ANMELDEN龍神会本部の玄関に足を踏み入れた瞬間、 あやめは胸の奥がじんわりと熱くなった。
かつてこの場所に居心地の悪さと、恐怖を感じていたなど、いまのあやめには嘘のようだった。
今は、違う。
ここは、帰ってきたのだと、心が告げる場所だった。
「おかえり」
冬弥の声に、あやめは顔を上げた。
冬弥が腕時計を見る仕草に、自分が帰ってくるのを待っていたのだと気づく。
そして、あやめが予想より早く着き、自分が出迎えられなかったことへの不満も感じ取った。
(ちゃんと見ると、冬弥さんって……)
黒のスーツに身を包み、変わらぬ冷静な表情。
けれど、その瞳の奥に、確かな安堵の色があった。
(可愛らしいわ)
「ただいま、戻りました」
あやめがそう言うと、冬弥は口角を緩めて、あやめに近づく。
そして、そっと手を伸ばし、あ
料理が運ばれる。あやめが今日のために用意したのは、季節の和食を中心とした献立だった。前菜は、春の山菜を使った白和えと、薄味で仕上げた筍の土佐煮。椀物は、蛤の潮汁。主菜は、鰆の西京焼き。そして締めには、桜海老の炊き込みご飯。どれも派手さはない。だが、素材の味を最大限に引き出した、丁寧で誠実な料理だった。迅は箸を取りながら、ふっと笑う。「ずいぶんと、家庭的だな」その言葉は褒め言葉にも聞こえるが、迅の声色には微かな皮肉が混じっていた。 組の妻としての華やかさが足りないとでも、言いたげだ。「随分と、愉快なことを仰るのですね」あやめは笑う。(しかし、それは『神崎の女』にいうべき言葉ではない)「それは私に求められているものではありませんでしょう?」あやめは微笑みを崩さず、静かに答える。。家の中に閉じ込める我慢をさせた上で、着飾って男のご機嫌取りまでさせるのか。そんな意図を含ませた言い方だった。迅の目がわずかに細くなる。その瞬間、空気がピリッと張り詰めた。冬弥は箸を置き、静かに口を開く。「迅。神崎の者として、神崎の女として求めることなら好きに発言して構わない。しかし、俺の妻としての振る舞いは俺たちが決めることだ」迅が冬弥を見る。その視線には、組の未来を背負う者としての意見があるが、幼馴染としての甘えがあることに気づいた。「冬弥。お前の『妻』という立場はそう簡単には――」「お前は、あやめに『それ』が分かっていないというのか?」(ああ、分かった)「迅、あやめはあやめだ。俺の母親とは違うんだ」冬弥の声は低く、揺るぎなかった。迅が言葉を飲み込み、目をそらす。樹も静かに目をそらしていた。そんな中で、あやめの笑い声が場違いなほど軽やかに響いた。「無自覚な殺人たちが、雁首を揃えて何を仰っているのやら」誰かを追い詰める、やっている本人は自覚のない支配・無関心・放置。やっている本人は何気ないことでも、やられたほうは確実に死に追いやられていく。「ああ、無自覚ではありませんでしたね」あやめは、にこりと笑ってお茶を飲む。「檻の中で私が退屈しないようにと、愛人を寄越してくださったのですもの」ねえ、とあやめが笑う。冬弥の背に、ゾッと寒気が走る。「見当違いの気遣い、自分の浮気を正当化したいために私を共犯にしようという
「迅が、来たようですね」樹の言葉に、冬弥は部屋の外に意識を向ける。聞こえてくるのは、帰郷を労う言葉。組員が迅を歓迎する様子に冬弥は口元を緩めつつも、左側に座るあやめを見る。冬弥の視線に気づいたあやめは、ふわりも笑った。(可愛らしいのに、ゾッとするのはなぜなのか)扉が開く音がした瞬間、冬弥は自然と背筋を伸ばした。 海外での長い撮影を終えて帰国した看板俳優の今宮迅を労うための夕食会だが、実際にはもっと複雑な意味を孕んでいる。迅と冬弥は幼馴染であり、互いの人生の節目を何度も共有してきた。 だが、迅と冬弥の妻・あやめの仲は『よい』とは言えない。迅は組の拡大と神崎家の永続のためには愛人制度が必要であると考え、あやめに対して脅しをかけた。その脅しがあやめに対するものならここまでにはならなかっただろうが、迅は楓に向けて脅しをかけた。冬弥の跡取りがあやめの生んだ楓一人では心もとないことを示すためとはいえ……。(言葉で話せ、ということなのだろう)組という組織と、神崎家という家族は切り離して考えることはできない。しかし、過去の当主夫妻はさておき、冬弥とあやめの関係においては、極道の世界の当然だと自分たちの常識を勝手に押し付けないと決まった。愛人の件で痛い目に遭い、冬弥が学んだともいう。これまではどうであれ、自分たちはこうしていくと冬弥とあやめが決めた。だからこれは、迅にとっては価値観の衝突で、あやめにとっては……。(越権行為というか、夫婦のやり方に口出しされたようなものだから……不快)表面上の穏やかさすらなく、いつでも火種になり得る緊張はむき出しだった。今回の労いの宴は、宿なしになった迅の救済措置であやふやになりつつはあったが、あやめが準備し招くことは決まっていた。夫の友人ではなく所属俳優を招くのだからと、席次も料理にも、あやめは冬弥に手を出させなかった。 ドアノブが動いたので冬弥が立ち上がると、あやめも静かに後を追う。 あやめの所作はいつも通り落ち着いているが、 ほんのわずかに肩が張った。その緊張を、冬弥は誰よりも敏感に感じ取っていた。扉を開けると、迅が笑顔で立っていた。 俳優としての華やかさを纏いながらも、幼馴染の前ではどこか少年の面影を残す表情だ。(こちらも、こちらで……)迅は軽く手土産を掲げ、あやめに向けて微笑
「お帰りなさい」にこやかに出迎えたあやめに、冬弥はため息を吐き、その華奢な体を抱きしめた。「……疲れた」「お疲れ様です」“何で”疲れたのか分かっているくせに、分からない振りをするあやめに冬弥は苦笑する。「楓は?」「よく眠っています」あやめの髪ごしに、周りを見た冬弥は早苗がこの場にいないことに苦笑する。「楓に、早苗をつけたのか」冬弥の肩越しに、あやめは後ろの二人を見る。苦笑する樹と、渋々であることを隠さない迅。「必要だと思ったので」「それでお前が安心できるならいい……樹、迅を連れていけ」冬弥の言葉に肩を竦めた樹が、先導する形で迅を客間のある方角に先導する。勝手知ったる屋敷なので迅も客間の場所を把握していたが、迅も黙って案内された。いまの屋敷の管理人はあやめ。ここはもう、勝手知ったるではないことを迅は遅ればせながらも理解しつつあった。(いや、理解させられたというほうが正しいか)「……いいのか?」冬弥の問いに、あやめは笑う。「私を害しても、今宮さんに何の得もないですからね」あやめの言う通りだ。あやめを害しても、沈んでいくあやめに引き摺られて龍神会全てが沈んでいくことになる。「それに、今宮さんは宿なしですからね」「……そうだな」しばらく滞在する予定だったホテルから、館内設備の故障を理由に追い出された迅。その後、どこのホテルを予約しようとしても断られた。大臣経験もある政治家の娘であるあやめは、手際よく都内の一流と言われるホテルに手を回していた。「ビジネスホテルまでは、手を回していませんよ?」「ビジネスホテルの泊まるのは、負けたような気がするらしい」「注目される立場は大変ですね」くすくす笑うあやめに、冬弥は苦笑して抱きしめる腕の力を強める。そんな冬弥の腕を、あやめはポンポンと叩いた。「いい加減に放してください」「嫌だ」あやめは少しだけ困ったように笑った。「疲れているのは分かりますが、いつまでも玄関でこうしているのもどうかと思いますよ」「問題はない。俺たちは夫婦だ」冬弥は顔をあやめの肩に埋める。「しばらく、帰ってこられなかった」「そうですね」「塩沢からの文句が煩い」「存じております」「全部お前のせいだ」「あら、私なんかに何ができますの?」私なんか。それは自分を卑下する言葉なのに、あやめに
「馬鹿、とは……辛辣ですね」「忠義をはき違えてしまっているでしょう?」迅が神様とした先代組長はすでに亡くなっており、彼が亡くなったとき、迅はその歩みを止めている。その時代から変わらず良いものはある。でも、変化が必要なものは絶対にある。(時代は変わっているのに、先代組長が遺した形に固執してしまっている)そして、先代組長が遺した最大の失態は……。「どいつも、こいつも……」「あ、姐さん?」あやめのすごんだ呟きに、水原壮一は腰を引いた。逃げたい、と全力で思った。「……いつになったら“違う”を理解してくれるのかしら」龍神会に巣くうのは、先代夫人であり冬弥の母親である神崎美鶴が残した不信。檻の中で一生を終えることを嫌がるに違いない。過去にあったことからそう思い込み、あやめまでをそう見ている。だから、あやめに何があっても被害が最小ですむように、いまも冬弥に愛人をすすめている。愛人で組を強化する。愛人の子を産ませることで、組を補強する。「信じろと口で言っても理解できないとは分かっていますが、流石にここまで来ると……ムカつくわね」「姐さんのことを舐めてますよね、あの三馬鹿」「さ、早苗」火に油を注ぐどころか、風まで送ってどうするのかと水原壮一は慌てる。「どうします? お仕置き兼ねて、三馬鹿全員のクレジットカードを止めてしまいますか?」「それも面白そうだけれど……鷹見さんが、たかられそうね」「大丈夫ですよ、あいつ、金は持っているんで」(それでいいのかしら……)あやめは淡々と、ため息を吐く。「信じ込まないこと、疑心はある程度は大事ではあると、私は思っています」信じすぎれば、裏切られたときに立ち直れなくなる。だから、信じ過ぎないようにする。心に保険を掛ける。(私だって、愛人のことで冬弥さんのことを信じきれてはいないし、信じ切ることはない)でも、あやめは『冬弥のやったこと』で判断している。それなのにあやめは、過去の神崎の女がそうだったからで判断されてしまっている。そう、思い込まれている。「私が何をしようと、信じられないというのなら……仕方がないのでしょうね」「姐さん、それは……」水原壮一の躊躇う声に、あやめは苦笑した。そんなことはないと、表面上のおべっかを使わない水原壮一のこういうところをあやめは評価して
「それで、教育の方向性というのは?」「若い連中には、組の仕事を教えつつも、普通に社会と接点を持たせたいと思っています」「いいと思いますよ」あやめは、紅茶を一口飲んだ。「いいのですか?」「黒と白を知らなければ、灰色が理解できませんからね」裏の世界だ、白のままではいられない。でも、この時代、黒だけでは必ず詰む。慎重に灰色を踏み続けなければ、長くもたない。「龍神会として、予算を組んでみましょうか」「よいのですか?」「ええ。“龍神会の未来”として扱うべきという意見には賛成ですもの」あやめは手元の書類をペラペラとめくり、一枚を水原壮一の前に出す。「これは……」差し出された紙にかかれたのは、教育費に関わる融資の条件。組の者として労働をし、合間の時間で通信教育で学ぶ。結果は、最高評価しか認めないというもの。「必要と思って事前に準備しておきました。水原組長が目をかけている者へ、援助を希望するならばこれを出すように言ってください」「最高評価、ですか……厳しくはありませんか?」「ボランティアではありませんので、頑張る意志をみせていただかないと“誰にでも”とするほどの余裕はありませんわ」あやめの言葉に納得をしつつ、最後まで読み切った水原壮一の眉間に皺が寄った。「姐さん、年齢制限がないのは……」「むしろ、上の人間のほうが教育が必要だからです」あやめの笑顔に、怒りを感じた水原壮一。誰がやらかしたのかと考え、最近派手に帰国した男を思い出した。「迅のこと、ですか」(迅……)親し気というよりも、庇護対象を呼ぶような水原壮一の声にあやめは気づいた。「今宮さんのことを、よくご存知のようですね」あやめの言葉に、水原壮一は軽く瞬きをした。「それなり、に……」水原壮一は少し迷うように早苗を見た。早苗はそれに何の反応も示さず、でもそれは水原壮一の判断を尊重するという意志でもあった。「不思議に思ったかもしれませんね」水原壮一は一度深く息を吐いた。「迅は、神崎冬弥を慕ってはいますが、あそこまで盲目的になっているのは龍神会に対してです」あやめは黙って耳を傾ける。水原壮一は静かに話し始めた。「ヒーローに妄信するようなものでしょうかね。迅は、育った家庭環境が最悪でした」龍神会にいる者全員がそうではないが、家庭に恵まれなかった者は多い。あや
神崎邸の応接室は、午前のやわらかな光に満ちていた。庭の木々の間を抜けた風が、薄く開いた窓から静かに入り込み、白いレースのカーテンを揺らす。あやめはソファに腰掛け、テーブルの上の資料に目を落としていた。「こちらに置いておきます」「ありがとう、早苗さん」早苗が淹れたばかりの紅茶から、ほのかな香りが立ちのぼった。やがて廊下の奥から、足音が近づいてきた。 コンコン「どうぞ」「失礼します」自ら扉を開けて入ってきたのは、蛟組の組長である水原壮一だった。早苗という護衛はいるものの、鷹見と大迫が先導せずにあやめのもとまで来られる者は限られている。これは、あやめが水原壮一を信頼している証だった。「お久しぶりです」背の高い体をわずかに縮めるようにして、水原壮一は頭を下げる。生来の性格からか粗野な振る舞いはしない男だったが、娘の玲奈を冬弥に添わせようという考えからあやめに対して多少の敵意を見せてはいた水原壮一。朱雀会との抗争の中で、あやめとは一種の和解の形をとり、藤堂結衣に言わせると“あやめに躾けられて”あやめに対しても従順になった。「お元気でしたか?」あやめがソファに座るように微笑んで促す。水原は「失礼します」と言ってソファの端に腰を下ろした。その様子を見て、早苗がくすりと笑い、水原壮一はバツが悪そうに苦笑する。「早苗、笑いたければ笑え」「まあ、なんて心優しいお言葉。数年前の水原組長からは想像もできない言葉が出てきましたわ、感激でございます」そう揶揄いながら、早苗は静かに紅茶を差し出した。「ありがとう」「あらま、感謝の言葉まで」早苗はわざとらしく、窓から空を見た。「槍が降ってきますかね」「……姐さんが丁寧に接する相手に、俺が粗野な振る舞いなんてできるわけがないだろう」水原壮一は咳ばらいをし、ソーサーごとカップを持ちあげて紅茶を飲む。その所作は丁寧かつ優雅で、紳士的だった。「今日はどういったご用件で?」あやめが穏やかに尋ねると、水原壮一は少しだけ表情を引き締めた。「辰組の若い連中のことで……」あやめは頷いた。辰組は現在、若手を大勢失って実質的に空洞化している。「ご協力、ありがとうございます」「いや、あの組のことはちょっと気になってもいたので」辰組は、龍神会の筆頭分家としての歴史と、その自負がある。それは悪いこ







