。上座に腰を下ろすその所作は洗練されており、これから自身の進退を語るとは思えないほど、従容として落ち着き払っている。「紫音さん……貴女が手塩にかけて育てた会社ではありませんか。それをこうもあっさり手放すなど、本当に未練はないのですか?」口火を切
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