All Chapters of 入籍しないなら…兄嫁になります!~冷徹社長に溺愛される日々~: Chapter 581 - Chapter 590

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第581話

絵里の視線がピタリと止まる。彼女は理解した。裕也の言葉の裏にある意味。それは、章が梨乃に気がないということだ。だが、それをどうやって梨乃に伝えればいいのだろう?そんなことを言えば、彼女を傷つけるだけではないか。裕也は絵里の手を握り、親指で彼女の手の甲を優しく撫でながら、低く穏やかな声で言う。「二人ともいい大人だ。自分たちのことは自分たちで片付けるさ。お前が気を揉んだところでどうにもならないし、口出しできることでもない」絵里は困ったように息を吐く。梨乃のことは心配でたまらないが、裕也の言うことにも一理ある。絵里は病院に残って裕也に付き添いたかったが、彼女の体を気遣う裕也は頑として首を縦に振らず、健に送らせて彼女を帰そうとする。「お前も病み上がりなんだ、無理をするな。俺のことは健と使用人に任せておけばいい」裕也の態度は強引で、絵里に拒否する隙すら与えない。彼に心配をかけたくない絵里は、大人しく健の車で帰ることにした。夜の八時過ぎ、清苑に戻った。この二日間、絵里は病院にいたが、入浴は熱をぶり返し肺の感染症を引き起こす恐れがあるとして、医者から固く禁じられていた。帰宅後、裕也にLINEを送ると、真っ先にシャワーを浴びる。風呂から上がり、髪を乾かしてからベッドサイドのスマホを手に取ると、裕也からのメッセージを確認した。【家に着いて風呂に入ったら、しっかり休め。無理はするなよ】絵里は【うん、裕也も早く休んでね】と返信した。メッセージを送信したが、裕也からの返信はなかった。どうやらもう眠ってしまったようだ。重傷を負っている彼にとって、この二日間はまさに安静が必要な時期だった。それでも心配だった絵里は、健に連絡して裕也がすでに寝付いたことを確認し、ようやく胸を撫で下ろす。ベッドに寄りかかり、梨乃のことを思い出して、彼女に電話をかけて少し話をした。だが、章のことには一切触れず、ただ静かに梨乃の話に耳を傾ける。梨乃はとても前向きで楽天的な性格だ。家庭の暗い過去から抜け出し、必死に稼ぐのも、すべては自分の人生を豊かにするためだった。今でも、その目標は変わっていない。しかし今夜の彼女は明らかに落ち込んでおり、言葉の端々から深い失望が滲み出ている。「ねえ、絵里。生まれながらにしてすべて
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第582話

事務所は梨乃の訴えに耳を貸さず、彼女の契約をすべて美奈に回してしまっている。これ以上休ませれば、彼女が苦労して築き上げたキャリアが台無しになりかねない……絵里は梨乃のことを誰よりも理解している。だからこそ、彼女の「何でもないってば」という言葉をそのまま信じることはできなかった。そこで丈裕に電話をかけ、事情を調べさせる。十分も経たないうちに、丈裕から報告が入った。なんと、梨乃の仕事が別の者にすり替えられていたのだ。しかも、彼女を故意に傷つけた張本人に。絵里は思わず自責の念に駆られる。父の仇を討つ件が片付いてから、梨乃のハイヒールに細工された件を調べようと後回しにしていたのだ。数日遅れただけで、梨乃の仕事がすべて奪われてしまうとは……「この件、すぐに処理して。梨乃を陥れたのが誰であれ、絶対に報いを受けさせるの。梨乃は私の身内よ。彼女をいじめる奴は誰であろうと許さない」絵里は冷ややかな声で命じる。頭上から降り注ぐ照明が彼女の顔に濃い影を落とし、その全身から近寄りがたい威圧感を放たせている。電話越しの丈裕でさえ、そのピリピリとした空気をはっきりと感じ取れるほどだ。善は急げと、彼は夜を徹してこの件の処理に人を走らせた。翌朝早く、絵里が会社に戻り、会議を終えると、丈裕が調査結果を報告しに来た。「神原さんの画像解析によりますと、当時小林さんのハイヒールを壊したのは女だと確認されました。廊下の防犯カメラの映像を入手し、映っていた人物と美奈の瞳孔を照合した結果、同一人物で間違いありません」「なら、何を待っているの?さっさと片付けなさい」絵里の瞳の奥に冷たい光が走り、鋭く人を射抜く。丈裕は、絵里がそれほどまでに梨乃を気にかけているのを見て、少し羨ましく思った。「問題はそこなのです。以前、運営側が新築マンションのプロモーション活動のためにイメージキャラクターを探しておりまして。ちょうど小林さんの所属事務所に話を持ちかけたところ、先方が美奈を推薦してきたのです。本日、その契約が交わされる予定です」なんという偶然か。そんな裏があったとは。もともと絵里は運営側の業務には関与せず、悟史に一任していた。しかも、このプロジェクトを担当している幹部も、社内の古株である。事情を把握した絵里は、その足で契約が行われ
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第583話

亜美と美奈は途端に慌てふためく。二人は愕然とした表情で絵里を見つめる。特に美奈の動揺は激しい。監視カメラの映像を見た瞬間、その瞳に後ろめたさがよぎり、恐怖が胸を締め付ける。まさか、バレたの?亜美は映像の内容をはっきりと確認し、すぐに合点がいった。それは以前、梨乃が彼女に見せてきたものと全く同じだったからだ。「水原さん、どういう意味かよくわからないのですが。これは以前、ショーの控え室で何者かが梨乃のハイヒールを壊した時の監視映像ですよね?それが、うちとの提携と何の関係があるのでしょうか」亜美は少し白々しく尋ねる。梨乃は、映像に映っているのが美奈だと言っていた。身長からすれば、確かに似ている。しかし、彼女たちは皆モデルであり、背丈などどんぐりの背比べだ。映像の人物は全身をすっぽりと覆い隠しており、身長以外にそれが美奈だと証明できる要素など何一つない。「映像の中で細工をしたのが誰なのか、あなたたち二人はよく分かっているはずよ」絵里は無駄口を叩く気などなく、冷ややかな視線を向け、圧倒的な威圧感を放っている。ほんの一ヶ月余り前まで、彼女は業界で鼻つまみ者にされる無能な令嬢に過ぎなかった。だが今は違う。市長でさえ称賛する天才エンジニアであるだけでなく、見事な大逆転劇を演じて水原グループの会長に就任し、グループを完全に掌握したのだ。亜美は相変わらず困惑したような顔を作り、慌てて弁解する。「この件は現在調査中です。弊社としても梨乃に何の説明もしないつもりはありませんが、映像の人物が誰なのかは、本当にまだ断定できないんです。水原さん、梨乃の一方的な言い分だけで、弊社が犯人を庇っていると決めつけないでください。それでは両社の提携に悪影響を及ぼすだけでなく、美奈に対しても不公平です」絵里は彼女を相手にせず、美奈をじっと見据える。その顔に浮かぶパニックと蒼白さを、決して見逃さない。しかし、美奈は長いこと口を閉ざしたままで、どうやら自白する気はないようだ。絵里はこれ以上言葉を費やす気になれず、丈裕に視線を送り、証拠を出すよう促す。丈裕が、寿樹の作成した虹彩認証の照合動画を彼女たちに見せると、美奈はふらふらと二歩後ずさる。亜美は彼女のその反応を見ただけで、映像の人物が美奈本人だと確信した。
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第584話

「黙れ!これだけのことをしでかしておいて、まだ反省しないのか。いいか、以前の水原絵里なら怒らせてもなんとかなったかもしれないが、今は違う。星野家を後ろ盾にしてかろうじて身を守るか、さもなければ一生借金取りに追われる覚悟をしておきなさい!」亜美は悔しさのあまり、ギリッと歯ぎしりをする。こんなことになると分かっていれば、絵里が口出ししないなどという甘い考えは捨てていたのに……絵里と梨乃の絆の深さを甘く見ていたのだ。梨乃が昼食を終えた頃、亜美から電話がかかってくる。電話の向こうで亜美は泣きつき、懇願し、ありとあらゆるお世辞を並べ立てた。要約すると、彼女のハイヒールが意図的に壊されて怪我をした件について、会社として重く受け止めるということだった。さらに、以前彼女が担当するはずだった仕事の契約をすべて返し、その上、年末のファッションショーの枠まで特別に用意するという。それだけでなく、会社から一ヶ月の特別休暇と、労災による損害賠償金なども支払われるとのことだった。梨乃はそれを聞いて眉を寄せる。突然の態度の変化、まるで手のひらを返したような対応に、彼女は警戒した。どこかに騙して売り飛ばすつもりなのか。それとも、自分の知らないところで何かが起きたのか。問い詰めると、亜美はついに白状する。そして、すがるように言った。「梨乃、この件は私の一存ではどうにもならなかったの。お願いだから、水原さんに口利きしてくれないかな。会社を追い詰めないで、もう一度だけチャンスをくれるようにって」梨乃は呆然とし、胸の内に様々な感情が渦巻いた。「じゃあ、美奈はどうするの?」「会社は彼女との契約を解除して、あなたに謝罪と賠償をさせることに決めたわ。これでどうかな?」梨乃は潮時だと判断し、その条件を呑んだ。その頃、絵里は用事を済ませ、裕也を見舞うためにすでに病院を訪れていた。道中、丈裕から亜美の所属する芸能事務所の動向について逐一報告を受けていた。相手がこの件をどう処理するか、すでに大方把握していた。案の定だった。絵里が裕也の病室に入り、二人の視線が交わり、甘く絡み合ったその瞬間――梨乃から電話がかかってくる。「絵里、全部聞いたよ。私のためにあんなに色々してくれて……これからどうやって恩返しすればいいの」梨乃はウエー
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第585話

「……」絵里は呆れながらも、裕也には敵わないと苦笑する。ちょうど食事の時間になる。使用人が食事を運んでくる。当分の間、裕也の食事は薄味で消化の良いものに限られている。G市の気候は高温多湿で回復の妨げになりやすいため、食事には特に気を配る必要があった。裕也は眉を寄せ、拒絶するように顔を背ける。「腹は減ってない」「健が、朝も数口しか食べてないって言ってたわ。お腹が空かないわけないじゃない。少しでも食べて、その後にお薬を飲んで」絵里には、彼がただ食べたくないだけだとお見通しだった。薬という言葉に、裕也は嫌そうな表情を浮かべた。「そこに置いておいてくれ。後で食う」実際のところ、彼は全く食欲がなかった。毎日味気ない食事ばかりで、食指が動くはずもない。どうしても喉を通らなかったのだ。「じゃあ、こうしましょう。数口だけでいいから食べて、お薬を飲んで。後で何か別のものを作らせるから、ね?」絵里は子供をあやすように、優しく語りかける。彼女は息を呑むほど美しく、気品に溢れた女性だ。今、ベッドの傍らに寄り添い、茶碗とスプーンを手に彼を覗き込むその姿は、一枚の絵画のように美しい。絵里のほのかな香りが裕也を包み込み、胸の奥に燻っていた苛立ちは、まるで嘘だったかのように消えていった。裕也はわずかに眉を寄せ、まだ警戒を解かずに尋ねる。「別のものって、何だ?」「スープとか?それとも……あなたの好きなものを作ってもらうわ」「……分かった」裕也は少し考え込んだ後、大人しく口を開く。絵里は本当に子供をあやすように、一口ずつ丁寧に彼に食べさせていく。その光景は、どこまでも温かく穏やかだった。病室に入ってきた和也は、その様子を羨望の眼差しで見つめていた。胸を鷲掴みにされたような息苦しさが、彼を苛む。思えば、かつて自分が病に伏せった時も、絵里はこうして優しく根気強く看病してくれた。だが当時の自分は、絵里が寧々に冷たく当たることを嫌悪し、彼女に好感を抱けずにいた。母の言いつけに従い、仕方なく絵里と付き合っていただけだったのだ。もちろん、絵里のあの類まれな美貌と高い身分は、連れ歩くには申し分のないステータスだった。しかし、寧々が事あるごとに絵里の悪口を仄めかすため、自分は無意識のうちに絵里への感情を抑え
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第586話

和也は羞恥に苛まれ、うつむき加減で両脇に垂らした手を固く握りしめて耐え忍んでいる。「兄さん、俺はただ怪我の具合が気になって見に来ただけだ。他意はない」絵里は和也の来訪がただの見舞いではないと察し、弁当箱を片付けた。「二人で話して、少し外に出るわ」「気をつけて。あまり遠くへ行かないように」裕也は和也の存在など意に介さず、優しく声をかける。絵里は伏し目がちに頷いた。和也を刺激するための当てつけではなく、彼が本心から自分を案じてくれているのだと、彼女には痛いほど分かっていた。病室を出た絵里は、健にここで見張るよう命じた。少し考えた後、やはり不安が拭いきれず付け加える。「人は追い詰められると何をするか分からないわ。気をつけて見ていて」健は意図を汲み取った。「承知いたしました、奥様。ご安心ください。ここはきっちりお守りします」絵里はようやく安堵し、廊下の反対側へと歩き出す。病室内。和也はベッドの足元に立ち、どうしていいか分からない様子でしばらく裕也を見つめていた。「母さんのことは兄さんも知ってるだろ。どうにか……」「無理だ」裕也はすげなく切り捨てる。瞳から温もりが消え失せ、底知れぬ冷酷さだけが残る。「どうしてだ?」和也は焦燥を露わにする。「確かに今は絵里と結婚したかもしれないが、だからって母さんを見捨てるなんてあり得ないだろ」「母さん、ね」裕也の薄い唇が弧を描き、冷笑が漏れる。だが、その瞳には微塵の笑みも浮かんでいない。「この何年もの間、あの人が俺の母さんらしかったことが一度でもあったか?」和也はハッと息を呑み、言葉を失った……一方、絵里は裕也の主治医に状況を聞きに行こうとしていた。父の病状が改竄されていた事実を知って以来、彼女は慎重になり、この手の事柄に対して無意識に警戒心を強めていた。ナースステーションで尋ねてみたものの、今日は担当医が不在だという。章に電話をかけようとしたが、スマホを病室に忘れてきたことに気づき、来た道を引き返す。「確かに母さんは俺を贔屓していたかもしれない。でも、俺たちは兄弟じゃないか。今、母さんが問われている罪は重すぎる。本当に見殺しにするつもりか!」和也は奥歯を噛み締め、裕也の非情さをなじる。母が裕也に対して異常なほど厳しかっ
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第587話

健は息を呑む。和也様はなんてことを……全くのデタラメじゃないか!絵里の顔色が優れないのを見て、彼は焦りを募らせ、慌てて口を開く。「奥様、今の話を……?」「耳は聞こえてるわ」絵里が健を一瞥する。その視線は凍りつくほど冷たく、健は思わず身震いし、すぐに自分の失言を悟った。「いえ、その……」弁解しようとした矢先、病室のドアが開く。和也が怒りを露わにして出てくるが、ドアの前に立つ絵里の姿を認めると、わざとらしく驚いたような顔を作った。二人の視線が交差する。絵里は冷ややかな眼差しで彼を見据える。「復讐って何のこと?私にも聞かせてくれない?」病室の中では、裕也が眉を寄せている。青白い顔には、重苦しい陰りが落ちていた。彼は無言のまま、外から聞こえてくる声に耳を澄ませていた。「絵里、聞いてたのか?」和也は白々しく驚いてみせる。絵里は鼻で笑う。「あんな大声で話してたんだもの、私に聞かせたかったんでしょ?」和也は言葉を失った。かつては誰よりも絵里を理解していると自負していたが、この瞬間に至って、自分は彼女の何一つ分かっていなかったのではないかと思い知らされた。その瞳は澄み切って冷ややかでありながら、なぜか底知れぬ薄気味悪さを感じさせる。「さっきのはただの出任せだ。母のことが心配で、つい口走ってしまっただけなんだ。気にしないでくれ」パァンッ!乾いた破裂音が廊下に響き渡る。和也の顔が弾かれたように横を向く。数秒間呆然とした後、ようやく自分が絵里に平手打ちされたのだと理解する。「私、でたらめを言う人間がこの世で一番嫌いなの。わざとそんなことを言って、私たち夫婦の仲を裂こうとしてるんじゃないかって疑いたくもなるわね」絵里の動きには躊躇いがなく、その眼差しは射抜くように鋭い。「お前……!」和也は深く息を吸い込む。赤く腫れ上がった頬の痛みに耐え、胸の奥で燃え盛る怒りを必死に押し殺す。「……まあいい。さっきのは確かに俺がでたらめを言った。それは認める。だがな、絵里。五年も付き合った仲だ、お前が誰かに騙されるのを見たくないんだよ」和也は未練がましい態度を装い、腹の底の怒りを無理やり飲み込んで、病院を後にした。絵里が少しも気に留めないなど、あり得ない。身近な人間に裏切られれば、
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第588話

明らかに絵里を訪ねてきたのだ。彼女の姿を認めるなり、奈央が駆け寄って抱きついてくる。「この子はもう、あんな大変なことがあったのに、どうして私たちに頼ってくれなかったの?私たちはそんなに信用できない?絵里、あんなことされて、私たちどんなに悲しかったか……」文紀と奈央は口々に絵里を責める。だが、奈央は彼女を抱きしめる腕にぎゅっと力を込め、涙をこぼしている。「心配、かけたくなかったから」絵里が数日したらこちらから会いに行こうと思っていたのに、まさか先に来られるとは思わなかった。清苑に住んでいることは、ごく一部の人間しか知らない。きっと丈裕に聞いてきたのだろう。絵里は二人を部屋に招き入れ、お湯を二つのグラスに注ぐ。中途半端な時間だが、食事は済ませたのだろうか。絵里はそわそわしながら口を開く。「お腹空いてない?何か作ろうか」「そこに立っていなさい。聞きたいことがある」文紀が険しい顔つきで、厳格な声を張り上げる。絵里は大人しく立ち止まった。「はい……」奈央がたしなめる。「あなた、そんな言い方しないで。ちゃんと話せばいいじゃない。絵里が怯えちゃうわ」まだ若いのに母親を亡くし、その上父親まで失った絵里のことを思うと、奈央は胸が張り裂けそうだった。それなのに、あの日の配信を見て初めて、絵里の父親が何者かに殺害されていたという事実を知ったのだ。数日前から病院へ行って、絵里が無事かどうかこの目で確かめたかった。だが、文紀が意地を張っていたのだ。何も相談してくれなかったこと、家族として頼られなかったことに腹を立てていた。それが今日になって、結局彼の方が我慢しきれなくなり、奈央を連れてここまでやって来たというわけだ。住所すら絵里本人に聞けず、わざわざ丈裕に尋ねたらしい。文紀はしばらく沈黙した後、悲痛な面持ちで口を開く。「教えてくれ。お前は俺のことを、おじさんだと思っていないのか?どうしてあんな大ごとを、一言も相談してくれなかったんだ。俺はそんなに頼りないか。何の役にも立たないと思ったから、あんな危険を冒してまで、一人であの冷酷な連中に立ち向かったのか」厳しい口調だったが、言葉を紡ぐうちに文紀の声は震え出し、その目には痛ましさと涙が滲んでいる。奈央も鼻の奥をツンとさせ、目元を
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第589話

絵里はとめどなく涙を流している。自分を心から愛してくれる人の前でしか、心の鎧を脱ぎ捨て、素の自分に戻ることができないのだ。普段どれほど気丈に振る舞っていても、今の彼女は彼らの前で、子供のように泣きじゃくっている。その泣き声を聞いて、奈央は胸を締め付けられるような痛みを覚え、たまらなくなって絵里をさらに強く抱きしめ、一緒になって涙を流す。ひとしきり泣いて落ち着きを取り戻してから、絵里はようやく事の顛末をありのままに二人へ打ち明けた。文紀は怒りのあまり太ももをバンと叩く。「この件だけは、何があっても奴らと和解などあり得ない。もし裕也がお前に情けをかけるよう頼んできたら、その時はあいつと離婚しろ!」奈央は激昂する夫の肩を軽く叩き、たしなめる。「あなたったら、ここで何を馬鹿なこと言ってるの。絵里、文紀の言うことなんて気にしなくていいのよ。裕也はいい人だと思うわ。もう少し様子を見て、せっかくの良縁を逃さないようにね」絵里と裕也がすでに結婚していることは、二人とも承知していた。以前は裕也が関係を公にせず、あんな騒ぎを起こしたことに腹を立てていた。だが今となっては、すべて絵里を思っての行動だったと分かり、しぶしぶながらも許している。とはいえ、もし裕也が雪枝のために情状酌量を求め、絵里に減刑の同意を迫るような真似をすれば、文紀が真っ先に黙ってはいないだろう。絵里は先ほどの病院での出来事を思い返す。もともとは、裕也が貝のように口を閉ざし、弁明の機会を与えても何も説明しなかったことを責めていたのだ。しかし、おじさんとおばさんが突然訪ねてきてくれたおかげで、思い切り泣いてみると、不思議とわだかまりは消え去っていた。二人は帰る間際になってもまだ心配で、絵里に一緒に住まないかと提案したが、絵里はそれを丁重に断る。それでも、数日後に一緒に食事をする約束を交わすと、二人はようやく納得して帰っていった。泣きはらした絵里の目は赤く腫れていた。ここ最近で、これまでの人生の分まで涙を枯らしてしまったような気がする。だが、おばさんの言葉を聞いて、心はすっと軽くなっていた。和也の言葉など、自分の心に少しの波風も立てることはできない。ましてや、裕也のような人間が自分から何かを奪おうとしているなど、微塵も信じていなかった。だからこそ
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第590話

一方。絵里は修司と話すたびに、何とも言えない違和感を覚える。決して好意と呼べるようなものではない。「お世辞が終わったなら切るわ。私たち、そんなに親しい仲じゃないし」絵里の態度は冷淡で、修司の顔を立てる気などさらさらない。相手が口を開く前に、さっさと通話を切ってしまう。電話を切った後、裕也からのLINEが来ていないか確認するが、通知はなかった。彼の休息の邪魔をしたくなくて、彼女からもメッセージは送らない。翌日、絵里は開発部へ向かった。寿樹と、システム強化の研究方向について一通り議論を交わす。現在のところ、システムの開発は順調に進んでいる。このペースでいけば、そう遠くないうちにテスト運用へ移行できるはずだ。絵里は寿樹に対して感謝の念に堪えなかった。「あなたが戻ってきて手伝ってくれて、本当に助かったわ。ありがとう」寿樹の腕があれば、海外でさらに良いポジションと待遇を得られたはずなのだから。寿樹は穏やかに微笑み、愛おしそうに絵里の頭を撫でる。「俺にそんな水臭いこと言うなよ。こういうのはこれきりにしてくれ」絵里は口角を上げて笑う。「肝に銘じておくわ」正午、絵里が病院へ向かおうとした時、突然洋二が姿を現した。彼が現れること自体は予想していたが、いざ目の前にするとやはり少し驚きを隠せなかった。絵里は大人しく彼の前に立ち、礼儀と敬意を保つ。「お義父さん、何かご用でしょうか」裕也との関係があるからこそ、彼の顔を立ててそう呼んだのだ。洋二はいたたまれない様子で口を開く。「絵里、実は一つ、頼みたいことがあるんだ」絵里は目を細める。雪枝の件で来たのだろうと見当はついていたが、それでも彼の口から直接聞きたかった。案の定、その通りだった。「和也がお前のところへ行ったことは知っている。今回の件、雪枝は死んで当然の過ちを犯した。だが、あいつは裕也の母親だ。お前たち二人の今後の関係を考慮して、どうか示談書を書いてもらえないだろうか」洋二は彼女が断るのを恐れ、さらに強調する。「少しでも刑を軽くしてやりたいだけなんだ。たとえ残りの人生を、塀の中で懺悔して過ごすことになろうとも」洋二の目的はとうに察していたが、それでも絵里には理解しがたいものがあった。一体どういう神経をしていれば、自
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