All Chapters of 入籍しないなら…兄嫁になります!~冷徹社長に溺愛される日々~: Chapter 651 - Chapter 660

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第651話

絵里は青ざめた顔で電話を切る。その様子に、裕也はただならぬ気配を感じ取る。「どうした?」絵里は喉を詰まらせる。表情こそ平静を装っているが、瞳の奥に広がる動揺はどうしても隠しきれない。「警察署まで送って」先ほどの電話は丈裕からだった。中川誠治が飛び降りたというのだ。しかも、水原グループ子会社の屋上から身を投げたらしい。その現場には、文紀も居合わせていた。現在、文紀は事情聴取のため警察署に連行されている。道中、絵里はすぐに落ち着きを取り戻し、丈裕から聞いた話をすべて裕也に打ち明けた。裕也は彼女の肩を強く抱き寄せ、優しい声でなだめる。「心配するな。まずは警察署に行って状況を確かめよう。大丈夫だ、俺がついている」絵里は頷く。今はそうするしかない。気丈に振る舞い、裕也と共に警察署へ向かう。事態は丈裕の報告通りだった。誠治は転落死を遂げ、現場にいた唯一の人物である文紀は、捜査への協力を求められている。現在、鑑識と法医学者が検死と証拠採取を進めており、本来であれば文紀はまだ帰宅を許されない状況だ。しかし裕也が自ら掛け合うと、三十分も経たないうちに文紀を引き取ることができた。署を後にする直前、高木警部が絵里を呼び止め、二人きりで言葉を交わす。「中川誠治は、以前、酒井文紀さんの会社で財務を担当していました。その後、酒井さんが告発され、捜査を受けて起訴を待つ身となった矢先、彼は死亡しました。しかも、現場には酒井さんがいた……どう見ても、酒井さんにとって極めて不利な状況です」高木警部は十数年のキャリアを持ち、迅速な行動力と緻密な思考で署内でも名を馳せる優秀な刑事である。以前、雪枝たちが拓海を殺害した過去の事件を担当したのも彼だった。現在そちらは証拠固めが終わり、すでに三人は起訴され、公判の日程を待つばかりとなっている。そんな中で起きた今回の文紀の事件。高木の警部としての勘と観察眼は、背後に潜む明らかな不自然さを嗅ぎ取っていた。だからこそ、彼はわざわざ絵里に忠告を与えたのだ。絵里は彼に深く感謝する。「ありがとうございます、高木警部。叔父の件、引き続き捜査をお願いします。中川誠治の死は、叔父の疑いが晴れることを良しとしない何者かが仕組んだ罠だと、私は信じています」高木警部は彼女の言葉の裏にある
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第652話

この一件が文紀にどれほどの打撃を与えたかは、想像に難くない。「この事件を担当する高木警部はとても優秀な方よ。これまでにも数多くの刑事事件を解決してきたし、彼が調べれば、すぐに叔父さんの身の潔白も証明されるはず。だから、自分を責めないで」「その通りだ、叔父さん。帰ったらゆっくり休んでください。英気を養わなければ、この難局は乗り切れないよ」助手席に座る裕也も、絵里の言葉に同調して文紀を慰める。二人の存在に少し安心したのか、文紀は何度も頷き、顔に浮かんでいた深い愁いがわずかに和らいだ。「ああ。やましいことは何もない、必ず真実は明らかになる。それに、警察だけでなく、俺にはお前たちがついているからな」酒井家へ到着する直前、文紀は奈央に心配をかけないよう、この件はしばらく伏せておいてほしいと二人に念を押す。奈央は末娘を出産した際、羊水塞栓症による大出血を起こし、一命を取り留めたものの、それ以来ずっと体調が優れないのだ。連れ添って数十年、文紀と奈央は互いを深く敬い合うおしどり夫婦である。だからこそ、彼女の心労になることだけは絶対に避けたかった。絵里と裕也が了承するのを聞いて、彼はようやく安心して家へと戻っていった。二人は門前で彼を見送るだけで、車を降りて奈央に挨拶することはせず、そのまま帰路に就いた。帰りの車内で、絵里は窓の外を流れる夜景を眺めている。街の光が彼女の横顔を照らしては消え、暗闇の中に浮かぶその表情には、隠しきれない哀しみが滲んでいた。「まだ叔父さんのことを考えてるのか?この件は後で健に追跡させるから、絶対に大事にはならない。あまり思い詰めるな」裕也は彼女の手をぎゅっと握りしめ、優しく慰める。考えすぎて気が滅入ってしまうのを案じてのことだ。せっかく二人の関係が少し前進したというのに、またしてもこんな突発事態に見舞われてしまった。絵里は振り返って彼を見る。その穏やかな横顔には、これといった感情の色は浮かんでいない。「平気よ。ただ、少し疲れただけ」裕也は彼女のすべてを把握しているわけではないが、これまでの付き合いから、今の彼女が沈んだ気分を抱えていることくらいは察しがついた。心に何かを秘めながら、あえて口を閉ざしていることも。裕也の瞳がわずかに暗い色を帯びる。彼女が今、何を考えているのかを知り
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第653話

「まだ何の用」絵里の口調は険しい。これ以上、彼に愛想よく振る舞う気など毛頭ない。洋二は彼女の態度など意に介さず、得意げに鼻を鳴らす。「今朝早くから、界隈の人間は皆知っているぞ。中川誠治が死んだとな。しかも奴は死ぬ直前、叔父さんに会っていた。さあ絵里、今回ばかりはどうやって彼を救うつもりかな」洋二がわざわざこの時間を狙って電話をかけてきたのは、今なら裕也が彼女のそばにいないと踏んだからだ。彼はもうこれ以上待つつもりはなかった。絵里が早く裕也と離婚し、あの土地を明け渡すことを誰よりも待ち望んでいる。「中川の件、あなたが手を下したの?」絵里は鋭く問い詰める。「中川が勝手に自殺しただけだ。俺に何の関係がある?ただ、そろそろ裕也と離婚する潮時だと忠告してやっているだけだ」洋二は言葉を区切ると、さらに続ける。「ああ、そういえば、お前たちは小針とも手を組もうとしていたそうだな。だが結局、奴は病院送りになったが、今や小針がお前たちと組むことなど絶対にあり得ない。それどころか、他と結託して水原を潰しにかかっている。お前に残された退路はもう少ないぞ。たとえ裕也であっても、お前を守り切れるとは限らない。このまま俺に逆らい続けるつもりなら、失うものは増える一方だ」その言葉には、露骨な脅しが込められている。絵里は胸の奥が冷たく沈むのを感じ、顔に明らかな不快感を浮かべる。「本当に卑劣極まりないわね!悪いのはどう考えても雪枝なのに、彼女を庇って私に復讐しようとしている」洋二は無駄話に付き合う気はなく、吐き捨てるように重い声で言う。「恨むなら、己の身の程知らずを恨むんだな」絵里も負けじと言い返す。「あなたがどんな汚い手を使おうと、私は絶対に裕也と離婚しない。あの土地だって絶対に渡さない。夢でも見ているのね」この一言が、見事に洋二の逆鱗に触れた。だが、絵里の弱点を思い出した彼は、ふと陰湿な笑い声を漏らす。「お爺さんの治療、なかなか順調らしいな。いつ目を覚ましてもおかしくないと聞いているが?だがな、今の医療技術というのもまだ不安定なものでね。ひょっとすると、突然二度と目を覚まさなくなるかもしれんぞ」絵里は怒りで目を吊り上げ、もはや冷静さを保てない。電話越しに鋭い声を張り上げる。「祖父に手を出そうものなら
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第654話

健はハッと目を見開き、瞬時にある推測へと行き着く。「まさか洋二様は、社長が奥様に20パーセントの株式を譲渡したことを知ったのでは……」もしそうだとしたら、事態は非常に厄介だ。「その可能性はある。以前から、奴はずっと俺の周辺を嗅ぎ回っていただろう」裕也は冷徹な面持ちのまま、微塵も動じる様子を見せない。健はたちまち合点がいく。「どうりで、社長が篠様に子会社を引き継がせた際、洋二様は何も異議を唱えなかったわけです。その直後、和也様を本社の、しかも運営部門にねじ込んできたのには、そういう裏があったのですね」運営部門は日常的に顧客と接触し、すべてのリソースを掌握できる要の部署だ。彼らの狙いは火を見るより明らかだった。「社長、これからどう動きますか」健は憤りと歯痒さを滲ませながら、裕也の指示を仰ぐ。対する裕也は相変わらず気怠げな姿勢を崩さず、その瞳からは真意を読み取ることができない。だが、全身から放たれる鋭い覇気には、すべてを掌握しているかのような絶対的な余裕が漂っている。彼が口を開くより早く、絵里から着信が入る。洋二から脅迫を受けたという報告だった。「裕也、相手はお父さんよ。どうするつもり?」絵里の冷ややかな声が、選択権を裕也に委ねる。本音を言えば、裕也には身内であっても容赦なく切り捨ててほしかった。だが、肉親の情というものを考えれば、彼の葛藤も理解できる。彼がどんな決断を下そうと受け入れる覚悟はあった。絵里はただ、彼の明確な意思表示が欲しかったのだ。もし自分が切り捨てられるようなことがあれば、未練なく彼の元を去り、二度と許すことはないだろう。裕也は指でスマホを握りしめ、眉を寄せる。しばしの沈黙の後、掠れた声が響く。「お爺さんのところには護衛を向かわせる。絶対に手出しはさせない。父の件は、俺に任せてくれ」「分かったわ」絵里はそれ以上追及せず、通話を切る。彼のその一言だけで十分だった。だが、求めているのはそれだけではない。裕也が自分を騙すとは思っていないが、万が一に備えて、念には念を入れておく必要があった。丈裕に電話をかける。「指示通りに動いてくれた?」「はい、すべて手配済みです。先ほど無事に移送を終え、情報も流しました。今頃、洋二の耳にも入っているはずです」
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第655話

「じいちゃん……」久しぶりに聞く祖父の声に、絵里はハラハラと涙をこぼす。胸の奥から込み上げる激しい感情に突き動かされるまま、何もかも放り出して階段を駆け下りる。早くじいちゃんに会いたい。車を飛ばしている最中、裕也から何度か着信が入る。最初は繋がらなかったが、やがてようやく電話が繋がった。「絵里、今どこにいる?」絵里は何も考えず、じいちゃんが目を覚ましたと伝えそうになる。だが、ふと脳裏をよぎるものがあり、出かかった言葉をぐっと飲み込む。「丈裕と一緒に少し用事を済ませているところ。どうかした?」心臓が早鐘のように打っている。必死に抑え込もうとしても、声には隠しきれない興奮が滲んでいる。裕也の指がスマホを握りしめ、じわじわと力が込められる。だが、すぐに表情を和らげ、いつもの穏やかな声で返した。「そうか。じゃあ、先に用事を済ませておいで」「うん」絵里は喜びのあまり、迷うことなく通話を切る。心は、とうの昔に祖父のもとへと飛んでいた。一方、健はわずか十分足らずで、洋二の向かったルートを割り出す。「社長、洋二様は病院へ向かったようです。もしかして……」健は言葉を濁す。彼が言いたかったのは、洋二が向かった先が、治夫の入院している病院ではないかということだ。奥様が治夫様を転院させて以来、田中を連れて姿を消し、その行方は誰にも知らされていない。絵里と丈裕を除けば、裕也や健でさえも知らされていないのだ。裕也は再び眉を寄せる。その周囲には重苦しい空気が漂い、顔色はひどく沈んでいる。「後を追え」「はい」……絵里は一人で車を飛ばし、最短の時間で病室へとたどり着く。ここは丈裕がこの一時間で、治夫を移送してきたセーフハウスである。セーフハウスの中には、医療機器が完備されていた。通りの向かいにあるビルが、その病院だった。絵里は幾重もの厳重なセキュリティゲートをカードキーで通過し、ようやく中へ入る。そこは医療機器が立ち並ぶ一室で、病床の傍らには丈裕と行本教授が付き添っていた。「じいちゃん……」絵里は胸を高鳴らせながら、早足でベッドへ駆け寄る。心臓が口から飛び出しそうだった。だが、ベッドに横たわる治夫は人工呼吸器をつけ、目を固く閉じたまま、一向に目を覚ます気配がない。絵里の
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第656話

ぽろぽろと零れ落ちる涙を拭いもせず、絵里の胸は歓喜と興奮で高鳴っている。これほど長く待ちわびた甲斐があった。じいちゃんが、ついに目を覚ましたのだ。それでもまだ、夢を見ているような心地だった。「よしよし、お前の言う通りにしよう。この子は本当に……わしがお前を甘やかしすぎたかな」治夫は相好を崩して笑う。その顔はやつれて細っそりとしていたが、今は喜びと深い愛情に満ちている。「絵里はわしの宝物だ。世界で一番可愛い孫娘だからな。お前は自分の好きなように生きればいい。自分が楽しいと思えることなら、何でもやってみなさい……うちの可愛い子に、辛い思いなんてさせられないよ」治夫はかすかな声で呟きながら、次第にその手を動かす力を弱め、重たげにまぶたを下ろしていった。そして語りかけるうちに、静かに寝息を立て始めた。絵里は彼が完全に眠りに落ちたのを見届けてから立ち上がり、行本教授と共に病室を出て、詳しい容態を聞く。「お爺さんは意識を取り戻されましたが、長期間昏睡状態にあったため、まだかなり衰弱しておられます。ここ数日は安静にしていただきましょう。食事も、いきなり普段どおりに戻すのではなく、少量から始めてください。消化のよいものを中心に、様子を見ながら少しずつ量を増やしていきましょう」行本教授の細やかな注意を聞いて、絵里はようやく現実味を感じる。「じいちゃんは、これで完全に良くなったのでしょうか?また昏睡状態に陥ったりはしませんか?」絵里はまだ不安を拭いきれず、そう尋ねる。行本教授は彼女の心情を察し、朗らかに笑って答える。「ご安心なさい。目を覚ましたということは、峠を越えたということです。あとはゆっくりと体を整えていけば大丈夫ですよ」さらにいくつかのアドバイスを受け、絵里は深い感謝の念に堪えなかった。「本当にありがとうございます、行本教授。この期間中、数々のご無礼を働いてしまったこと、どうかお許しください」絵里は彼に一枚の小切手を差し出した。その額は、実に十億円にも及んだ。小切手を目にしても、行本教授が彼女に向ける眼差しは以前と変わらず、感嘆の色を帯びている。「お爺さんを想う気持ちゆえのことです。私から責めるようなことはしませんよ。理解していますから。ですが、これはあまりにも多すぎます」「
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第657話

絵里が望んでいたのは、洋二がその凶行に及ぶ瞬間をカメラに収め、動かぬ証拠とすることだった。そうすれば、これまで洋二が彼女に突きつけてきた脅迫の数々も、すべて水の泡となる。絵里は悟られないよう、脅しに屈して激昂しているふりを装う。「これは殺人よ!土地を手に入れるため、私と裕也を離婚させるためなら、どんな悪事でも平気でやるのね。裕也はあなたの息子なのに、少しでもあの人の気持ちを考えたことはないの?真実を知って恨まれるのが怖くないの?」絵里は声を荒らげて問い詰める。だが、洋二は意に介さない。むしろ目的を果たしたと言わんばかりに、傲慢で狂気じみた笑い声を上げる。「裕也は俺の息子だ。たとえ腹を立てようと、結局は藤原家の人間だからな。絵里、御託はいい。要求を呑むのか、呑まないのか!」画面越しの絵里は顔面を蒼白にし、目を真っ赤に血走らせて、激しい怒りに震えているように見える。とりわけその絶望に満ちた表情は、洋二に己の計画の完璧さを確信させるのに十分だった。「俺の部下が水原グループのビルの下にいる。大人しく土地の譲渡書にサインしろ。それと、あの20パーセントの株も俺に返せ。そうすれば、お爺さんはこのベッドで一生安らかに余生を送れるってもんだ」「あり得ないわ。絶対にサインなんてしない!」絵里は激しく罵る。「死んでも、あなたを道連れにしてやる。やれるものなら、切ってみなさいよ!」彼女は洋二を執拗に挑発し、脅迫を突っぱねる。その言葉に、洋二は怒りを爆発させた。「いいだろう!望み通りにしてやる」洋二は怒りで顔を真っ赤に染め、胸の内に業火を燃えたぎらせる。ハサミを握る手にぐっと力が込められ、今まさに酸素チューブが切断されようとしたその瞬間――「祖父に手を出したら、絶対に許さないから」「自業自得だ」二人の間で激しい言葉の応酬が続く。だが、酸素チューブを切ろうとした洋二の手が、突如としてピタリと止まる。鋭い視線がベッドの上の人影に釘付けになり、眉を寄せる。何かの違和感に気づいたようだ。絵里は目を細め、タブレットとスマホに映るその光景をじっと見つめている。丈裕も息を殺し、傍らで画面を食い入るように見守っている。だがこの様子では、どうやらこちらの目論見が見破られたらしい。案の定である。
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第658話

「今回は運が良かったわね。でも次はないわ。私の周りの人間、特に祖父に手を出そうものなら、絶対に容赦しないから」絵里は電話を切り、険しい表情を浮かべる。完璧な計画のつもりだったが、思わぬ綻びがあった。結局、見破られてしまったのだ。自分にも責任がある。じいちゃんを危険に晒さないため、あえて危険な橋を渡り、丈裕に頼んで年齢が近く、容姿も少し似ている老人を探してきて芝居を打たせたのだ。メイクアップアーティストの腕は確かで、その自然な特殊メイクにより、老人はじいちゃんと瓜二つの姿になっていた。それなのに、洋二に見抜かれるとは。「お嬢様、監視カメラはすべて取り外され、計画は失敗に終わりました。これからどうなさいますか?」丈裕が尋ねる。すでに病室の様子はモニターに映っていない。絵里は気落ちしない。少なくともこれで、自分が容易く握り潰せるような弱者ではないと洋二に知らしめることができたのだから。「病室にいる者たちに連絡して。あのお爺さんを家まで送り届けるように。絶対に安全を確保してね」あの老人は健康状態に問題はなく、プロのエキストラではある。だが、洋二の冷酷さを知る絵里はやはり不安を拭いきれず、念を押すように指示する。丈裕は頷き、すぐさま病室で待機している部下に電話をかける。一方、電話を切られた洋二は、怒りのあまりスマホを叩きつけそうになりながら、ベッドに横たわる老人を鋭い眼光で睨みつけている。老人は狸寝入りを決め込み、目を閉じている。腹の虫が治まらない洋二は、老人の胸ぐらを掴んで乱暴に引き起こす。「俺をコケにするとはな。手に入れた金を使う前に、あの世へ送ってやろうか!」老人はすっかりメイクが崩れた顔で、震えながら命乞いをする。自分は金をもらって仕事をしただけだから、どうか怒りを鎮めてくれと。洋二は容赦なく言い放つ。「お前のせいで、俺は危うく破滅するところだったんだぞ!それで許してくれだと?金を受け取る前に、引き受けていい仕事かどうか頭を使わなかったのか」そう吐き捨てると、洋二は乱暴に手を離す。ベッドに倒れ込んだ老人は、痛みに呻き声を上げる。ちょうどその時、病室の扉が開いた。数人の部下がなだれ込み、先頭の男が警告する。「今日の動画は、まだうちのお嬢様の手元にある。あまり乱暴な真似
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第659話

洋二は驚愕し、顔色を劇的に変える。「なんだと?」裕也は両手をポケットに突っ込み、その姿はより一層気高く優雅に見える。唇の端は高く吊り上がっている。「聞こえなかったのなら、もう一度言ってやろう。父さんが絵里をどうにかしようというのなら、絵里と俺の関係を少しは考えるべきだ。それでも父さんが自分のやり方を貫き、俺たち夫婦のことすら顧みないというのなら、俺も父さんの望みを叶えてやる。母さんと同じように、罪を償わせてやるよ」裕也の声は淡々としており、感情の起伏はほとんど読み取れなかったが、そこには目に見えない威圧感が漂っている。ビジネスの世界で何十年も揉まれてきた洋二でさえ、その気迫に圧倒されてしまう。洋二は怒りに燃え、怒りのあまり口元が制御不能なほど引きつる。「いいだろう!裕也、上等だ!」彼は怒り心頭に発し、裕也を睨みつけて怒鳴りつける。「雪枝の言う通りだ。お前という奴は、どう足掻いても懐かない恩知らずだ!」そう吐き捨てると、洋二は怒りも露わに立ち去り、その際に裕也の肩を激しく突き飛ばしていく。裕也の暗く沈んだ瞳が、わずかに揺らぐ。病室に足を踏み入れ、ぐるりと見回す。やがて、その探るような視線はベッドの傍らに立つ老人へと注がれ、長い間じっと見つめ続ける。病室にいる者たちは息を潜め、次々と頭を垂れる。裕也の端正な顔に冷ややかな表情が浮かぶ。固く結ばれた薄い唇がふと歪み、苦笑が漏れる。間もなく、一言も発することなく踵を返し、大股で病院を後にする。車内では、助手席に座る健が息を殺している。今日の一件がこのような展開になったのは、明らかに洋二様だけでなく、奥様までもが社長に隠し事をしていたからだ。哀れな社長は、奥様と藤原家の間に挟まれ、ただでさえ板挟みの状態だった。それでも社長は躊躇うことなく、奥様のために数え切れないほどのことをしてきたのだ。それなのに結局、社長は奥様に警戒され、微塵の信頼も与えられていなかった。これで怒りや悲しみを感じないはずがない。「社長、会社に戻られますか?それとも……」裕也は頭を後ろに預ける。その顔には、隠しきれない寂しさが滲んでいる。「カッパー・ポートへ戻れ」そう言い放つ彼の顔には、何の表情も浮かんでいない。すらりとした長い指が手首の機械式時計
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第660話

だが、絵里は彼の機嫌が優れないことを敏感に察知し、胸の奥がチクリと痛んで、少し息苦しさを覚える。「うん、終わったよ。そっちは?」「俺もだ」「……」二人はふいに、示し合わせたかのように黙り込む。以前の裕也なら、お腹は空いていないか、ご飯は食べたか、何が食べたいかと、優しく熱心に聞いてきたはずだ。そんな彼がこれほど素っ気ないのだから、絵里にも彼がへそを曲げていることはすぐに分かる。彼女はハンドルを握り直し、前方の交差点を左折しながら、自ら沈黙を破る。「今どこにいるの?よかったら、一緒に何か食べない?」「カッパー・ポートだ。飯はもう済ませた」それは拒絶だった。絵里は穏やかに微笑む。「清苑にいるのかと思ってた。じゃあ、今からそっちに行くね」電話の向こうで、再び短い沈黙が落ちる。数秒後、彼は低い声でぽつりとこぼす。「もうこっちには戻ってこないのかと思ってたよ」その言葉の裏にある感情を読み取り、絵里は彼がすねていることを確信する。通話を切ると、カッパー・ポートへと車を走らせる。彼女がここを離れてから、戻ってくるのはこれが二度目だ。田中が負傷して以来、絵里は彼女をセーフハウスに匿い、療養させていた。カッパー・ポート全体が、冷ややかな静寂に包まれている。絵里が足を踏み入れると、人感センサーで玄関の明かりが点くが、奥の部屋は真っ暗なままだ。玄関から漏れる柔らかな光を頼りにリビングへ進むと、ソファに腰を下ろしている裕也の姿がはっきりと見える。ダークスーツに身を包んだ彼は、暗闇に溶け込むように座っており、その全身からは感情を押し殺したような張り詰めた空気が漂っている。彫りの深い端正な顔立ちは、薄暗がりの中でもその美貌を隠しきれず、ミステリアスな雰囲気を纏いながらも、どこか近寄りがたい気高さを放っている。だがなぜか、絵里には彼がひどく寂しそうに見える。「どうして一人でこんな暗いところに座ってるの?電気もつけずに」絵里は彼の目の前まで歩み寄り、透き通るような声で気遣わしげに尋ねる。裕也が威圧感のある顔を上げ、自嘲気味に唇を歪める。「この広い家には俺一人しかいないんだ。電気をつけようがつけまいが、何も変わらないさ」絵里の胸がトクリと跳ねる。鋭い刃でかすられたような、名状しがた
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