健吾は手を伸ばし、綾の唇についた水滴を拭おうとしたが、触れる前に引っ込めた。中野家は綾のしつけに厳しい。彼女はいつも行儀よくしていなければならなかった。彼は綾を中野家まで送り届けると、一人で歩いて家に帰った。東都の春の夜はまだ肌寒さが残るものの、吹き抜ける微風が昼間の緊張を心地よく解きほぐしてくれた。見慣れた街並みや道端の木々にそっと視線を巡らせていると、自分はこの街をいつの間にか、かけがえのないほど好きになっていたのだと気づかされた。家に戻ると、リビングでニュースを見ていた父の冬馬が、彼に気づいて眼鏡を外した。「で、行く大学は決まったのか?」健吾は玄関で靴を脱ぎながら、ふと動きを止めた。「まだだ」冬馬はお茶を淹れ、平淡な声で言った。「I国の大学へ行くと聞いたが、ビアンカのためか?」健吾はソファに腰を下ろし、背もたれに体を深く沈めた。テレビの画面には国際会議のニュースが流れていた。各国の国旗とともに、退屈なE国語の字幕が淡々と映し出されている。「父さん、俺はどこに行くべきだと思う?」彼は逆に問い返した。冬馬は彼を一瞥すると、ティーカップを机に置いた。「父親として、お前には自分のために生きてほしいと思っている。東都だろうとI国だろうと、本当に行きたいところなら、俺はいつでも応援するさ」冬馬は言葉を切ると、息子の肩を叩いた。「健吾、I国に戻ったところで、ビアンカのために何かできるわけじゃない。人にはそれぞれの道がある。お前が後悔しないなら、それでいい」健吾は何も言わなかった。川辺で綾が顔を上げて自分を見つめていた姿を思い出していた。彼女はあんなふうに素直に感情を出すことはめったになく、大抵はうつむいて、自分の気持ちを心の中にしまい込んでいた。泣きそうな声で「東都に残ってくれないの?」と言った言葉が、頭の中で何度も響き、心をかき乱していた。「父さん、ありがとう。ちゃんと考えるよ」立ち上がってバスルームへと向かい、冷たいシャワーを頭から浴びて全身を冷やした。後悔しない選択、か?I国の大学へ行ってしまえば、綾との関係は高校の友達のまま終わってしまう。彼はそう確信していた。綾は大人しく控えめに見えて、芯は強い。彼女は引き止めてくれたのに、自分は残ることをしなかった。そんなことをすれば、彼
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