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All Chapters of 氷龍の檻姫: Chapter 81 - Chapter 90

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2-6 狸の娘

夜明けが近づいても、現場にはまだ焦げた匂いが残っていた。焼けた木材と溶けた樹脂の臭気が漂い、港湾倉庫だけが別の時間に取り残されたような空気に包まれている。冬弥とあやめが到着すると、報道陣が一斉にざわめき、無数のフラッシュが瞬いた。警察と消防はすでに撤収作業へ入り、規制線の内側では現場検証、外側では報道陣が陣取っている。その様子を見たあやめは静かに息を吐いた。(……うまく処理されている)事前に打っておいた根回しが機能し、この件は事件ではなく事故として扱われようとしている。「失礼します」あやめは現場責任者らしい警察官へ歩み寄り、名刺を差し出した。「神崎あやめと申します」「……神崎?」警察官は思わず冬弥へ視線を向ける。神崎芸能の社長夫妻が、なぜこんな倉庫火災の現場へ来たのか理解できないのだろう。戸惑いを読み取ったあやめは柔らかく微笑んだ。「私から報道の皆さまへ説明してもよろしいでしょうか」「ええ……それは助かります」人手不足の現場にとって願ってもない申し出だった。礼を述べたあやめは、そのまま報道陣の前へ歩み出る。「皆さま、深夜にもかかわらずご苦労さまです」穏やかな声なのに、その場を支配するだけの力があった。質問を浴びせようとしていた記者たちは思わず口を閉ざし、自然と一歩距離を空ける。「本件は現在、警察と連携し原因を調査しております。詳細が判明次第、改めてご報告いたします」無難な説明。しかし、その無難さこそ計算され尽くしたものだった。「神崎夫人!」一人の記者が声を張る。「普段は表に出ないあなたが、どうしてここへ?」同時に、報道陣が規制線を押し始める。あやめは慌てることなく微笑み、人垣の向こうを指差した。「奥にも報道カメラがあります。皆さまが公平に撮れるよう、ご協力いただけますか?」前列の記者たちが振り返ると、大手局のカメラマンたちが静かに睨み返していた。空気が変わる。「それで、ご質問は何でしたっけ?」あやめは最初の記者へ向き直る。「普段は表に出ないあなたが、どうしてここへ?」「火事についてではなく、私のほうが気になりますか?」小さく首を傾げる。「まあ、目の前にツチノコが現れたら、火事よりそちらを見てしまいますものね」会場に笑いが広がる。「実は……わがままを言って夫に連れてきてもらいました」頬をほ
last updateLast Updated : 2026-02-09
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2-7 土竜叩き

警察の現場検証が終わり、最後のパトカーが現場を離れていく。水原壮介はようやく小さく息を吐いた。「ご苦労だったな」背後から声を掛けられ、振り返ると冬弥が立っていた。「若」水原壮介は深く頭を下げる。「……姐さんは?」「屋敷に帰した」短い返答だった。「しかし今回はキングが引っ張り出されましたな」事故処理として収束させるには、柊謙一の力が必要だった。そして、その切り札を最も効率よく動かせるのがあやめである。「それにしても、敵の用意した舞台へ自ら上がり、道化まで演じてみせるとは……」水原壮介は感嘆を漏らす。「あやめは俺の可愛い狸だからな」惚気としか思えない返事に水原壮介は苦笑するしかなかった。「こちらを」差し出されたタブレットには現場写真と鑑識結果が映っている。「警察の鑑識でも、燃えたのはシンナーでした」「……あやめの読みどおりか」防犯カメラの映像だけで火の回り方を見抜き、あやめはシンナーが使われたと推測していた。だからこそ、燃えたものを"大物アーティストのライブ機材"という物語に置き換えた。実際に焼けたのは一般機材であり、本当に守るべき荷は耐火ケースに収められて無事だった。「盗まれたものは?」「何もありません。大型も小型も、すべて残っています」冬弥の目が細くなる。「狙いは物じゃない。柊大臣と龍神会の関係を炙り出すことか」「いまの柊家は龍神会の守護天使ですからね」「……守護天使、ね」天使の羽を背負った謙一を想像し、冬弥は思わず口元を緩めた。「義父上には手間を掛けさせたな」「朱雀会も、本気で牙を剥いてきましたね」そこへ、あやめを屋敷まで送り届けてきた鷹見が合流する。「ですが姐さんは、これは好機だと言っていました」「……だろうな」冬弥の手元には、すでにあやめから送られてきた計画書がある。被害者という立場を利用し、安全対策を名目に港湾の監視を強化する。信頼性を理由に朱雀会系企業を排除する。「優し気な見た目に反して強気で攻めますね」「そうだな」水原壮介が感心した直後、鷹見のスマートフォンが鳴った。「姐さんです」冬弥へ手渡され、短い通話が終わる。「あやめが行政書士と顧問弁護士に必要書類の準備を始めさせたそうだ」「……早えな」思わず素が漏れる水原壮介に、鷹見も腕を組んで頷いた。「冷静で、頭が切れて
last updateLast Updated : 2026-04-15
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2-8 乙女の地雷

朱雀会の中枢に静かな亀裂が走り始めていた。幹部の一人が突然姿を消し、続いて別の幹部は脱税容疑で逮捕される。だが保釈後、その男もまた帰宅途中で消息を絶った。逃げたのか。消されたのか。それとも、裏切ったのか。誰にも真相は分からない。ただ一つ確かなのは、「次は自分かもしれない」という疑心暗鬼を誰もが抱えていることだけだった。.「いまの朱雀会は沈む船だな」「大量に鼠が逃げ出している」古参幹部たちの声には余裕すら混じっていた。しかし、その中で冬弥だけは険しい表情を崩さない。「どうしました?」あやめが静かに尋ねる。「……あやめ、お前はどう思う?」会議の場で冬弥があやめへ意見を求めることは、今では誰も驚かない光景になっていた。「守りに徹するべきです」迷いのない返答だった。「窮鼠猫を噛む、と言いますからね」冬弥も頷く。追い詰められた相手ほど予測不能な行動に出る。それは何度も見てきた現実だった。「このままでも朱雀会は時間の問題でしょう」「……ああ」冬弥は同意したものの、その表情は晴れない。「何か、ご不満なのですか?」「……最近、お前を外へ出せていない」思いがけない答えに、あやめは目を丸くした。「飼っている犬の散歩不足みたいな言い方はやめてください」即座に返すものの、本気で怒っているわけではない。(別に困ってはいないのよね)もともと出歩くことは好きではない。屋敷で考え事をしているほうが性に合っているし、何より――。(毎日、冬弥さんが無事に帰ってきてくれるもの)それだけで十分だった。(あ、でも……)ただ、一つだけ困ったことがある。(最近、毎日お土産を買ってきてくださるのよね……)冬弥なりに気を遣っているのだろう。だが、その中身は決まって甘いものだった。(女性は甘いものが好き"らしい"から、って……)間違ってはいない。あやめも甘いものが好きではある。けれど毎晩となると話は別だ。でも、好きな人が自分のために選んでくれたものを断れるほど、あやめは器用ではない。「どうした?」冬弥に声を掛けられ、あやめは現実へ引き戻される。「……最近、太った気がして」しまった、と口にしてから気づく。冬弥は呆れたように息を吐いた。「……まだ言っていたのか」会議室の空気が凍る。古参幹部たちは一斉に口を閉ざした。
last updateLast Updated : 2026-02-09
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2-9 恐怖は想像の中にある

「冬弥さんは太らないから、そんなことを言えるんです」あやめが少しだけ頬を膨らませる。「稽古をすれば消費できる」冬弥は当然のように答えた。毎朝欠かさず鍛錬を積む男にとっては、それが当たり前なのだ。「朝は苦手です」素直な返事に、幹部たちの口元が緩む。あやめが朝に弱いことは龍神会では有名だった。「なら昼でも夜でもいい。好きな時間に動けばいい」屋敷にはトレーニングルームもある。早苗も使っていると言っていたことを思い出し、あやめは少し考え込む。「……あやめ」呼ばれて顔を上げると、冬弥の表情がいつもと違っていた。低く甘い声で、静かに言う。「回数、増やすか」「……何のですか?」問い返すあやめに、冬弥は答えず口元だけを緩めた。分からない。あやめが周囲を見渡せば、半数は気まずそうに目を逸らし、残りはどこか温かい表情を浮かべている。「……皆さんも経験者なんですか?」その一言で会議室の八割が盛大にむせた。あやめは本気で分かっていない。女子校、女子大、そして柊家の庇護の下で育った箱入り娘は、男たちの下世話な会話を自分とは無縁のものとして聞き流してきた。「とにかく」冬弥は話を戻す。「回数を増やせば確実に痩せる」――確実に痩せる。その言葉は、世の中のあらゆるダイエット広告で繰り返される魔法のような響きを持っていた。(冬弥さんが言うなら……)好きな人には少しでも綺麗に見られたい。その気持ちに理屈はない。「……頑張ります」素直に頷くあやめへ、冬弥は満足そうに目を細めた。「そうか。というわけだ」冬弥は幹部たちへ向き直る。「これから数日、あやめは忙しくなる。今のうちに聞くべきことは聞いておけ」幹部たちは一斉に姿勢を正した。その意味を理解しているのは彼らだけだった。これから数日、あやめは冬弥に独占される。あやめ本人だけが何も知らず、会議の流れに合わせて頷いていた。「それでは、本題に戻ります」あやめの表情が一瞬で切り替わる。「朱雀会に情報戦を仕掛けます」場の空気が静かに張り詰めた。すでに朱雀会は崩れ始めている。それでもなお揺さぶるというのか。「具体的には?」冬弥が尋ねる。「幹部が相次いで抜けたことで、内部はかなり不安定になっています」ホワイトボードには組織図が映し出される。「裏切り者がいるという噂を流します
last updateLast Updated : 2026-04-15
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2-10 甘い仕返し

「……姐さん、やることがえげつねえな」ぽつりと漏れた言葉に非難の色はなかった。あるのは純粋な感嘆だけだった。「どうやったらあんな娘が育つのか。親の顔を見てみたいもんだ」「あるだろ、そこに」返された一言に、会議室中の視線が一斉に壁へ向く。そこには一枚のポスターが貼られていた。【柊謙一 国会の"良心"】穏やかな笑みを浮かべる柊謙一。その写真を見つめながら、誰かが呟く。「……良心って、何だ?」「人として正しいことを判断する心、じゃねえか」「善を選ぼうとする意思、ってことだろ」答えは人それぞれだった。その曖昧さを楽しむように、鷹見が喉の奥で笑う。「結局、どこから見るかだろ」全員の視線が鷹見へ集まる。「姐さんのやり方は龍神会にとっては間違いなく善だ」誰も反論しない。善悪は絶対ではなく、立場によって形を変える。そのことを、この場の誰もが理解していた。そして今、自分たちが進むべき道を示しているのは、間違いなく柊あやめだった。自然と集まる視線を受けても、あやめは穏やかな微笑みを崩さない。その若さで、自分たちより遥か先を読んでいる。娘や孫ほどの年齢でありながら、誰よりも冷静で、誰よりも容赦がない。「……大したもんだ」その呟きには、ただ事実だけが込められていた。◇◇◇数日後。「朱雀会の幹部会議が中止になったそうです」報告を受け、冬弥が静かに目を細める。「理由は?」「表向きは意見調整ですが、実際には欠席者が多過ぎたようです」組員の声には隠し切れない喜びが滲む。「会議室そのものが罠に見えたんだろうな」鷹見が肩を竦める。あやめが流した噂は、確実に朱雀会を蝕んでいた。誰が裏切り者なのか分からない。誰が次に消えるのか分からない。その恐怖が互いへの疑念を生み、集まることすらできなくなっている。「……姐さん、読みどおりです。あいつら、もうバラバラですよ」「ええ」あやめは静かに頷いた。しかし、その表情はすぐに引き締まる。「ここからが本番ですね」会議室の空気が変わる。「鼠のように逃げてくれるなら構いません。でも、獣が残っていたら話は別です。追い詰められた獣ほど、何をするか分かりませんから」冬弥があやめを見る。「それは、小林のことか」「はい」「お前は以前、あいつを『理屈の通じない気まぐれな獣』と言っていたな
last updateLast Updated : 2026-02-10
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2-11 守る理由

その夜、あやめは一人で執務室に残っていた。机の上には朱雀会の資金網、政治家との関係、司法との駆け引きをまとめた資料が山のように積まれている。一枚めくるたびに利害が見え、嘘が剥がれ、散らばっていた情報が一本の線へと繋がっていく。その感覚は、父の秘書を務めていた頃と何も変わらなかった。(……懐かしい)違うのは相手と責任の重さだけだ。昔なら、一つの仕事が終われば一区切りついた。だが今は違う。(これで終わりじゃない)朱雀会に勝っても、また次の敵が現れる。守り続けなければならない。決めるのも、責任を負うのも、すべて自分だ。(……重い)ふと手を止めると、指先がかすかに震えていた。(冬弥さんのこと、笑えないわね)気分を変えようと紅茶へ砂糖を二杯入れる。けれど口をつける頃にはすっかり冷めていた。「……姐さん、根を詰めすぎですよ」突然の声に振り返ると、鷹見が湯気の立つ紅茶とコンビニの袋を持って立っていた。「気づきませんでした」「それだけ集中してたってことです」無理をするな、とは言わない。誰もが今は踏ん張りどころだと分かっているからだ。「若い衆が心配してましたよ。最近、姐さんの顔色が悪いって」「……ありがとうございます。でも、私は大丈夫です」反射のように出た言葉へ、鷹見は苦笑した。「そう言うしかありませんよね」否定できなかった。鷹見は袋からホイップクリームが山のように乗ったプリンを二つ取り出し、一つを差し出す。「新作だそうです」「ようやく理想の体重になったんですよ?」思わず漏れた本音に、鷹見は笑う。「大丈夫ですよ」何の根拠もない言葉なのに、不思議と安心できた。強面の男が幸せそうに甘いプリンを食べる姿に、あやめは思わず吹き出す。(冬弥さんがお土産に甘い物ばかり買ってくる原因、この人ね)そんな視線に気づいた鷹見が肩を竦める。「食べ終わったら若のところへ行けばいいんです」「鷹見さんっ」思わず声が裏返る。しかし鷹見は真顔だった。「姐さんはすごい。でも若にとっては、それ以前に唯一の家族なんです」穏やかな口調のまま続ける。「姐さんに何かあったら、若は壊れます」「壊れるって……」軽く流そうとした言葉を、鷹見の真剣な眼差しが止めた。「守れなかったという自責で、あの人は本当に壊れますよ」あやめは言葉を失う。逆
last updateLast Updated : 2026-02-10
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2-12 帰る場所

夜風が静かに庭を渡っていた。四阿の小さな灯りが闇をやわらかく照らし、その光の中で、あやめは振り返る。「あやめ」低く響く声に、自然と笑みがこぼれた。「おかえりなさい」「……ああ、ただいま」以前の冬弥なら「ああ」と返すだけだった。その口から「ただいま」が自然に零れるようになった。それだけで、自分が冬弥の帰る場所になれた気がした。嬉しさが胸に広がった瞬間、冬弥の腕が伸びる。逃げる間もなく抱き寄せられ、強く、それでいて壊れ物を扱うような力で包まれた。「あ……」思わず漏れた声は驚きではなかった。風呂上がりの髪から漂う石鹸の香り。触れ合う肌のぬくもり。「帰ってきたばかりでは、なかったんですね」少しだけ寂しそうに呟くと、冬弥は腕へさらに力を込めた。「今日は暑くてな。汗を流さずにはいられなかった」「……私もです」責めるつもりはない。ただ少しだけ、最初に会いたかっただけだった。しばらく抱き合ったまま、冬弥が静かに口を開く。「俺たちは、これから裏の頂点に立つ」あやめは黙って頷く。「頂点は孤独だ。誰も信じ切れない。誰にも頼れない」経験から滲み出る重い言葉だった。だからこそ、あやめは何も言わず冬弥の背へ腕を回した。言葉よりも、温もりのほうが伝わることもある。「私は……」続きは声にならない。それでも震える身体が答えだった。不安も覚悟も、逃げないという決意も、すべて冬弥へ伝わっていく。「……あやめ」冬弥は守るように、そして離さないように抱き締め直した。「部屋へ行こう。風が冷たい」二人は並んで部屋へ戻る。だが途中で冬弥は組員に呼び止められ、あやめだけが先に部屋へ入った。窓辺の椅子へ腰を下ろし、月明かりに照らされる庭を眺める。(どこまで行けるのだろう)朱雀会は崩壊へ向かっている。勝利は目前だった。それなのに胸の奥は晴れない。(私は……慣れてしまった)人を追い詰めることに。必要だと理解していても、その重さは少しずつ心を削っていく。「どうした?」背後から声がし、肩へ羽織が掛けられる。冬弥だった。「震えている」「……ごめんなさい。少し庭を見ていたくて」「探した」短い一言だった。「お前がいないと、部屋が広く感じる」「部屋には、いるではありませんか」「こんな隅にな」冬弥も向かいの椅子へ
last updateLast Updated : 2026-02-11
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2-13 ぬくもりという約束

部屋へ戻ると、冬弥は照明を落とした。障子越しの灯りと間接照明が溶け合い、室内は柔らかな琥珀色に包まれる。昼間とはまるで別の、二人だけの静かな世界だった。しばらく見つめ合う。先ほどまで交わしていた重い言葉も、不安も、この空間では少し遠く感じられる。あるのは、目の前にいる相手だけだった。そっと指先が触れ合い、あやめの細い指が冬弥の大きな手へ絡む。その温もりを確かめるように頬を寄せると、互いの鼓動が少しずつ近づいていった。あやめは冬弥の胸へそっと手を添える。鍛えられた身体の奥から伝わる力強い鼓動は、普段は見せない冬弥の本心そのもののように思えた。「……あやめ」低く響く声には、張り詰めた緊張が滲んでいた。「今夜は、優しくできそうにない」思わず息を呑む。それでも恐怖はなかった。むしろ、その言葉の奥にある想いが胸を熱くする。「優しくできない、ではなくて……優しくする気がない、のでしょう?」少しだけ意地を張るように返す。冬弥は驚いたように目を見開き、やがて小さく笑った。「敵わないな」そう呟くと、そっとあやめを抱き寄せる。重なる唇は穏やかで、それでいて互いの想いを確かめ合うように深く温かかった。言葉は少しずつ途切れ、代わりに抱き締める腕へ想いが込められていく。あやめの呼吸が少しずつ乱れていくと、冬弥の指先が脚の間に触れた。「んあっ」あやめは思わず小さな声を漏らした。「ん?」冬弥も戸惑った声をあげる。指先の違和感、だがすぐにその理由に気づく。下着のクロッチ部分を指がすり抜け、そのままあやめの応え始めた部分に触れた。「……あやめ」戸惑うような視線に、あやめは首を傾げた。「どうしました?」何かに気づいた冬弥は、しばらく考え込んだあと苦笑する。「……この寝間着や下着を用意したのは、早苗だな」「はい。何か変でしたか?」本当に分かっていない様子に、冬弥は思わず額へ手を当てる。「変ではない」「冬弥さんは、こういうものがお好きだって早苗さんが」「……そうか」返事をしながらも、冬弥は心の中で早苗の思惑を理解していた。確かに、好きか嫌いかで言えば「嫌いではない」。初めてでもない。だが、あやめが身につけているのは初めてで。「似合っている」「……ありがとうございます」嬉しそうにあやめは笑う。その無邪気さに救われる
last updateLast Updated : 2026-02-11
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2-14 最悪の再会

朱雀会から引き抜きを打診してきた中堅組員に会ってほしい――。大阪へ潜入させていた組員からの報告を受け、冬弥とあやめは都内の老舗料亭へ向かっていた。車内には静かな緊張が漂っている。「その方は、どんな人物なのですか?」窓の外を眺めながら、あやめが尋ねる。「名前は大迫武流。三十歳。朱雀会で副会頭を務めていた赤羽組、その組長の息子だ」「赤羽組長とは名字が違いますね」「愛人の子だからな。家には入れられず養子へ出された。成長してから下部組織へ預けられている」そこまで聞いて、あやめは静かに頷く。(完全に切り捨てるのではなく、利用できる場所へ置いたということね)「跡目のスペア、ですね」「驚かないな」「政界にも似たような話はありますから」淡々と返すあやめに、冬弥は苦笑する。「どこも同じか」「ええ。どこも同じです」料亭へ到着する頃には、あやめの中で期待が膨らんでいた。崩壊しかけた朱雀会から、崩壊させている龍神会に堂々と接触してきた男。どれほどの人物なのか。――そう思って襖が開いた瞬間、その期待は粉々に砕け散る。「あなたっ!」思考が止まった。記憶と目の前の男が一致するまで、ほんの数秒。それで十分だった。「大迫だ。よろしくな」差し出された手を、あやめは見つめたまま動かない。「……あやめ?」冬弥が違和感に眉を寄せる。二人の間に流れる空気を感じ取り、表情が険しくなった。(知り合いか……?)そう思った次の瞬間。「冬弥さん。この方が、例の小林です」部屋の空気が凍りつく。「……なんだと?」冬弥の声が一気に低くなる。殺気すら滲ませる冬弥とは対照的に、大迫は楽しそうに笑った。「小林って、よくそんな昔の名前を覚えてたね。二週間はもった? それとも、すぐ上書きされた?」その挑発が終わるより早く――。「てめぇか!」冬弥の拳が一直線に叩き込まれた。鈍い衝撃音が響き、大迫は数歩後退する。それでも倒れない。「……いきなり殴る?」「落とし前だ。立っていられる程度には加減した」「結果論だろ、それ」「結果がすべてだ」あやめは一歩引いた場所から二人を見比べた。挑発する男と、本気で応じる男。不思議なくらい似ている。(同族嫌悪、ということでしょうね)そう結論づけるしかなかった。「冬弥さん、とりあえず一発で落ち着いてください」
last updateLast Updated : 2026-02-12
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2-15 東西を結ぶ盃

「俺がここへ来たのは、兄貴の指示なんだ」大迫の言葉に、冬弥が静かに眉を上げる。「兄貴?」「赤羽組の若頭、美作猛。俺の異母兄だ。正確には指示というより“お願い”だけどな」その名前を口にした瞬間だけ、大迫の軽薄な笑みの奥へ誇らしさが覗いた。(異母兄弟だから不仲だと決めつけていたわ)あやめは心の中で小さく反省する。血の繋がりだけでは測れない関係は、この世界では決して珍しくない。そして何より、大迫は自分の意思ではなく、美作猛の意思を背負ってここへ来ている。「冬弥さんに興味を持ったのは、あなたではなく美作猛さんだったのですね」大迫は否定せず、笑うだけだった。その反応だけで十分だった。あやめと冬弥は視線を交わし、互いに同じ結論へ辿り着いたことを確認する。「いい飼い主が見つかったな」「ええ。慣れている人が育てるのが一番ですから」二人だけで話が進む様子に、大迫は首を傾げる。「兄貴にペットでも預ける気か? 兄貴、猫アレルギーで犬は苦手だぞ」「大丈夫だ。鳥だから」「……鳥?」軽い笑みが止まる。「それって……赤い鳥か?」「ああ」冬弥は静かに頷いた。「必要な数は残す。それでも余る。文化の違う俺たちが扱えば、水一つで殺しかねない。だから、あの土地を知る飼い主が必要だ」穏やかな口調とは裏腹に、その意味は重い。朱雀会という器は壊しても、人材までは潰さない。その役目を美作猛へ託そうとしている。「……兄貴を、その飼い主に?」大迫の声がわずかに震えた。「できないとは言わせません」あやめは資料を差し出す。「お兄様自身も、そう考えていらしたのでしょう?」大迫は目を見開く。「だから冬弥さんへ興味を持った。違いますか?」しばらく黙っていた大迫は、やがて肩を竦めた。「……参った。そこまで読まれてるとはな」そして苦笑する。「うちの兄貴さ、昔から爬虫類が好きなんだ。特に白くて綺麗なやつには目がなくて」「私と気が合いそうですね」あやめも柔らかく笑う。「私も白くて美しい爬虫類を心から愛しています。ですから――誰にも差し上げませんわ」冗談めいた口調だった。だが、その奥には確かな独占欲が滲んでいた。「あやめちゃん、俺を飼う気ない?」「ありません」即答だった。「うわ、振られた!」楽しそうに笑う大迫を見て、冬
last updateLast Updated : 2026-02-12
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