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233 Kapitel

4-44 家族【本編完結】

全員が一斉に入口を見る。そこでは、瑛心が息を切らしながら立っていた。顔には驚きと、戸惑いと、隠しきれない喜びが混ざっている。『どうしたの?』あやめが穏やかに問いかける。瑛心は沈淵へ向かうのではなく、真っ先にあやめのもとへ駆け寄った。そして耳元へ唇を寄せる。ほんの数秒。小さな声で何かを伝えた。次の瞬間、あやめの目が大きく開いた。表情が明るくなる。『本当に?』瑛心は潤んだ目で頷いた。『はい。まだきちんと確認したわけではありませんが』声が震えている。あやめは瑛心の両手を取った。『おめでとう』『ありがとうございます』瑛心が泣きそうな顔で笑う。あやめは、その肩を優しく叩いた。そして、瑛心を沈淵のほうへ優しく押す。『ほら。聞かなかったことにするから、最初に伝える相手は他にいるでしょう?』瑛心は緊張したように沈淵を見る。沈淵は何が起きているのか分からず、首を傾げていた。『どうした?』瑛心はすぐには答えない。沈淵はあやめの「おめでとう」という言葉から、自分なりに理由を探し始めた。『資格試験に受かったのか?』瑛心が目を瞬かせる。『頑張っていたものな』沈淵の表情がすぐに明るくなる。『どの資格だ?』最近の瑛心は色々な資格を取っていた。邪魔者扱いされているのは勉強が大変だからだと沈淵は自分を慰めてもいた。『今日は祝いだな。夜は店を取ろう。食べたいものを考えておいてくれ』『ううん、そうじゃないの』瑛心が慌てて止める。『そうではなくて……』沈淵の笑顔が曇る。『……不合格だったのか』『えっと……』『気にするな』沈淵は慰めるように瑛心の肩へ手を置いた。『次がある。今夜は残念会と反省会だ。好きなものを食べに行こう』合格でも、不合格でも、結論は食事だった。瑛心は張り詰めていた緊張がとけていくのを感じた。そして、小さく笑った。『何がおかしい』『沈淵らしいと思って』笑う瑛心を見て、沈淵も少し安心したように表情を緩める。『それで、何が食べたい?』瑛心は少し考えてから答えた。『匂いが強くなくて、胃に優しい料理がいいです』『胃が悪いのか?』沈淵の顔色が変わる。『いつからだ? 医者には診せたのか、いや、いま痛むのか?』『沈淵……』『吐き気は?』一気に質問が増えた。『落ち着いて』瑛心は優しく笑う。
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-04-24
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【外伝1-1】ラブラブですから

「お寛ぎのところ、申し訳ありません」穏やかな空気を壊さないように、早苗が静かに声をかけた。その手には小さな紙袋がある。「こちらを」あやめの前へ差し出されたが何かを頼んだ覚えはない。きょとんとしながら紙袋を見る。それから、隣にいる冬弥へ視線を向けた。冬弥も僅かに眉を寄せている。心当たりはないらしい。「開けてみれば分かるだろう」「そうですね」あやめは紙袋を受け取った。口を開き、中を覗く。息を呑んだ。「……」身体が固まる。冬弥はあやめの反応を不審に思い、立ち上がって横から紙袋の中を覗き込んだ。細長い箱がいくつか入っている。心当たりはない。「これは何だ?」あやめは答えるべきか迷うように、唇を開いては閉じた。だが、冬弥は待っている。誤魔化せないと悟り、小さな声で答えた。「妊娠の」一度、言葉を切る。「判定薬です」「は?」冬弥から珍しく間の抜けた声が出た。あまりにも予想していなかった言葉だったのだろう。判定薬。妊娠。その二つが結びつくまで僅かに時間がかかった。理解した瞬間、冬弥の表情が変わる。心当たりはあった。夫婦であり、楓のときほどではないが「子どもができても」と思っていたので避妊はしていない。だから、可能性は十分にあるのだが。「……昨夜は」冬弥が呟く。あやめは嫌な予感を覚えた。ここには大勢いる。楓と雪兎までいる。言葉を選ぶべき状況だが、冬弥はそれに気づいているだろうか。「回数も多かったが」「冬弥さんっ!」「久しぶりで気が昂っていたから、かなり奥まで強く――」「口に出さなくて結構です!」あやめは冬弥の口を両手で塞いだ。勢い余って顔を叩いてしまい、乾いた音が響く。冬弥は目を瞬かせた。あやめの顔は耳まで真っ赤になっている。羞恥。焦り。そして、具体的に説明した形になったことへの怒り。「大丈夫か。それだけで十分です!」口を塞いだまま、あやめは強く訴える。冬弥は小さく頷く。あやめは恐る恐る周囲を見る。早苗は何も聞いていなかったかのような無表情を保っている。沈淵は窓の外へ顔を向けていた。瑛心は、不自然なほど熱心に指の先を眺めている。全員、聞かなかったことにしてくれていた。「かーしゃまが」楓の楽しそうな声が響く。「とーしゃま、たたいたー!」「あねしゃま、さいきょうで
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-04-25
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【外伝1-2】何も望まなかった

「まさか」あやめは湯気の立つカップを両手で包みながら、しみじみと呟いた。「早苗さんと鷹見さんが、そういう関係だったとは思いませんでしたわ」妊婦用に調整されたハーブティーから穏やかな香りが立ち上る。身体を冷やさず、刺激も強くない。それでいて気分が落ち着くように、香りだけは華やかだった。「沈淵の、このお茶のセンスは褒められるわね」あやめはその香りを楽しむように一度息を吸う。声音はどこか愉しそうに弾んでいた。隣に座る瑛心も、静かに頷く。向かいに座る鷹見へ、続きを促すような視線を向けた。鷹見は明らかに居心地が悪そうだった。椅子へ深く座ることもできず、かといって今さら立ち上がって逃げることもできない。「あの……」鷹見は慎重に口を開いた。「恋バナをするなら、早苗のほうが良いのでは?」あやめが首を傾げる。「なぜ?」「……女ですし」あやめは即座に首を横へ振った。「今の時代は、男女平等ですわ」「そういう話ですか?」「冬弥さんにも男性の愛人がいるではありませんか」あやめは涼しい顔で続ける。「姐さん」鷹見はじっとあやめを見る。「本心は?」「恋バナの醍醐味は」あやめはにっこりと微笑んだ。「揶揄って、慌てさせて、その反応を見て楽しむことでしょう?」鷹見の表情が引きつる。「あの早苗さんが慌てるとでも?」否定できなかった。早苗へ何を聞いても、事実だけを淡々と答える。照れることも、逃げることもないだろう。だが。「姐さんのためなら、早苗も慌てたふりくらいしますよ?」鷹見は苦笑する。「同情で慌てられても楽しくありません」あやめは、ぴしゃりと言い切った。逃げ道が完全に塞がれた。鷹見は観念したように肩を落とす。その様子を見て、あやめは満足そうに微笑んだ。『とても楽しいですね』中国語で呟く。『胎教にもとても良い気がいたします』隣で、瑛心も笑みを浮かべる。『私もです』少しだけ考えるように視線を上げた。『こういうときは、確か二人の出会いから聞くのですよね?』ぎこちない。どこかで覚えた知識を、一生懸命使っているような言い方だった。あやめは小さく笑う。「恋バナに決まった手順などないと思いますけれど」再び鷹見に視線が向く。「二人の出会い……」あやめは、わざとゆっくり繰り返した。「その響きだけで、胎教によさ
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-04-26
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【外伝1-3】野良猫の値段

その日も。特別なことなど何も起きないはずだった。鷹見は神崎宗一郎の外出へ随行していた。場所は龍神会の縄張りにある繁華街。昼間でも酒と煙草、香水と食べ物の匂いが入り混じる、雑多で騒がしい場所だった。宗一郎の周囲には一目で堅気ではないと分かる男たちが付き従っている。誰も声を荒らげてはいない。道を塞いでもいない。それでも、人の流れは自然と左右へ割れていった。神崎宗一郎。龍神会の先代組長。大勢の男を従え、一つの地域を裏から支配する男。ただ歩いているだけで周囲へ圧を与える。並の人間なら姿を見ただけで目を逸らす。まして、声をかけようなどとは思わない。――そのはずだった。「ねえ、おじさん」高い声が人混みの中から響いた。あまりにも気軽で、場違いな呼びかけだった。鷹見の足が止まった。周囲の組員たちも同時に声のほうを見た。宗一郎ですら反応が一瞬遅れていた。おじさん。誰に向かってそんな呼び方をしたのか。確認するまでもなかった。「おじさん」もう一度、少女が呼ぶ。「聞こえてる?」人の流れが避けた先、そこに一人の少女が立っていた。年齢は十三か、十四。中学生にしか見えない。セーラー服の上に、季節に合わない上着を羽織っていた。生地はくたびれ、袖口は擦れている。靴も長く履き続けているのだろう。つま先が傷み、白かったはずの部分は灰色に汚れていた。髪も丁寧に手入れされているとは言い難い。どこにでもいる、家へ帰れなくなった子ども。繁華街へ流れつき、その日を凌ぐために、自分を売るしかなくなった少女。そのように見えた。ただ、違うのは目だった。怯えていない。媚びてもいない。濁りのない瞳が真っ直ぐに宗一郎を捉えている。自分の前にいる男が誰なのか。分かっていないだろうが、周囲の男たちを見れば危険な相手だと察していただろう。それでも少女は一歩も退かなかった。「何の用だ」宗一郎が問いかける。少女は待っていましたとばかりに笑った。「援助交際、してくれない?」ほんの少し、首を傾げる。だが、その内容に場の空気が凍りついた。組員たちの目つきが変わる。誰かが少女を排除するために一歩踏み出しかけた。それを宗一郎が片手で制した。鷹見は少女を見つめたまま、何も言えなかった。非常識。無謀。愚か。そう切り捨てることは簡単だ
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-04-27
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【外伝1-4】世界が変わった日

「面白い女だな」宗一郎が笑った。その言葉は少女を子ども扱いする響きではなかった。一人の人間として、興味を持った。そんな評価だった。周囲の空気が変わる。組員たちも、鷹見も、宗一郎が早苗をどう見るかでこの先が決まることを知っていた。宗一郎は値段を提示しなかった。交渉も続けない。代わりに、まったく違うことを口にした。「うちへ来るか?」唐突だった。普通なら、警戒する。未成年だと分かる相手なのだから断る。提案も異例なら、聞いた相手も異色だった。早苗は迷わなかった。「条件次第」即答だった。宗一郎が面白そうに笑う。「条件とは?」「弟も一緒に連れていって」迷いがない。自分ではない。最初に出てきたのは弟だった。鷹見は僅かに目を見開く。自分が助かることより、弟が一緒にいられることが条件。宗一郎は一瞬だけ考え、あっさり頷いた。「構わん」宗一郎は今度は鷹見を見る。何も言わない。それで十分だった。 『連れて来い』その一瞥だけで命令は伝わる。「はい」鷹見は短く返事をした。.案内されたのは繁華街から少し離れた場所にある古いアパートだった。壁は色褪せ、階段は錆びている。夜になって、女性や子どもが一人で歩く場所ではない。廊下も暗かった。扉の前で止まった早苗が鍵を開ける。扉が開いた。さらに暗い。部屋の中はほとんど光が入っていなかった。「……暗いな」思わず口をつく。早苗は平然と答えた。「電気代が払えないから」何でもないことのように、淡々と言う。惨めさも恥ずかしさもない。事実を述べただけだった。「暗くても死なないよ」靴を脱ぎながら続ける。「水道のほうが大事」鷹見は黙る。価値観が違う。そう思った。だが、よく考えれば間違ってはいない。暗くても生きられる。水が止まれば生きられない。生き延びるために、必要なものから金を使う。それだけだった。.部屋の中は驚くほど何もなかった。家具も少ない。食器も最低限。生活の匂いさえ希薄だった。その中央に、布団だけが敷かれている。小さな膨らみが見えた。「……?」鷹見は近づく。布団の中を覗き込む。赤ん坊だった。まだ、本当に小さい。眠っている。(弟か)もっと痩せていると思っていた。栄養も足りず、不潔で、泣き続けている。そんな姿を想像
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-04-28
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【外伝1-5】 生きるために生きる人

『鷹見さんは早苗さんのどこを好きになったのですか?』瑛心が少し遠慮がちに口を開いた。だが、その目には隠しきれない期待が浮かんでいる。その質問は、恋バナとしては定番だった。隣にいるあやめも明らかに甘い答えを待っている。優しいところ。笑顔。弟思いなところ。そんな言葉を期待している顔だった。鷹見は一度視線を逸らした。そして逃げられないと悟ったように、小さく息を吐く。「動物的なところですかね」沈黙。あやめと瑛心の肩が同時に落ちた。あまりにも分かりやすい落胆だった。「……動物的」あやめが繰り返す。「もう少し言い方がありませんか?」「ありませんね」鷹見は即答する。二人がさらに残念そうな顔をした。もっと甘く、耳触りの良い言葉を使うことはできる。だが、どこを好きになったのかと問われれば、これが最も正確だった。 ◇◇◇早苗は、いわゆる常識という枠へ自分を押し込めない人間だった。だからといって、無秩序ではない。無神経でもない。むしろ人をよく見ていた。相手が何を嫌がるのか。どこまでなら許すのか。今、何を必要としているのか。そのすべてを見極め、最も適した行動を選ぶ。その判断があまりにも速い。周りが考えている間に、身体が動く。言葉が出る。それでも、決して越えてはいけない線は踏まない。ぎりぎりまで近づき、相手を揺さぶり、反応を見る。けれど、本当に傷つけることはしない。その綱渡りがあまりにも自然で。不快と感じる前に、早苗の言葉を受け入れてしまう。普通なら怒られてもおかしくないことを言っても許されるのは、こういうところだ。「ねえ、坊ちゃん」ある日、早苗は鷹見の顔を覗き込んだ。「また眉間に皺が寄ってる。癖?」まだ、知り合って間もない頃だった。本来ならそんな距離で、そんなことを言える関係ではなかった。「お前には関係ない」「あるよ」早苗は即座に返した。「見ていると、こっちまで疲れる」「なら見るな」「やだ」あっさり拒否された。「見ていると面白いもの」何が面白いのか。鷹見には理解できなかった。理解できないこと自体が苛立たしかった。早苗は感情も隠さない。嬉しければ笑う。腹が立てば睨む。呆れれば、露骨に溜め息をつく。興味を持てば、目を輝かせる。百面相という言葉でも足りないほど、表情が変わっ
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-04-29
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【外伝1-6】 泣いた女を守りたい

早苗には圧倒的な才能があった。鷹見が努力という言葉を意識することもなく、それなりにこなしてきたことを、早苗はまったく違う次元で身につけていった。勉強。体術。語学。何を教えても、覚えるのが早い。正確には教えられた通りに覚えているのではなかった。必要な部分だけを見抜いて、それだけ身につける。それ以外は躊躇なく捨てる。常識や定石に縛られない。自分に合う形へ勝手に作り変える、そんな破天荒な我流。それなのに、なぜか完成度が高い。だから文句も言えない。教える側からすれば、扱いにくいことこの上なかった。「そこは、そう教えていない」鷹見が指摘すれば、早苗は不思議そうに首を傾げる。「こっちのほうが早いよ」そして、実際に結果を出す。反論できない。鷹見は何でも要領よくこなせた。だが、それだけだった。困らない程度に覚える。恥をかかない程度に仕上げる。誰かより少し上にいれば満足する。早苗は違った。身につけることに執着していた。一度必要だと判断すれば、使えるようになるまでやめない。何でも覚える。結果、差は時間が経つほどに縮まり、並んだと思うとあっという間に先にいかれた。負けることが増えた。そして、勝てなくなった。勝負にすらならないこともあった。唯一、鷹見が得意としていたボクシング。それだけは、負けるはずがないと思っていた。体格も、経験も、自分のほうが上。だから、軽く相手をするつもりだった。「手加減はしないでね」早苗が拳を構えながら言う。「怪我をするぞ」「しないよ」「根拠は?」「私のほうが強いから」鷹見は鼻で笑った。だが数分後、床へ沈んでいた。踏み込みが速かった。間合いの詰め方に迷いがなかった。攻撃を受けることへの恐怖がなかった。そして、懐へ入られると息をつく暇もなく拳が飛んでくる。怒涛のラッシュ。視界が揺れた。反撃の隙を探したはずだった。だが、気づけば天井が見えていた。「大丈夫?」早苗が倒れた鷹見を覗き込む。息一つ乱れていない。「……お前、何をした?」「殴った」「それは分かっている」早苗は楽しそうに笑った。その日、鷹見は初めて悔しいと思った。胸の奥で、強い屈辱が渦巻いた。負けを認めたくない。だが、それと同時に、不思議と気分は澄んでいた。.早苗は強かった。だが、強者と
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-05-01
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【外伝1-7】ヘタレの恋

後日、鷹見はあやめに呼び出された。「鷹見さんの内縁の奥様は【愛人】だったのですね」あやめは静かに口を開く。問いかけではなかった。少しだけ、声の調子を落とした確認。すでに全てを調べたあとの言葉だった。鷹見は、ほんの一瞬だけ表情を整えるのが遅れた。あやめが早苗との関係を知った。そこから自分の内縁の妻についてまで調べるかどうか。それは、半分ほど賭けだった。調べられて困ることではない。隠している事実もない。ただ、説明しづらい。そして気まずい。◇◇◇鷹見の内縁の妻はもともと神崎家と、ある組織を縁づけるために差し出される予定だった女だ。本来もらい受けるべきは神崎宗一郎。あるいはその息子の神崎冬弥。だが、当時の冬弥はまだ十代前半だった。相手を迎えるにはあまりにも幼い。宗一郎は、表向きは健康を装っていたが、実際には病を抱えていた。冬弥がまだ幼い以上、宗一郎の病状を外へ知られるわけにはいかない。形式だけの愛人であっても、側に置けば病を察知される可能性がある。当時の龍神会は神崎美鶴の失態により弱体化していた。それ以上、余計な弱みを晒すわけにはいかなかった。そこで白羽の矢が立ったのが鷹見だった。鷹見が望んだわけではない。決めたのは父親だ。  『龍神会のため』。その一言だけで話は進められた。当時、早苗とは何もなかった。恋人だという約束も、将来を誓う言葉もない。それどころか、自分の気持ちをはっきりと言葉にさえしていなかった。だから、【愛人】を迎えることを断る理由がなかった。鷹見は受け入れたが、分家の次男。相手側は難色を示した。そのため、鷹見は宗一郎と兄弟の契りを交わして宗一郎の弟分になった。それでは足りないと、相手方は娘を愛人ではなく妻として迎えるように条件を出した。龍神会はこの縁が必要だった。だから鷹見は逸れに納得したが、納得しなかったのはその娘のほうだった。鷹見との結婚を拒絶し、当てつけのように当時龍神会と敵対していた組の若頭を射止めた。そして、その男の愛人になった。鷹見としては、そのまま話が流れても何も困らなかった。むしろ都合が良いとすら思った。だが、龍神会にこの縁が必要なように、先方にも龍神会が必要だった。娘の代わりに、先方の愛人の娘が鷹見のもとへ来ることになった。その女は一度結婚していた。
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-05-02
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【外伝1-8】ヘタレの恋

「早苗」それからしばらく経ったある日、鷹見は早苗へ声をかけた。「次の休みなんだが」内縁の妻の実家との縁が切れるなら、これからは必要以上に隠すこともない。堂々と外へ出てもいい。これまで、ろくにデートらしいことをしてこなかった。たまには二人で出かけよう。そう思ったのだが。「無理」早苗は即答した。「次の休みは出かける約束がある」あっさり断られる。誘うのが急だったことは分かっている。予定があっても当然だ。それでも、少しは考える素振りくらい見せてもいいのではないか。いろいろ思ったが口には出さない。代わりに一つだけ尋ねる。「誰と会うんだ?」早苗は鷹見を見る。口元に、悪戯っぽい笑みを浮かべた。「あなたの奥様」鷹見は黙った。そして、僅かに視線を逸らす。「……そうか」「ヘタレ」早苗が笑う。返ってくる答えを最初から分かっていたのだろう。.早苗が会うのは鷹見の内縁の妻だけではなかった。その娘も一緒だという。表向き、その娘は鷹見の子どもということになっている。だが、実際は内縁の妻と亡夫の間に生まれた子だ。子どもの存在を隠したのは早苗だった。龍神会傘下の病院へ手を回し、出生記録を変えた。出生日を半年もずらしてみせたのは、流石としか言えない。鷹見の内縁の妻となった女は愛人の娘だが、だからこそ【愛人】の役割をよく分かっている。鷹見が彼女名義にしたマンションで暮らし、催しには参加する。【愛人】として普通に……。(……いや、普通か?)鷹見はすぐに思い直す。普通の【愛人】が、内縁の夫の想い人を呼び出すだろうか。初めて鷹見の内縁の妻として龍神会の催しへ出席した日。彼女は、早苗を呼び出した。そして。――私たちは形だけの関係です。――これからも鷹見さんとの関係を続けてくださって全く構いません。あとから詳しく聞けば、彼女は初対面の鷹見の様子から、自分との縁談が原因で鷹見が想い人と別れたのだと思い込んでいた。そのことをずっと気に病んでいた。自分のせいで誰かの恋を壊した。そう思い続け、罪悪感さえ抱えていた。そして催しで早苗を見つけた。この女だと直感し、この機会を逃せないと早苗を捕まえて胸の内を話した。だが、その頃もその前も、鷹見と早苗はなんでもない。強いて言うなら同僚。そんな状態でそんなことを言われても、早
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-05-03
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【外伝2-1】お父さんへのご挨拶

「とーさまー」自宅の書斎で仕事をしていた冬弥のもとへ、小さな客が二人やってきた。先に入ってきた楓は冬弥の姿を見つけると真っ直ぐ駆け寄ってくる。その後ろを雪兎が落ち着いた足取りでついてきた。書斎には雪兎の父親であり、冬弥の右腕でもある樹がいる。だが、雪兎は樹へ駆け寄らなかった。ぺこりと丁寧に頭を下げるだけ。父親は今は仕事中。自分も、楓の右腕として仕事をしに来た。そんな意思表示らしい。「どうした」冬弥は僅かに口元を緩める。「二人がここに来るとは珍しいな」楓を抱き上げる。続いて、雪兎の頭を撫でた。その隣では樹がすでに内線電話を取り、ジュースと菓子を頼んでいた。「おはなしがあるの」楓が神妙な顔で言う。「そうか」冬弥は頷き、楓を抱いたまま応接用のソファへ移動した。「話とは?」いつもならこのまま父親の膝へ座り、思ったことを話し始める。だが今日は違った。楓は降ろしてほしいと言わんばかりに手足をばたつかせる。冬弥は首を傾げたものの、素直に床へ降ろした。楓はとてとてと向かい側へ歩き、冬弥と向き合う形でソファへ座る。その隣には雪兎が立った。背筋を伸ばし、楓の補佐をするように控えている。「雪兎は」冬弥が呟く。「樹に似てきたな」雪兎の頬が分かりやすく赤くなった。褒められたことがよほど嬉しいらしい。樹も何も言わなかったが僅かに表情を緩めた。「とーさま」楓は改めて口を開く。「おりがみのおはなしがあります」「……折り紙の話」冬弥は困った。折り紙という遊びは知っている。だが、自分で折った記憶はない。幼い頃のことだから、忘れているだけかもしれない。しかしあやめは器用で、鶴でも花でも、楓の要求になんでも応える。それに対して何もできないとは、父親として少々言いづらかった。(何を求められる……)「わかわか」雪兎が小声で楓を止める。「ちがいましゅ。おーいって、でしゅ」「……おーいって?」冬弥が眉を寄せる。楓と雪兎は二人で顔を見合わせ、首を傾げる。その様子を見ていた樹が静かに口を挟んだ。「もしかして、折り入ってお話がある――ではありませんか?」楓と雪兎が同時に樹を指差した。「それ!」「それでしゅ!」出だしのつまずきは解消された。冬弥は僅かに息を吐いた。折り紙を作らされるわけではなかった。「それ
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-05-07
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