Todos os capítulos de 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった: Capítulo 891 - Capítulo 900

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第891話

1時間ほどぶっ続けで体を動かし、ようやく先生から「その場で小休止」の合図が出された。綾はその場にぺたんとへたり込んだものの、思っていた以上に地面が冷たくて硬かったのか、ひんやりとした感覚に驚いて慌てて飛び起きた。スポーツボトルを両手で抱え、喉を鳴らして勢いよく水を流し込んだが、どうにも物足りない。ただの水ではなく、何か味のついたすっきりしたものが無性に飲みたくなった。同じユニットの子たちが汗を拭いながら寄ってきて、「ねえ、あっちの仕切ってる先輩スタッフ、イケメンじゃない?」「でも、向こうの先生はめちゃくちゃ厳しくて怖そう」などと、指導員たちの品定めをして盛り上がり始めた。綾は横を向いて聞き耳を立て、視界の隅で健吾がコーヒーの袋を下げてこちらに向かって歩いてくるのに気づいた。彼女は口に水を含んだままルームメイトの話を聞いているふりをした。だが、意識はすっかり健吾に向いていた。健吾が牧子にコーヒーを手渡すのを見届けてから、綾はやっと口の中の水を飲み込んだ。そして、心も一緒に底へと沈んでいった。体の汗がまるで酢の汁のようになって、全身がその中に浸かっているみたいだった。胸がひりひりと痛む。この感情を抱く自分がひどく恥ずかしかった。綾には、健吾の行動に対して何か思う権利などなかったからだ。気を紛らわせるため、彼女は教官の話題に加わった。「ねえ、隣のグループを仕切ってる先輩、結構カッコよくない?背も高くてスタイルいいし、綺麗な小麦色に焼けてて」同じユニットの子が興味津々に身を乗り出した。「小麦色の肌が好きですか?」綾は頷いた。「うん、小麦色の肌の方が男らしくていいですよね」もちろん、それはその場のノリに合わせた適当な相槌にすぎない。生まれてこの方恋愛などしたこともない彼女に、本当の「男らしさ」など分かるはずもなかった。そもそも彼女の周りにいる男性といえば、誠や湊に、それから健吾と、揃いも揃って肌の白い美形ばかりだ。だからこそ、絵に描いたような小麦肌の男性がやけに新鮮に映り、昔読んだ恋愛小説のヒーローを無意識に重ねてしまっていただけだった。差し入れのコーヒーを手に歩み寄ってきた健吾は、その台詞をよりによって一言一句聞き届けてしまい、その表情を小麦肌どころか文字通り真っ黒に曇らせた。彼は手元のコーヒーに目を落とし、そ
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第892話

午前中の体力測定が終わり、綾は疲れ果てて、空腹でフラフラだった。学食は人で溢れかえっていた。とても並ぶ気力など起きず、寮に戻ってデリバリーでも頼むことにした。学食を出てスマホを取り出すと、不在着信が2件あった。健吾からだった。少し迷ったものの、掛け直さずにそのままデリバリーアプリを開いた。何を頼むか決めかねていると、ふいに目の前の「壁」にぶつかった。「ごめんなさい!」頭を押さえながら慌てて謝った。顔を上げると、湊がにこやかに自分を見つめていた。「湊!」湊は、綾を見て、心配そうに目を細めた。「歩きスマホは危ないだろ」綾はスマホを軽く振って見せた。「学食が混んでるから、デリバリーを頼もうと思って」湊は笑って言った。「弁当、買ってきたよ。車の中で食べよう」昼休みの合間を縫って綾の顔を見に車を走らせてきた湊は、新学期が始まったばかりの学食などどうせ大混雑しているだろうと見越して、わざわざ弁当を差し入れに持ってきたのだった。綾は彼の後をついて歩きながら言った。「湊、ありがとう。でも部屋に持って帰って食べるよ。車を汚しちゃうし、匂いもついちゃうから」湊は並んで歩きながら言った。「他の人なら絶対に車内飲食なんて禁止だけど、綾は特別だよ。車の中でドリアンを食べたって構わない」綾はふふっと笑い、湊の腕に抱きついた。モヤモヤしていた気分が一気に晴れていった。綾が去って間もなく、健吾が女子寮の前に現れた。手にはテイクアウトの弁当を下げている。綾に何度も電話をかけたが、彼女は出なかった。綾はスマホをマナーモードにしているのだろう。いくら待っても電話は繋がらず、綾が寮に出入りする姿も見当たらない。疲れすぎて、ご飯も食べずに寮で寝ているのかもしれない、と健吾は思った。腕時計で時間を確認し、寮の外で静かに待ち続けることにした。女子寮のエントランスを出入りする学生たちは、行き交うたびに目を奪われ、次々と彼へ感嘆の混じった熱い視線を送っていた。中には興奮を隠しきれず、こっそりスマホのカメラを向ける子までいる始末だ。実は昨日から、信じられないほどのイケメンハーフが入学してきたと噂になっていた。学内の匿名SNSには写真が大量に投稿され、学部や名前まで特定されていたのだ。健吾はそんな視線を意にも介さず、時折顔を
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第893話

ガイダンス期間が明け、週が明けた月曜日からはいよいよ通常授業が始まった。綾は大学生活への期待に胸を膨らませ、早くから教室に来ていた。一番前の席に背筋を伸ばして座る姿は、まるで一昔前の真面目な生徒のようだ。彼女以外、教授の目の前に座りたがる人なんていない。しかも初日の授業で、お互いに様子見の段階なのだから。ほとんどの学生は後ろから席を埋めていき、少し熱心な人でも3、4列目に座る程度だった。本当に遅く来て後ろが空いていない人だけが、ようやく2列目の端っこに腰を下ろすくらいだ。大学の教室は広くて席数が多いのに、学生は少ない。全員が集まりかけても、最前列には綾ひとりだけだった。けれど綾はまったく気にせず、気まずさも感じない。ただ学びへの意欲でいっぱいだった。チャイムが鳴り響こうとしたその時、隣の席がバタンと倒された。見慣れた姿がスッと隣に腰を下ろす。まるで、塾時代と同じように。健吾は静かに腰掛け、ノートを机の上に置いた。綾の視線に気づいたのか、健吾は顔を向けて彼女を見た。「久しぶり」その声はあっさりとしていて、まるで二人の間に何もなかったかのようだった。数回顔を合わせただけの知人のように。綾もまた、冷ややかに返した。「久しぶり」二人はまるで同じ極の磁石だった。近づけば近づくほど反発し合い、互いを遠ざけてしまう。お互いに頑固で、相手のために自分を変えようとはしない。だから近づいては離れる関係を続けるしかなかった。1コマ目の講義を終えると、次は隣の講義棟へと移動して2コマ目の授業を受ける。綾は後ろをついてくる健吾を無視して最前列に座った。健吾もまた隣に座り、やはり一言も交わさない。二人は電子黒板を見つめ、教授の話に耳を傾けながら、それぞれノートパソコンにメモを取っていた。教授はそんな熱心な二人の学生を見て嬉しくなり、思わず二人の名札に目を留めた。午前中最後の2コマ目を終える頃には、ちょうど待ちに待った昼休みの時間を迎えていた。綾はとっくにお腹が空いていた。けれどこの時間に学食へ行けば、絶対に並ぶことになる。デリバリーを取ろうか迷った。だが湊からの言いつけを思い出した。デリバリーは控えろと言われていたのだ。彼女はスマホをしまい、やっぱり学食へ行こうと決めた。その時、華やかな人影が彼女の横を
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第894話

「綾!」背後から名前を呼ばれると同時に、逞しい手に腕を強く掴まれた。綾が驚いて振り返ると、そこには焦りと苛立ちをあらわにした健吾の姿があった。「ついてきて」彼は有無を言わさず綾を引っ張って歩き出し、周りの学生たちが一斉に視線を向けてくる。振り払うこともできず、好奇の目に晒されて居心地が悪くて仕方なかった。「青木くん、どこへ連れていくつもり?」健吾は何も答えず、校門の外まで引っ張っていくと、タクシーを拾った。彼が告げた行き先は、なんと川沿いの河川敷だった。「青木くん、午後も授業があるのよ」綾が降りようとすると、健吾は彼女を押さえ、運転手に車を出すよう指示した。「間に合うから」タクシーは川沿いの河川敷へと向かった。幸いにも日差しが暖かく、過ごしやすい気温だった。健吾はスマホを何度か操作した後、立ち尽くす綾に目を向け、座るよう促した。綾はいつもの場所に腰を下ろし、怪訝そうに尋ねた。「こんなところに来て、どうしたの?」健吾は綾の頭上の石に片手を突き、上から彼女を見つめた。冷たく突き放す綾の態度に、彼は苛立ちを募らせていた。一言も口を利いてくれないこの期間、気が気でなく、落ち着かない日々が続いていたのだ。このまま話し合えなければ、自分はおかしくなってしまうと思っていた。他の人にこんな態度を取られたなら、相手にもしなかったはずだ。けれど綾の前では、いつも自分のルールを曲げてしまい、折れるしかなかった。「どうして俺を無視するんだ?」と彼は訊いた。綾はきょとんとしたが、すぐに平静を装って言った。「勘違いよ。無視なんてしてない」健吾は呆れたように息を吐いた。「綾、俺の目を見てちゃんと答えて」綾が顔を上げないのを見て、彼はその場にしゃがみ込み、下から綾を見つめた。「どうしてなんだ?」まっすぐ澄んだ瞳に見つめられ、綾は視線をそらすことができなかった。言葉を発する前に、胸が詰まって声を詰まらせていた。綾は握りこぶしで彼の肩を叩いた。「東都中央大学に出願したの、どうして教えてくれなかったのよ?」そんなことだったのかと、健吾は呆れて笑う。「驚かせたかったんだ」「全然嬉しくない!」綾は鼻をすすり、目を真っ赤に腫らした。「本当にI国の大学へ行くんだと思ってた。私は
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第895話

許すも許さないもない。もともと自分が勝手に熱い気持ちを向けていただけなのだ。それに牧子のことだって、問い詰める筋合いなんてない。健吾はあまりにも眩しく、まるで夜空に浮かぶ月のようだ。触れることが叶わないなら、そばでそっと見上げるだけでいい。綾は真剣な顔で尋ねた。「青木くん、私たち、いい友達よね?」健吾は少し沈黙した。本当は、友達以外の関係になりたいと言いたかった。だが中野家のしつけが厳しく、異性との親しい付き合いを禁じられているとも言っていた。綾を傷つけたくないし、絶対に失いたくもない。これからの長い未来のために、今はただそばで見守るしかない。一線だけは絶対に越えてはならなかった。彼は頷いた。「もちろん。一番の親友だよ」綾は微笑んだ。これでいい。友達なら簡単に壊れない。明里とも十何年も親友を続けている。欲張るつもりはないし、自分の立場もよくわきまえている。健吾は青木家の一人息子で、自分は中野家に引き取られたみなしごにすぎない。自分と彼との間には、決して埋めることのできない雲泥の差が横たわっている。午後の授業があるため、二人は昼食を終えてすぐに大学へ戻った。健吾自身は初日からサボっても平気だったが、隣にいる優等生の綾がそれを許すはずもない。教授が熱弁を振るっているが、健吾の耳には全く入らなかった。視線の先には熱心にノートを取る綾がいて、心の中は仲直りできた喜びに満たされていた。教授が水を口に含んだ隙に、綾が健吾に目をやった。彼が上の空だと気づき、机の下で彼の太ももをつねった。健吾が痛みに息を呑むと、綾は無表情でテキストをとんとんと叩き、真面目に聞くよう促した。健吾とて、綾の頑固な性分は骨の髄まで知り尽くしている。完全にロックオンされた以上、ここで居住まいを正さなければ、講義が終わる頃には太ももが青あざだらけになるまでつねられ続ける羽目になるのだ。午後は1コマしか授業がなく、終わったところでまだ3時半。あまりの早さに、綾はどこか勝手が狂うような落ち着かなさを覚えていた。リュックを背負い直した綾は、講義を終えて吐き出される学生たちの波に身を任せるようにして、講義棟の出口へと向かった。「図書館に行こうよ」「どっか遊びに行こう」図書館に行きたい綾は、遊びに行きたがる健吾をあきれ
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第896話

健吾は綾のそばへ歩み寄り、彼女のカバンを手に取って元の席へと戻っていった。綾は慌ててついていき、小声で尋ねた。「何するの?」「ここに座るって約束しただろ?」健吾は不機嫌そうに顔を曇らせ、彼女のカバンを机の上に置くと、自分もその隣に腰を下ろした。綾があたりを見回しても、牧子の姿はどこにもなかった。「お友達は?」健吾は眉をひそめた。「どの友達のことだよ」綾は声をひそめて説明した。「諏訪さんがここに座っているのが見えたから、別の場所を探したの」「ずいぶんと気の利くことだな」健吾はトゲのある声で言った。牧子は図書館で健吾を見かけ、話しかけにやってきただけだった。綾の席をふさがれて邪魔だったから、健吾はさっさと追い払ったのだ。それなのに綾ときたら、勝手に別の席へ行ってしまった。綾には健吾がなぜ怒っているのか分からなかったし、自分だって気分が沈んでいた。無視しようとも思ったが、せっかく仲直りしたばかりなのに、また気まずくなるのは嫌だった。彼女は裏紙を開き、文字を走らせた。【どうして怒ってるの?】健吾は呆れを通り越して笑ってしまった。一言も言わずに別の場所へ行ったくせに、怒っている理由を聞いてくるなんて。彼はそう思い、その言葉をそのまま紙に殴り書きして押し戻した。綾は唇を引き結び、ペン先を紙に擦らせてサラサラと音を立てた。【友達と話してるみたいだったから、邪魔しちゃ悪いと思ったの】渡された紙はすぐに押し戻された。そこには健吾の流れるような筆跡で、力強い文字が書かれていた。【余計なお世話!】綾が次の返事を書く間もなく、紙はまた健吾に奪い取られた。再び戻ってきた紙には、一行の言葉が書き加えられていた。【気を利かせる必要なんてない。堂々とこっちに来ればいいし、彼女なら俺が帰らせる。誰にも席を譲る必要なんてないんだ】大した意味はないのかもしれない。それでも綾は、胸の奥を小さな虫にチクッと刺されたような、もどかしい感覚を覚えた。【彼女と仲がいいんじゃないの?幼なじみだって聞いたけど】もうすでに結婚が決められていたという噂まで耳にしていた。けれど健吾を怒らせるのが怖くて、深くは尋ねられなかった。健吾は数秒間その紙をじっと見つめ、口元を皮肉げに歪めた。塾で綾が他の女子たちと自分の噂話
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第897話

健吾は綾の手から本を受け取った。「先に本を寮に置いてきてくれ」リュックのファスナーを開けかけていた手を止め、綾は「わかった」と短く応じた。借りた本を部屋に置き、外へ出ると同じユニットの子たちに出くわした。健吾と一緒に立っているのを見て、その子たちがからかい交じりの視線を向けてくる。「これからデートですか?」綾は頬を赤らめた。「変なこと言わないでください。同級生とご飯に行くだけですよ」健吾は眉をひそめた。「早く行こう」「じゃあね」綾は手を振り、足早に歩き出す健吾を追った。「青木くん、もしかして学生寮に入ってるの?」綾は純粋な疑問といった風に尋ねた。生活のあらゆる細部にこだわり抜く彼のような人間が、他人と生活空間を共にし、トイレやバスルームなどの水回りをシェアして暮らす姿など、およそ想像すらつかなかったからだ。やはり健吾はこう返した。「まさか。大学の向かいにマンションを持ってる」「湊も最初は近くにマンションを一室買ってくれるって言ってたんだけど……少しは自立した生活がしてみたくて、断っちゃったんだよね」健吾はクスっと笑った。「寮生活と自立に、なんの関係があるんだ?」生活リズムが合う人間など滅多にいないし、自分と合う人間となればなおさら少なかった。わざわざ寮に入り、自分を曲げて周りに合わせる必要などない。子どもの頃から、環境のほうが自分に合わせてきたのだ。居心地の悪さを感じれば、家族が自分の気に入るように作り替えてくれた。綾は違った。居候の身ゆえ、どんな環境にも適応することを覚えたのだ。実のところ、綾自身も少しばかり後悔し始めていた。同じユニットの子たちは典型的な夜型人間ばかりで、早寝早起きが染み付いている自分とはまるで生活の波長が合わないのだ。生活リズムの不一致ならまだしも、困ったことに、ユニット内には極端にズボラで脱ぎっぱなしの子がいるかと思えば、もう一人は神経質なほどの潔癖症だった。新学期が始まってまだ数日だというのに、その二人の関係に早くも決定的な亀裂が入り、完全に冷戦状態へ突入してしまっていた。お互いに面と向かって罵り合いこそしないものの、共有スペースに常に漂っているピリピリとした緊迫感と気まずい沈黙は、間に挟まれる綾にとって息が詰まるほど居心地が悪かった。健吾の問いに、
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第898話

翌日、ユニットの4人全員が寮の管理事務所へと呼び出された。新学期が始まったばかりで共同生活の慣らし期間中ということもあり、対応した寮の管理スタッフは、どちらか一方に肩入れすることもなく、喧嘩両成敗といった形で双方にきつく釘を刺すに留めた。一人が「別のユニットに変えてほしい」とその場で部屋の移動を直訴したものの、管理側からはあっさりと却下されてしまった。新学期のこの時期はどのユニットも満室で空きがない上、入寮規定により個人的な人間関係のトラブルを理由とした部屋の変更は原則として認められない、というのがその理由だった。綾は端の席に身を縮めて立ち、口を挟むこともなくただ黙ってそのやり取りを聞いていた。どう転ぼうと、自分にはとばっちり以外何の関係もない話なのだから。綾自身は綺麗好きで早寝早起き。寝る時以外はユニットの共有スペースにも滅多に長居せず、講義棟や図書館に入り浸っていたため、他の子たちと正面から衝突するようなトラブルはこれまで特になかった。一通り説教を終えた寮の管理スタッフは、ふと思い出したように綾へと視線を向けた。「中野さん、これからは君がこのユニットのまとめ役をやってくれ。同居人同士の揉め事をうまく収めて、良好な環境を保つように。いいね?」綾は口をぽかんと開けた。自分が?あの揉めていた二人は揃いも揃って気が強く、怒鳴り声のデシベル数も尋常ではない。そんな二人を、私が取りまとめろと……?無理無理、絶対に無理だ。平和は望むが、自分にその能力も手間をかける余裕もないことくらい自覚している。あの二人の衝突は、共同生活の慣らし程度で解決できる次元の話ではない。長年培われてきた生活習慣と価値観が根本から真逆で、生理的に反りが合わないのだ。このまま時間が経てば、衝突は激しくなる一方だろう。「すみません、実は家族から、大学の向かいのマンションを借りる手筈がついたので、近々寮を出てそっちに移るようにと言われていまして……」まとめ役を押し付けられるくらいなら、これが最善の手だった。管理事務所の扉を出るや否や、綾は即座にスマホを取り出して健吾にメッセージを打ち込み、例の部屋の家賃について尋ねた。大学の真向かいに建つような立地のいい分譲マンションは、普通に一室借りれば家賃十数万は下らない。だが、健吾の部屋の余っている一室を間借
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第899話

綾はそれを受け取ってしまい、すぐに寮へ戻って荷物をまとめ始めた。同じユニットの子たちが勢ぞろいしていて、部屋の空気は凍りついていた。綾はできるだけ音を立てないように、静かに片づけた。ゲーム好きの子が顔を上げた。「本当にここ出てくの?」「うん。今日の午後のうちに、荷物をあっちに移しちゃおうと思って」その子は羨ましそうに言った。「いいなー、羨ましい。うちの親から送られてくる仕送りなんてさ、毎日の学食と食費でカツカツで、余った端数でガチャにちょこっと課金したらすっからかんになっちゃうもん」すると、リビングに私物を散らかし放題にしていたズボラな方の子が、これ幸いとばかりに口を挟んできた。「ねえ、あなたが出てったら、リビングのそっちの棚と空いたスペース、私の物置場にしちゃってもいい?」綾はすでに一年分の寮費を前納している。仮に物理的に住まなくなったとしても、契約上、その区画を使用する権利自体は綾に残ったままなのだ。綾は頷いた。「うん、いいよ。みんなで自由に使って」どうせ自分は出て行くのだ。空いた場所をどう使われようと、もう関係ない。すると、もう一人の神経質な子がフンと鼻で笑い、当てこするような声をあげた。「どこかの誰かさんが好き放題ゴミを積み上げたら、このユニット全体が足の踏み場もないゴミ屋敷になっちゃうんだけど?」その子は綾をキッと睨みつけ、威圧するように責め立ててきた。「あの子にスペース譲るなんて勝手なこと言わないでよ。自分はさっさと外に逃げて一人勝ちするくせに、残されるこっちの迷惑も考えないで部屋が荒れるのを放置するわけ?いい人ぶって無責任なことばっか言わないでくれる!?」綾は返す言葉もなかった。みんなで自由に使えばいいと言っただけで、特定の誰か一人に譲る気などなかったのに。綾が口を開くより早く、隣にいたズボラな子がカッとなって言い返した。「あんたの場所に置くわけでもないのに、いちいち口出ししてんじゃないわよ!何の関係があるわけ?使いたくないなら黙って見てればいいじゃん!普段から潔癖アピールして偉そうにしてるくせに、自分の部屋のベッドの上なんて足の踏み場もないくらいぐっちゃぐちゃの癖にさ!どの口が言ってんの、この偽善者が!」そうして、二人はまた言い争いを始めてしまった。綾はため息をつき、耳栓をして片づけ
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第900話

視界の端で、健吾がじっと自分を見つめているのが分かった。綾はそのまとわりつくような甘い空気を振り払うように、慌てて口を開いた。「私、図書館に行くけど。健吾くんはどうする?」午後も夜も授業はなかったけれど、ここにずっといるわけにはいかない。寮を出て健吾とルームシェアしているなんて、湊には絶対に知られてはいけない。見つからないように、寝るとき以外は大学にいたほうがいい。それに、健吾と二人きりで部屋にいると、落ち着かなかった。特に、彼の視線がずっと絡みついてきて、どう振る舞えばいいのか分からなくなる。「夜、ここで食べないのか?」と健吾が尋ねた。「わざわざ作らなくていいよ。学食で食べるから」綾は時間を確認して、ソファから立ち上がった。「私、もう行くね。健吾くんはどうする?」健吾は何か別のことを考えている様子で、「用事があるから、行かない」と答えた。「じゃあね!」綾はほっと肩の荷を下ろし、リュックを背負って外に出ると、深く息を吐き出した。健吾の整った瞳が、やたらと自分を見つめてくるのがいけないのだ。気まずさを避けるため、そして湊に感づかれないよう、彼女は夜の8時過ぎまで図書館で過ごした。途中、図書館の外で湊とビデオ通話をした。残業中だった湊は、根を詰めすぎないように、たまには同じユニットの子たちと遊びに行きなさいと気遣ってくれた。誠が10月に結婚を控えており、美羽と式の準備に追われていたため、仕事の一部が湊に回されていたのだ。湊はとても忙しく、綾と数分話しただけですぐに通話を切った。図書館を後にした綾は、真っ直ぐ校外へと向かった。図書館から東門へと抜けるルートには豊かな木立が鬱蒼と広がり、夜の闇に沈んだその小道を一人通り抜けていく。通りを行き交う人はまばらだった。夜8時を回り、大半の学生はとっくに帰宅したか、寮やサークル棟に散らばっている時間帯だ。街灯は薄暗く、周囲は静まり返っていた。彼女は足早に歩く。突然、前方に眼鏡をかけた男が現れ、道の真ん中で立ち止まった。大学の先生だろうと思い、彼女は特に気に留めなかった。だが彼女が近づいた瞬間、男は突然ズボンを引き下げ、太ももを露わにした。「きゃああああっ!!!」綾は悲鳴を上げて、両手で目を覆った。男は面白がっているのか、不気味な笑
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