All Chapters of 入籍しないなら…兄嫁になります!~冷徹社長に溺愛される日々~: Chapter 591 - Chapter 600

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第591話

絵里は顔を強張らせ、眉を寄せる。洋二の自分に対する態度は常に素っ気なく、好かれているとは言えないまでも、嫌われているわけでもなかった。だが、この要求はあまりにも予想外だった。「どうしてですか」しばらくの沈黙の後、諦めきれずに問い返す。洋二は当然とばかりに言い放つ。「我々両家がここまで来てしまった以上、以前のように協力し合うことはもはや不可能だろう。裕也の母がお父さんを殺したんだ。お前は本当に、何もなかったかのように振る舞えるのか?絵里、起きてしまったことは取り返しがつかない。お前と裕也が別れることが、お互いのためなのだ。これまでの事業提携については、すでに動いている以上切り離すのは難しいが、今後は両家とも別々の道を歩むべきだと思っている」洋二の言葉の端々には身を引くよう促す意図が込められており、相談しているように見せかけて、実際にはとうに決断を下していた。両家がこのような事態に陥った今、洋二が絵里を嫁として受け入れることなど断じてあり得ない。絵里は伏し目がちに笑みをこぼす。裕也は自分のために、あわや肺を貫かれるほどの重傷を負ったのだ。裕也本人から言われない限り、絶対に諦めるつもりはない。「申し訳ありませんが、そのお話はお受けできません」絵里はきっぱりと拒絶し、顔を上げて洋二を見据える。その眼差しは澄み切って、揺るぎない。「雪枝は雪枝、裕也は裕也です。雪枝が罪を犯して裁きを受けることと、私が裕也と一緒にいることとは無関係です」洋二は驚き、ガタッと勢いよく立ち上がって声を荒らげる。「今や両家は世間の笑い者だ。お前に拒否権などない。いい加減にしろ!」そもそも、絵里が和也と婚約した当初から、洋二は絵里の性格を快く思っていなかった。傲慢でわがままなうえ、すぐに機嫌を悪くする。そのくせ何の役にも立たない。水原家の力が藤原家と互角であり、利益で結びついているという事情がなければ、最初からあんな婚約など撥ね退けていた。よもや絵里が裕也と電撃結婚することになろうとは、夢にも思わなかった。普段から裕也の周囲には女の影一つなかったため、この結婚も両家の強固な提携を維持するためのものだろうと考えた。それならば悪い話ではないと、洋二もあえて口出しはしなかった。だが今回、絵里は藤原家の体面などお
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第592話

「今日はどうしてこちらへ?」絵里は目の前のコーヒーをスプーンでかき混ぜる。その笑顔はいつも通り穏やかで、洋二との一件に少しも心を乱されていないようだった。篠は洋二が彼女に接触したことなど知る由もなく、コーヒーを一口啜り、カップを置いてから微笑みかける。「弁護士の友人がいてね、ここ数日、雪枝の事件について相談してみたの。彼女が言うには、雪枝は主犯格だけど、極刑は免れて無期懲役になる可能性が極めて高いそうよ」絵里の眼差しが微かに鋭さを増す。笑顔を引っ込め、毅然とした口調で言い放つ。「なら、裁判で徹底的に争う。死刑判決が下るまで」篠は数秒ためらってから口を開く。「今日あなたを呼んだのは、まさにその件なの。今、裏で色々と手を回している連中がいるわ。これだけ世間を騒がせた事件とはいえ、やはり藤原家の力は侮れない。向こうの弁護士は非公開審理を申し立てるはずよ。世間の注目というプレッシャーがなくなれば、判決が出るまで早くて一、二ヶ月、遅ければ半年、一年と長引くわ……そうなれば、無期懲役すら免れて、ただの長期刑に減刑されるかもしれない」篠は絵里と初めて会った時から、彼女のことがとても気に入り、高く評価していた。それに加え、彼女が裕也の妻だと知ってからは、さらに贔屓目が入り、彼女のすべてが良く見えていた。帰国後、隆や章から事情を聞き、絵里のあまりにつらい境遇に胸を痛めた。いくらなんでも、あんな仕打ちは酷すぎる。お母さんを亡くし、お父さんまで罠にはめられて殺され、おまけにお爺さんは病院のベッドで寝たきりだなんて。絵里のように若い娘が、これほど立て続けに悲劇に見舞われるなんて、あまりにも残酷だ。だからこそ、わざわざ友人に頼んで事件の裏事情を調べてもらい、こうして絵里に会いに来たのだ。絵里は篠の気遣いに深く感謝するが、同時に敵の手段に呆れ、思わず冷たい笑みを漏らす。その瞳には氷のような冷気が宿っている。鼻で笑うと言った。「この事件は証拠が揃っている。それに、配信を見ていた無数のネットユーザーたちが証人だ。あいつに、そう簡単に罪から逃れさせるつもりはない」篠はそんな彼女の強さを頼もしく思うと同時に、痛ましくも感じ、そっと手を伸ばして彼女の手の甲を叩く。「とにかく、私にできることがあったら遠慮なく言って
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第593話

絵里が病室に入ると、健がベッドの傍らに立ち、報告をしているところだった。「ああ、それで進めてくれ。早急に処理するようにな」裕也の声が聞こえる。健は頷く。「承知いたしました」その後、健は身をかわして絵里に正面から恭しく挨拶をし、それから退出していく。裕也の視線は絵里にまとわりつき、口角をわずかに上げている。その瞳には熱が帯び、どこか探るような色があった。「こんなに遅く来るなんて、てっきり俺のことは忘れたのかと思ったよ」開け放たれた窓から、夜風が忍び込む。そよぐ風の冷たさに絵里は少し肌寒さを感じる。裕也の眼差しには、いくぶん問い詰めるような響きがある。「忙しかったの。一日中暇を持て余して、ずっとあなたに付きっきりでいられるわけじゃないわ」絵里は伏し目がちに、普段クズ男に向けて書くような台詞を口にする。案の定、その言葉は効果てきめんで、裕也の顔色が少し沈む。「それじゃあ、俺は絵里の足手まといになってるってことか」「そんなこと言ってないでしょ。あなたが一人で考えすぎてるだけよ」「……」裕也は言葉に詰まり、眉を寄せる。絵里はそれを見なかったことにして、尋ねる。「ご飯は食べた?」「食べたよ」「薬は?」「……」裕也は彼女に見つめられながら、口元に笑みを浮かべる。その奥深い瞳が笑っている。「飲んだ」絵里は彼をじっと観察する。肩から胸にかけて巻かれたガーゼは、色からして新しく取り替えられたもののようだ。午前中に主治医から、彼の怪我は順調に回復していると確認していた。あと数日休めば、退院できる状態だ。だが重傷だったことには変わりなく、やはり安静第一である。先ほど健に仕事を指示していたことから、絵里は彼がすでに仕事の心配をしていることを見抜いていた。だが絵里はそれを直接指摘せず、ただ何度も、できるだけ休むようにと念を押した。「健から聞いたよ。梨乃を陥れた犯人を見つけ出したんだってな」裕也は知っているくせに、わざと話題を振るように聞く。絵里はまぶたを上げて彼を見やり、淡々と頷く。「ええ、見つけたわ」「やっぱり星野家が絡んでたのか?」「うん」二人が一問一答を交わすうち、会話の空気がどこか妙なものになっていく。絵里は梨を一口サイズに切り、甘さを
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第594話

裕也はこれまで一度も自分を責めたことがない。気が長く、優しく、責任感もある。自分のことを、いつも何よりも優先してくれているようだ。絵里の胸の奥に温かいものが広がり、思わず口元がほころぶ。「そうだといいけど」裕也が何か言い返すより先に。絵里のスマホが鳴る。丈裕からの着信だ。彼女は病室を出て電話に出る。「絵里様、三日後の土地競売ですが、対象となる五区画が確定しました。先ほど金塚信二副市長から情報が入ったのですが、少々厄介なことが」「どうしたの?」「副市長からの情報では三号地ですが、若竹局長からは五号地だと聞いています。どういたしましょうか」絵里は心臓が小さく跳ね、疑念を抱く。それぞれの情報網があるとはいえ、都市計画に関して言えば、副市長は意思決定層にいる。丈裕は三日後の競売に向けた準備のため、絵里の指示を待っていた。絵里は数秒の沈黙の後、指示を出す。「まずは十分な資金を用意しておいて。焦らなくていい、もう少し様子を見ましょう」区画ごとに落札価格が異なるのは間違いない。今回競売に参加する企業は少なくない。G市が地下鉄の路線を拡張することは、誰もが知っている。だが、どの区画が選ばれるかは、誰にも分かっていないのだ。その頃、裕也のスマホにも健からのメッセージが届いていた。【社長、土地競売の内部情報を入手しました】【どの区画だ?】健からの返信は即座に返ってくる。画面を一瞥した裕也の瞳は、夜の闇のように漆黒に染まる。ちょうどその時、電話を終えた絵里が病室に戻ってくる。どこか上の空で、何かに思考を巡らせている様子だ。裕也は口角を上げて尋ねる。「どうした、大忙しさん?」「ううん、なんでもない」絵里は裕也を見て微笑む。彼の休息の邪魔をしたくなかったのだ。裕也は目を細め、彼女が話したがらないのを見て、それ以上は追及しなかった。絵里は彼に付き添っているとはいえ、電話をかけたりメッセージを送ったりと、絶えず忙しなく動いている。裕也はその様子を静かに見守りながら、時折、健から送られてくるメッセージに目を落とす。絵里は急遽、契約書の細部を修正する必要が生じ、オンラインで丈裕とやり取りを始める。幸い、ここへ来る時にノートパソコンを持参していた。今は病室のソファに腰を下
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第595話

絵里は驚いたように目を見開き、目の前の裕也の端正な顔立ちを見つめる。唇を重ねた瞬間、彼の香りと熱が一気に押し寄せる。その口づけは、いつもの優しさだけではなかった。強く、激しく、逃がさないという意思が込められている。けれど、不思議と怖くはなかった。むしろ、その中に隠された深い想いを感じて、絵里の胸は大きく揺れる。身体の奥に眠っていた感覚が呼び起こされるようだった。懐かしい彼の気配に、心も身体も抗えない。気づけば絵里も、裕也の熱に応えるように唇を重ね返していた。裕也の喉が小さく動く。抑えていた感情が、少しずつ理性の奥から溢れ出していく。彼の腕が強く彼女を抱き寄せる。もう二度と離さないと言うように。二人の体温が重なり、空気まで熱を帯びていく。裕也の手が彼女の背中へと伸び、触れるたびに絵里の身体が小さく震える。熱に浮かされたように、絵里の呼吸が乱れる。けれど、次の瞬間。裕也の身体がわずかに強張る。「……っ」喉の奥から低い声が漏れる。そして、動きが止まる。「どうしたの?」絵里は声の異変に気づき、潤んでいた瞳が次第に焦点を結ぶ。裕也は眉をひそめ、額にはうっすらと汗を浮かべている。その顔には苦痛の色が滲んでいた。絵里はすぐに察し、顔を強張らせる。「傷口に触れちゃった?」裕也は眉を寄せ、痛みをこらえているのか、顔には不自然な赤みが差していた。「大丈夫」絵里が信じるはずもなく、無理やり傷口を確かめる。包帯のガーゼに、赤い血が滲み出していた。絵里は息を呑む。傷口が開いている……十分後。処置を終えた医師は、眼鏡の奥の目を伏せ、意味ありげに言う。「今は傷口がかさぶたになりかけている状態です。慎重になさった方がよろしいかと。そういうことは、少しお控えになった方が」絵里は恥ずかしさで顔を真っ赤にする。医師の言葉はあまりにも露骨だ。経験豊富な医師なら、傷口が開いた原因など一目瞭然なのだろう。裕也は咳払いし、真顔で尋ねる。「どれくらい控えればいい?」医師は言葉に詰まる。「……少なくとも、一週間は」裕也の鋭い眼差しが沈み、医師を射抜く。「ん?」医師は息を呑む。目を泳がせ、愛想笑いを浮かべる。「ですが、回復の具合は人それぞれですから。早
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第596話

その後、裕也は健に電話をかけ、深く暗い目を細めながら、強引な口調で切り出す。「あの土地だが、一号と三号を落札しろ。五号については、奴らがあれほど周到に仕掛けているなら、望み通りくれてやれ。最高の『贈り物』になるだろう」絵里は文紀と奈央との食事を約束しており、翌日、奈央から夜に来るよう電話があった際も、断ることはなかった。「よし、約束したわよ。今すぐ文紀に伝えるから、絶対に後悔しないでね」奈央は電話の向こうで、絵里が約束を反故にするのではないかと心配しながら、興奮したように笑っている。「夜は特に忙しくないから、時間通りに行くわ」絵里は笑いをこらえながら答える。奈央が自分に良くしてくれたことは、今でも鮮明に覚えている。他の親戚のおばさんたちよりも、ずっと優しかった。母が亡くなってから数年、交流は少なくなっていたが、幼い頃、文紀と奈央が自分を抱きかかえてあやしてくれたことは、決して忘れていない。「わかったわ。じゃあ美味しいものを作って待ってるわね」奈央は絵里が心変わりするのを恐れるように、嬉しそうに電話を切る。絵里は呆れながらも、幸せそうな笑みを浮かべる。昼に仕事を片付けた後、時間を作って裕也に電話をかけ、時間通りに薬を飲むよう念を押す。裕也は、和也が「裕也は水原家を陥れるために絵里を利用している」と言ったことについて、絵里がこの二日間全く触れてこないことに気づいていた。少し雑談を交わした後、彼は遠回しに探りを入れる。「絵里は今や強引な女会長として、巨大な水原グループを牛耳っているわけだが、もし悪意を持った者に狙われたら、怖くないか?」「誰が私を狙うの?」裕也が暗示をかけるのに対し、絵里は単刀直入に切り返す。「もしかして、藤原裕也っていう人?」裕也はどう切り出そうか悩んでいたが、その言葉に暗い目をわずかに細める。「もし俺が本当に水原を狙っているとしたら、怖いか?」絵里の目が沈む。「あなたはそんなことしない」裕也の指が、スマホを握る手にふっと力を込める。彼女がこれほどまでに自分を信じているとは。だが次の瞬間。絵里の不機嫌そうな声が響く。「でも裕也、もし本当にそんなことをする度胸があるなら、私も容赦しないよ」裕也が彼女の怒りを感じ取る前に、電話はすでに切れている
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第597話

絵里は目を細めた。「何を賭けるつもり?」「もし僕の情報が正しく、お嬢様が見事あの土地を落札できたなら、僕を役員会へ推薦していただきたい。逆に僕が間違っていた場合は、会社を去った上で損害を賠償します」絵里は息を呑んだ。賭けの代償があまりにも大きい。考え込む彼女を前にして、悟史の笑みはどこまでも余裕に満ちている。しばらく思案した後、絵里は眉を吊り上げ、彼を睨みつけた。「自信過剰は身を滅ぼすよ」「それは、お嬢様の捉え方次第ですね」そう言いながら、悟史は折りたたまれた一枚の紙を取り出し、絵里の目の前のデスクに置いた。それを開いて一読した絵里は、思わず驚いたように彼へ視線を向ける。そこに記されていた情報は、彼女が事前に得ていたものとは若干の食い違いがあるものの、彼女自身の見立てとは奇妙なほど一致していた。「お嬢様……」悟史は背筋を伸ばし、腕時計に視線を落とす。「この賭けに乗るかどうか、今日中にご返答いただければと思います」絵里が眉を寄せる中、彼はそのままオフィスを後にした。悟史が立ち去るのを見計らい、絵里は丈裕を呼び入れ、意見を求めた。丈裕は真剣な面持ちで考え込む。「紫垣さんが治夫様に引き抜かれ、会社の経営に携わるようになってから、業績は目に見えて伸びており、グループに多大な利益をもたらしています。順当に考えれば、彼が役員入りを望むのも十分に資格があると言えます。それに、以前治夫様もその件について言及されていました。ただ、具体的なことについては、治夫様がお目覚めにならなければ判断できませんが」絵里は眉を寄せたまま考え込む。ますます決断が難しくなった。だが、悟史以上に、副市長にしても局長にしても、到底信用できる相手ではない。自分に接触してきたということは、裏を返せば、別の誰かとも容易に手を組むということなのだから。「この件、もう少し裏を取ってみて。より一層慎重に進める必要があるわ」絵里はそう指示を出し、立ち上がった。誰かの罠にはまることを防ぐためにも、軽率な決断は下せない。「承知いたしました」丈裕にそう告げると、絵里は足早に外へ向かった。これから文紀と奈央との食事の約束がある。急がなければ遅刻してしまう。二人を不機嫌にさせるわけにはいかなかった。幸い道
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第598話

文紀はそれを聞いて、ほっと息をついた。「ならいい。お前が嫌な思いをしていないならな。そもそも今回の件は藤原家に非があるんだ。向こうが筋を通すならまだしも、もし理不尽な真似をしてきたら……」文紀は鼻を鳴らした。「俺がどれだけ頼りない人だとしても、お前の盾くらいにはなる。あいつらに絶対、お前を傷つけさせやしない」「もう、普通に話せばいいじゃない。どうしてそんなに声を張り上げるのよ」奈央が食後のデザートを自ら運んできた。大声でまくしたてる文紀を見て、わざと険しい顔を作りながらたしなめる。文紀は恐妻家だ。とはいえ、恐れているというのは建前で、実際には妻を深く愛し、尊重しているだけである。彼はへこへこと笑った。「はいはい、ちょっと熱くなっちまっただけだ。怒るなよ」奈央はそれでようやく彼を許し、デザートを絵里へ差し出した。絵里はもうこれ以上食べられず、困ったような顔をする。「このご飯で、私、絶対に二、三キロは太っちゃったよ」奈央は心根の優しい女性で、普段から怒ることなど滅多にない。「少しふっくらした方がいいのよ。最近のあなた、すごく痩せちゃってるじゃない。これからは週に一度はうちにご飯を食べに来て、しっかり栄養をつけるの。分かった?」「うん、できるだけ時間を作って来るね」絵里は奈央を見つめ、伺うように言った。「でも、もう本当にお腹いっぱいで……これは次に来た時に食べてもいいかな?」奈央は渋い顔をして、眉を寄せる。「でも、あなたのためにわざわざ用意したのに」「まあまあ。さっきだってお前、絵里にスープを二杯も飲ませて、ご飯も大盛り、おかずもたっぷり食べさせただろう。絵里の胃袋なんて限界があるんだ。お腹を壊したらどうする」「そうね、そうだったわ。私がうっかりしてた。じゃあ、次に来た時に食べてね」「うん」絵里は素直に頷き、ほっと息をついて二人を見つめた。奈央と文紀の顔には満面の笑みが浮かんでおり、彼女に対する深い愛情が滲み出ている。帰り際、文紀はわざわざ念を押すように、何かあれば必ず自分を頼るよう言い聞かせた。絵里は心が温かくなるのを感じながら、大人しく頷いた。だが実際のところ、本当に何かが起きたとしても、二人に迷惑をかけることなどできるはずがなかった。絵里はその
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第599話

絵里は立ち去るつもりなどなく、ちょうど裕也がどう答えるのか聞いてやろうと思っていた。だが、その目論見は外れた。裕也が口を開くより早く、病室のドアが乱暴に開かれる。絵里が視線を上げると、そこには怒りを露わにした洋二が立っている。絵里の姿を認めるなり、洋二の顔色はさっと険しく曇る。「何をしに来た」絵里が生まれてこの方、これほど大声で怒鳴りつけられた経験は、すべて藤原家に関わるものばかりだった。顔色一つ変えず、眉を寄せて皮肉げに言った。「夫のお見舞いに来るのに、あなたの許可が必要ですか?」洋二はさらに怒りを募らせたが、言い返す言葉が見つからないようだった。「お前は本当に可愛げのない女だ」そう吐き捨てると、絵里に道を空けるよう促した。絵里は腹を立てることもなく、素直に脇へ避ける。洋二が去った後、絵里は深く息を吸い込み、胸の奥に広がる冷たい感情を押し殺して病室へ足を踏み入れた。「聞こえていたのか?」裕也は絵里の顔色を窺いながら、その優しい瞳に微かな憂いを浮かべていた。「ええ、聞こえたわ」絵里は手にしていたバッグをソファへ無造作に置くと、彼のもとへ歩み寄り、淡々と伏し目がちに見下ろした。その冷ややかで落ち着き払った様子は、まるで嵐の前の静けさのようだった。裕也の喉仏が数度上下し、無意識のうちに弁解の言葉が漏れる。「父はただ、最近のグループの株価下落に苛立って、あんなことを言っただけで……」絵里は彼の顔をじっと見据えた。「で、あなたはどう思っているの?」裕也は手を伸ばし、彼女の手を取った。ベッドに寄りかかるその姿は、相変わらず優雅さを失っていない。「絵里、俺たちは夫婦だろう?」絵里の手の甲を彼の親指が優しく撫でる。肌と肌が触れ合い、その熱が心を焦がした。裕也が何を考えているのか、絵里にはまだ確信が持てなかった。ちょうどいい。今日こそ聞き出してみよう。さりげなく手を引き抜く。「法律上は、確かに夫婦ね」裕也は彼女から冷たい言葉が返ってくることを恐れたのか、その端正な顔に一瞬だけ焦りの色が浮かんだ。「名実ともに夫婦だ。絵里、俺たちはただ戸籍上の夫婦というだけじゃなく、もっと……」彼はふいに言葉を止めた。絵里は面白がるように追及する。「もっと、何
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第600話

だが、絵里が求めているのは、それだけではなかった。妥協する必要などない。ましてや、そうする理由もなかった。「つまり、離婚したくないってこと?」絵里はさらに念を押すように尋ね、裕也の暗く沈んだ視線と真っ直ぐ向き合った。その瞳は深い淵のように漆黒で、底が見えない。けれど、他人に向けられるような鋭さは微塵もなかった。むしろ絵里には、それが深く、そしてひどく優しいものに感じられた。裕也は一切ためらうことなく、きっぱりと言い切る。「したくない。絶対にしない」絵里の手を取り、とうに婚約指輪を外されたその指を見つめて、わずかに眉を寄せた。その眼差しは、どこまでも深く重い。「お前は、したいのか?」絵里は裕也と視線を交わした。二人の視線が絡み合い、見えない糸が絵里の心を締め付ける。認めざるを得なかった――裕也の揺るぎない態度が、彼女の心にひそかな喜びをもたらしていることを。「したくない」絵里は思わず口にしていた。ただ、自分の心に従いたかったのだ。裕也はこれまで、自分のために十分すぎるほど尽くしてくれた。命すら投げ出そうとした。もしこれでも、彼がじいちゃんに与えた傷を許すには足りないというのなら。自分は、裕也の優しさや献身を受け取る資格などない。裕也の瞳の奥で渦巻いていた暗い色が、ふっと溶けていく。その端正な顔には、隠しきれない驚きと喜びが浮かんだ。次の瞬間、絵里の身体は強く引き寄せられ、後頭部を支えられたかと思うと、再び強引で支配的な口づけに奪われた。唇と歯の隙間に互いの吐息が絡み合い、その熱が絵里の心を激しく揺さぶる。だが、彼女にははっきりと分かった。このキスには、欲望など微塵も含まれていない。ただ、彼が隠そうともせずにぶつけてくる、純粋で熱烈な感情だけが込められている。絵里が裕也のキスに応えた瞬間、固く閉ざされていた心の扉が完全に開かれる。過去に何があったとしても、絵里は彼のこの一言だけで十分だと思えた。自分が求めていたのは、あの夜に彼が関係を公に認めることでも、ましてや紙切れ一枚の婚姻届でもなかった。たとえ二人の関係が誰にも知られなくても。ただ、揺るぎなく選ばれることだけを望んでいたのだ。ただ、それだけを……絵里の唇はすっかり腫れていた。裕也が噛ん
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