All Chapters of 義妹に溺れる彼を捨て、私は宿敵の妻となる: Chapter 41 - Chapter 50

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第41話

聞き慣れた低い声。ぶっきらぼうだが、そこには確かな肉親の情がある。紫音はホッと胸を撫で下ろしたが、同時に目を丸くした。「えっ、もう着いたの?仕事が山積みだって言ってたじゃない。もしかして私のために無理して片付けてきたの?」「……」「本当にお兄ちゃんったら。こっちは一人でもなんとかなるって言ったでしょ。自分の仕事を優先してくれてよかったのに。忙しいなら、落ち着いてから来てくれれば……」「おいおい、自意識過剰もいい加減にしろよ」州は鼻で笑い、いつもの軽口で返してきた。「お前だけのためになんか来るわけないだろ。たまたまそっちの方で野暮用があったんだよ。そのついでに顔を見てやろうって話だ。暇ならさっさと迎えに来い」「はいはい、分かりましたよ。すぐ行く」まったく、州のツンデレぶりには呆れると通り越して愛しさすら感じる。彼の人柄や性格を知り尽くしていなければ、本気で不貞腐れていたかもしれない。けれど紫音は知っている。あの兄が「ついで」などと口にするのは、照れ隠しでしかないことを。素直に喜べばいいのだ。紫音は手早く身支度を整え、お気に入りの服に着替えると、颯爽と部屋を出て愛車のキーを手に取った。まさか、その空港で予期せぬ再会が待ち受けているとも知らずに。時を同じくして、空港の出発ロビーに清也の姿があった。「お兄ちゃん……わたし、絶対寂しくて死んじゃう」芙花が涙ぐみながら清也を見上げる。今日は彼女の海外出張の日だ。たった二日間の離別だが、その表情は今生の別れのように悲壮だ。もちろん、芙花の不安の本質は寂しさではない。「あの女」が不在を突いて清也に近づき、復縁を迫るのではないかという懸念だ。そんな隙なんて、一ミリたりとも与えるわけにはいかない。「分かってるよ。心配するな、たったの二日だろ?俺も寂しいけど我慢する。向こうに着いたら、いつでも電話してこい」「本当?お兄ちゃんの仕事の邪魔にならないかな……?」「馬鹿だな。お前は俺の人生で一番大切な女性だぞ?邪魔なわけないだろう」清也の甘い言葉に、芙花の大きな瞳が潤む。その可憐さに、清也の心はとろけそうになった。「よかった……!それなら安心してお仕事に行ける。行ってきます、お兄ちゃん!」「ああ、気をつけてな」芙花が何度も振り返りながらゲートへと向かうのを、清也は優しく見送
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第42話

「おい紫音!そういうことかよ!」清也は二人の前に立ちはだかり、唾を飛ばさんばかりの勢いで怒鳴りつけた。「最近やけに強気だと思ったら……とっくに次の乗り換え先を見つけていたってわけか!俺への未練じゃなくて、ただの浮気だったのかよ!」怒りとショックがない交ぜになったその表情を見て、紫音は口の端を冷ややかに吊り上げた。滑稽だわ、と心底思う。七年。七年も付き合っていて、彼は私に兄がいることさえ知らないのだ。かつて彼のために家を捨て、家族と縁を切った時、彼は私のことを「平凡な家庭の、身寄りのない女」だと思い込んだ。そして今日に至るまで、私の生い立ちを知ろうともしなかったし、私の家族に歩み寄ろうとする努力さえしなかった。今さらになって気づく。彼は「私」という人間に、最初から何の興味もなかったのだと。隣にいる州は、キャップのつばの下から氷のような眼差しで目の前の男を見下ろしている。運命のいたずらか、飛行機を降りて早々、一番会いたかった「例のクズ男」に遭遇できるとは。「それが何か?」紫音はわざとらしく州の腕にギュッとしがみつき、挑発的な笑みを浮かべて言い放った。「だから何?あなただって、もうすぐ結婚するんでしょう?どの口が私を責めているのかしら」言葉と同時に、紫音はあてつけのように州の腕に身を寄せ、恋人同士のような親密さを演出してみせた。その挑発に、清也の理性が音を立てて崩れ去った。怒りで全身が小刻みに震え、両の拳は爪が食い込むほど強く握りしめられている。額や腕には青筋が浮き上がり、今すぐにでも目の前の男の涼しい顔を殴り飛ばしてやりたい衝動が暴れ出そうだった。「俺に隠れてコソコソ男を漁ってやがったのか……この尻軽女が!恥を知れよ!」羞恥と激昂で頭に血が上り、清也の口からは聞くに堪えない罵倒が次々と飛び出した。だが、顔を真っ赤にして喚き散らす元婚約者の姿を、紫音はただ冷ややかに見つめ、心の中で嗤っていた。そして州に至っては、まるで道端で騒ぐ哀れなピエロのパントマイムでも鑑賞するかのような、絶対零度の眼差しで彼を見下ろしているだけだった。「あ、そうか……分かったよ、紫音」ふいに、清也が納得したように呟いた。「お前、俺が今日ここに来るって知ってたんだな?芙花を見送りに行くタイミングを狙って、わざと男連れで現れた。そうやって俺の気を引
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第43話

「あ?こいつは俺の彼女だ。関係ないわけないだろ?」州は平然と言い放った。そして、握り潰さんばかりに力を込め、最後はゴミを捨てるかのように突き放した。「警告しておく。二度とこいつに近づくな。もし付きまとうような真似をすれば、見つけ次第叩き潰す!」淡々とした口調だが、そこには有無を言わせぬ絶対的な力が宿っていた。反動でよろけ、尻もち寸前で踏みとどまった清也が顔を上げた時には、二人の背中はすでに遠ざかっていた。「くそっ、覚えてろよ!」清也は屈辱に震え、去っていく二人を睨みつけることしかできなかった。悔しさと怒りが煮え繰り返るが、あの男の放つ圧倒的なオーラに気圧され、追いかける足が出なかったのだ。「まったく、俺の可愛い妹はどうしちまったんだ?あんな男に惚れるなんて、随分とセンスが落ちたんじゃないか?」人混みを抜けたところで、州が呆れたようにため息をついた。その言葉に、紫音は苦い顔をする。「お兄ちゃん、もうやめて。自分でも重々、反省してるんだから……」「はは、冗談だ」州は小さく笑った後、ふと真面目な顔をして立ち止まった。その瞳には、深い哀れみと後悔の色が滲んでいた。「悪かったな、紫音。俺がもっと早くお前のことを見てやっていれば、こんな辛い思いをさせずに済んだのに。遅くなってごめんな」「何言ってるの……私が勝手に意地を張ってただけじゃない。お兄ちゃんのせいじゃないわ」家族の温かさが心に沁みる。そばにいてくれるだけで、これほど心強いなんて。その時、バッグの中でスマートフォンが短く振動した。【君とお兄さんのためにレストランを予約しておいた。そのまま向かってくれ】メッセージの下には、高級店の地図情報が添付されていた。紫音はぎょっとする。このタイミングで?まさか本当に監視されているのでは?【もしかして、私を尾行してる?】【婚約者を気にかけるのは、夫となる者の義務だよ】律からの返信はあまりに堂々としていて、紫音は思わず脱力してしまった。義務、か。本当にこの人は、どこまでも「完璧な婚約者」を演じようとする。けれど不思議と嫌な気はしない。むしろ、口元が自然と緩んでしまう。【ありがとう】短く返すと、隣から州がニヤリと覗き込んできた。「おやおや、誰とそんな楽しそうにやり取りしてるんだ?新しい男か?」「な、何言ってるの!違
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第44話

清也は慌てて声をかけた。時計を見れば、彼女は現地に到着したばかりの時間だ。一体何があったというのか。今日は芙花の卒業式のはずだ。晴れやかな式を終え、学位記を手にして帰ってくる予定だった。「お兄ちゃん、今学校に着いたんだけど……ううっ、わたしが提出した研究成果に不正があるって……卒業できないって言われたの!それだけじゃない、今回の件が記録に残ったら、もう二度とアカデミックな世界にいられなくなるかもって……うわあん!」芙花は子供のように泣きじゃくり、言葉にならない嗚咽を漏らした。彼女はこの数年、清也の庇護のもとで何不自由なく過ごしてきた。彼女が学位を取るために必要だった実績も、清也が段取りを整えてやったものだ。それが今、卒業目前にして全て水の泡になろうとしている。「なんだって……?」清也はその場に立ち尽くした。芙花のこれまでの努力が、一瞬にして否定されたのだ。「どういうことだ、学校側は具体的に何と言ってきた?……いいか芙花、泣くな。俺がついている。どんなことがあっても、俺が必ず何とかしてやるから」清也は焦燥を隠し、努めて優しい声で諭した。内心は冷や汗でどうにかなりそうだった。手はずは完璧に整えていたはずだ。なぜ、この土壇場になって綻びが出たのか?「わかんない……ただ不正の疑いがあるからって……詳しく聞こうとしたら追い出されちゃったの。わたし、どうしたらいいの……怖いよ、お兄ちゃん」芙花の泣き声は悲痛を極めていた。彼女にとって学位はステータスであり、清也の庇護を受け続けるための免罪符でもある。ここでコケるわけにはいかないのだ。「分かった、とにかく落ち着け。今すぐ帰りのチケットを手配させてやる。詳しいことはこっちで調べるから、まずは帰ってくるんだ」清也は必死に声をかけ続けた。不安に震える芙花を今すぐ抱きしめてやりたい衝動に駆られるが、海を隔てた今、言葉で支えることしかできないのがもどかしい。通話を終えるや否や、清也は即座に部下に指示を飛ばした。「原因を調査しろ、大至急だ!」だが、調べるまでもなく見当はついていた。――紫音だ。あの女が特許の一件を学校側に密告したに違いない。もしそうなら絶対に許さない。今まで黙って従っていたくせに、俺たちを陥れるためだけにこんな姑息な真似をするとは。ここ最近の紫音の行動は目に余る。
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第45話

「……分かった。じゃあ、今から行きましょ」紫音は頷いた。彼女自身、一刻も早くこの泥沼から抜け出したいという思いは同じだった。二人が会社に到着し、紫音のオフィスに入った直後のことだ。待ち伏せていた清也が、狂犬のような形相で現れた。彼はノックもせずにドアを蹴破り、土足で踏み込んできた。「おい紫音!てめぇ、ふざけるなよ!」「……頭でも湧いたの?今度は何の発作よ」紫音は眉一つ動かさず、冷ややかな視線を浴びせる。だが清也の興奮は収まらない。「とぼけるな!俺に不満があるなら俺に言えばいいだろ!裏でコソコソ手を回して、芙花の学位を取り消させるとはどういう了見だ!」「ここまで陰湿な女だったとはな……お前みたいな性悪女を選んだ過去の自分が情けねぇよ!」清也の両目は怒りで血走り、全身をわななかせて怒号を飛ばす。その瞳には、かつて愛した女性への憎悪が煮えたぎっていた。しかし、そんな彼の激情を前にしても、紫音はただ愉快そうに口元を綻ばせただけだった。「あら、ようやく気づいたの?人の物を盗んで学位を取ろうだなんて、随分と虫のいい話じゃない。てっきりもっと早くバレてると思ってたけど……ふふ、あなたって本当に芙花ちゃんのこと、ちゃんと見てるのかしら?」紫音は痛快極まりないという表情で、嘲笑混じりに言い返した。因果応報とはまさにこのことだ。清也は紫音のその態度が許せなかった。他人の不幸をあざ笑うかのような冷徹さが、さらに火に油を注ぐ。「いい加減にしろ!これ以上ふざけたことを抜かすなら俺にも考えがあるぞ。……だが、今すぐ学校に連絡して『誤解だった』と訂正し、芙花に土下座して謝るなら、今回の件は不問にしてやってもいい」上から目線の提案に、紫音は鼻で笑った。「自業自得って言葉、知らないの?人の成果を盗んだ報いを受けただけよ。誰のせいでもないわ」「お前……どこまで心が腐ってやがるんだ!俺たちを破滅させてそんなに楽しいか!」清也は喚き散らす。彼の論理では、全ては紫音が自分への「かまってちゃん」アピールのために引き起こした暴挙ということになっていた。「俺に振り向いてほしいからって、やっていいことと悪いことがあるだろうが!こんな非道な真似をして、自分の心が痛まないのか?芙花はお前のことを気遣って、俺に何度もとりなしてくれてたんだぞ。あいつの優しさが分からな
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第46話

清也は床に這いつくばり、苦痛に呻くしかなかった。あまりにも一方的な蹂躙だった。州は冷ややかな目で見下ろす。ようやくこのクズ男を制裁する機会を得たが、これだけ殴ってもまだ足りないくらいだ。可愛い妹が受けた心の傷に比べれば、こんな肉体的な痛みなど蚊に刺された程度のものでしかない。「まだやるか?」州の声は氷のように冷たかった。「いや……もう、やめてくれ……っ」「……」「頼む……離してくれ……!」ついに清也の口から悲鳴じみた懇願が漏れた。これ以上やられたら、本当に殺されるかもしれない――そんな恐怖がプライドをへし折ったのだ。州は鼻を鳴らすと、拘束を解いて立ち上がり、乱れたネクタイを直した。「失せろ。二度と俺たちの前にツラ見せるな」解放された清也は這うようにして起き上がると、よろめきながら出口へと向かった。その姿はあまりにも無様で、惨めだった。彼は一度も振り返ることなく、逃げるようにオフィスから姿を消した。再びあの鉄拳が飛んでくるのを恐れたのだろう。嵐が去った後の静寂の中、紫音はドアが閉まるのを見つめながら、複雑な光を瞳に宿していた。かつて、このオフィスで二人きりで夢を語り合った夜があった。起業したばかりの頃、何もないこの部屋で、彼は言ったのだ。『いつかこのオフィスをもっと大きくして、二人で幸せになろう』と。あれから数年。夢見ていた未来は、こんなにも醜い結末を迎えた。兄に叩きのめされ、無様に逃げ帰るかつての恋人の姿を見ても、胸がすくような快感はなかった。ただ、乾いた虚しさだけが残る。なんて滑稽な茶番だろう。そして、あんな男を信じて青春を捧げてしまった自分が、何よりも愚かで、哀れに思えた。紫音のオフィスを逃げるように飛び出した清也は、一目散に車へと駆け込んだ。背後からあの男――州が追いかけてくるのではないかという恐怖に、冷や汗が背筋を伝う。運転席に滑り込み、震える手でドアをロックする。安全を確保した途端、今度は抑えきれない怒りが湧き上がってきた。彼はスマホをひったくり、部下への短縮ダイヤルを押し込んだ。「おい!例の男の身元調査はどうなってる!まだ分からないのか!」スピーカーの向こうから、恐縮した部下の声が聞こえる。「も、申し訳ありません社長、現在全力で……」「この役立たず共が!たかが生身の人間一人の素性を探るの
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第47話

芙花の嗚咽はますます激しくなり、ロビー中に響き渡るほどだった。だが、その哀れな泣き声とは裏腹に、彼女の腹の底ではドス黒い憎悪が渦巻いていた。あの売女アマ……よくもこんな手を使ってくれたわね。わたしをここまで追い詰めるなんて。わたしの人生を台無しにする気なら、そっちだってタダじゃおかない。道連れにしてやる――彼女の涙の裏には、そんな昏い決意が潜んでいた。清也はそんな彼女の本性など知る由もなく、ただただ胸を痛めていた。「芙花、違うんだ。あいつがこんなことをするのは、全部俺への復讐なんだ。俺のせいだ、すまない」彼は愛おしそうに彼女を抱きすくめ、赤子をあやすように背中をトントンと叩く。「たとえ学位が取れなくても、一生俺が面倒を見てやる。だから心配するな、な?」その声はどこまでも優しく、甘やかだった。しかし、芙花は首を横に振る。「でも……お兄ちゃんも知ってるでしょ?わたしがどれだけあの学位を欲しかったか。紫音さんの特許を使ったのは悪かったと思ってる。でも、あの時はそうするしかなかったじゃない」その言葉は、鋭い棘となって清也の心臓を刺した。そう、元はと言えば、紫音の研究成果を盗んで使うよう勧めたのは清也自身だったのだ。「バレやしない」と高を括り、彼女を共犯にしたのは自分だ。つまり、芙花が今こうして泣いている元凶は、すべて自分にある。清也の罪悪感は頂点に達していた。その時、清也のポケットで再びスマホが鳴った。部下からの着信だ。彼は芙花を抱き寄せたまま、電話に出る。「……なんだ」受話器の向こうから、焦り切った部下の声が飛び込んできた。「しゃ、社長!大変です。たっき合意したはずの高橋社長から連絡がありまして……契約を白紙に戻すと。他社と組むことに決めたそうです」「なんだと!?」「それだけじゃありません。今日、大原さんの秘書とランチをしたんですが、言葉の端々から「今回のプロジェクトの継続は難しい」と匂わされまして……どうやら、うちから手を引くつもりのようで……」二人の関係に亀裂が入ってからというもの、雪崩を打つようにいくつもの企業が契約を拒んできていた。「これで何度目だ……!」清也の精神は崩壊寸前だった。紫音のやつ、本気で俺を破滅させる気か。逃げ場のない崖っぷちまで追い詰めるつもりなのか。「すぐに調べろ!裏で何が起きている
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第48話

芙花はそう言うと、わざとらしく体を預け、彼の温もりにすがるようにぴったりと寄り添った。か弱く震える身体で、けなげな愛情を演出しようとしたのだ。しかし、清也は無意識のうちにすっと身を引き、彼女との間に微妙な距離を作った。その瞬間、芙花の胸奥がずきりと痛んだ。と同時に、瞳の奥に冷たい刃のような光が走る。……あの女にあれだけ酷い仕打ちをされても、まだ心の底から切り捨てられないの?本当にお兄ちゃんの心に、わたしの居場所はあるのだろうか。疑念が黒い染みのように広がっていく。その後、二人は空港を後にし、清也の別荘へと戻った。静まり返った部屋で、芙花の頭の中にある計画が浮かんだ。何も自分の手を汚す必要はない。わたしが一言囁けば、代わりに牙を剥いてくれる人間がいるじゃないか。翌朝。紫音は一人でオフィスに出勤していた。昨夜は遠路はるばる駆けつけてくれた兄の州が、散々暴れ回った清也の始末やら何やらで奔走してくれたおかげで、二人とも寝るのが遅くなってしまったのだ。「お兄ちゃんはゆっくり休んでて」と書き置きをして、紫音は一足先に家を出た。今日は、西園寺グループの社長とのアポイントメントも控えている。オフィスの雑務を片付けたら一度戻り、兄を拾って一緒に向かう予定だ。ビルのエントランスに差し掛かった時だった。前方から、鬼のような形相をした中年の女が、紫音めがけて大股で突進してきた。「紫音ッ!」清也の母、佳代子だ。彼女は紫音の姿を認めるなり、挨拶もなしに平手を振り上げた。風を切る音が聞こえるほどの強烈な一撃。だが、紫音は冷静だった。瞬時に上体をそらしてその手をかわすと、空を切った佳代子の手首をガシリと掴み、強く捻り上げる。「……公衆の面前ですよ。見苦しい真似はやめていただけませんか」紫音は冷ややかな視線で佳代子を見据えた。「清也の会社が倒産寸前とはいえ、まだ一応は社長の母親でしょう?少しは体面というものを気にされたらどうですか」考えるまでもない。どうせまた芙花が何かあることないこと吹き込んだのだろう。今さら驚きもしない。この親子のヒステリーには、もう慣れっこだった。「紫音!この恥知らずが!あんたの性根はどこまで腐ってるんだ!」佳代子は手首を振りほどこうと藻掻きながら、唾を飛ばして喚き散らした。「あんなに良くしてやった清也
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第49話

「お母様!朝起きたらいないから、もしやと思って……やっぱりここだったのね!」芙花は慌てた様子で佳代子の腕にしがみつき、あえぐように言葉を継いだ。「ダメですよ、お母様!この前入院したばかりなのに、こんなところで興奮したら身体に障ります!みんな心配してるんですから……」彼女は紫音をチラリと見てから、さも心を痛めているという風に佳代子を諭す。「お兄ちゃんも言ってたじゃないですか。『俺が必ず解決するから』って。紫音さんとお兄ちゃんは、ちょっと痴話喧嘩してるだけなんです。だから、お母様が間に入って怒ったりしないで、ね?」さも健気で、家族の調和を願う良い娘を演じる芙花。その声音は砂糖菓子のように甘く、慈愛に満ちていた。目の前で繰り広げられる茶番劇を、紫音は能面のような無表情で見つめていた。……『朝起きたら』、ですって?その言葉が意味するところは明白だ。芙花はもう、清也の別荘に入り浸っているのか。それとも同棲でも始めたのだろうか。別れてからまだ日も浅いというのに、ずいぶんと手が早いことだ。紫音の胸中に湧いたのは嫉妬ではなく、ただただ乾いた嘲笑だった。「芙花ちゃん、止めないでおくれ!私はね、今日ここで野垂れ死んだって構わないんだよ!この女に一矢報いるまでは帰れない!」佳代子は芙花の手を握りしめ、悲劇のヒロインのように嘆いてみせた。「あれだけ良くしてやったのに、この仕打ちはなんだい?あっちこそ、娘のように可愛がってやった恩なんてひとかけらも感じちゃいないんだよ!」確かに、かつては良好な関係だった時期もあった。だからこそ紫音は、これまで佳代子が会社に怒鳴り込んできても、ガードマンに追い出させるような手荒な真似は避けてきたのだ。多少のヒステリーには目をつぶり、大人しく嵐が過ぎ去るのを待っていた。だが、それも限界だ。この親子は付け上がる一方で、こちらの配慮など弱腰としか受け取らない。何より、これは紫音と清也、当人同士の問題だ。第三者が――それも感情論だけで喚き散らす母親が首を突っ込んでくるのは、不愉快極まりなかった。「紫音さん、お願いだから……」芙花が涙目で紫音に訴えかける。「お母様が退院されたばかりだって知ってるでしょ?年配の方相手に、どうしてそんなにムキになるの?昔はあんなに可愛がってもらったじゃない。少しは労ってあげられない?」彼女
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第50話

州の手助けもあり、紫音の撤退準備はほぼ完了していた。佳代子がここでどれだけ喚こうが、紫音の業務には何の支障もないのだ。「なっ……!逃げる気かい!?」佳代子は顔を茹で蛸のように真っ赤にし、歯ぎしりした。「だったら、あんたの家に押しかけてやる!朝も夜も喚いてやるからね!こっちだって破滅するなら道連れだ!」紫音は口元に薄い笑みを浮かべた。そんな脅しが通用するとでも?「……どうぞ。お好きなように」彼女は吐き捨て、踵を返して歩き出した。その瞬間、佳代子が前方へ躍り出て、行く手を塞いだ。「待ちな!この恥知らずが!金を払うと言わない限り、一歩もここからは出さな……う、ううっ……!」怒号の途中で、佳代子は突然胸元を強く押さえ、苦悶の表情を浮かべた。ヒュー、ヒューと喉を鳴らし、苦しげに顔を歪める。すかさず芙花が駆け寄った。「お母様!?どうしました?心臓ですか!?」彼女は佳代子を支えながら、ここぞとばかりに紫音を睨みつけた。「紫音さん!いい加減にして!お母様の心臓が弱いの知ってるでしょ!?ここまで追い詰めて発作を起こさせて……殺す気なの!?」ずっとこの瞬間を待っていたと言わんばかりに、芙花はこれまでの猫かぶりをかなぐり捨て、居丈高に叫んだ。これで大義名分は立った――彼女の目には、勝ち誇ったような光が宿っていた。「私だって、できれば関わりたくないのよ。しつこく纏わりついて離さないのはそっちでしょう?」紫音は視線一つ動かさず、淡々と言い放った。以前の彼女なら、慌てて救急車を呼んだり、罪悪感に苛まれたりしたかもしれない。だが今の彼女の心には、さざ波ひとつ立たなかった。同情などという無駄な感情は、あの男との別れと共に捨て去ったのだ。彼女は苦しむ佳代子と、それを支えてわめき散らす芙花に見向きもせず、冷然と背を向けて立ち去った。この場所に、未練など欠片も残っていなかった。帰宅すると、ちょうど州も身支度を終えたところだった。二人は落ち合い、西園寺雅人との会食場所へと向かった。案内されたのは、落ち着いた雰囲気の個室レストラン。その扉を開けると、すでに雅人と、その弟の猛が到着して待っていた。「よう、州。久しぶりだな。こっちに戻ってきて数日経つらしいじゃないか。水臭いぞ、もっと早く顔出せよな」雅人は席を立つこともなく、気の置けない調子で軽
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