父の書斎の扉をノックすると、中から低い声が響いた。「入れ」 扉を開け、重厚な木の香りが鼻をつく書斎へと足を踏み入れた。父ハインリヒは窓際の大きな机に向かって書類に目を通していて、僕が入ってきても顔を上げることはなかった。 壁一面に並んだ本棚には古い書物が整然と並び、重苦しい空気が部屋を満たしている。暖炉の火がパチパチと音を立て、薄暗い部屋の中でわずかな明かりを灯していた。 僕は父の机の前に立ち、返事を待つ。父はペンを走らせ続け、インクの擦れる音だけが静寂を破る。時計の針が進む音が妙に大きく聞こえて、喉の奥が渇いていくのを感じた。立っているだけで足が震え、膝の力が抜けそうになる。 やがて父はペンを置き、ゆっくりと顔を上げた。灰色の瞳が僕を捉え、表情のない顔で僕を見つめる。感情の読めない冷たい視線に、背筋が凍りついた。「結婚が決まった」 父の声は淡々としていた。僕の心臓が跳ね上がり、息が詰まる。「お、お相手は……」 声が震えた。父は書類を僕の方へと押し出し、冷たい眼差しで僕を見下ろす。「レオニード・フェルゼン伯爵だ。先の戦争の英雄で、王の覚えもめでたい。将来、有望な人材だ。二十歳でお前より五歳若いが――お前を妻にしてもいいと言ってくれた唯一の男だ」 唯一の男……そう父に言われて胸が抉られるような痛みが走る。「来週、式を挙げる。今度こそ失敗するな」 父の言葉が胸に突き刺さり、呼吸が苦しくなる。『今度こそ』その言葉の重みが、僕の肩に圧し掛かってくる。 過去三度の結婚に、三回の離縁経験がある。全てが失敗に終わった僕の結婚生活。「はい」 僕は返事をすると頭を下げた。父はもう僕を見ていなかった。再び書類に目を落とし、ペンを走らせ始める。僕の存在など、もうどうでもいいとでも言うように。(まあ、三回も出戻って来たオメガの息子など、どうでもいいんだろうけど)「下がれ」 命令に従い、僕は書斎を後にした。扉を閉めると、足の力が抜けてその場に倒れ込みそうになる。壁に手をつき、なんとか身体を支えた。 廊下を歩きながら、僕は自分の部屋へと向かう。使用人たちが行き交い、僕の姿を見るとすぐに視線を逸らして通り過ぎていく。彼らの冷たい視線が背中に突き刺さり、胸が痛んだ。 四度目の結婚。 僕はもう二十五歳になる。オメガとしては高齢出産で、妊娠できる可能性は
最終更新日 : 2026-01-16 続きを読む