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第3話

Author: 真夏
美月は目を閉じ、涙が頬を伝って激しく流れ落ちた。

「来月、蘇市に戻る。お父さんが決めた相手と結婚する」

「うん……分かった!美月、帰ってくればいい。帰ってくればいいさ……」

明雄の声は震えていた。失っていたものを取り戻した歓喜だ。

「すぐに手配する!」

美月は壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。

そして最後に、あのドアを一度だけ振り返った。

裸足のまま、冷たい夜の闇へと踏み出した。

世間は、彼女をレース界に彗星のごとく現れた天才少女としてしか知らない。

だが彼女が、蘇市の辰月グループ唯一の後継者だということは、誰も知らない。

今、夢は覚めた。

家に帰るべきだ。

美月は病院に3日間入院した。

その3日間、辰朗は一度だけ慌ただしく顔を出したきりで、滞在は10分にも満たなかった。

お見舞いの品とバラの花束を置き、「会社に急用がある」と言って去っていった。

去るまで、彼女の耳の具合を一言も気にすることはなかった。

医師は静養を勧め、手術をするか早急に決めるよう告げた。

だが彼女には、耳よりも急ぐべきことがあった。

自分のものであるトロフィーと金メダルを、必ず取り戻さなければならない。

それは汗と青春を注ぎ込んで手にした栄誉だ。芽依の元に残すわけにはいかなかった。

退院手続きは、すべて美月一人で済ませた。

病院を出るとき、クラブのアシスタントの内山(うちやま)からメッセージが届いた。

【小林さん、今日ご退院されたと聞きました。クラブでサプライズを用意してるから、必ず来てほしいと、北村さんが言ってました】

サプライズ?

美月はただ【うん】と返した。

タクシーでクラブへ向かう途中、美月は車窓の外を眺めた。

この道は、あまりにも馴染み深い。

かつて、辰朗は毎日自分をクラブに送っていた。自分は助手席に座り、彼は片手を伸ばして自分の手を握った。

「美月、お前は夢だけを追えばいい。俺はいつでも、お前の一番強い後ろ盾だ」

今になって、彼女は理解した。

彼は確かに「後ろ盾」だった。しかし、その後ろ盾は芽依のためのものだった。

そして、美月の無防備な背後から、最も致命的な一撃を与えた。

夕陽がクラブのガラス張りの外壁を紅く染めていた。

ここは、辰朗が美月のために「一から作り上げた」王国であり、二人の夢の始まりだと言っていた場所だ。

クラブのドアを押し開けた瞬間、美月は立ち尽くした。

場内いっぱいにシャンパンローズが敷き詰められている。入口から中央まで続き、濃厚な花の香りが押し寄せてくる。

夜風に揺れるろうそくの炎が、壁に彼女にとって見慣れたあの写真を映し出していた。

一枚目は、大学時代、美月が初めて学内レースで優勝したときのものだ。ゴールラインで、辰朗がひまわりの花束を抱えて待っていた。

二枚目は、初の全国大会だ。辰朗は、緊張で手汗をかく彼女の手を握り、「大丈夫、俺がいる」と言った。

三枚目は、初の全国優勝だ。表彰台の下から、辰朗は宝物を見るような誇らしい眼差しで、彼女を見上げていた。

どの写真も、美月が疑いなく信じていた幸せを刻んでいた。

今見ると、その笑顔の一つ一つが、彼女の愚かさを嘲笑っているようだ。

辰朗は、彼女が一番好きなダークグレーのスーツを着て、ベルベットの指輪箱を手に、バラで囲まれたハートの中央に立っている。

彼女に気づくと、彼はいつも通り微笑み、深い愛情をたたえた眼差しを向けた。

その演技は見事だ。

「美月」

彼は片膝をつき、とても優しい声で言った。

「俺と結婚してくれ」

チームメイトたちが四方から集まり、歓声が次々と上がった。

「結婚してあげて!」

「小林さん、北村さんが3日もかけて自分で準備したんだよ!幸せだね!」

「ロマンチックすぎるわ!」

美月は入口に立ったまま動かなかった。

辰朗のイケメンで愛情深そうな顔を見た瞬間、胃の奥がむかむかして吐き気がこみ上げた。

「まだ怒ってるのか?」

辰朗は一歩近づき、後悔に満ちた口調で言った。

「あの日は俺の不注意だった。芽依のマシンが制御不能になったのに気づけず、お前を怪我させてしまった。俺が悪い。美月なら、許してくれるだろ?」

彼は美月の手を握った。

掌は温かい。

かつては、その温もりが美月を安心させた。

今は、全身が凍りつくように感じるだけだ。

「一生をかけて、お前に償うと誓う」

彼は指輪を彼女の目の前に掲げた。

キャンドルの光に、ダイヤモンドが痛いほど眩しく輝く。

「愛しい美月よ、俺にお前を支える機会をくれないか?」

チームメイトたちは息を潜め、興奮に目を輝かせていた。

美月は目を伏せ、指輪を見つめた。

「いいわ」

そして、彼女は自分の声が聞こえた。

静かで、何の感情の揺れもない声だった。

辰朗の目に喜びが走り、疑うこともなく、待ちきれない様子で指輪を彼女の指にはめた。

冷たい金属の感触は、まるで枷のようだ。

「やっぱりな!」

彼は彼女を強く抱き寄せ、耳元で囁いた。

「美月、お前を世界一幸せな花嫁にする」

チームメイトたちは歓声を上げ、拍手が沸き起こった。

すべてが熱烈で、美しく、夢のように現実味がなかった。

美月は彼の肩に身を預け、彼の体から漂う淡い男性用香水の匂いを感じた。

そして、かすかに甘い香りが混じている。それは芽依がいつも使っているものだ。

美月はそっと彼を押し離し、何気ないふりで口を開いた。

「私のトロフィーと金メダルは?」

辰朗は一瞬、表情をこわばらせた。

「どうして急にそんなことを?」

「ずっと見ていなかったから、見たくなったの」

美月は彼を見つめ、もう一度繰り返した。

「見たいの」
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