All Chapters of 入籍しないなら…兄嫁になります!~冷徹社長に溺愛される日々~: Chapter 631 - Chapter 640

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第631話

絵里の胸が微かに震える。裕也の抱く恐怖と不安が、鮮明に伝わってくる。多くの言葉を交わすことはできなかったが、彼が自分のためにしてくれた数々の出来事が、脳裏に深く刻み込まれていた。絵里は無言のまま、そっと腕を上げて裕也の背中に回す。裕也は顔を伏せ、込み上げる感情のままに彼女の頭頂部へ何度も口づけを落とし、その身体をきつく抱きしめる。「絵里、きっと全部うまくいく。俺を信じてくれ。頼むから」裕也の低く、惹きつける温かな声が響く。彼は絵里の髪に、何度も何度も唇を押し当てる。「うん」拒絶の言葉など出なかったし、拒む気も起きなかった。絵里は裕也がここに留まることを静かに受け入れる。どうやってこの夜を乗り越えたのか、絵里でもよくわからなかった。翌朝目を覚ますと、裕也は前日と同じように、彼女の好物ばかりを並べた朝食を手作りしてくれていた。裕也がそばにいてくれるこの穏やかな時間が、絵里はたまらなく好きだった。心が芯から温まり、深い安堵に包まれる。朝早く、会社へ向かう。ニュースもネットも、昨日文紀が事情聴取のために連行されたという話題で持ちきりだった。中には意図的に世論を煽り、絵里が不正な手段を使ったからこそ藤原グループを打ち負かし、重要な土地の開発権を手に入れられたのだと書き立てる者までいた。こうした悪意に満ちたコメントなど、絵里はとうの昔に気にならなくなっていた。だが、梨乃は違う。絵里がショックを受けているのではないかと心配し、朝一番で気遣う電話をかけてくる。梨乃を安心させるため、絵里は事の顛末をすべて打ち明けた。梨乃は驚愕し、そして激怒する。「つまり、全部洋二が裏で糸を引いてたってこと?あなたと裕也を引き離すために、土地を無理やり手放させようとして、あんな汚い手まで使うなんて……いくらなんでも卑劣すぎるわ!」絵里の境遇を思うとやりきれず、梨乃はさらに口汚く罵詈雑言を並べ立てる。「ほんと、あのクソジジイ!裕也もあんな図々しい夫婦とは、さっさと縁を切っちゃえばいいのよ!」一方の絵里は、比較的冷静だった。いくら腹を立てたところで、事態が好転するわけではない。むしろ、感情的になれば状況を悪化させる恐れすらある。彼女はその話題を切り上げる。「今日、ギプスを外す日だったよね?鈴木さんは一緒に行ってくれ
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第632話

梨乃は章の瞳の奥にある感情を見透かしたように微笑む。「どうしたの、松渕先生?」章は相変わらず温和で控えめな様子だ。「なんでもありません」使い捨ての医療用手袋を外し、ゴミ箱へ捨てる。診察室には、彼ら二人しかいない。梨乃は黙って彼を見つめている。その清らかで優雅な佇まいに、胸の奥で感情が渦巻く。彼女はたまらず口を開く。「あの赤松さんって、あなたの彼女?結構美人だったけど」章の表情がわずかに強張り、その美しい瞳が再び彼女へ向けられる。「それは俺のプライベートなことです」相変わらずの冷淡でよそよそしい態度。まるで彼女を避けたがっているかのようだ。梨乃はふっと笑う。そして、急にどうでもよくなった。ここ数日、彼にメッセージを送っても、そっけない返事が返ってくるか、完全に無視されるかのどちらかだった。本当に、つまらない。「私、ちょっとからかってみただけよ。そんなに露骨に距離を置かなくてもいいじゃない」梨乃は松葉杖をついて立ち上がる。ギプスを外したばかりの脚にはまだ力を入れられないが、手慣れた様子で松葉杖を操り、帰る準備をする。その言葉を聞いた瞬間、章の穏やかな顔に複雑な色が一瞬よぎる。瞳の奥に驚きが走るものの、すぐにまた冷ややかな光を取り戻す。「分かっています」梨乃は唐突に笑みを浮かべる。なぜか、胸の奥がちくりと痛む。さっきまで、自分はいったい何を期待していたのだろう。今はもう、すっかり気力が失せていた。松葉杖をついて歩き出し、二歩進んだところで、不意に診察室のドアがノックされ、外から押し開かれる。入ってきたのは花音だった。梨乃の姿を見て、明らかに一瞬戸惑った様子を見せる。「ごめんなさい、お邪魔だったかしら」花音は何かを誤解したわけではなく、単に診察の邪魔をしてしまったと思い、礼儀正しく謝罪したのだ。それでも、思わず梨乃をまじまじと見つめてしまう。梨乃は背が高く、華やかで目を引く美貌の持ち主だった。薄化粧でありながらも洗練された美しさを放ち、気品と独特の存在感を兼ね備えている。梨乃は冷ややかな表情のまま、柔和な顔立ちの花音を一瞥する。「邪魔ではないよ。もう終わったから」そう答えたのは章だった。その口調には、梨乃に向けるようなよそよそしさは微塵もない。梨乃は心
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第633話

株式贈与契約書。なんと、裕也が署名した株式贈与契約書だった。しかも、受贈者は自分自身だ。日付は五ヶ月前。二人が入籍して間もない頃だ。絵里の心臓は早鐘のように打ち、胸を突き破らんばかりに激しく高鳴る。頭の中は真っ白になり、顔からすっと血の気が引いていく。なぜ、裕也はこんなものにサインしたのだろうか?なぜ、自分はこれの存在をまったく知らなかったのだろうか?あまりの驚きに、不意に突きつけられた事実に目頭が熱くなる。彼女はしばらくの間、呆然と立ち尽くす。やがて我に返ると、吉田を呼び入れ、事情を聞くことにした。「この書類はどういうこと?どうしてここにあるのか知ってる?」吉田はじいちゃんに何十年も仕え、絶大な信頼を得ている。彼が金庫の鍵を持っているということは、この件についても知っているはずだ。案の定、吉田はうつむき加減で、包み隠さず答える。語り終えると、吉田は慈愛に満ちた眼差しで絵里を見つめ、言葉を継ぐ。「治夫様がお嬢様に内緒にされていたのは、裕也様のお気持ちを確かめるためでございました。ですが、その後これほど多くの出来事が起こるとは予想もされておらず……現在、治夫様は意識不明の状態で、裕也様もまた、お嬢様のために命すら投げ出そうとされました。ですから私は、治夫様のご意思に従い、時機を見てこの事をお伝えしようと考えていたのです」絵里はすべてを悟り、記憶を遡る。日付から推測するに、裕也がこの契約書にサインしたのは、結婚して一週間も経っていない頃だ。あの時、裕也はじいちゃんを安心させて自分を嫁がせるために、これほどまでの誠意を示していたのだ。「ありがとう、吉田さん。よくわかったわ」絵里は目を真っ赤にし、今にも涙がこぼれ落ちそうになる。彼女は、裕也のあの言葉を完全に信じた。彼の心にいるのは、自分なのだと。あの星空の腕時計、株式贈与契約書、そして命懸けで守ってくれたこと。彼がしてくれたすべてのことが、何よりも力強く真実を物語っている。――裕也は、自分のことが好きなのだ。ずっと前から、愛してくれていたのだ。絵里は必要な書類を手に取ると、すぐさま車に乗り込み、裕也のもとへ向かう。一方、その頃。和也と洋二は調査の末、とんでもない事実を突き止めていた。「裕也の奴、藤原で保有している自分
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第634話

和也は以前から裕也の様子がおかしいと感じていたが、まさかずっと前から絵里を狙っていたとは思いもしなかった。だが、最初の頃は二人が接する機会などほとんどなく、本家での食事会で顔を合わせる程度だった。それに、あの出来事があってから、絵里は兄さんのことを嫌っていたはずだ。その後、自分が絵里と付き合い始めて二年も経たないうちに、裕也と寧々は相次いで海外へ渡った。時期を計算してみれば、二人が出国したのは、三年前の自分の誕生日の直後だった。洋二は和也の肩を強く突き飛ばし、怒りを露わにして叱責する。「こんな時に、まだそんな色恋沙汰にかまけているのか!今は何としても株式を取り戻し、絵里を始末することが最優先だろうが」「父さん!」和也は怒りで頭が真っ白になり、どうすればいいのか分からずにいる。「どうやって取り戻すんだよ!今の絵里は俺をひどく嫌悪しているし、母が彼女の父を殺したことまで知っているんだぞ。どうやって要求しろって言うんだ」洋二は数秒間考え込む。だが、やはり腹の虫が治まらず、苛立たしげにネクタイを乱暴に引き緩めた。鼻息を荒くし、その眼差しは凶悪で険しい。「あいつが大人しく差し出せばそれでいい。だが、もし拒むようなら……ふん」一方、絵里は水原家から車を運転し、グループ本社へ戻っていた。そして、かつて治夫が子会社の管理権を譲渡した際の関係書類一式を、丈裕に手渡す。「これを弁護士に渡して。この資料があれば、叔父が贈賄などしていないこと、ましてやそれが理由で藤原グループの子会社を手に入れたわけではないことが十分に証明できるわ。それと、中川を探すのを急いで」水原家からオフィスに戻って以来、絵里の表情はずっと冷たく沈んでいる。その様子に、丈裕は何かあったのではないかと心配になる。「すぐに対応いたします。絵里様、何か問題でも起きたのでしょうか?」絵里の頭の中は株式贈与の件でいっぱいだった。帰り道から今に至るまで、なぜ裕也が自分のためにここまでしてくれるのか、どうしても理解できずにいる。心の中の推測を確かめたかったのか、絵里は首を振って何でもないと答える。そして、部屋を出ようとした丈裕を呼び止めた。「一つ腑に落ちないことがあって、あなたに聞きたいの」「何でしょうか?私に分かることでしたら、何でもお
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第635話

丈裕の言葉は力強く、絵里の心に深く響いた。途端に自信が湧き上がり、その瞳にゆっくりと光が宿っていく。絵里は居ても立ってもいられず、丈裕を部屋の外へ押し出した。ドアが完全に閉まるのも待たず、スマホを手に取って裕也へ電話をかける。裕也はすぐに電話に出た。「こんな時間に電話なんて、俺に会いたくなったのか?」相変わらず穏やかな声で、からかうように言う。彼が自分を見つめる時に浮かべる、あの優しく甘い笑顔が脳裏に蘇り、絵里の心はすでに温かな感情で満たされていた。「ええ、会いたい。すごく会いたいわ」いつものように彼の冗談を軽く受け流すことはせず、絵里は真剣に、そして迷いなく答える。その反応に、逆に裕也の方が虚を突かれた。すぐに眉を寄せ、心配そうな声色に変わる。「今日はなんだか変だな。機嫌が悪いのか、それとも何かあったのか?」その声はひどく優しく、腫れ物に触れるかのようだった。だが今、彼は社長席に座り、会議テーブルの両脇には重役たちがずらりと並んでいる。普段の冷徹で、笑み一つ見せない裕也を見慣れている彼らは、電話の向こうの相手にこれほど甘い声を向ける社長の姿に、幻覚でも見ているのではないかと目を疑った。これが、あの容赦なく決断を下し、血も涙もないと噂される社長なのだろうか。「裕也、聞きたいことがあるの。今、時間ある?」スマホの向こうから聞こえてきた絵里の声には、焦りが滲んでいる。裕也は依然として優しい声のまま、しかしどこか緊張を含ませて答える。「あるよ。言ってごらん。叔父さんの件で何かトラブルでも起きて、気を揉んでるのか?」そう言いながら、彼は冷ややかな視線で重役たちを見渡し、すらりとした指でドアの方を指し示した。その意味は明白だった。出て行け、ということだ。重役たちは顔を見合わせ、そそくさと立ち上がって退室していく。誰もが内心、驚きと戸惑いを隠せなかった。つい先ほどまで、彼らは数日前に洋二が数百億円を投じて落札した土地の処理について話し合っていた。あの二つの区画は、すでに完全に無用の長物と化している。これは藤原グループにとって、今年最大にして最悪の投資失敗だった。急ぐべきなのは、一刻も早く手放し、損失を最小限に抑えることだ。議論は順調に進み、解決策がまとまりかけていたというのに
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第636話

裕也の瞳の奥に深い色がよぎり、その口角がわずかに持ち上がる。絵里にとって、それは求めていた答えではない。「あの時、言ってたじゃない。それは心に決めた人に贈るものだって……」「また忘れたのか。言っただろう。俺が心に決めた相手は、最初から最後までただ一人。絵里という女性だけだって」裕也は彼女の言葉を遮る。その声はどこまでも優しく甘やかだが、絵里の胸の奥底に力強く響く。あまりにも信じがたい言葉に、絵里の頭の中はガンガンと鳴り響いているようだった。真剣そのもので、それでいて羽のように柔らかな口調で、彼は彼女への想いを紡いでいく。途端に目頭が熱くなり、喉の奥がぎゅっと締め付けられる。込み上げる感動に、絵里はしばらく声を発することができない。彼女が黙って聞いていることを察し、裕也は骨ばった長い指でスマホを強く握りしめ、ゆっくりと穏やかな声で続ける。「お前に贈ったあの日から、伝えていただろう。それは五年前、愛する人に渡したかったのに、渡せなかったプレゼントだって……絵里。まさかいつかそれを渡せる日が来るなんて、ましてや、その想い人と夫婦になれる日が来るなんて、思ってもみなかったよ」絵里の記憶が、一瞬にしてあの頃へと引き戻される。それは結婚して間もない頃、彼が初めて祝ってくれた自分の誕生日だった。あの時、彼が言っていた「心に決めた人」とは、自分のことだったのだ。だが当時の自分は、和也にひどく傷つけられ、ボロボロになっていた。自分への自信など、とっくに失っていた。裕也の言う相手が自分だなんて、どうして気づけただろう。自分こそが、彼の愛する人だったなんて。以前の裕也といえば、何かと彼女に突っかかり、口答えをして、いつも不満げな態度を取っていた。若くして成功を収め、誰よりも優秀だった彼。だからこそ、彼が想いを寄せる相手は別の誰かだと思い込んでいたのだ。絵里は激しい後悔に苛まれる。もしあの時、ちっぽけなプライドを捨てて、彼に問い詰めていれば、こんなにも長い間、すれ違うことはなかったかもしれない。「裕也、会いたい。今からそっちに行く」声を詰まらせながら、絵里は言う。ここ最近保っていた冷静さなど、一瞬で吹き飛んでいる。「私から行くから、待ってて……」「いや、いい……」裕也が自分の身を案じ、わざわ
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第637話

絵里も彼の姿を捉えている。車を停めるや否や、絵里は待ちきれない様子で飛び出す。「裕也……」絵里は目元を赤く染めながらも、その顔には晴れやかな笑みを浮かべ、彼に向かって駆け出す。裕也も大股で歩み寄り、両腕を広げて彼女を迎え入れる。少し進んだところで裕也は立ち止まり、飛ぶように駆けてくる絵里を見つめる。モノトーンのコーディネートが陽光の下でひときわ鮮やかに映え、彼女の笑顔をさらに輝かせている。伝えたい言葉は山ほどある。絵里は勢いよくその胸に飛び込み、彼をきつく抱きしめる。「裕也、来たよ」絵里は涙ぐんだ瞳で彼を見上げる。「今までずっと裕也が歩み寄ってくれたから、今度は私が会いに行く番だね」唇を噛み締め、瞬きをした途端、涙がふいにこぼれ落ちる。胸の奥に溜まっているのは、どこまでも深い愛情だ。裕也は彼女の頬を両手で包み込み、親指でそっと涙を拭う。「いい子だ、泣かないで。メイクが崩れたら台無しだぞ」裕也の低く優しい声と、甘やかすような眼差し。絵里は素直に頷き、涙をぐっと堪えて、愛らしい笑顔を向ける。「どんなに不細工になっても嫌いになっちゃダメだからね。もし嫌いになったら、絶対に許さないんだから」「その気の強さ、なんだか昔に戻ったみたいだな。相変わらず手が焼ける」絵里は目を赤くしたまま笑い声を上げる。少しも怒ってはいない。胸の奥からじんわりと温かいものが溢れ出し、甘い感情が広がっていく。彼の優しい愛情に、ただただ浸っている。案の定、すぐに彼の低く掠れた声が降ってくる。「そういう裏表のないところが好きなんだ」彼は絵里より六つ年上だ。だが、絵里は十二歳の頃からすでに目を引くほどの美少女だった。真っ直ぐ伸びた髪、くっきりとした目鼻立ち。どこかあどけなさを残しながらも、同年代の誰よりも際立つ美しさを持っていた。その笑顔は高く昇る太陽のように眩しく、清らかで人の心を惹きつけた。絵里は彼を抱きしめる力を強め、口角を上げる。「お目が高いね」そう言い終えた直後。彼女のスマホの着信音が鳴り響く。鈴木からの電話だ。向こうの声はひどく焦っている。「水原さん、早く病院に来てください!小林さんが……小林さんが睡眠薬を飲んで自殺を図ったんです!」絵里の顔から血の気が引く。目の前の裕也を呆然
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第638話

「絵里、心配しないで。医者も大丈夫だって言ってたし、すぐに目を覚ますよ」裕也は彼女の前に立ち、自分の体に彼女を寄りかからせながら、その背中を優しくポンポンと叩いてなだめる。絵里は彼の腹部に顔を埋め、全身から不安と無力感を漂わせている。病院へ向かう道中、恐怖でどうにかなりそうだった。あんなに元気だった梨乃が、どうして突然睡眠薬を飲んで自殺を図ったのか、まったく理解できなかったのだ。だが今は、どれほど不審に思っていても、一言も発することができない。やがて、仕事に区切りをつけた章が知らせを聞いて駆けつけてくる。白衣を纏った彼の姿は、穏やかで控えめでありながら、どこか澄み切った空のように清らかで、手の届かない気高さがある。「小林さんの具合は?」章は二人を見て尋ねつつ、その視線を絵里へ向ける。彼を見た瞬間、絵里は鈴木の言葉をハッと思い出す。彼女は章を捕まえ、梨乃がギプスを外した日の状況を聞き出す。説明を終えると、章はわずかに眉をひそめた。「彼女が、俺のために自殺したとでも?」彼自身がそれを馬鹿げていると思うだけでなく、絵里でさえあり得ないと思っている。そもそも、梨乃が恋愛感情に溺れ、自分が最も嫌悪するような人間になるはずがない。幼い頃から数々の苦難を乗り越えてきた彼女は、決してそんなに脆い人間ではないのだ。「誤解しないで。ちょっと腑に落ちないことがあっただけ。梨乃は自殺なんかしないし、ましてやあなたのために命を絶つなんて絶対にあり得ないわ」絵里は、梨乃が彼に好意を寄せていることは知っているが、現時点ではあくまで好意の域を出ていないはずだ。最近、章が花音と親しくしていることくらい、絵里の耳にも入っている。両家には政略結婚の思惑があるらしい。梨乃は現実を冷静に見つめる人間だ。自分が何を望むべきか、何を諦めるべきかをよくわかっている。たとえ心から章を愛していたとしても、彼の政略結婚を知ったからといって、自殺という極端な道を選ぶはずがない。絵里は頭の中がぐちゃぐちゃになり、顔を洗うために洗面所へ向かう。裕也にはついて来ないように言い、顔を洗って水気を拭き取ったその時、スマホが鳴る。洋二からの着信だった。その声には、あからさまな脅しが込められている。「絵里、友達の具合はどうだ?あんなに元
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第639話

絵里は冷ややかな声で反撃する。「梨乃に何かあったら、絶対にただじゃおかないから」その頃、病室の外では二人の男が言葉を交わしている。「梨乃がお前のせいで自殺したって?一体何をしたんだ」裕也の漆黒の瞳には、いくばくかの真剣な色が浮かんでいる。章とは長年の付き合いだ。彼がどういう人間かくらい、当然わかっている。昔から男女関係にうつつを抜かすようなタイプではないし、短期間で梨乃を自殺に追い込むような真似をするはずがない。だが、梨乃は絵里の友人だ。お節介を焼く性分ではない裕也だが、絵里のためにも事情ははっきりさせておく必要がある。章はまるでとんでもない冗談でも聞いたかのように、その穏やかな顔に驚きの色を浮かべる。「彼女が俺のせいで自殺?冗談だろう?」裕也は両手をポケットに突っ込んだまま、冗談を言っている様子はない。「胃洗浄で丸々一瓶分の睡眠薬が出てきたそうだ。間違いなく死ぬ気だった。お前以外に、彼女をそこまで追い詰める人間はいないはずだ」「担当医の俺が雑談に付き合わなかったから、患者が自殺したとでも?」章は病室の中へ視線を向ける。梨乃がそんな人間だとは思えない。恋が実らなかったからといって命を絶つような、そんな真似をする女性ではない。ましてや、恋愛をゲームのように楽しむような人間なのだから。裕也は納得したように頷く。「わかった。お前が無関係ならそれでいい」一方、絵里は電話を切り、洗面所を出て病室の前へと戻ってくる。二人が向かい合って何かを話しているのが見える。遠目から見ても、二人とも長身で足が長く、非の打ち所がないほど容姿端麗だ。一人は気高く、もう一人は物静か。見ているだけで目の保養になる。特に、鋭いオーラを放つ裕也の前にいると、章の知的な雰囲気がより一層際立っている。確かに、梨乃が好むタイプのイケメンだ。「梨乃はまだ目を覚まさない?」絵里は近づきながら尋ねる。つい先ほど何があったのか、微塵も感じさせない様子だ。「まだだ」裕也が答える。章は白衣のポケットに両手を突っ込んでいる。中には白いシャツと黒のスラックスを合わせている。穏やかで知的な目元を向け、透き通るような声で口を開く。「今はかなり衰弱しているから、すぐには目を覚まさないだろう。おそらく夜になる」「わかっ
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第640話

隆は梨乃と何度か顔を合わせた程度で、親しいわけではない。だが、絵里の友人なら、自分にとっても大切な存在だ。そう考えれば、気にかけるのは当然のことだった。「無事だ。すぐに胃洗浄をしたおかげで、一命を取り留めたよ」裕也は大股で歩きながら、章と共に外へ向かっている。ストライプのスーツを着こなす章は、裕也の隣を歩いていても、彼の端正な美貌に引けを取らない存在感を放っている。章は唇をわずかに吊り上げる。「ゴシップ好きを認めないくせに。最近はヒット作の脚本が多くて忙しいはずなのに、どうしてそんなに噂話を集める暇があるんだ?」隆は章の声を聞いた途端、背筋をピンと伸ばす。「なんだ、お前ら一緒にいたのか?ならちょうどいい、これから一杯どうだ?実はちょっと耳寄りな情報を仕入れてな、お前らにも聞かせたいんだ」裕也と章は、示し合わせたかのように視線を交わす。隆という男は、確かに昔から耳が早い。特に名門界隈の愛憎劇やいざこざに関しては、彼の右に出る者はいないほどだ。二人は誘いに乗り、行きつけのミュージックバーへと向かう。夜の帳が下りたG市は、眩いほどのネオンに彩られている。行き交う車の波と人々の喧騒が、この街の繁栄を物語っている。章はソーダ水を注文し、形の良い凛々しい眉を上げて隆を見る。「で、何を仕入れたんだ?そんなに勿体ぶって」長身で脚の長い裕也は、ソファに深く身を沈めている。彫りの深い端正な顔立ちには、気怠げな色が漂っている。「大した情報じゃなかったら承知しないぞ」隆は舌打ちする。「おいおい、長年の付き合いだろ。俺がお前らにガセネタを掴ませたことが一度でもあったか?」確かに、それはない。隆は言葉を継ぐ。「裕也、小針俊介(こばり しゅんすけ)を覚えてるか?昔、海外でお前の最重要プロジェクトを潰しかけたあの男だ」裕也はふいに眉を寄せ、その顔色が目に見えて険しくなる。「続けろ」「その俊介が最近帰国して、このG市に拠点を構えたらしい。若い頃に裏社会絡みの怪しげな組織を作ってたって噂だが、今回の帰国の名目は『新エネルギーと金融市場の開拓』だそうだ。これって、今の藤原グループの重点事業と完全にバッティングしてるだろ?裕也、海外にいた頃も奴には散々妨害されたし、何度も暗殺されかけただろ。俊介が戻って
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