All Chapters of 入籍しないなら…兄嫁になります!~冷徹社長に溺愛される日々~: Chapter 641 - Chapter 650

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第641話

絵里は慌てて梨乃の手を握りしめ、その昂る感情を宥める。怯えきった彼女の姿に、絵里の胸には激しい怒りと痛切な愛おしさが込み上げてくる。ようやく梨乃が落ち着きを取り戻し、絵里はどうにか事の顛末を聞き出すことができた。恋愛沙汰で自殺未遂だなんて、笑わせるにも程がある。梨乃は家でショートドラマを見ながら、鈴木が買い出しから戻って美味しい料理を作ってくれるのを待っていただけだったのだ。それなのに、見知らぬ男たちが突然押し入ってきて、彼女が寝付けない時に使っていた睡眠薬を、力任せに喉の奥へと流し込んできたという。相手は二人か三人。手足を押さえつけられ、抵抗することすら叶わなかった。やがて強烈な薬効が回り、助けを呼ぶ暇もなく意識を失ってしまったのだ。思い出すだけでも恐ろしいのか、梨乃は強張った手で絵里の手を握り締め、怯えた瞳で見つめてくる。「そうだ……意識が朦朧としてた時、あいつらが言ってたの。『恨むなら絵里を恨め。身の程もわきまえず、手に入らないものを欲しがったあいつが悪い。お前を死なせるのは絵里だ』って」化けて出るなら絵里のところへ行け、とまで言われた。だが、その言葉は絵里を苦しませたくなくて、梨乃は胸の内に飲み込んだ。梨乃に睡眠薬を飲ませたのは、洋二が差し向けた連中に違いないと絵里は確信していた。目的は、絵里を脅して裕也から手を引かせること。雪枝と何ら変わらない残忍な手口だ。もし鈴木が異変に気づいて通報し、駆けつけてくれなければ、梨乃の命はなかった。「ごめんなさい、梨乃。あいつらの狙いは私だったのに、巻き込んじゃって……」絵里は罪悪感に苛まれながら謝罪する。まだ衰弱しきっているというのに、梨乃は絵里が自分を責めるのを恐れ、その手をしっかりと握り返して優しく宥める。「いいのよ。絵里は何も悪くない。悪いのは、そんな汚い真似をする連中なんだから」無条件で自分を信じ、庇ってくれる梨乃の優しさに、絵里の目頭が熱くなる。「絶対に泣き寝入りなんてさせない。あなたを傷つけた奴には、必ず相応の報いを受けさせるから」だが、梨乃の表情は晴れず、深い憂いを帯びていた。絵里が口にしなくとも、黒幕が一筋縄ではいかない相手であることくらい察しがついている。「絵里、今はやることがたくさんあるでしょ。私のことで無理しない
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第642話

昨夜、絵里は梨乃が寝静まるのを待ってから、丈裕に梨乃の自宅の防犯カメラ映像を確認させた。調査結果は、予想通りだった。「絵里様、連中はかなり手慣れています。マンションの敷地内だけでなく、小林さんの部屋に出入りする姿が映りそうな防犯カメラはすべて壊されていました。それどころか、小林さんが設置していたダミーカメラまで、事前に破壊されていたようです」それも、復旧不可能なほど徹底的に……絵里には、こうなることが分かっていた。洋二は雪枝よりも慎重な男だ。その上、雪枝という前例がある以上、さらに周到に動くに違いない。今は叔父さんの件を片付けるだけでなく、梨乃のことも守らなければならなかった。絵里は眉間を揉みほぐすが、その表情には隠しきれない疲労が滲んでいた。「中川誠治は見つかった?」「いえ、まだです。ですが、絵里様からお預かりした書類はすでに弁護士へ渡してあります。非常に有力な証拠になるとのことでした。ただ、最も確実なのは、やはり中川を見つけ出し、証言台に立たせることだそうです」「なら、捜索を続けて」「かしこまりました」丈裕は一礼したものの、すぐには退室せず、心配そうに問いかける。「少しだけでもお休みになられてはいかがですか?」絵里は首を横に振る。まだ企画書や土地開発計画などの書類に目を通さなければならず、確認が終わり次第、悟史に返答する必要があった。どれも会社が注力している重要プロジェクトであり、遅れを出すわけにはいかない。丈裕は彼女の頑なな横顔に痛ましげな眼差しを向け、小さく息を吐いて部屋を後にした。書類を読み終えた絵里は、悟史に電話をかける。「四号地を売却して、五号地の開発に充てるほうがいいと考えているの?」悟史は掃き出し窓の前に立ち、節くれだった指先でスマホを握っていた。彫りの深い眉骨が瞼に影を落とし、その瞳の奥を覆い隠している。「現在、グループの資金繰りは逼迫しており、新規事業への大規模な投資が急務です。四号地は地下鉄の重点開発エリアに位置し、五号地はその隣接地にあります。四号地を売却すれば資金繰りを改善でき、五号地の開発計画にも支障はありません」まさに一石二鳥というわけだ。絵里も以前から資金繰りの問題を懸念していた。特に先頃、グループが多方面から標的にされていた経緯を考えれば、この
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第643話

裕也が問い質す間もなく、絵里は一方的に言葉を重ねる。「こっちでちょっと片付けなきゃいけない用事があるから、また後でね」そして裕也の返事を待つこともなく、あっさりと通話は切られる。ツーツーという無機質な電子音を聞きながら、裕也は目を細めた。椅子の背もたれに体を預け、すらりと伸びた美しい指先でコツコツとデスクを叩きながら、物思いに沈む。数秒後、章へと電話をかける。「梨乃の様子はどうだ?」ちょうど患者の診察を終え、執務室に戻って椅子に腰を下ろしたばかりの章は、驚いたように顔を上げる。「もう命に別状はないはずだろ?主治医にも確認したが、体のほうは問題ない。ただ、医者が言うにはどうも不審な点があるらしくてね」裕也はその言葉に強い関心を示す。「聞かせろ。何が不審なんだ?」章は唇を少し引き締め、その澄んだ声に怪訝な響きを滲ませる。「医者の話だと、梨乃の頬には誰かに強く掴まれたような痕があったらしい。かなり乱暴にやられたのか、両頬が赤く腫れあがっていたと……それに食道や鼻腔にもむせたような痕跡が残っていた。どう見ても、自分で進んで薬を飲んだような状態じゃない」その言葉が意味するところは、火を見るより明らかだった。梨乃は、誰かに無理やり薬を飲まされたのだ。主治医は面倒に巻き込まれるのを恐れ、この件には触れなかったのだろう。章と親しい間柄だからこそ、こっそり耳打ちしたに違いない。なにしろ梨乃はモデルで、芸能界にも身を置いている。あの業界は乱れていて、裏の取引や暗黙のルールが横行している。世間の多くはそんな固定観念を抱いている。自身のキャリアを守るため、医者は災いの種を避けようと、いっそのこと見て見ぬふりをしたのだ。「お前は直接見てこなかったのか?本当に無理やり飲まされたと確信できるか?」章は一瞬言葉に詰まり、フッと黙り込む。裕也は瞬時に察知する。「お前、ずいぶんと後ろめたいようだな」「……」章は喉仏を上下させ、瞳の奥に暗い感情を押し込める。向こうで裕也が通話を切る。少し考え込んだ後、彼は席を立って執務室を出ると、エレベーターで上の階へと向かい、梨乃の病室へと歩を進めた。一方、裕也は考えれば考えるほど不審に思い、健を呼んで梨乃の睡眠薬服用に関する一件を調査させることにした。
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第644話

「松渕先生、どうしてここに?」身長170センチ近い花音は、ぺたんこの靴を履いて足早に章の前にやってくる。その顔には優しい微笑みが浮かんでいる。章は花音を見て、穏やかで上品な笑みを口元に浮かべる。「ちょっと患者の様子を見に来た」花音は手首の時計に目をやり、相変わらずたおやかで堂々とした笑顔を見せる。「この前うちに来てくれた時、母も祖母もすっかりあなたのこと気に入っちゃって。紹介してもらった湿布もすごく効くって言ってたの。祖母なんて、貼ったら足腰の痛みが楽になったって。またお礼も兼ねて食事に来てほしいって言ってたわ」その会話は、はっきりと病室の中まで聞こえてくる。スマホでショートドラマを見ていた梨乃は、すぐドアの外の聞き覚えのある声に気を引かれる。思わずスマホを置き、外の会話に耳を傾ける。「お安い御用だよ。そんなに気を遣わなくていい。お婆さんにもよろしく伝えて」「松渕先生って、本当に優秀だし、見た目も素敵でしょ?立ち居振る舞いも上品だし、誰からも好かれるのも当然よね」花音は屈託なくそう語る。その澄んだ声には笑みが混じり、とても楽しそうな様子だった。章は終始友好的な態度を崩さず、花音と言葉を交わす。「これから少し立て込んでるから。お婆さんには、また時間ができたら伺うって伝えてくれる?」「うん、ちゃんと伝えておく。それじゃ、お仕事の邪魔しちゃ悪いし、私はこれで……」花音は立ち去る前、わざとらしく章の背後にある病室の番号に目をやる。そして笑みを浮かべたまま視線を外し、身を翻して歩き出す。しばらくして、章が病室のドアをノックする。梨乃は心臓を跳ねさせ、呆然と入り口を見つめる。やがて、白衣姿の章が中へ入ってくる。すらりと背が高く、涼やかで穏やかな雰囲気を纏っている。見惚れるほどに美しい男だった。花音は章が病室へ入っていくのをその目で見届けると、瞳から瞬時に笑みが消え失せ、顔色が沈み込んだ。ナースステーションへ向かい、何気ない風を装って尋ねる。「あの病室の患者って誰?松渕先生の友達?」若い女性看護師は病室の方へ視線を向け、愛想よく答え始める。「水原絵里さんのお友達で、モデルの小林梨乃さんですよ。実物、テレビよりずっと綺麗で驚いちゃいました」「へぇ……小林さんがねぇ。松渕先生とは、
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第645話

梨乃は驚きに目を丸くして彼を見つめる。まさか図星を突かれるとは……さすがは裕也と同じ天才だ。頭の回転がずば抜けている。だが、これ以上この件に深入りしたくなかった彼女は、淡々と受け流す。「松渕先生って想像力豊かだね。知らない人が聞いたら、警察官かと思うよ」章は不可解そうに彼女を一瞥するが、無理に真実を聞き出そうとはしなかった。「いずれにせよ、誤解を招きたくないんだ。小林さんが恋愛を苦に自殺したなんて思われたくない」以前、絵里から聞いたことがある。周囲は自分が章のために命を絶とうとしたと思い込んでいると。愛を拒絶され、そのショックに耐えきれず、睡眠薬を飲んで自殺を図った――だなんて……そんな荒唐無稽な噂を口にする者がいるだけでなく、信じる者までいるとは。私のプライドはどうなるのよ。「松渕先生って顔がいいから、自意識もずいぶん高いんだね。確かに私から話しかけたけど、好きになるほどじゃないから。勘違いしないで」梨乃は強がって、必死に自尊心を守ろうとする。どうせ手に入らない男なら、せめて意地だけでも見せつけてやらなければ。章の涼やかな瞳が穏やかで淡い光を帯び、彼女を見下ろして微かに口角を上げる。「ならいい。小林さん、体を大切に」梨乃は引きつった笑みを浮かべた。胸の奥がズキリと痛む。自分に気がないことなど百も承知だが、この冷淡な態度はあまりにも残酷だ。「ご心配なく。そうするから!」梨乃はほとんど歯ぎしりせんばかりの勢いで言い放ち、その口元の不自然なカーブは、まさに作り笑いの見本だった。章は軽く顎を引き、礼儀正しくもよそよそしい態度で背を向ける。その立ち去る後ろ姿は、どこまでも気高く冷ややかだった。梨乃は怒り心頭に発し、彼が立ち去るや否やスマホを手に取り、勢い任せに連絡先を削除しようとする。だが、確認画面がポップアップした途端、ためらいが生じ、どうしてもタップできなかった。私が自分の実力でゲットした連絡先なのに、どうして消さなきゃいけないのよ。梨乃は考えを改める。素早く画面を戻し、絵里のトークルームを開いてメッセージを打ち込んだ。一方、絵里は寿樹との話を終え、悟史と共にクライアントに会いに行こうとしていた。通知音が鳴る。裕也からのメッセージかと思った。先ほど彼から来た連絡に、ど
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第646話

「俺にそんな遠慮は無用だ。さあ、早く仕事に戻りなさい。こっちのことは心配しなくていい」寿樹は絵里の肩に手を置き、ポンポンと軽く叩く。その親しげな仕草には、温かな気遣いと励ましが込められている。絵里の心は、それでずいぶんと落ち着きを取り戻した。藤原家の連中からは疎まれているものの、この世界には自分に優しく接し、心から愛し、大切にしてくれる人がたくさんいる。自分はもう、愛情に飢えて自信を持てなかった過去の絵里ではないのだ。午後四時過ぎ、絵里は悟史と共に取引先との会食へ向かった。悟史が手配したのは高級料亭の個室だった。厨房には看板料理を頼み、事前に俊介の好みを調べ上げ、彼の口に合う料理を中心に注文を済ませていた。俊介は絵里を見つめる。その底知れぬ危険な色を宿した黒い瞳に、わずかな驚きと感嘆の光がよぎる。「水原さんは若くて美しく、その上やり手だと聞いていたがね。若くして水原グループ全体を背負って立つばかりか、優秀なエンジニアでもあるとは。今日こうしてお会いして、まさに噂に違わぬお方だと思ったよ」「小針社長、お褒めいただき恐縮です。皆様に支えられているだけですよ」絵里は落ち着き払い、彼の放つ威圧感に少しも怯むことはない。「いや、事実だろう。先日の開発会議では、あの郁江を打ち負かしたそうじゃないか。彼女は名うてのシニアエンジニアだ。そう謙遜することはない」俊介の筋骨隆々とした巨躯が座敷に鎮座し、強烈なオーラを放っている。それはもはや、狂気を孕んだ覇気とさえ言えた。ここ最近、数々の修羅場をくぐり抜けていなければ、絵里もこの空気に呑まれていたかもしれない。悟史は絵里の瞳に浮かんだ冷ややかな色を察し、絶妙なタイミングで場を和ませに入る。「うちの会長はまだ若く、経験も浅いです。小針社長から学ばせていただくべき点が多々あるかと」俊介は豪快に笑い声を上げ、先ほどの険しく危険な表情を少し和らげた。悟史はビジネスの世界を長く渡り歩いてきただけあり、こうした接待の場での立ち回りは手慣れたものだった。俊介が絵里に酒を勧めても、彼がうまく間に入って防いでみせた。だが予想外なことに、杯を重ねて酔いが回った俊介が、再び絵里に酒を強要し始める。しかも今度は、かなり強硬な態度だった。「水原さん、そう無碍にしないでいただき
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第647話

すらりと伸びた長身。冷徹で圧倒的な威圧感を纏うその佇まいは、気高く、決して誰にも侵すことのできない絶対的な領域を形成している。絵里は呆然と彼を見つめ、胸の奥から熱いものが込み上げてくるのを感じた。「裕也」まさか、彼が来てくれるなんて……俊介は危険な光を宿した目を細め、彼を睨みつける。「何の用だ」裕也は絵里の腰に手を回し、強引に自分の腕の中へと引き寄せる。俊介は血に飢えた狂犬のような凄惨な雰囲気を漂わせているものの、裕也に対する警戒心からか、手出しすることはできなかった。裕也は視線を落として絵里を見つめる。先ほどまでの冷酷な眼差しが、瞬時に驚くほどの優しさへと変わる。「怖がるな。俺がいる」絵里はただただ彼を見つめ返す。さっきまで心を支配していた怒りと衝動が、嘘のように鎮まっていくのを感じていた。彼女は素直に頷く。「うん」「いい子だ」裕也の囁くような声は、どこまでも甘く、優しさに満ちていた。俊介は冷笑を浮かべ、皮肉を込めて吐き捨てる。「どうやらその女とは只ならぬ関係のようだな。俺とお前はこれまで互いの縄張りには踏み込まなかったはずだ。今日は俺がここで水原さんと商談している。余計な口出しはするな」裕也は脅迫を恐れるような男ではない。それどころか、他人から警告されることを何よりも嫌悪していた。漆黒の瞳に濃い影が落ちる。顔を上げた瞬間、その視線は鋭い刃となって俊介を射抜く。「彼女が俺の女であることは言うまでもないが、仮にそうでなかったとしてもだ。俺が庇うと言ったら、お前に何ができる?」俊介は怒りで顔を真っ赤に染め上げ、怒鳴りつける。「つまり、どうしても俺に敵対するつもりだな!俺がお前に手を出せないとでも本気で思っているのか!」「手を出せないはずがないだろう。この三年、お前が海外で何をしてきたか……わざわざお前の口から聞く必要もない。その借りは、一つずつじっくりと返させてやる」裕也は冷酷で端正な表情を崩さない。だが、その瞳から放たれる威圧感は、目に見えない巨大なプレッシャーとなって空間を支配していた。俊介は心の中で戦慄した。まさか、奴は何かを知っているのか?「海外で化けの皮が剥がれ、尻尾を巻いて国内に逃げ帰ってきて好き勝手暴れるばかりか、俺の女に手を出そうだなんて……どうやら、よ
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第648話

散乱した周囲と、負傷した悟史を前にして、絵里は裕也へ感謝の眼差しを向けた。「どうしてここに?」「クライアントと約束があったんだが、急遽予定が変更になってね」裕也は少しも責めるような素振りを見せず、その整った顔立ちは相変わらず温和で包容力に満ちていた。だが、視線を悟史へ移した途端、その瞳は氷のように冷たく、見下すような色を帯びる。「お爺さんが連れ戻した男がこれほど無能とはな。自分が怪我を負うだけでなく、あわや上司まで危険な目に遭わせるとは。お前の実力はその程度か?」悟史とて、俊介が傲慢な男であることは事前に調べていた。だが、海外から戻ったばかりで、一刻も早く実績を上げたいと焦っていたのだ。だからこそ、警戒が甘くなっていた。もし先ほど裕也が現れなかったとしても、俊介が絵里に無理やり酒を飲ませるような真似は、断じて許さなかったはずだ。「今日の件は確かに僕の不手際です。ですが、藤原社長は僕の上司ではありません。そのような口出しをされる筋合いはないはずですが」「今回のことは紫垣さんのせいじゃないわ。でも、あの俊介という男は確かに信用できない。これ以上の取引は無理ね」絵里は悟史の顔にまだ傷が残っているのを見て、彼を庇うようにそう言った後、急かす。「早く病院で診てもらって。ばい菌が入ったら大変だから」悟史は、彼女が普段と変わらず冷静で、少しも怯えた様子を見せないことに、密かな称賛の眼差しを向けた。軽く頷き、裕也を無視して自分の助手を連れてその場を後にした。レストランを出て彼に続くアシスタントの顔には、重苦しい不安が浮かんでいた。「せっかくこのプロジェクトは万全の準備を整え、悟史様が手腕を振るう絶好の機会でしたのに。あの俊介のせいで、すべて台無しです」「奴と手を組まずとも、代わりはいくらでもいる。俺の計画を邪魔した俊介を、このまま生かしておくつもりはない。だが、奴も一筋縄ではいかない男だ。人を動かす時は、細心の注意を払え」「承知いたしました」一方、絵里は裕也と共に歩き出す。車に乗り込み、彼の気配を感じてようやく張り詰めていた心が安らぎ、先ほどの強気な態度はすっかり影を潜めていた。「今後、クライアントとの面会は悟史に任せればいい。お前自身が赴く必要はないよ」裕也は手を伸ばし、彼女の額にかかる髪をそっと
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第649話

絵里は彼の真摯な言葉を聞きながら、胸の奥にどうしようもないやるせなさを覚えていた。裕也を信じていないわけではない。ただ、今の二人が直面している問題があまりにも多すぎた。生死に関わるほど重く、警戒せざるを得ないのだ。叔父さんが洋二に裏で陥れられ、次は梨乃が狙われた。このままでは、洋二が次に何をしでかすか分かったものではない。「裕也、水原には今、私が必要なの」絵里は手を引き抜き、冷ややかでよそよそしい表情を作る。彼の目を見ることすら忍びなかった。「恋愛感情なんて、今は後回しでいいと思う。それに、私たちはもう夫婦なんだし」これほどの試練を経験して、絵里はようやく気づいた。恋愛感情など、人生においてほんの些細な一部に過ぎないのだと。以前の彼女はいつも思い悩んでいた。和也や彼の友人たちに好かれないことで劣等感を抱き、なんとか自分を変えようと必死だった。裕也と結婚した後も、相変わらず愛情に飢えていた自分は、次第に彼の優しさに溺れ、今度は彼に嫌われるのではないかと気を揉むようになった。だが今、裕也が自分を好いてくれている、愛してくれていると確信している。あと一歩踏み出せば、かつて夢見た愛情が手に入るのだ。それなのに、人の命の前ではそんなもの、取るに足らないことだと気づいてしまった。「絵里……」裕也の漆黒の瞳に暗い色がよぎり、眉を寄せて、理解できないというように彼女を見つめる。「俺の気持ちを知っているはずなのに、どうして答えてくれないんだ?俺はそこまでお前に好かれる価値のない男なのか?」絵里は喉が詰まったように言葉を失った。裕也は何度か喉仏を上下させ、感情を押し殺したような暗い瞳で彼女を見つめる。「何を心配しているのか、俺に話してくれないか。梨乃のことか?それとも、お爺さんのことか」根気よく問い詰める。その態度は優しく、それでいて決して引き下がる様子はなかった。絵里は胸を強く締め付けられ、彼のそんな姿を見るのが忍びなくなった。深くため息をつく。「梨乃は恋愛を苦にして自殺なんてする子じゃない。あの子がそんなことするはずない。誰かに薬を飲まされたのよ」彼女が口を開いたのを見て、裕也の顔には驚きどころか、むしろ安堵のようなどこか嬉しそうな色が浮かぶ。「何か分かったのか?父が絡んでいるのか」
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第650話

裕也の誓いのような言葉に、絵里の胸は熱く揺さぶられた。その広い胸に抱かれたままこくりと頷くと、かつてないほどの力強い自信が心に満ちていくのを感じた。確かに、お互いにもう一度チャンスを与えるべきなのだ。じいちゃんが目を覚まし、裕也がその許しを得られたら、二人の関係を正式に公表しよう。そうなれば、もう洋二にも二人の仲を裂くことなどできないはずだ。絵里はついに心を決め、口を開く。「じゃあ、一緒に乗り越えましょう」「ああ」裕也は感極まったように絵里を強く抱きしめた。壊れてしまいそうなほど、力のこもった抱擁だった。やがて、車が静かに停車した。先に降りた裕也が彼女の側のドアを開け、そっと手を差し出す。絵里はふふっと微笑み、ためらうことなくその手を取る。彼女の手は、裕也の手のひらにしっかりと包み込まれた。二人は手を繋いだまま、連れ立って上の階へと向かう。夜もすっかり更けていた。シャワーを済ませた二人は、ひとつのベッドに身を横たえた。あの誕生日パーティーの夜以来、こうして再び抱き合って眠りにつくのは初めてのことだった。互いの懐かしい匂いが、鼻の奥をくすぐる。部屋の中は、甘く温かな空気に満ちていた。絵里は裕也の肩に寄りかかりながら、とりとめのない言葉を交わす。過去のわだかまりについては、二人とも示し合わせたように口にしなかった。オレンジ色の柔らかな間接照明が二人を照らし出し、その艶めかしい雰囲気をいっそう際立たせている。黒のキャミソール姿の絵里は、透き通るような白い肌を惜しげもなく晒し、身を縮めるその仕草には無防備な色香が漂っていた。裕也の瞳に熱い欲望の火が灯る。彼はそっと彼女の顎をすくい上げると、そのまま静かに唇を重ねる。絵里は一瞬身を強張らせたが、彼を突き飛ばすことはなかった。二人の吐息が絡み合った瞬間、まるで導火線に火がついたかのように、その熱は一気に燃え上がった。「絵里、いいかい?」裕也は彼女の上に覆いかぶさると、その熱を帯びた瞳で真っ直ぐに見つめ下ろす。そこには、深い愛情と理性を保とうとする葛藤が入り混じっていた。こんな状況になってもなお、彼は彼女の意思を尊重しようとしてくれているのだ。絵里はもう余計なことを考えるのはやめにした。自分の心に素直になり、そっと腕を伸ばし
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