LOGIN週末のデートから数日が経った。
涼介と奏の関係は、まだ曖昧なままだった。告白し合い、手を繋ぎ、名前で呼び合うようにはなった。けれど、それ以上のことはしていない。キスも、体の関係も、まだだった。
涼介はそれを焦ってはいなかった。奏との関係を、ゆっくりと築いていきたいと思っていた。
けれど、体は正直だった。
夜、壁の向こうから奏の声が聞こえてくると、涼介の体は熱くなった。彼は配信を聴きながら、何度も自分を慰めた。そのたびに罪悪感を覚えたが、止められなかった。奏の声は、涼介にとって最も強力な媚薬だった。
そして、その夜が来た。
*
水曜日の夜。
涼介は残業を終えて帰宅し、シャワーを浴びてベッドに横になった。深夜零時を過ぎている。奏の配信が始まる時間だ。
涼介は壁に耳を当てた。
しばらく待つと、奏の声が聞こえてきた。
「……今夜は、特別な配信をしようと思う」
奏の声が、いつもより低く、熱を帯びていた。その声を聴いた瞬間、涼介の全身が反応した。
「聴いてくれてる人に、僕の全部を見せたい。聴かせたい」
涼介の心臓が、跳ね上がった。
全部を見せる。それは、どういう意味だろう。
「今夜は……僕の声で、気持ちよくなってほしい」
奏の声が、囁くような調子になった。涼介の体は、反射的に反応した。下腹部に、熱が集まっていく。
「目を閉じて。僕の声だけを聴いて」
涼介は言われるまま、目を閉じた。暗闇の中、奏の声だけが響く。
「僕は今、ベッドに横になってる。薄暗い部屋で、一人で」
奏の声が、涼介の耳に直接注ぎ込まれるようだった。
「でも本当は、一人じゃないよね。壁の向こうに、君がいる」
涼介の呼吸が、浅くなった。奏は自分に向けて話している。間違いない。
「僕のこと、考えてくれてる? 今、何を想像してる?」
涼介は想像していた。奏がベッドに横たわっ
奏の熱が完全に下がったのは、三日後のことだった。 その間、涼介は毎日奏の部屋に通った。仕事から帰ると真っ先に四〇三号室のドアを叩き、奏の様子を確認した。おかゆを作り、薬を飲ませ、汗を拭いた。看病という名目で、涼介は奏のそばにいられたのだ。 奏は日に日に回復していった。二日目には自分で起き上がれるようになり、三日目には簡単な食事を自分で作れるまでになった。顔色も良くなり、声にも艶が戻ってきた。 あの甘い声が、少しずつ本来の響きを取り戻していく。涼介はその変化を、毎日そばで見守っていた。奏が咳をするたびに背中をさすり、水を飲ませ、額に手を当てて熱を確かめた。そうしているうちに、涼介は気づいた。自分が、どれほど奏のことを好きになっているのかに。 今まで、涼介は誰かの世話をしたことがなかった。実家を出てからはずっと一人暮らしで、誰かと生活を共にすることもなかった。それが当たり前だと思っていた。一人でいることが、涼介にとっては楽だったのだ。誰にも気を遣わなくていい。誰にも本当の自分を見せなくていい。そうやって、涼介は自分を守ってきた。 けれど今、奏の看病をしながら、涼介は初めて知った。誰かのために何かをすることの喜びを、誰かに必要とされることの温かさを。 看病の三日間は、涼介にとって幸せな時間だった。奏のそばにいられること、奏に必要とされること、奏の回復を見守れること。それは、涼介が今まで知らなかった種類の充足感だった。「涼介さん、もう大丈夫だよ」 熱が下がった日の夜、奏は申し訳なさそうに言った。「三日間も、ずっと面倒見てもらって……本当にありがとう」「気にしないでください。俺がしたくてしたことですから」 涼介は微笑んだ。その言葉に嘘はなかった。「お詫びに、何かご馳走させてよ」 奏が言った。「まだ外出は無理でしょう」「うん、だから……僕が作る。涼介さんに、ちゃんとした料理を食べてもらいたい」「奏さんが作るんですか? まだ体調が……」
3-1 体調不良と看病 三日間、壁の向こうから声が聞こえなかった。 最初の夜は、涼介は深くは気に留めなかった。奏の配信は毎晩欠かさず行われていて、深夜〇時を過ぎると決まって壁の向こうから低く甘い囁きが聞こえてくる。涼介がこのマンションで奏の声を初めて聴いてから、一度も途切れたことがなかった。 それでも、一日くらいは休むこともあるだろう。体調が悪いのかもしれないし、仕事が立て込んでいるのかもしれない。そう自分に言い聞かせて、涼介はベッドに入った。 けれど、眠れなかった。 いつもなら深夜〇時を過ぎると、壁の向こうから奏の声が聞こえてくる。低く甘い囁きが、涼介の鼓膜を撫でる。その声を子守唄代わりにして、涼介は眠りに落ちるのが習慣になっていた。奏と恋人同士になってからは、壁越しの声を聴くことに罪悪感はなくなった。むしろ、奏が自分のために声を届けてくれているのだと思うと、胸が温かくなった。 声がない夜は、静かすぎた。マンションの廊下を誰かが歩く足音、遠くを走る車のエンジン音、エアコンの低い唸りなど、普段なら気にも留めない音が、やけに大きく聞こえる。聴覚の鋭い涼介には、静寂は決して無音ではなかった。むしろ、奏の声がないからこそ、雑音がより鮮明に耳に届いた。 奏の声だけが、聞こえない。 その事実が、涼介の胸に小さな棘のような不安を芽生えさせたのだ。 明日は聞けるだろう。そう思いながら、涼介は浅い眠りについた。 二日目の夜も、配信はなかった。 涼介は仕事中も奏のことが頭から離れなかった。会議中にぼんやりとして、上司に名前を呼ばれて我に返る。資料の数字を何度も見直しても、頭に入ってこない。プレゼンの準備をしなければならないのに、手が止まってしまう。&nbs
週末のデートから数日が経った。 涼介と奏の関係は、まだ曖昧なままだった。告白し合い、手を繋ぎ、名前で呼び合うようにはなった。けれど、それ以上のことはしていない。キスも、体の関係も、まだだった。 涼介はそれを焦ってはいなかった。奏との関係を、ゆっくりと築いていきたいと思っていた。 けれど、体は正直だった。 夜、壁の向こうから奏の声が聞こえてくると、涼介の体は熱くなった。彼は配信を聴きながら、何度も自分を慰めた。そのたびに罪悪感を覚えたが、止められなかった。奏の声は、涼介にとって最も強力な媚薬だった。 そして、その夜が来た。 * 水曜日の夜。 涼介は残業を終えて帰宅し、シャワーを浴びてベッドに横になった。深夜零時を過ぎている。奏の配信が始まる時間だ。 涼介は壁に耳を当てた。 しばらく待つと、奏の声が聞こえてきた。「……今夜は、特別な配信をしようと思う」 奏の声が、いつもより低く、熱を帯びていた。その声を聴いた瞬間、涼介の全身が反応した。「聴いてくれてる人に、僕の全部を見せたい。聴かせたい」 涼介の心臓が、跳ね上がった。 全部を見せる。それは、どういう意味だろう。「今夜は……僕の声で、気持ちよくなってほしい」 奏の声が、囁くような調子になった。涼介の体は、反射的に反応した。下腹部に、熱が集まっていく。「目を閉じて。僕の声だけを聴いて」 涼介は言われるまま、目を閉じた。暗闇の中、奏の声だけが響く。「僕は今、ベッドに横になってる。薄暗い部屋で、一人で」 奏の声が、涼介の耳に直接注ぎ込まれるようだった。「でも本当は、一人じゃないよね。壁の向こうに、君がいる」 涼介の呼吸が、浅くなった。奏は自分に向けて話している。間違いない。「僕のこと、考えてくれてる? 今、何を想像してる?」 涼介は想像していた。奏がベッドに横たわっ
「今度の休み、よかったら出かけませんか?」 水曜日の夜、奏からそう誘われた。 涼介は一瞬、自分の耳を疑った。出かける。二人で。それはつまり、デートということではないのか。「どこに行くんですか?」「映画と、ランチと……あとは、散歩でもしようかなって。黒川さんの行きたいところ、どこでもいいよ」 奏は微笑んでいた。その笑顔には、期待と緊張が入り混じっているように見えた。「喜んで」 涼介は即答した。断る理由など、どこにもなかった。 * 土曜日。 涼介は朝から緊張していた。何を着ていくか、三十分以上悩んだ。小さなウォークインクローゼットの中を何度も行き来し、何着も試しては脱ぎ捨てた。結局、白いシャツにベージュのチノパンという、いつもより少しだけカジュアルな格好を選んだ。 鏡の前で髪を整えながら、涼介は自分を笑った。こんなに念入りに身支度をするのは、いつ以来だろう。デートだ。奏とのデート。その事実だけで、涼介の心は浮き立っていた。 約束の十時、マンションのエントランスで奏と待ち合わせた。 奏は淡いブルーのカットソーに細身の黒いパンツを合わせ、焦げ茶の髪を後ろで緩く束ねていた。その姿は、涼介の心臓を掴んで離さなかった。細い首筋、華奢な肩、すらりと伸びた足。どこを見ても、涼介の目は釘付けになった。「おはよう、黒川さん」「おはようございます」 二人は電車に乗り、都心へ向かった。 車内は混んでいて、吊り革につかまって立つしかなかった。人混みの中、奏の体が涼介に押し付けられる形になった。「ごめん、狭くて」「いえ、大丈夫です」 大丈夫ではなかった。奏の体温が涼介の体に伝わってくる。シャンプーの香りが鼻をくすぐる。心臓がバクバクいって、きっと奏にも聞こえているのではないかと思った。電車の揺れに合わせて奏の体が涼介に当たる。そのたびに、涼介の全身に電流が走った。 目的地の渋谷で降り、まず映画館へ向かった。 観
日曜日の午後だった。 涼介は奏の部屋で、二人で映画を観ていた。奏が選んだのは、フランスの古い恋愛映画だった。字幕を追いながら、涼介は時折、隣の奏の横顔を盗み見ていた。画面の光に照らされたその横顔は、映画の登場人物よりも美しく見えた。 映画のクライマックスに差し掛かった時、奏のスマートフォンが鳴った。 奏は画面を見て、表情を曇らせた。一瞬、その目に暗い影がよぎった。小さくため息をついて、着信を無視した。「……ごめん、出たくない相手だから。しばらく鳴るかも」 奏はそう言って、スマートフォンを裏返しにしてテーブルの上に置いた。スマートフォンはしばらく振動し続けたが、やがて静かになった。しかし、奏の表情は、晴れないままだった。「大丈夫ですか?」 涼介は気になって尋ねた。奏の様子が、明らかにいつもと違ったからだ。「……うん、大丈夫。ちょっと面倒な人がいてね」 奏の答えは、曖昧だった。それ以上聞くなという空気が、奏の周りに漂っていた。涼介は「面倒な人」という言葉の意味を、考えずにはいられなかった。 涼介はそれ以上追及しなかった。けれど、胸の中にかすかな不安が芽生えた。 * 数日後、涼介は仕事帰りに駅前のカフェの前を通りかかった。 ガラス越しに店内が見える。その中に、見覚えのある後ろ姿があった。 焦げ茶のセミロング。奏だ。 涼介は足を止めた。奏の向かいに、男が座っている。三十代前半くらいだろうか。黒髪を短く刈り込んだ、精悍な顔立ちの男だ。眼鏡をかけていて、知的な印象を与える。 二人は親しげに話していた。男が何か言うと、奏が小さく笑う。その笑顔は、涼介に見せるものとは少し違う気がした。もっと気安くて親密な笑顔。昔からの知り合い同士が見せる、遠慮のない表情だった。 涼介の胸に、チクリと痛みが走った。 誰だ、あの男は。奏と、どういう関係なのだ。あの日、電話に出たくないと言っていた相手だろうか。 涼介は自分の感情に驚いた
雨の夜から、一週間が経った。 涼介と奏の距離は、更に近づいていた。 週末には一緒に買い物に出かけた。駅前のスーパーで食材を選び、そのあと奏の部屋で一緒に料理を作った。涼介は料理が得意ではなかったが、奏が横で丁寧に教えてくれた。「包丁はこうやって持つといいよ。指を切らないように」 奏が涼介の手を取り、包丁の握り方を直す。その手の温もりに、涼介の心臓が跳ねた。細い指が、涼介の指に重なる。その感触が、涼介の神経を刺激した。「力を入れすぎないで。野菜は押すんじゃなくて、引いて切るの」 奏の声が、耳元で響く。至近距離で聞く奏の声は、配信で聴くよりもずっと生々しかった。息遣いまで聞こえる。その声に導かれるまま、涼介は包丁を動かした。 平日の夜は、仕事終わりに一緒にコンビニに寄ることが増えた。たまたま会うこともあれば、涼介が帰宅する時間に奏がエレベーターホールで待っていることもあった。「お帰り、黒川さん」 その言葉を聞くたびに、涼介の胸が温かくなる。待っていてくれる人がいる。それだけで、深夜の残業も耐えられる気がした。疲れ切った体が、奏の声を聴いた瞬間に少しだけ軽くなる。 映画も一緒に観た。奏の部屋で、奏が好きだという古い恋愛映画を。「この映画、何度観ても泣いちゃうんだ」 奏が目を潤ませながら言った。涼介は隣で、その横顔を見つめていた。画面の光に照らされた奏の顔は、とても美しかった。涙で濡れた睫毛が、光を反射している。その姿に、涼介は息を呑んだ。 恋人のようで、まだ恋人じゃない。 その曖昧な関係が、涼介には心地よくもあり、もどかしくもあった。 * その日の夜、涼介は壁に耳を当てて奏の配信を聴いていた。 いつもと同じ、深夜の囁き声。しかしこの夜、奏の言葉は明らかに涼介を意識していた。「今日は、雨の話をしようかな」 奏の声が、壁を通して涼介の耳に届く。その声は、いつもよりゆっくりと、丁寧に紡がれていた。「雨の日って……誰かと一つ