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2-6 声だけの夜

Auteur: 海野雫
last update Date de publication: 2026-01-08 19:00:16

 週末のデートから数日が経った。

 涼介と奏の関係は、まだ曖昧なままだった。告白し合い、手を繋ぎ、名前で呼び合うようにはなった。けれど、それ以上のことはしていない。キスも、体の関係も、まだだった。

 涼介はそれを焦ってはいなかった。奏との関係を、ゆっくりと築いていきたいと思っていた。

 けれど、体は正直だった。

 夜、壁の向こうから奏の声が聞こえてくると、涼介の体は熱くなった。彼は配信を聴きながら、何度も自分を慰めた。そのたびに罪悪感を覚えたが、止められなかった。奏の声は、涼介にとって最も強力な媚薬だった。

 そして、その夜が来た。

    *

 水曜日の夜。

 涼介は残業を終えて帰宅し、シャワーを浴びてベッドに横になった。深夜零時を過ぎている。奏の配信が始まる時間だ。

 涼介は壁に耳を当てた。

 しばらく待つと、奏の声が聞こえてきた。

「……今夜は、特別な配信をしようと思う」

 奏の声

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  • 壁越しの溺愛ボイス   四 永遠の誓い

     挙式の場所は、カナダのバンクーバーに決まった。 奏が調べたところ、バンクーバーは同性カップルに寛容な街で、美しい自然に囲まれた結婚式場もいくつもあるという。「ここ、どうかな」 奏がパソコンの画面を見せてきた。そこには、海に面したチャペルの写真が映っていた。白い壁と大きな窓があり、背後には山々が連なっている。「綺麗だな」「でしょ? 天気がいい日は、窓から夕日が見えるんだって」 涼介は画面を見つめながら、現実感のなさに戸惑っていた。 結婚式。 数か月前までは、考えたこともなかった。いや、考えることを避けていた。ゲイである自分には、そんな未来はないと思い込んでいた。 だが今は違う。 奏と出会い、愛し合い、共に暮らすようになった。だからこそ、その先に結婚という選択肢がある。「涼介、どうしたの? ぼーっとして」「いや……実感がなくてな」「何が?」「俺が結婚するってことが」 奏がくすりと笑った。「僕もだよ。でも、嬉しい」「ああ。俺も」 涼介は奏の手を取った。「お前と結婚できて、幸せだ」「まだしてないよ。これからでしょ」「そうだな。これから、だ」 二人は顔を見合わせて笑った。 挙式の日程は、三か月後に決まった。 涼介は会社に休暇を申請した。一週間の休みを取るのは、入社以来初めてのことだった。「カナダ旅行か。いいな」 山下が羨ましそうに言った。「ああ。リフレッシュしてくる」「奏さんと二人で?」「ああ」 山下がにやりと笑った。「いいねえ、新婚旅行みたいだな」 涼介は一瞬、言葉に詰まった。 旅行の目的は山下にも伝えていなかった。いずれ話すつもりだが、今はまだ二人だけの秘密にしておきたかった。

  • 壁越しの溺愛ボイス   三 涙の真実

     翌朝、涼介は激しい頭痛とともに目を覚ました。 隣を見ると、奏はいなかった。リビングから、何かを作っている音が聞こえる。 時計を見ると、すでに九時を過ぎていた。「しまった……」 涼介は飛び起きた。今日は平日だ。遅刻だ。 リビングに出ると、奏がキッチンに立っていた。「起きた?」 奏の声は、いつもより冷たかった。「すまない、寝坊した。会社に……」「会社には連絡しておいた。体調不良で休むって」「え?」「昨日、すごく酔って帰ってきたから。朝になっても起きなかったし、無理だと思って」 涼介は記憶を辿った。昨夜のことは、断片的にしか覚えていない。居酒屋で飲んだこと、そこからどうやって帰ってきたのかは曖昧だ。「……悪かった」「座って。おかゆ、作ったから」 奏がテーブルにおかゆを置いた。涼介は黙って席に着いた。 奏は向かいに座らなかった。キッチンに戻り、洗い物を始めた。背中を向けたまま、動きを止めない。 沈黙が、重くのしかかる。「奏」「何?」 奏は振り返らない。「……俺、話さなきゃいけないことがある」 奏の手が止まった。 しばらくの沈黙の後、奏がゆっくりと振り返った。「やっと話す気になったんだ」 その声には、怒りと悲しみが混じっていた。「昨日、涼介が帰ってきたとき、すごく酔ってた。『もう駄目だ』とか『俺のせいで』とか、うわごとみたいに言ってた」 涼介は目を閉じた。 酔った勢いで、口が滑ったのだろう。隠していたことが、無意識に漏れ出していた。「……すまない」「謝らなくていい。それより、何があったか教えて」 奏がようやく涼介の前に座った。その目は、涼介を真

  • 壁越しの溺愛ボイス   二 光と影

     午後二時。人事部の会議室。 涼介の前には、人事部長と、直属の上司である村田部長が座っていた。「黒川くん、単刀直入に言う」 人事部長が口を開いた。「君を課長代理に昇進させることが決まった」 涼介は一瞬、言葉を失った。 課長代理。入社六年目での昇進は、この会社では異例の早さだ。通常は就くまでに十年以上かかる役職だ。「シンガポールでの成果は、本社でも高く評価されている。現地支社からの報告書を見たところ、君のリーダーシップと交渉力には目を見張るものがあった」「……ありがとうございます」 涼介は頭を下げた。内心では驚きが渦巻いていたが、表情には出さないよう努めた。「これからは、チームを率いる立場になる。責任は重くなるが、君なら大丈夫だろう」 村田部長が付け加えた。「期待しているぞ、黒川」 会議室を出た涼介の足取りは、少し宙に浮いたようだった。 昇進。課長代理。 かつての自分なら、考えられなかったことだ。成果を出しても「黒川は冷静だから」で片付けられていた。手柄は同僚に奪われ、「便利な人材」として使われるだけだった。 だが今は違う。 自分の実力が正当に評価された。自分の存在が認められた。 席に戻ると、山下が意味ありげな目で涼介を見た。「で、どうだった?」「……昇進だ。課長代理」「マジか! やるじゃん、黒川!」 山下が涼介の背中を叩いた。「シンガポールでの成果、ちゃんと評価されたんだな。良かったじゃん」「……ああ」「今夜、祝杯あげないとな。奏さんも誘って、三人で飲もうぜ」「いや、今日は奏と二人で……」「おっと、そうだな。邪魔しちゃ悪いか。じゃあ、週末にでも」 山下がにやにやと笑う。涼介は少し照れながら、「考えておく」とだけ

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     シンガポールの朝は、東京よりも早く明ける。 涼介が目を覚ましたのは午前六時だった。カーテンの隙間から差し込む光が、薄暗い部屋をぼんやりと照らしている。熱帯特有の湿気が肌にまとわりつき、エアコンの低い駆動音だけが静かに響いていた。 涼介はベッドの上で体を起こし、枕元に置いたスマートフォンに手を伸ばした。画面をタップすると、新着メッセージの通知が表示される。 送信者は、奏だった。 涼介の胸が、自然と温かくなった。毎朝、必ず届くメッセージ。それが、涼介の一日の始まりになっていた。 音声ファイルが添付されている。涼介はイヤホンを耳に差し込み、再生ボタンを押した。『おはよう、涼介。今日も一日、頑張ってね』 奏の声が、涼介の鼓膜を震わせた。低く甘く、まるで耳の奥を直接撫でられているような声だった。その声を聴いた瞬間、涼介の全身が反応する。心臓が跳ね、呼吸が深くなり、体の奥から温もりが広がっていく。 十一か月経っても、奏の声への感度は変わらない。むしろ、離れている分だけ、余計に敏感になっている気がした。『こっちは少しずつ涼しくなってきたよ。朝晩は肌寒いくらい。涼介のいるシンガポールは、まだ暑いんだよね。体調、崩さないでね』 奏の声には、涼介を案じる優しさが滲んでいた。その声を聴くだけで、涼介は奏のそばにいるような気持ちになれる。『今日、新しい仕事の打ち合わせがあるんだ。ちゃんと報告するね。涼介も、今日の会議、頑張って。僕は涼介のこと、誰よりも信じてるから』 メッセージは、短い沈黙の後に続いた。奏の息遣いが、イヤホン越しに聞こえた。その音だけで、涼介の胸が締め付けられた。『愛してる、涼介。早く会いたい……君の声が聴きたい』 その言葉で、音声は終わった。 涼介はイヤホンを外し、天井を見上げた。奏の声が、まだ耳の奥に残っている。その余韻を噛みしめながら、涼介は小さく笑った。 あと少しだ。あと少しで、奏に会える。 シンガポールに来て、十一か月が経っていた。 去年の十月、

  • 壁越しの溺愛ボイス   5-5 別れの夜

     赴任前日の夜。 涼介と奏は、涼介の部屋で最後の夜を過ごしていた。 明日の朝、涼介は成田空港へ向かい、そこからシンガポールへ飛ぶ。一年間、日本には戻れない。 その事実が、二人の間に重く横たわっていた。部屋の空気まで、いつもより重く感じられる。 夕食を終えた後、二人はソファに並んで座っていた。テレビはついていたが、二人とも画面を見ていなかった。テレビの音だけが、部屋に響いている。「涼介」「ん?」「明日から、一年間……」「ああ」「長いね」「……長いな」 沈黙が流れた。 言葉にしてしまうと、現実がいっそう重くのしかかってくる。一年間という時間の重さが、二人の肩にのしかかっていた。三百六十五日。その間、二人は離れ離れになる。「涼介、約束して」 奏が涼介の手を取った。奏の手が、少しだけ震えている。「必ず、帰ってきて」「約束する。必ず帰ってくる」「毎日、連絡して」「するよ。毎日、奏の声を聴きたい」「僕も。涼介の声、毎日聴きたい」 奏の目に、涙が滲んでいた。涼介も、目頭が熱くなるのを感じた。泣くまいと思っていたのに、涙が勝手にこぼれそうになる。「奏、泣くなよ」「泣いてないよ」「嘘つけ」「涼介こそ、泣きそうな顔してる」「泣いてない」 二人は顔を見合わせて、苦笑した。どちらも、泣きそうな顔をしていた。「涼介」「ん?」「最後の夜……一緒にいてくれる?」 奏の声が、甘く震えた。その声には、懇願が込められていた。甘い囁きが涼介の鼓膜を震わせる。その声を聴くだけで、涼介の全身が反応してしまう。「当たり前だ。今夜は、どこにも行かない」 涼介は奏を引き寄せた。奏の体が、涼介の腕の中に収まる。互いの体温が、

  • 壁越しの溺愛ボイス   2-2 雨の夜の傘

     梅雨入りが発表されてから、一週間が経った。 六月の東京は、どんよりとした雲に覆われる日が多くなった。朝起きた時は晴れていても、夕方には雨が降り出す。そんな不安定な天気が続いていた。 涼介と奏は、あれから何度か食事を共にしていた。奏の部屋で夕食を食べることもあれば、近くのファミレスで一緒にランチをすることもある。ごく自然に、二人の距離は縮まっていった。 しかし涼介は、それ以上踏み込めずにいた。 奏は優しい。いつも笑顔で、涼介の話に耳を傾けてくれる。一緒にいると心地よくて、時間があっという間に過ぎる。 けれど、

  • 壁越しの溺愛ボイス   5-3 涼介の決断

     奏が涼介の部屋に移って、三日が経った。 赴任まで、あと四日。 炎上は少しずつ沈静化しつつあったが、奏の心の傷は癒えていなかった。 奏は一日のほとんどを、涼介の部屋のソファで過ごしていた。テレビを見るでもなく、スマートフォンを触るでもなく、ただぼんやりと窓の外を眺めている。時折、涼介と言葉を交わすが、以前のような明るさはない。声のトーンも低く、抑揚がない。まるで、奏の中の何かが壊れてしまったようだった。 音に敏感な涼介には、奏の声の変化が痛いほどよく分かった。奏の声から、生気が失われている。ああの甘い響き、艶やかな色気、そし

  • 壁越しの溺愛ボイス   2-4 元恋人の影

     日曜日の午後だった。 涼介は奏の部屋で、二人で映画を観ていた。奏が選んだのは、フランスの古い恋愛映画だった。字幕を追いながら、涼介は時折、隣の奏の横顔を盗み見ていた。画面の光に照らされたその横顔は、映画の登場人物よりも美しく見えた。 映画のクライマックスに差し掛かった時、奏のスマートフォンが鳴った。 奏は画面を見て、表情を曇らせた。一瞬、その目に暗い影がよぎった。小さくため息をついて、着信を無視した。「……ごめん、出たくない相手だから。しばらく鳴るかも」 奏はそう言って、スマート

  • 壁越しの溺愛ボイス   2-3 甘い誘惑

     雨の夜から、一週間が経った。 涼介と奏の距離は、更に近づいていた。 週末には一緒に買い物に出かけた。駅前のスーパーで食材を選び、そのあと奏の部屋で一緒に料理を作った。涼介は料理が得意ではなかったが、奏が横で丁寧に教えてくれた。「包丁はこうやって持つといいよ。指を切らないように」 奏が涼介の手を取り、包丁の握り方を直す。その手の温もりに、涼介の心臓が跳ねた。細い指が、涼介の指に重なる。その感触が、涼介の神経を刺激した。「力を入れすぎないで。野菜は押すんじゃなくて、引いて切るの」 奏の声が、耳元

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