All Chapters of 義妹に溺れる彼を捨て、私は宿敵の妻となる: Chapter 161 - Chapter 170

438 Chapters

第161話

紫音はどうにかして二人を繋げようと、必死にきっかけを作る。蘭は促されるまま慌てて立ち上がり、グラスを手に取った。蘭は意を決し、一気に酒を流し込む。「塚山さん、この度は本当にお世話になりました。特許の知識が乏しい私を、皆さんが嫌な顔一つせず導いてくださって……心から感謝しています」だが、蘭の頭の片隅には、打ち消せない思いがあった。彼が自分を助けてくれたのは、あくまで自分が『紫音の部下』だから。その事実が、胸をチリリと焼く。「そんなに畏まらなくていいよ。君は紫音の片腕なんだから。彼女が見込んだ相手に、優秀じゃない人間なんていないだろうしね」浩一は特に気負う様子もなく、さらりと言った。蘭は震える手で、もう一度グラスを煽った。感情が昂り、心臓の音がうるさい。ひどく狼狽しているのが自分でも分かった。好きな人の前で、平然を装うなんて到底無理だ。彼の何気ない一言が、鋭いトゲのように胸に突き刺さる。「蘭、あまり無理しないで。そんなに強くないでしょ?」紫音が心配そうに声をかけた。蘭が酒の力を借りて、必死に臆病な自分を奮い立たせようとしている。その意図は痛いほど伝わっていた。酒でも飲まなければ、想い人の正面に座り続けることすらできない。だが、こればかりは本人が乗り越えるしかない壁だ。紫音にできるのは、ただ静かに見守ることだけだった。「平気です。心配しないでください。これくらいなんてことありませんから。……ただ、どうしても、この一杯に感謝を込めたかったんです」一気に飲んだ酒が、胃の中でカッと熱を放つ。途端に蘭の顔はみるみるうちに朱に染まった。もともと彼女は酒など一滴も飲めない体質だった。アルコールに興味もなかったが、今日ばかりはどうしても、この胸の苦しさを誤魔化したかったのだ。「……すみません、お二人でお話ししていてください。少しお手洗いへ」アルコールが急に回ったせいか、全身がひどく重い。こみ上げてくる吐き気を必死に堪えながら、蘭はフラフラと立ち上がった。「蘭、私も一緒に行くわ。あんな飲み方、無茶すぎる」紫音が心配して席を立とうとする。「大丈夫です、紫音さん。一人で行けますから」蘭はそれを制した。今は誰の慰めも欲しくなかった。ただ一人になって、乱れた心に蓋をしたかったのだ。彼女の頑なな態度に、紫音は仕方なく腰を下
Read more

第162話

「そうじゃなくて。一人の女性として、どう思ってるか聞いてるの」紫音の真面目なトーンに、浩一はつまらなそうに鼻で笑った。「彼女がどうであれ、俺には何の関係もないことだろ」その冷ややかな言葉は、洗面室でなんとか気持ちを落ち着け、席に戻ろうとしていた蘭の耳に、残酷なほどはっきりと突き刺さった。足が止まり、蘭の唇の端が自嘲気味に歪む。……やっぱり。彼にとって自分は、興味を引く対象はおろか、視界に入る存在ですらない。その現実を、容赦なく叩きつけられた気分だった。「浩一さん、蘭は本当に素敵な子よ。お互いフリーなんだから、すごくお似合いだと思うんだけど」紫音は身を乗り出すようにして、熱心に言葉を紡ぐ。「家柄の差があるのは分かってる。でも、あなたってそういうのを気にするタイプじゃないでしょ?もう少し彼女のこと、一人の女性として見てあげてほしいの。本当にいい子なんだから。二人とも、私にとっては大切な人よ。だからこうして紹介したいって思ったの。どうでもいい人には、こんなに優秀で信頼してるアシスタントを勧めたりなんかしないわ」紫音は、蘭がすぐ近くまで戻ってきていることに気づいていなかった。蘭は足音を殺し、壁の陰で立ち止まった。その先の言葉がどうなるかなんて、聞かなくても予想はついている。それでも、はっきりとした答えを自分の耳で確かめずにはいられなかった。それがどれほど残酷な現実を知ることになるとしても。「紫音、お前今日酔ってんのか?何馬鹿なこと言ってんだよ」浩一は呆れたように息を吐いた。「俺には心に決めた人がいるんだ。他の女に目を向ける余裕なんてない。俺が一度決めたらどれだけ一途か、お前が一番よく知ってるだろ?」心に決めた人――?紫音は思わず噴き出した。「ちょっと、どうしたの?明日は槍でも降るんじゃない? 長い付き合いだけど、あなたにそんな本命がいるなんて初耳よ。あんなに本をめくるより早く彼女を取っ替え引っ替えしてたあなたが、誰かに本気になるなんてね。「でも、言っておくけど。もし今後、蘭とどうにかなるようなことがあっても、絶対に彼女を悲しませるようなことはしないでよね。そんなことしたら、私が許さないから」彼が普段見せている軽薄な振る舞いが、すべては計算されたカモフラージュであることに、紫音は全く気づいていなかった。「……
Read more

第163話

だが、不思議と腹の底から怒っているわけではない。二人の間には、いつだってこんな気安い空気が流れていた。いつからだろうか。浩一といる時間は肩の力が抜け、心から笑える自分がいる。他では得られないこの居心地の良さ。紫音にとって、彼は何にも代えがたい「一番の親友」になっていた。……そろそろ、いいかな。壁の陰で身を潜めていた蘭は、二人の会話がひと段落したのを見計らい、ゆっくりと足を踏み出した。「お待たせしました」席に戻った蘭の笑顔は、ほんの少し引きつっていた。それでもなんとか平静を装い、ズタズタに引き裂かれた胸の内を必死に笑顔の裏へと隠し通した。「俺、この後もう一件付き合いの席があるんだ。あとは女同士でゆっくり楽しんでくれ。じゃあ、お先」浩一はそう言って立ち上がった。あからさまに蘭へ興味がないどころか、視線一つ向けようとしない。そもそも今日ここに来たのも、紫音と食事をする口実ができたからに過ぎないのだ。まさかアシスタントまで同席するとは思いもしなかった。こんなことなら、大事な接待を後回しにしてまで来る必要はなかったと内心毒づく。彼にとって、世界で最も優先すべき存在は常に紫音だけだ。彼女が助けを求めるなら、すべてを放り出してでも駆けつける覚悟がある。それだけだった。「うん、分かったわ。お疲れ様」紫音も無理に引き留めようとはしなかった。彼の不服そうな態度を見れば、さっさとこの場から逃げ出したいのは明白だった。浩一が去り、テーブルには二人だけが残された。「蘭、さっきのことなんだけど……」「紫音さん、すみません。私、お二人の話……聞いてしまいました」紫音が口をひらくより早く、蘭が静かに遮った。「塚山さんの気持ち、痛いほどよく分かりました。……恋愛って、無理矢理どうにかなるものじゃないですよね。彼が私に関心がないのは、仕方ないことです」彼女は自嘲するように、ふっと息を吐く。「紫音さんがあんなに私のことを推してくださったのに、彼は全く揺らがなかった。塚山さんの目には、私は微塵も映っていないんです。どれだけ努力しても手に入らないものがある。……仕事の特許なんかとは、全然違うんですね」その言葉には、妙な諦念が滲んでいた。痛いほど現実を突きつけられ、すべてを悟ってしまったかのような、静かな悲しみが漂っている。「蘭……本当にそれでい
Read more

第164話

一方の律は、書斎で仕事に没頭しながら紫音の帰りを待っていた。迎えには信頼できる専属の運転手を付けてあるから、安全性に関しては申し分ない。だが、その運転手から「紫音さんがアシスタントの女性とだいぶ飲まれているようです」と報告を受けてからというもの、気が気ではなかった。あの酒に弱い紫音が、こんな夜遅くまで飲んでいるのだ。無事に戻ってくるまでは気が休まらないのも無理はない。ようやく玄関の扉が開く音が聞こえた瞬間、律は飛んでいき、自ら扉を開け放つや否や、ふらつく紫音の体を軽々と抱き上げた。「りーつー……もう、私平気だってば。そんな大げさにするほど飲んでないよ」紫音は律の首元に顔を埋めながら、ふにゃりと笑った。「ほら、おろして。ちゃんと自分の足で歩けるし、頭だってすっごく冴えてるんだから!」まるで重度の酔っ払い扱いされているのが不服なのか、紫音は腕の中でもぞもぞと身をよじり、子どもみたいに抵抗してみせた。「外でこんなに隙だらけになるまで飲んでくるなんて……今日は大目に見てやるが、次は絶対許さないからな」律はわざと厳しい声色を作った。心底心配している彼にとって、彼女の身体を気遣うのは当然のことだ。「いいじゃない、少し飲んだくらい。今日は蘭が落ち込んでたから、付き合ってあげたの。それに、二人とも量はそんなに飲んでないし……まだ婚約もしてないのに、もうこんなに束縛するつもり?」紫音は不服そうに唇を尖らせ、腕の中でぶつぶつと文句をこぼした。アルコールのせいか、透き通るような白い肌がほんのりと桜色に染まっている。熟れた果実のように艶めかしく、思わず口付けたくなるような熱を帯びていた。その無防備な顔を見下ろす律の心臓が、制御不能なほど激しく高鳴り始める。寝室へ着き、紫音をベッドの上にふわりと降ろす。そのまま離れることなく、律は彼女の上に覆い被さるようにして顔を近づけた。絡み合う視線に、甘く重い熱が宿る。同じ屋根の下で暮らすようになってから、これほど至近距離で、これほど濃密な空気を共有したのは初めてだった。今夜こんなことになるなんて、紫音に心の準備などできていなかった。なのにどうしてか、彼を求める自分自身の衝動をどうすることもできなかった。不意に、熱を孕んだ律の唇が落ちてきた。貪るような深い口付けとともに、その体温ごと彼女をシ
Read more

第165話

蘭には休む権利がある。スタジオの設立当初から、彼女は不平不満一つ漏らさず、寝食を忘れて支え続けてくれたのだから。リビングへ出ると、松田がすでに酔い覚ましのスープを用意して待っていた。「紫音様、おはようございます。律様から、今日は必ずこれを飲んでいただくようにと仰せつかっております。昨夜はだいぶ召し上がったようで……お加減はいかがですか?」松田はそう言って、湯気の立つ器を差し出した。「昔から、律様がお酒を飲みすぎた翌朝にはこれをお出ししていたんですよ。まるで魔法の薬みたいによく効くって、いつも褒めてくださるんです」促されるままスープに向き合うが、紫音に食欲はなかった。二日酔い特有の吐き気がこみ上げ、喉を通らない。……もう二度とお酒なんて飲まない。心の中で猛省し、固く誓う。だが昨日、あんなに必死だった蘭の姿を思い出すと、胸が締め付けられた。長い間ずっと一人の人を想い、尽くし、それなのに報われない。若い女の子にとって、これほど残酷なことが他にあるだろうか。家柄や立場の隔たりが生む「引け目」は、どうしても彼女の自信を奪ってしまう。その苦しみも、紫音には痛いほど理解できた。渋々ながら松田のスープを飲み干すと、嘘のように胃のむかつきが治まり、頭の芯に残っていた重さがみるみるうちに消えていくのが分かった。なるほど、魔法の薬とは言い得て妙だ。「松田さん、ありがとう。すごく楽になったわ」「とんでもございません。私の仕事ですから。……ただし紫音様、律様からは『今日はまだ本調子ではないから、一日中家から出さないように』ときつく申し付かっておりまして」松田は困り顔でため息をついた。いくら雇い主の命とはいえ、松田に紫音の行動を縛る権限などない。彼女を引き留めるなんて至難の業だ。「松田さん、律だって無茶を言うわよね。ごめんなさい、私どうしても今日行かなきゃいけないのよ。大切な仕事もあるし、蘭が休みだからスタジオを空っぽにはできないの。朝食を食べたらすぐに出るわね」「でも……律様にお叱りを受けてしまいます」松田の顔に不安の色が濃くなる。彼女にとって、こんな板挟みはどんな家事よりも気が重かった。「そこは心配しないで。私がちゃんと説明しておくから、松田さんが叱られることは絶対にないわ」紫音は気の毒になり、きっぱりと請け負った。手早く
Read more

第166話

「律!」紫音の声が硬くなった。仕事を蔑ろにされるような発言だけは、どうしても聞き流せなかった。彼女はこの仕事に誇りを持っているし、自分の才能を最大限に発揮したいと本気で思っている。彼女の向上心を削ぐ権利は、たとえ律であろうと誰にもないのだ。現在進行中の特許プロジェクトは軌道に乗っており、すでにいくつもの新規アイデアの構想に入りかけている。これからもっと高く飛べるという手応えがあった。「……分かった。君の仕事は全面的に支持させてもらうよ。だが、もし少しでも体調に違和感を覚えたら、絶対に無理をせずすぐに帰ること。仕事は逃げないが、君の代わりはどこにもいないんだ」律が譲歩するように大きく息をつくのが聞こえた。「それと……昨日は遅かったからあえて言わなかったが、一つだけ私と約束してほしい。今後、外では二度とあんな飲み方をしないでくれ。元々お酒に弱い君が、外で正体をなくすまで飲むなんて危なすぎる。昨日は私が手配した運転手がついていたからよかったものの、もし誰も君を守れる状況でなかったらと考えると……私は生きた心地がしなかったよ」結局のところ、彼は愛する女性を傷一つつけずに両手で包み込んで守りたいだけなのだ。「……はいはい。分かったわ。じゃあ、運転中だから切るわね」通話ボタンを押し、紫音は小さく息を吐いた。最近の律、なんだか口うるさくなったわね……昔は極端に無口で、他人に興味すらないような冷たい男だったはずなのに。だが、その小言の裏にある不器用な優しさがじんわりと胸に染みて、自然と笑みがこぼれた。スタジオに到着すると、紫音はすぐに気持ちを切り替えた。二日酔いのダルさはまだ残っているが、そんなことに構っている暇はない。次の特許プランの準備は、もう何一つ待ったなしの状況なのだから。夜。仕事を終えた紫音が帰宅すると、リビングにはすでに律の姿があった。 いつもなら、まだオフィスにこもって仕事と格闘している時間だ。「今日は帰りが早いのね。いつもなら、まだ残業してる時間じゃない?」「君に大事な話があってね。今日は早めに切り上げてきたんだ」大事な話?紫音はきょとんとして彼を見つめた。「婚約の日取りだよ。母親同士で、もう決めたらしい」律は真っ直ぐに彼女の目を見た。「色々とトラブルが続いたけど、今はもう状況も落ち着いている。だか
Read more

第167話

今すぐにでも紫音と家族になりたい。誰の目にも明らかな堂々とした立場で彼女を抱きしめ、守り抜き、一生をかけて大切にしたい。それが彼のすべてだった。彼にそこまで言われてしまえば、紫音はもう頷くしかなかった。彼自身がそこまで強い決意を抱き、両家も祝福してくれている。これ以上、ためらう理由なんてどこにもない。律と一緒にいて、後悔したことは一度もなかった。初めは、ただの親同士の取り決めだと思っていた。一度手酷い失恋を経験し、恋愛なんてどうでもよくなっていた時期だったからだ。だが――今は違う。この人は、一生を託すに足る人だ。いつの間にか彼を心の拠り所にし、特別な感情を抱き始めている自分がいる。それはとても静かで穏やかな感情で、自分がすでにこの男を深く愛してしまっていることに、紫音自身でさえ気づいていないほどだった。それでも、この先もずっと彼と共に生きていきたい。どんな時でも彼の力になりたいと、心の底から願っている。「紫音、聞いてほしい」律は真剣な眼差しで、彼女をまっすぐに見つめた。「私が選んだのは君だ。何があっても、最後まで君を守り抜く。これから先、どんなトラブルが起きても、絶対に一番に私を頼ってくれ。私の持てるすべての力を懸けて、君を守るから」そして、彼は少しだけ声のトーンを落とした。「私のほうには、まだクリアすべき問題がある。文香のことだ……もちろん、私も逃げるつもりはない。彼女は今、一生懸命リハビリをしている。もし奇跡が起きて、再び自分の足で歩けるようになれば、私も過去の重荷から完全に解放されるはずだ」律はどうしても、そのことだけは誤魔化さずに伝えておきたかった。これから夫婦として家庭を築いていくのだ。別の女性の存在を曖昧にしたままではいけない。すべてを包み隠さず話し、懸念を払拭することこそが、彼女に心からの安心感を与える唯一の方法だと信じていたからだ。「……ええ、わかってる」胸の奥が温かくなり、紫音は静かに微笑んだ。全力で守る。それは、かつての婚約者だった清也からは、一度ももらったことのない約束であり、決して聞くことのできなかった言葉だった。「婚約の準備だけど、君が気を揉む必要はないよ。私たちの母親が、二人で張り切って進めてくれているから。母さんたちは本当に楽しそうに準備をしていてね。会場から内装まで、もうほとんど決め
Read more

第168話

受話器の向こうから聞こえてくる縋るような声に、律は思わず眉間を押さえた。リハビリが始まってまだ一週間も経っていない。これから訓練の強度はどんどん上がっていくというのに、早くもこれでは先が思いやられた。だが、ここで突き放すわけにもいかない。律は溜息を飲み込み、彼女を宥める言葉を絞り出した。ここで投げ出されてしまえば、完治までの道のりがさらに遠のくだけなのだから。「顔を出してあげたら?文香さん、今までそんなにハードなトレーニングなんてしたことないんでしょうし、辛いのは当然だと思うわ」紫音はそう言って律を促した。その痛みは想像に難くない。文香が律を呼びつけるために大袈裟に振る舞っていることも、彼の気を引きたい一心であることも、紫音には痛いほど分かっていた。その執着心には正直言って寒気がするし、あまりの身勝手さに呆れてしまう。けれど、律にとって文香は恩人なのだ。その負い目がある以上、無下にはできない。この腐れ縁から完全に逃れる術は、今の二人にはなかった。「律くん、聞いて!あの人たち、本当にひどいの。毎日無理なことばかり言ってくるし、私がどれだけ泣いて嫌がっても全然無視するのよ。声を出すのも禁止なんて信じられない。あんなに痛いのに、ちょっと叫んだっていいじゃない!」文香の怒りはピークに達していた。今回は決して大袈裟に言っているわけではない。死ぬほどの苦痛が毎日続くリハビリは、彼女にとって地獄そのものだった。もう一秒だって続けたくない。明日からは絶対に来たくない。そんな思いとは裏腹に、毎日決まった時間に迎えが来て、無理やりセンターへと連行される。高級なプライベート施設なら、もっと自分をお客様扱いして優しくしてくれると思っていた。だが現実は違った。スタッフは、彼女を甘やかすどころか容赦なく追い込んでくる。もともと他人に指図されることなど大嫌いな性分だ。ましてや、敬意すら感じられない専門職たちの態度が許せない。反発心ばかりが募り、この数日間の訓練は何の成果も得られないまま、ただ時間だけが過ぎていた。「今すぐ行くから、どこにも行かずにそこで待っててくれ」本当はもう放っておきたかった。だが、ここで突き放せば文香はさらに騒ぎ立てるだろうし、結局は病院から連絡が来る羽目になる。なら、今すぐ行ってその場で丸く収めた方が、後々面倒にならずに済
Read more

第169話

嫌な顔ひとつせず、紫音は文香の立場になって庇いさえした。同じ女性同士、むやみにいがみ合う必要はない。それに、身近な人間のリハビリの過酷さを目の当たりにした経験から、それが常人には耐え難い苦痛を伴うものだと知っているのだ。だからこそ、理不尽に騒ぎ立てる文香の状況に、多少なりとも純粋な同情を感じていた。「ああ、ゆっくり休んで。いつ戻れるかわからないから、待たなくていいよ」いつ帰宅できるか見通しが立たない。律は、紫音をこれ以上拘束したくなかった。独り残していく罪悪感を振り切り、車を飛ばしてリハビリセンターへ向かう。到着するなり、センター内には異様な空気が漂っていた。廊下にまで、何かが砕ける乾いた音が響いている。部屋の中では、文香が荒れ狂い、スタッフに怒声を浴びせていた。八つ当たりされるスタッフたちは、すっかり怯えきっている。視線を合わせることもできず、ただ縮こまって耐える彼らにとっては、一刻も早く逃げ出したい地獄だったに違いない。だが、律が姿を見せた瞬間、般若のようだった文香の表情は一変した。脆く崩れ、見る間に大きな涙が瞳から溢れ出す。「律くん……!やっと来てくれた。待っていたのよ。どれだけ心細かったか……見て、私、もうボロボロなの。これ以上は無理よ。お願い、私を家に連れて帰って。今すぐここを出たいのに、誰も帰らせてくれないの!」彼女は律の腕に縋りつき、泣きじゃくった。「こんな時間に連絡して、迷惑だってわかってる。でも、もう限界なの……お願い、律くん。一生車椅子のままで構わない。こんな思いをするくらいなら、一生歩けなくてもいいから……!」子供のように声を上げて泣く文香。律はズキズキと痛む頭を押さえ、言葉を失った。ここで甘やかせば、今までの苦労が水の泡になる。彼女のためを思えば、突き放してでもリハビリを続けさせるべきなのだが、目の前の惨状にため息を飲み込むしかなかった。「文香、来る途中で主治医と話したんだ。この激しい痛みは最初だけだって。しばらく耐えればメニューも変わるし、体が慣れてくれば随分と楽になるはずだ」律は暴れる彼女をなだめようと、できる限り穏やかな声を出した。「辛いのは分かっている。代われるものなら、私が君の代わりに痛みを引き受けてやりたい。でも、こればかりは君自身が乗り越えるしかないんだ」逃げ出そう
Read more

第170話

「文香、君はもう二度と自分の足で歩きたくないのか?君はまだ若い。これからの人生はずっと長いんだ。君にはもっと素晴らしい未来を掴む権利がある。だからこそ、私も諦めたくない」律の口調はさらに優しく、熱を帯びた。「国内外のトップクラスの専門医と、世界最高の医療技術を集めたんだ。必ずまた歩けるようになる。私を信じて、もう一度だけ自分自身にチャンスを与えてくれないか」パニックに陥っている彼女を落ち着かせるため、言葉の隅々にまで労りと励ましを込めた。普段の彼なら、ここまで駄々をこねる相手に付き合い続けることはない。だが、一度乗り掛かったからには最後までやり遂げたい。ここで彼女を見捨てることだけは、どうしてもできなかった。「でも律くん、これがどれだけ苦しいか分からないでしょう!私だって精一杯やってるわ。無理にでも頑張りたいの。律くんのために……頑張れば喜んでもらえるし、もっと一緒にいてくれるかもしれない。本当にそうしたいのよ。でも……もう限界なの……っ」文香は堰を切ったように激しく泣き崩れた。そこには微塵の演技もなく、心の底からの悲痛な叫びを上げていた。「……今日はここまでにしよう。家に帰ってゆっくり休んで」律は静かになだめるように言った。「送っていくよ」「明日また来るかどうかは、今夜ゆっくり考えればいい。以前のような生活を取り戻したいなら、耐え抜くしかないんだ。時間はかかるかもしれないが、必ず報われる。流した汗や涙は、絶対に無駄にはならないから」今の精神状態では、とてもリハビリを続けられるとは思えなかった。ひとまず連れ帰るのが最善だろう。どんなことであれ、簡単に諦めるべきではない。律はそう信じていた。「律くん、それなら……家まで送って、ずっとそばにいてくれるの?」文香は縋りつくように見上げた。「ずっと痛くて、もう何日もまともに眠れてないの。お願い、今夜は泊まっていって……」その目には、切実な願いと強い執着が滲んでいた。彼を家に引き留める絶好のチャンスだと踏んだのだ。だが、律はすぐには頷かなかった。「まずは帰ろう」ただ淡々と短い言葉を返す。外には運転手が車を回して待っていた。律は文香を伴ってセンターを出ると、そのまま彼女の家へと向かった。怪我をして以来、文香には一つの特権が与えられていた。律の専属運転手をいつでも自由に使
Read more
PREV
1
...
1516171819
...
44
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status