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All Chapters of 氷龍の檻姫: Chapter 91 - Chapter 100

215 Chapters

2-16

「大迫武流です」軽やかな声とともに現れた男に、冬弥は盛大にため息を吐いた。「……お前、本当に来たのか」呆れ半分。しかしどこかで“来るだろう”と分かっていたような声音だった。「勿論です。あや……姐さんのボディーガード募集に、俺が参加しないわけがないでしょう」言いかけた言葉に、自分で気づいた大迫は、ほんのわずかに舌を出す。その一瞬を、冬弥は見逃さない。「お前、いま、”あやめちゃん”と言おうとしただろう」「……すみません」謝罪の言葉とは裏腹に、大迫の顔には反省の色は薄い。むしろ、どこまで許されるかを測るような軽さがあった。(線を探しているな)冬弥は内心でそう評価する。大迫は誤魔化すように頭を掻き、懐から封筒を取り出した。「兄貴に書いてもらった推薦状です」差し出された封筒。端はわずかによれ、中央には意外にも達筆で【履歴書在中】と書かれている。冬弥はそれを一瞥し、わずかに眉をひそめた。「……履歴書?」「転職活動なのだから『持っていけ』、と」「そうか」短く返した次の瞬間。冬弥は封筒を無造作に丸め、そのままごみ箱へ放り投げた。弧を描いた紙の塊は、迷いなく吸い込まれるように落ちる。見事なスローインだった。「ナイッシュー、いや、お見事」「……接待ゴルフか」呆れた声。しかし、大迫は肩を竦めるだけだった。「組の下っ端で、実は大物組長の隠し子。そういう立場で生きてきたんで。場を読むのは、もう反射ですね」「そうか」軽い言葉だが、その裏には積み重ねた修羅場がある。(軽いが、軽さの質は悪くない)冬弥は大迫を見据える。人懐こさと図太さ。その両方を、計算と本能で使い分けている。(俺にはない種類の生き方……これは、ないところへの嫌悪感だな)冬弥は奥歯を噛む。(あとは……)「若」鷹見の声に、冬弥は奥歯を解き、一息つく。「鷹見、お前に面接……その一、を任せる」それだけ言って、冬弥は立ち上がった。「その一って、なんです?」大迫の問いに、誰も答えない。ただ一人、鷹見だけが静かに歩き出した。·  * ·「すげえな。同じ敷地内に道場があるのか」神崎邸の一角にある道場。広さは決して大きくない。だが、人を壊すには十分で、逃げるには狭すぎる。「逃げ場、なし。なるほどね」その閉じた空間に足を踏み入れた瞬間、大迫の
last updateLast Updated : 2026-02-12
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2-17

「……大迫さん?」冬弥に呼ばれて執務室へ入ったあやめは、机の前に立つ男を見て、わずかに首を傾げた。「大迫武流です。どうも」「知ってます」軽く手を挙げるその仕草は飄々としている。それが“小林”を思い出させ、あやめは眉を寄せる。「あやめに付けようと思う。だから……面接だ」冬弥の言葉に、あやめは静かに大迫を見た。軽薄そうな空気は変わらないが―――。(……違う)以前、“小林”として会ったときに感じた歪み。何かを誤魔化しているような、わずかな危うさ。それが、ない。代わりにあるのは、奇妙な余裕。(それより気になるのは……)あやめは冬弥を見る。呼吸の浅さ。視線の置き方。(冬弥さんが緊張する理由はない……後ろめたさ?)「あなたなんかを、私に付けようとしているから?」「……言葉に出ています」「あら、ごめんなさい」特に誠意も籠らない謝罪を大迫に向けて、あやめは冬弥と鷹見を交互に見る。(この二人が通したということは、能力面に問題はないのでしょう)それなら、あやめの答えは一つだ。「私は、大迫さんがボディーガードで構いません」あやめは、あっさりと告げた。「そう、か……」冬弥の声が、わずかに硬い。あやめは首を傾げた。「冬弥さん?」「いや……あやめがいいなら、いい」(“いい”……?)その言い方に、ほんの僅かな引っかかり。(まるで……私が選んだかのような……)あやめは大迫を見る。笑顔が返ってきた。その笑みに、あやめは不快なものを感じた。生理的に好かないとかではなく、妙に掴みどころがない。(とりあえずは……)「暴漢に襲われたら、大迫さんを突き飛ばせってことですよね」「……あやめ?」「鷹見さんは、冬弥さんにとって大切な方ですから、盾にするのは躊躇いますけれど」さらりと続ける。「大迫さんなら遠慮はいりません。食客扱いでしょう? 労災の手続きも、そちらでしていただけるでしょうし」「……なるほど」「組長さん!」大迫が抗議の声を上げる。「この姐さん、可愛い顔して結構えげつないこと言ってますよ!」冬弥は大迫を見た。その視線は、からかいでも怒りでもない。「男と女、庇って死ぬならどっちがいい?」「美女」即答だった。「良かったな、あやめは美女だ。死んでも悔いはないな」「いや、悔いまくりますよ。俺にも女がいるん
last updateLast Updated : 2026-02-13
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2-18

「あやめさん」呼ばれて、あやめは傍に立つ大迫へと視線を向けた。内では“姐さん”と呼ばれることに、もう慣れた。けれど、こうした外の場でその呼び方をされないことに、わずかな安堵を覚える。「少し休まれたほうがいいですよ」「……まだ、大丈夫……」そう答えながらも、あやめの声にわずかな掠れが混じる。「顔色が悪いです」大迫は、幾分か声に軽い調子を込めて、言葉を続ける。「ここで倒れられたら、俺は鷹見さんに殴られて、組長さんに蹴られます。俺を助けると思って、休んでください」「……なおさら休みたくなくなるのですけれど」小さく返しながら、あやめは会場の隅へと足を向けた。人の流れから一歩外れた場所。それでも視線は途切れない。あやめは一息つき、背筋を伸ばす。「ご令嬢教育って、すごいですね」「何がですか?」「疲れているなら、壁に寄り掛かればいいのに」(……寄り掛かる)その言葉に、あやめは背後の壁へと視線をやり、苦笑した。「こうして立っているほうが楽なんです」それは半分本当で、半分は嘘。「だからすごいって言ってるんですよ」大迫は肩を竦める。「まあ、無理はしないでくださいね」その言葉に、あやめはほんの少しだけ肩の力を抜いた。それでも、後ろには寄り掛からない。((寄り掛かったら……)立ち上がれなくなる気がした。.あやめは会場に目を向ける。 (……眩しい)ホテルの高層階にあるパーティー会場は、柔らかな光に満たされていた。磨き上げられた床は、照明を反射して淡く輝く。グラスの触れ合う澄んだ音。抑えた笑い声。低く交わされる商談の気配。視線を巡らせば、見覚えのある顔がいくつもある。政治家、実業家、スポンサー―――そして、同じ側の人間。(分かる)誰が“そう”なのか。どこに危険となる、悪意があるのか。以前の自分には分からなかったものが、今は分かる。あやめは今夜、冬弥の代理としてここに立っていた。冬弥は今日、別のパーティーに出ている。最近の冬弥は忙しく、連日深夜までお付き合いの場に呼ばれている。(本当は、嫌がっていた)冬弥は最後まで渋っていた。それでも、どうしても外せない予定が重なった。結果として、あやめがここにいる。護衛は鷹見と大迫、そして早苗まで動員された。さらに視線を巡らせれば、さりげなく配置された組員が何
last updateLast Updated : 2026-02-13
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2-19

あやめの顔を覗き込んでいた女性の表情が、ゆっくりと歪んだ。―――愉悦。隠す気もない、露骨なそれ。(私……ひどい顔を、しているのね)自覚はあった。頬の強張り。視線の定まらなさ。呼吸の浅さ。それでも、どう整えればいいのか分からない。「奥様、もしかして……ご存知なかったのかしら?」柔らかい声。だが、その奥にはあやめが知らなかったという確信に対する悦び。否定すべき。でも、否定の言葉が出てこない。沈黙が、そのまま答えになる。「申しわけありません。そうですよね。奥様はこちらの世界の方ではありませんものね」軽い謝罪。謝る気のない、謝罪。「鷹見さん。あなたがちゃんと教えて差し上げなければ」「……申しわけありません」鷹見が、頭を下げた。その姿に、あやめの中で一つの線が繋がる。(…………この人は)鷹見に頭を下げさせる立場。少なくとも、幹部以上。(でも、妻ではない)幹部以上の男の妻には、会っている。でも、この女性には会ったことがない。(愛人)そして、この世界においてその立場は―――。(妻と、同等か……それ以上……).「……私も愛人であると、お分かりのようですね」女性は、背後の賑やかな空間へと視線を流した。グラスの光が、赤い唇に反射する。「こういう場には、妻ではなく、愛人を連れてくるものなのですよ」「……妻の代わりに、ですか?」問い返す声は、驚くほど静かだった。だが、指先には力がこもる。グラスの脚を握る手が、わずかに震えた。「誤解なさらないでくださいね」くすり、と笑う。「妻は妻、愛人は愛人。全く別のものですわ」切り分けるように。線を引くように。「水原のお嬢さんは愚かです。本当の愛人は妻の座など狙いませんわ」「本当の、愛人……」「ええ」女性は、優しく微笑んだ。ここでの優しさは、かえって残酷だ。「あやめさんは、龍神会にとって必要な存在。他の奥方たちも同じ。組にとって“内側”を守るための存在」女性は一歩近づく。「だから、外には出さない」囁くように。「―――檻の中だけの存在」同情してみせる。同情される存在だと、あやめに教えるために。(檻……)その言葉が、あやめの中に静かに沈む。音もなく、深く。「冬弥さんは、義理堅い方ですものね。ご結婚前に愛人を持つことはできないと仰って……私たち
last updateLast Updated : 2026-02-14
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2-20

「塩沢老が動いていたのか」低く押し殺した声だった。「……すみません」「いや」冬弥は首を横に振る。「俺も気づいていなかった。お義父上が教えてくれて、ようやく分かった」塩沢喜介。その名は、龍神会の中では一種の“時代”を意味する。冬弥の祖父――龍神会を拡大させた男の右腕だった男。冬弥の父親とは確執があり、それで表舞台から退いた。しかし、その影響力は未だ消えていない。冬弥の父親亡きあとは、表には出ることはなかったが、裏では多くを動かしていた影の実務者。(……あの人が、動いた)冬弥の中に、わずかな緊張が走る。敬意と警戒が同時に存在する相手。自然と「塩沢老」と敬称がつくのも、無理はなかった。.「あやめに余計なことを吹き込んだ女は?」塩沢老の話から一度離れたい。冬弥は話題を変える。こちらも、できれば避けたい話題。(しかし、避けるわけにはいかない……)「貝沢組長の愛人です」鷹見は簡潔に答える。「貝沢組長はいま新しい愛人に入れ込んでいます。あの方は付き合いも古く……淘汰される側に回ったのでしょう」「……だから、あやめに八つ当たりをしたというのか?」「ええ……それに、若とは以前いろいろありましたから」冬弥の眉がわずかに動く。「……寝てはいない、よな?」「ええ、迫られただけです」鷹見の即答に、冬弥は一息つく。「そのとき断られたことも、心情面で、今回のことに関わっているでしょう」「……そうか」短く吐き出す。「……あやめは?」「部屋にいらっしゃいます。ただ―――」鷹見は言葉を選んだ。「いい加減、話すべきではありませんか?」「……分かっている」即答できない。迷いが籠る。「愛人と言っても、すべてが同じではありません」鷹見が続ける。「情を交わすこともない相手。金だけでの、体の関係を持たない愛人も珍しくはない」「……分かっている」冬弥は短く答える。理解している。この世界の構造も、必要性も。(それでも)あやめがいる以上、愛人と体を重ねるつもりはない。それだけは、揺るがない。だが。「政界では、違う」冬弥はぽつりと言葉を落とす。「夫の愛人はあくまで裏。表に立つのは妻だ」視線をあげる。「だが、この世界は逆だ。公の場に立つのは、愛人だ……どこからが浮気になるか。それは人によって違う」冬
last updateLast Updated : 2026-02-14
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2-21

(……一ヶ月半……離れるの、か……)その数字は、思っていた以上に重く、そして長かった。「お気をつけて」結局、それしか言えなかった。本当は、言いたいことがいくつもあったはずなのに。引き止める言葉も、問い詰める言葉も、どこにも見つからなかった。(……ついて行くことはできない)あやめは妻だ。愛人たちとは違う。(まるで、制約だわ)冬弥が出張に行くとき、必ず誰かを連れていく。幹部、側近、護衛――必要な人間を、必要なだけ。だから今回も、当然のように大勢が同行することを不思議に思わなかった。(まさか、愛人候補を一緒に連れていくとは……)胸の奥に、冷たいものが落ちた。妻や娘を一緒に連れていって、大阪観光でもするのだと。そう思っていた自分が、滑稽に感じた。(……馬鹿みたい……)唇がわずかに震える。怒りではない。悔しさでもない。自分でも名前をつけられない感情だった。―――窮屈。今まで安心の象徴だったはずの檻が、急に狭く感じた。守られているはずなのに、息が詰まる。(あ……)「あやめ?」冬弥の声が、近くで響く。「……ごめんなさい」気づけば、声が震えていた。「……あれ、なんでだろう……どうして……」(こんなことで)涙が、頬を伝う。慌てて拭う。だが、次から次へと溢れてくる。失態。頭に、その言葉が浮かんだ。自分に失望した。「ごめんなさい……」感情に飲まれることは、弱さだ。弱さは隙になる。隙を作ってはいけない。「ごめんなさい……」(檻の中でいいと、言ったのは私)嘘ではなかった。本心だった。でも。(覚悟が、足りなかった)檻の傍には、いつも冬弥がいた。手を伸ばせば、届く場所に。恋する前からずっと。だから、寂しいなんて感じなかった。(……帰ってこないかもしれない)思考が、静かに沈む。帰ってこられない、ではない。帰ってこない。事故でも、敵でもない。冬弥の意志。帰らないという選択。その可能性を―――冬弥自身が、認めた。.あやめは、ふらりと立ち上がった。冬弥の横をすり抜け、扉へ向かう。「あやめ……」手首を掴まれる。温度が、伝わる。「……どうした?」その問いに、力が抜けた。(……分かっているくせに)どこか間の抜けた冬弥の問い掛けに、力が抜けた。そして、限界がくなる。(ここ
last updateLast Updated : 2026-02-15
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2-22

「早苗さん」厨房にいた早苗に声をかけると、早苗はすぐに振り向いた。涙のあとに気づいたのだろう。目が細くなる。「どうしましたか?」だが、それには触れない。いつも通りの、柔らかな声。「今夜……いえ、私が使える部屋を用意してもらえませんか?」「畏まりました」即答。「場所に希望はありますか?」冬弥の部屋は東側。「西側に……朝は、ゆっくり眠っていたいので」自分でも分かる、苦しい言い訳。「畏まりました。すぐにご用意いたします」「あのっ」呼び止める。早苗が足を止める。「早苗さん……ここに、いてもらえませんか?」ほんの少しだけ、声が弱くなる。「勿論です」迷いのない返事だった。その一言に、胸が少しだけ緩む。.「熱いので気をつけてください」梅昆布茶が差し出される。湯気がやわらかく揺れる。「若は、姐さんをとても大事に思っていらっしゃいますよ」唐突な言葉。それに、早苗は多くを知って察しているのだと分かった。「私しか言う人がいない気がするので言いますが、あれはもう、相当ですよ。超がつくほどメロメロで、誰だお前ってくらいには愛してます」「……ありがとうございます」思わず、あやめは小さく息を吐いた。「事実を言っただけですよ」早苗は肩を竦める。(どんな言葉をもらっても……)早苗の言葉はありがたいが、覆らない事実があることは分かっている。(冬弥さんは愛人を持つ)すでに候補者も決まっている。冬弥の視野に、自分ではない女性が入っている。――体の関係は持たない。その言葉は、信じている。でも、信じる気持ちだけでは、どうにもならない。不安は付きまとう。これからずっと。冬弥がそばにいないときは、ずっと。(私は……どうしたいの?)冬弥は一日のほとんどの時間を屋敷の外で過ごす。その時間、ずっと疑心暗鬼のままでいたら、気が狂うだろう。それに。(窮屈さに耐えられなくなったら……)いまは、まだ、自分はここにいるべきだと分かっている。でも、このまま狂って、この窮屈さに耐えられなくなったら……。(私を、外に……)「姐さん、部屋の準備ができました」早苗の声に、思考が途切れた。(……なにか、掴み損ねた).部屋に入る。慣れないにおい。慣れない静けさ。あやめはそのまま布団に倒れ込んだ。力が抜ける。(……疲れた
last updateLast Updated : 2026-04-16
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2-23

結局、その夜、あやめはほとんど眠れなかった。浅い眠りに落ちてはすぐに浮上し、また沈みかけては目を覚ます。その繰り返し。夢を見たような気もするが、断片すら思い出せない。ただ、目を覚ますたびに胸の奥がひやりと冷えていて、それだけが確かな現実として残っていた。静かな部屋に、自分の呼吸だけがやけに大きく響く。(……眠らなければ)そう思うのに、意識は冴えていくばかりだった。.朝。カーテン越しに差し込む光は、容赦なく「一日が始まった」ことを告げてくる。逃げ場のない現実のように。あやめはゆっくりと起き上がり、無意識のまま身支度を整えた。鏡に映る自分の顔は、ひどく整っているのに、どこか自分ではないように見えた。感情だけが、そこにない。部屋を出て、廊下を歩く。足音がやけに響いた。まるで屋敷全体が息を潜めているかのように静かで、誰ともすれ違うことなく、あやめはダイニングへと向かった。朝食は、すでに用意されていた。湯気の立つ味噌汁、整然と並べられた小鉢。焼き魚の香り。どれも、昨日までと何一つ変わらない。ただ一つ―――向かいの席が、空いていること以外は。「早苗さん、冬弥さんは?」問いかける声は、思っていたよりも平静だった。「若は仕事で、朝早くに家を出ました」そう答える早苗の顔を探っている自分に気づく。これは嘘か。それとも、本当か。早苗は普段通りで判断がつかない。(これから先も……)自分はずっと“測る側”になるのだと、あやめは理解した。言葉の裏。沈黙の意味。視線の揺れ。それを一つひとつ疑っていく日々。(……嫌ね)想像しただけで、胸が重く沈む。「……いただきます」あやめは箸を取り、静かに食事を始めた。味は分かる。舌は正常に機能している。だけど、感覚はどこか遠い。食べているのに、食べていないような気がする。ただ、体を動かすために必要な作業として、淡々と口に運んだ。.食事を終えると、やることがなかった。本来ならば、冬弥の予定を確認したり、鷹見と短く言葉を交わしたり、誰かと何気ない会話を交わす時間だった。だが、今日は違う。(話しかけてこない……)腫れもののような扱い。あやめには分かっていた。そっとしておけという、冬弥の指示だろう。優しい。けれど、残酷だ。永遠に、そっとしておかれることを想像し
last updateLast Updated : 2026-02-15
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2-24

「良かったんですか、姐さんと話し合わずに大阪に来て」樹の軽い声に、冬弥はゆっくりと視線を向け、そのまま鋭く睨みつけた。「……仕事だ」短く返された言葉に、樹は肩を竦める。「仕事といって浮気相手に会って、彼女にバレて別れた友人は二桁いきますよ」「……下衆の極みだな」「若も近々仲間入りですけれどね……っと、そんな目で睨まないでくださいよ」軽口を叩きながらも、樹の目は笑っていなかった。冬弥は反射的に何か言い返そうとして、わずかに唇を震わせるだけで口を閉じた。その沈黙を見て、樹は小さく息を吐く。「全く……駒なら、愛するなんてことをせず、最初から駒として扱うべきだったんだ」その言葉に、冬弥の目に明確な怒りが宿る。「あやめは駒じゃない」「駒ですよ」即答だった。「若は純愛を気取っていますけどね、愛人を持とうって段階で姐さんは“駒の一つ”になっている。自覚があるかどうかは別として」淡々とした口調だったが、そこに遠慮はなかった。樹は続ける。「愛するなと言って止まるものじゃないことくらい分かっていますよ。それなりに、ですがね」そこで一度言葉を切り、普段の飄々とした空気を消して冬弥を真っ直ぐに見た。「若は、姐さんの恋心を受け入れるべきじゃなかった。朱雀を獲った後にどうなるか、分かっていたはずだ。姐さんのことを本当に思うなら、あの恋は拒絶するべきだった」重い言葉だった。否定も反論もできない種類の正論。樹はため息をつく。「姐さんに感謝すべきですね。あの人がああいう人でなければ、とっくに裏切られたと思って屋敷を飛び出していますよ」「……俺の部屋からは出ていったけれどな」低く漏れた冬弥の言葉に、樹はわずかに眉を寄せる。「こんな調子で……本当に大丈夫ですか。姐さんが限界だと思ったら、ちゃんと大迫に“許可”を出してくださいね」その言葉に、冬弥の奥歯が強く噛み締められる。許可。それは、あやめを他の男に預けるという意味を持つ言葉だった。「大迫というのは、いい選択ですよ。あいつもこの世界で飯を食ってきた男です。姐さんと情を交わすことはないでしょうし、孕ませるようなヘマもしないでしょう」合理的な評価。だがその言葉は、冬弥の内側に不快な想像を呼び起こした。大迫を見て微笑むあやめ。安心しきった表情で寄り添う姿。別の男の隣で、穏やか
last updateLast Updated : 2026-02-16
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2-25

神崎家と龍神会は、あやめが産んだ子が継ぐ。それは誰もが理解している既定路線であり、覆ることはない“前提”だった。しかし、この世界において血は単純な直線では流れない。愛人から生まれた子であっても、完全に無視できる存在にはならない。まして、その子が冬弥の最初の子――長子であったならば、その意味は一気に重みを増す。名目上の正統性と、現実的な影響力。そのふたつが乖離したとき、組織は必ず歪む。.極道の世界で、妻と愛人は別の土俵に立っている。互いに役割が違うため、直接的な優劣は存在しない。だが、それは女同士の話に限る。ひとたび子が絡めば、話は別になる。子どもたちは否応なく同じ土俵に上げられ、序列が生まれる。血統、順番、母親の背景、そして父親の意思。あらゆる要素が絡み合い、後継を巡る見えない競争が始まる。愛人たちは妻の座を奪おうとはしない。だが、次期組長の母という立場は狙う。妻と愛人が孕めば、妻と愛人は同じ“母”として同一の戦場に立たされる。(こんな女たちに、あやめを引きずり降ろさせるつもりはない)でも、と冬弥の思考が止まる。(そのために、俺の子どもを早く産めとあやめに言うのか? 言えるわけがない)思考の中で吐き捨てるように呟きながら、冬弥は自分の無力さを噛み締めた。守るための選択が、同時にあやめを追い詰めている。その矛盾を解消する術を、冬弥は持たない。(あやめを、愛しているのに)その感情だけは、揺るぎない。疑いようもない。だが、その確かな愛が、現実の前ではあまりにも無力だった。あやめと谷川美香では、女としての魅力も、家としての価値も、比べるまでもない。すべてにおいて、あやめが圧倒的に上だ。それでも――。(だから、あやめは檻の中にいる)守るべき存在だからこそ、外に出さない。危険から遠ざける。結果として、それは“閉じ込める”ことと同義になる。.(愛人……か)冬弥からすれば、娘を愛人として差し出す父親の気持ちが分からない。もしこの瞬間、ここに暴漢が現れたとしたらどうなるか。冬弥も、護衛も、迷わず守るのは冬弥自身だ。谷川美香は守らない。守らないどころか、見捨てる。谷川が攫われようが、傷つこうが、見捨てる。それが当然。そういう序列で、この世界はできている。だから、愛人と情を交わすことはない。情を交
last updateLast Updated : 2026-02-16
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