神崎邸の玄関に足を踏み入れた瞬間、あやめは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。磨き上げられた石床。高い天井に反響する微かな足音。整然と並ぶ調度品と、控える人間たちの気配。かつては、そのすべてが異質で、息苦しく、どこか恐ろしかった。だが―――今は違う。 同じ場所のはずなのに、感じ方がまるで違っていた。ここは、もう“よそ”ではない。(帰ってきた……)心が、そう告げている。その感覚はあやめにとって驚きであり、同時に納得できることである。自分はここに立つことを選んだ。この場所で生きると決めた。(だから……)「おかえり」低く落ち着いた声が、正面から届いた。顔を上げると、そこに冬弥がいた。別れたときと同じ黒のスーツに身を包み、いつも通り隙のない立ち姿ながらも、家だというのにまだ腕時計をつけていること。時計を確認する仕草で、あやめはすぐに理解した。(待っていてくれたのね)それも、ただ待っていただけではない。自分が戻る“瞬間”に合わせて、ここにいるつもりだったのだ。それが叶わなかったことへの、ほんのわずかな不満。表情には出してはいない。だが、視線の端や、指先のわずかな動きに、その感情は確かに滲んでいる。(こうして、改めて見ると……)改めて、冬弥の姿を観察した。整った顔立ち。無駄のない体躯。隙のない装い。そして何より、周囲を圧するような静かな威圧感。それらすべてが揃っているのに、その奥に、ひどく人間的なものがある。(可愛らしいわ)あやめは、内心で小さく笑った。「ただいま、戻りました」丁寧に言葉を返す。その一言に、冬弥の口角がわずかに上がる。冬弥が歩み寄り、そっと手を伸ばし、あやめの頬に触れた。ひやりとした指先。だが、その触れ方は驚くほど慎重だった。壊れ物に触れるような、そんな気配。「……無理は、していないな」低い声。確認の形で抑えられているが、そこにあるのは溢れるほどの気遣いがあった。「はい。お父様と、たくさん話しました。意外な話も聞けました……冬弥さんのこと」その瞬間、冬弥の指がわずかに震えた。ほんの一瞬の変化。だが、あやめは見逃さなかった。瞳の奥に浮かぶのは―――不安。(……ああ)謙一から聞いた、冬弥の母親の話をあやめは思い出した。それによって、あやめがどう思ったか。なにを感じているのか。(冬弥さんは、お義母様
Terakhir Diperbarui : 2026-02-06 Baca selengkapnya