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Todos os capítulos de 氷龍の檻姫: Capítulo 91 - Capítulo 100

231 Capítulos

2-16 面接、その一

「大迫武流です」軽い調子の挨拶とともに現れた男を見た瞬間、冬弥は大きくため息をついた。「……本当に来たのか」「もちろんです。姐……あや……姐さんの護衛募集に、俺が来ないわけないでしょう」言い直した一瞬を、冬弥は見逃さない。「今、『あやめちゃん』と言おうとしたな」「……失礼しました」口では謝るものの、その表情に反省の色は薄い。どこまで踏み込めるか探っている――そんな軽さだった。(境界線を測っているな)冬弥は内心でそう判断する。大迫は誤魔化すように頭を掻き、懐から一通の封筒を取り出した。「兄貴に持っていけと言われた推薦状です」封筒の中央には、達筆な字で【履歴書在中】と書かれている。「……履歴書?」「転職活動なんだから必要だろ、って」冬弥は無言で封筒を受け取り、一度だけ眺めた。そして次の瞬間、何の迷いもなく丸め、そのままごみ箱へ放り投げる。紙の塊は綺麗な放物線を描き、吸い込まれるように入った。「お見事っ!」「……接待ゴルフか」「場を読むのは得意なんですよ。下っ端で、大物組長の隠し子なんて立場でしたからね」軽い口調だったが、その一言に積み重ねてきた年月が滲んでいた。(軽い男だ。だが、軽さに芯がある)冬弥は静かに大迫を見据える。人懐こさと図太さを武器に生きてきた男。その生き方は、自分とは正反対だった。(だからこそ鼻につくのか)「若」鷹見の声で思考が途切れる。冬弥は小さく息を吐き、立ち上がった。「鷹見。面接その一を任せる」「その一?」大迫が首を傾げても、誰も答えない。ただ鷹見だけが静かに歩き出した。案内された先は、神崎邸の道場だった。「同じ敷地に道場まであるのか」広くはない。しかし、逃げ場もない。「なるほど。試験会場ってわけか」畳へ足を踏み入れた瞬間、大迫の目つきが変わる。「ルールは?」問いに答えたのは、すでに構えを取っていた鷹見だった。「死ななきゃいい」「怖いですねぇ」口では笑っていても、視線は鋭い。重心、呼吸、間合い――相手を細かく観察している。(やはり場慣れしている)冬弥は黙って見守る。鷹見の構えは元ボクサーらしい前傾姿勢。しかし足運びには柔道の重心移動が混じっていた。「よろしくお願いします」爽やかに頭を下げた次の瞬間、大迫が滑るように踏み込む。床を蹴る音より先に身体
last updateÚltima atualização : 2026-02-12
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2-17 言葉にできない想い

冬弥に呼ばれて執務室へ入ったあやめは、机の前に立つ男を見て小さく首を傾げた。「……大迫さん?」「大迫武流です。どうも」軽く手を上げる仕草は相変わらず飄々としている。その姿が“小林”だった頃を思い出させ、あやめはわずかに眉を寄せた。「あやめの護衛につけようと思う。だから……面接だ」冬弥の説明を聞き、あやめは改めて大迫を見る。(……違う)以前に感じた、何かを隠しているような歪さは消えていた。代わりにあるのは不思議なほど自然な余裕。それよりも気になったのは。「冬弥さん?」冬弥の様子だった。呼吸は浅く、どこか落ち着かない。能力を疑っているのではない。別の感情が混じっているように見えた。(後ろめたさ……?)「あなたなんかを、私につけようとしているからですか?」「……口に出ていますよ」「あら、ごめんなさい」あまり謝っているようには聞こえない言葉を返しながら、あやめは冬弥と鷹見を見比べる。(この二人が認めたのなら、実力に問題はないのでしょう)答えはすぐに決まった。「私は、大迫さんで構いません」「……そうか」冬弥の返事はどこか硬かった。「冬弥さん?」「いや……あやめがいいなら、それでいい」(私が選んだみたいな言い方……?)小さな違和感を覚えながら、大迫へ目を向ける。返ってきたのは相変わらず掴みどころのない笑顔だった。(とりあえず)「暴漢に襲われたら、大迫さんを突き飛ばせばいいということですね」「……あやめ?」「鷹見さんは冬弥さんにとって大切な方ですから、盾にするのは躊躇います。でも大迫さんなら遠慮はいりません。食客扱いでしょう? 労災の手続きも、そちらでお願いします」「……なるほど」「組長さん!」大迫が大袈裟に声を上げる。「この姐さん、可愛い顔して結構ひどいこと言ってますよ!」冬弥は静かに大迫を見る。「男と女、庇って死ぬならどっちだ」「美女」「即答か」「当然でしょう」「良かったな。あやめは美女だ。悔いはないな」「いやいや、悔いしかありません。俺にも守りたい女がいるんで」「一人か?」「一杯です」「……下種」あやめは小さく呟く。「採用します。盾として」大迫が項垂れる横で、鷹見が肩を叩いた。「ほら、挨拶回りだ。行くぞ」背中を押されるように二人は部屋を出ていく。扉が閉まると、執務室に
last updateÚltima atualização : 2026-02-13
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2-18 愛人の噂

「あやめさん」呼ばれて、あやめは隣に立つ大迫へ視線を向けた。内では“姐さん”と呼ばれることにも慣れた。だが、こうした外の場でその呼び方をされないことには少しだけ安堵する。こういうとき。まだこの世界に慣れていないのだと実感させられる。「少し休まれたほうがいいですよ」「……まだ大丈夫です」そう答えた声には、わずかな掠れが混じっていた。「顔色が悪いです。ここで倒れられたら、俺は鷹見さんに殴られて、組長さんに蹴られます。俺を助けると思って休んでください」「……なおさら休みたくなくなるのですけれど」小さく返しながらも、あやめは会場の隅へ足を向けた。人の流れから外れた場所で一息つき、背筋を伸ばす。「ご令嬢教育って、すごいですね」「何がですか?」「疲れているなら壁に寄りかかればいいのに」背後の壁へ視線をやり、あやめは苦笑した。「こうして立っているほうが楽なんです」「だから、すごいって言ってるんですよ」大迫は肩を竦める。「まあ、無理はしないでくださいね」その言葉に、あやめはほんの少しだけ肩の力を抜いた。けれど壁には寄りかからない。寄りかかったら、そのまま立てなくなりそうだった。.ホテル高層階のパーティー会場は眩しかった。磨かれた床に照明が反射し、グラスの触れ合う音と抑えた笑い声が重なる。政治家、実業家、スポンサー、そして裏の気配を持つ者たち。以前なら分からなかった危険や悪意の場所が、今は分かる。あやめは今夜、冬弥の代理としてここに立っていた。冬弥は別の会合へ出ている。最後まで渋っていたが、どうしても外せない予定が重なり、結果としてあやめがこちらを任された。護衛は鷹見と大迫、さらに早苗。会場の各所には、さりげなく組員も配置されている。(私は、大勢に守られている)不安がないわけではない。だが、それ以上に信頼があった。ただ、その守りは同時に壁でもある。話しかけようとする者たちは見えない壁に気づき、自然と距離を取る。冬弥には、出席したという実績があればいい、交流は必要ないと言われていた。だから、ここにいればいいだけ。それなのに、視線の先で名刺を交換し、笑い合い、次へ繋げていく人々を見ると、胸の奥がわずかに疼いた。(未練ではないわ)かつて自分が築いた人脈や振る舞いは、今も冬弥の役に立っている。だが、十年後
last updateÚltima atualização : 2026-02-13
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2-19 檻の外の世界

女性はあやめの顔を覗き込み、その表情を見てゆっくりと口元を歪めた。そこにあったのは隠そうともしない愉悦だった。あやめは自分でも分かっていた。頬は強張り、呼吸は浅く、視線も落ち着かない。それでもどう取り繕えばいいのか分からない。「奥様……もしかして、ご存じなかったのかしら?」柔らかな声だった。だが、その奥には「あやめは知らなかった」という事実を喜ぶ色が滲んでいる。否定しようとしても言葉が出ない。その沈黙が答えになった。「申し訳ありません。奥様はこちらの世界の方ではありませんものね。鷹見さん。あなたがきちんと教えて差し上げなければ」「……申し訳ありません」鷹見が静かに頭を下げた。その姿を見て、あやめの中で一つの答えが繋がる。(この人は……)鷹見が頭を下げる相手。少なくとも幹部以上の男に近い立場。そして幹部の妻ではない。あやめは幹部の妻たちとはすでに顔を合わせている。(……愛人)その結論に辿り着いた瞬間、女性は穏やかに微笑んだ。「私も愛人だと、お分かりになったようですね」背後ではパーティーが続いている。グラスの触れ合う音も、笑い声も変わらない。「こういう場には、妻ではなく愛人を連れてくるものなのですよ」「……妻の代わりに、ですか?」驚くほど静かな声だった。しかしグラスを持つ指先には自然と力が入る。「誤解なさらないでくださいね」女性は小さく笑った。「妻は妻。愛人は愛人。まったく別の存在ですわ。水原のお嬢さんは愚かでした。本当の愛人は妻の座など望みません」「本当の……愛人」「ええ」女性はさらに一歩近づく。「あやめさんは龍神会に必要な存在。他の奥方も同じです。組の内側を守る存在だから、外へは出さない。――檻の中だけの存在です」檻。その言葉が静かに胸へ沈む。「冬弥さんは義理堅い方ですもの。ご結婚前は愛人を持てないと仰って、一度は私たちとの縁もきちんと切ってくださいました」「……」女性は楽しそうに微笑む。「もちろん、ご結婚前のお話ですからお気になさらず」過去の話だと言いながら、現在へ繋がる印象だけを残す言い方だった。「この世界の男性にとって、女は潤滑油なんですの」「……潤滑油」あやめにも意味は分かる。父の秘書時代、高級クラブの手配も仕事だった。だから理解できる。理解できるからこそ苦しかった
last updateÚltima atualização : 2026-02-14
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2-20 すれ違う覚悟

「……塩沢老が動いていたのか」冬弥の声は低く押し殺されていた。「……すみません」鷹見が頭を下げる。しかし冬弥は静かに首を横へ振った。「いや。俺も気づかなかった。お義父上に教えられて、ようやく分かった」塩沢喜介。その名は龍神会にとって一つの時代を意味する存在だった。冬弥の祖父――龍神会を全国へ広げた男を支えた右腕。冬弥の父とは対立し表舞台から姿を消したものの、その影響力はいまなお健在だった。父亡き後も自ら前へ出ることはなく、裏から組を支え続けた影の実務者。(……あの人が動いた)冬弥の胸に静かな緊張が走る。敬意と警戒を同時に抱く数少ない相手だからこそ、自然と「塩沢老」と敬称がつく。「……あやめに余計なことを吹き込んだ女は?」重い空気を断ち切るように話題を変える。「貝沢組長の愛人です」鷹見は簡潔に答えた。「貝沢組長はいま新しい愛人に夢中です。あの方は付き合いも長く……切り捨てられる側へ回ったのでしょう」「……だから、あやめに八つ当たりを?」「ええ。それに、若とは以前いろいろありましたから」冬弥の眉が僅かに動く。「……寝てはいないよな」「ええ。迫られただけです」即答だった。冬弥は小さく息を吐く。「断られたことへの私怨も、今回の件には含まれているでしょう」「……そうか」短く答えたあと、冬弥は静かに尋ねる。「あやめは?」「部屋にいらっしゃいます。ただ――」鷹見は言葉を選んだ。「そろそろ、すべてお話しになるべきではありませんか」「分かっている」返事は早かった。しかし迷いも滲んでいた。「愛人といっても様々です。情を交わすこともなく、体の関係も持たず、金銭や立場だけで成り立つ関係も珍しくありません」「……分かっている」冬弥は静かに頷く。この世界の理屈も必要性も理解している。(それでも)あやめがいる以上、自分が愛人と体を重ねるつもりはない。その覚悟だけは揺るがない。だが――。「政界とは違う」冬弥はぽつりと漏らした。「政界では夫の愛人は裏にいる。表に立つのは妻だ。だが、この世界では逆だ。表へ立つのは愛人になる」組んだ手に額を乗せる。「どこからが浮気なのか。それは人それぞれだ。夫が他の女と行動を共にすることを、どこまで許せるかという話になる」「……だからこそ、姐さんと話すべきです」沈黙が流れ
last updateÚltima atualização : 2026-02-14
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2-21 初めて離れる夜

(……一か月半、離れるのか……)その数字は思っていた以上に重く、そして長かった。「お気をつけて」結局、口から出たのはその一言だけだった。本当は聞きたいことも、伝えたいことも山ほどあったはずなのに。引き止める言葉も、問い詰める言葉も、どこにも見つからない。(……ついて行くことはできない)自分は妻だ。愛人ではない。その事実が、いまはまるで足枷のように感じられた。これまで冬弥が出張へ出るたび、多くの人間を伴っていたことに疑問を抱いたことはなかった。幹部、側近、護衛――必要な者を必要なだけ連れていく。だから今回も同じだと思っていた。(まさか……愛人候補を連れていくなんて)胸の奥へ、冷たいものが沈んでいく。妻や娘を連れて観光だと思っていた。そんな呑気な想像をしていた自分が、ひどく滑稽だった。(……馬鹿みたい)唇が小さく震える。怒りでもない。悔しさでもない。自分でも名前を付けられない感情だった。――窮屈。これまで安心の象徴だった檻が、急に狭く感じる。守られているはずなのに、息が詰まる。(あ……)「あやめ?」冬弥の声が近くで響く。「……ごめんなさい」気づけば、声が震えていた。「……あれ、どうして……」頬を涙が伝う。慌てて拭う。それでも次から次へと溢れて止まらない。(失態だわ)感情に呑まれるなど、自分らしくない。弱さは隙になる。隙を作ってはいけない。「ごめんなさい……」何度謝っても、涙は止まらなかった。(檻の中でいいと、言ったのは私)あれは嘘ではない。本心だった。それでも。(覚悟が、足りなかった)これまで檻の傍には、いつも冬弥がいた。手を伸ばせば届く距離に。恋をする前から、ずっと。だから寂しさを知らなかった。(……帰ってこないかもしれない)思考が静かに沈んでいく。帰ってこられない、ではない。帰ってこない。事故でも敵でもない。冬弥自身が、帰らないという選択をする可能性。その可能性を、冬弥自身が認めた。あやめは、ふらりと立ち上がる。冬弥の横を通り過ぎ、扉へ向かった。「あやめ……」手首を掴まれる。温かな指先。「……どうした?」その問いに、思わず力が抜けた。(……分かっているくせに)どこか間の抜けた問い掛けが、かえって胸を締めつける。もう限界だった。(ここには
last updateÚltima atualização : 2026-02-15
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2-22 眠れない夜

「早苗さん」厨房へ顔を出したあやめの声に、早苗はすぐ振り返った。泣いた跡に気づいたのだろう。一瞬だけ目が細くなる。それでも何も尋ねず、いつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべた。「どうされましたか?」「今夜……いえ、私が使える部屋を用意していただけませんか?」「畏まりました」返事は迷いなく返ってきた。「場所のご希望はございますか?」冬弥の部屋は東側にある。「西側で……朝は、ゆっくり眠っていたいので」自分でも苦しい言い訳だと思った。「承知いたしました。すぐにご用意いたします」早苗が踵を返そうとしたとき、あやめは思わず呼び止めた。「あのっ……」早苗が足を止める。「……ここに、いていただけませんか」弱々しい声だった。「もちろんです」ためらいのない返事。その一言だけで、張り詰めていた胸が少しだけ緩んだ。しばらくして、早苗は湯気の立つ湯呑みを運んできた。「熱いので、お気をつけください」梅昆布茶だった。立ち上る湯気をぼんやり見つめるあやめへ、早苗は静かに口を開く。「若は、本当に姐さんを大切に思っていらっしゃいますよ」突然の言葉だった。けれど、その一言だけで、早苗は事情をすべて察しているのだと分かった。「私しか言う人がいない気がするので言いますけど……あれはもう相当です。誰だお前って思うくらい、姐さんに夢中ですよ」思わず小さく息が漏れる。「……ありがとうございます」「事実を申し上げただけです」早苗は肩をすくめて笑った。(ありがたい言葉だけど……)胸に沁みる。それでも、覆らない事実がある。(冬弥さんは、愛人を持つ)しかも候補者は、すでに決まっている。冬弥の人生には、自分以外の女性が入る。――体の関係は持たない。その言葉は信じている。疑ってはいない。それでも、不安は消えなかった。(これから先も、ずっと……)冬弥は一日の大半を屋敷の外で過ごす。そのたびに疑い続けていたら、自分は壊れてしまう。(私は……どうしたいの)問いかけても答えは出ない。ただ胸だけが苦しい。(この窮屈さに耐えられなくなったら……)今はまだ、自分がここにいるべきだと分かっている。けれど、このまま心が擦り減り続けたら。(私を……外へ……)そこまで考えたところで、早苗が静かに声を掛けた。「姐さん、お部屋の準備が整いまし
last updateÚltima atualização : 2026-04-16
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2-23 空白の一日

結局、その夜、あやめはほとんど眠れなかった。浅い眠りへ落ちてはすぐ目を覚まし、また眠りかけては意識が浮かび上がる。その繰り返し。夢を見た気もする。けれど、何一つ思い出せない。ただ目を覚ますたび、胸の奥だけがひやりと冷えていて、それだけが現実だった。静かな部屋に、自分の呼吸だけがやけに大きく響く。(……眠らなければ)そう思うほど、意識は冴えていった。朝。カーテン越しの光が容赦なく部屋を照らす。まるで、一日が始まってしまったことを告げるように。あやめはゆっくり起き上がり、無意識のまま身支度を整えた。鏡に映る自分は、いつもと変わらず整っている。なのに、その顔はどこか自分ではないように見えた。感情だけが、そこにない。部屋を出て、静かな廊下を歩く。足音だけが響いていた。屋敷全体が息を潜めているようだった。ダイニングへ入ると、朝食はすでに用意されていた。湯気の立つ味噌汁。小鉢。焼き魚。昨日までと何一つ変わらない食卓。ただ一つ――向かいの席だけが空いていた。「早苗さん。冬弥さんは?」思ったよりも平静な声だった。「若はお仕事で、朝早くにお出掛けになりました」その言葉を聞きながら、あやめは早苗の表情を探っている自分に気づく。これは本当なのか。それとも嘘なのか。いつも通りの穏やかな顔からは何も読み取れない。(これから先も……)自分はずっと測る側になる。言葉の裏を。沈黙の意味を。視線の揺れを。一つひとつ疑って生きていく。(……嫌だわ)胸が重く沈む。「……いただきます」箸を取り、静かに食べ始める。味は分かる。舌は正常だった。けれど、それだけだった。食事を楽しんでいる感覚はない。体を動かすために必要だから口へ運んでいるだけだった。食事を終えても、やることがなかった。いつもなら冬弥の予定を確認し、鷹見と言葉を交わし、誰かと自然に話している時間。今日は誰も近づいてこない。(……話しかけてこない)腫れ物に触れるような距離感。冬弥が「そっとしておけ」と伝えたのだろう。優しさだと分かる。それでも、その優しさは残酷だった。永遠に一人で置いていかれる未来まで想像してしまう。檻の周りへ透明な壁が築かれたようだった。誰も近づかない。誰にも触れられない。逃げるように部屋へ戻る。ソファへ腰を下ろ
last updateÚltima atualização : 2026-02-15
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2-24 離れて知る痛み

「良かったんですか。姐さんとちゃんと話し合わずに大阪へ来て」樹の軽い声に、冬弥はゆっくりと視線を向け、そのまま鋭く睨みつけた。「……仕事だ」短く返された言葉に、樹は肩をすくめる。「仕事だって言って浮気相手に会って、彼女にバレて別れた友人なら二桁いますよ」「……下衆の極みだな」「若も近いうちに仲間入りですけどね。……そんな目で睨まないでくださいよ」軽口を叩きながらも、樹の目は笑っていなかった。冬弥は何か言い返そうとして口を開きかける。だが結局、何も言えずに閉じた。その沈黙を見て、樹は小さく息を吐く。「まったく……駒なら、最初から駒として扱うべきだったんです」その一言で、冬弥の目に怒りが宿る。「あやめは駒じゃない」「駒ですよ」即答だった。「若は純愛を貫いているつもりでしょうけど、愛人を持とうと決めた時点で、姐さんも立派な駒の一つです。自覚があるかどうかは別として」淡々とした口調に遠慮はない。「愛するなと言われて止まるものじゃないことくらい、俺にも分かっています」そこで一度言葉を切り、樹は真っ直ぐ冬弥を見た。「でも、本当に姐さんを想うなら、恋を受け入れるべきじゃなかった。朱雀を潰した後、こうなることは最初から分かっていたはずでしょう」正論だった。反論できない種類の。樹は静かに続ける。「姐さんに感謝したほうがいいですよ。あの人がああいう人じゃなかったら、とっくに裏切られたと思って屋敷を飛び出しています」「……俺の部屋からは出ていったがな」低く漏れた言葉に、樹は僅かに眉を寄せた。「そこまでですか」短く息を吐く。「本当に限界だと思ったら、大迫に"許可"を出してください」その言葉に、冬弥は奥歯を噛み締めた。許可。それは、あやめを別の男へ預けることを意味していた。「大迫は適任ですよ。この世界で生きてきた男です。姐さんに情を移すこともないでしょうし、孕ませるような失敗もしません」合理的な評価だった。だからこそ、不快だった。その言葉だけで、冬弥の頭に映像が浮かぶ。大迫へ微笑むあやめ。安心しきった表情で寄り添う姿。別の男の隣で穏やかに笑うあやめ。「……くそっ」思わず悪態が漏れる。樹はちらりと視線を向けたが、何も言わなかった。(これが……)あやめが味わっているものか。まだ何も起きていない。大迫へ許可
last updateÚltima atualização : 2026-02-16
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2-25 逆鱗に触れた女

神崎家と龍神会は、あやめが産んだ子が継ぐ。それは誰もが理解している既定路線であり、覆ることのない前提だった。だが、この世界で血は単純な直線では流れない。愛人から生まれた子であっても、完全に無視できる存在にはならない。ましてその子が冬弥の最初の子――長子であれば、意味は一気に重くなる。名目上の正統性と、現実的な影響力。その二つがずれたとき、組織は必ず歪む。妻と愛人は別の土俵に立つ。役割が違う以上、女同士に直接的な優劣はない。だが、子が絡めば話は別だ。子どもたちは同じ土俵へ上げられ、血筋、出生順、母親の背景、父親の意思によって序列をつけられる。愛人たちは妻の座を狙わない。けれど、次期組長の母という立場は狙う。(そんな女たちに、あやめを引きずり降ろさせるつもりはない)そこで冬弥の思考は止まった。(そのために、俺の子を早く産めとあやめに言うのか? 言えるわけがない)守るための選択が、同時にあやめを追い詰めている。その矛盾を解く術を冬弥は持っていなかった。(あやめを愛している)その感情だけは揺るがない。だが、確かな愛ほど現実の前では無力だった。あやめと谷川美香では、女としての魅力も、家としての価値も比べるまでもない。すべてにおいて、あやめが圧倒的に上だ。それでも――。(だから、あやめは檻の中にいる)守るべき存在だからこそ外に出さない。危険から遠ざける。だがそれは、閉じ込めることと同じだった。(愛人、か)冬弥には、娘を愛人として差し出す父親の気持ちが理解できない。もし今ここに暴漢が現れたなら、冬弥も護衛も守るのは冬弥だけだ。谷川美香ではない。彼女が攫われようが、傷つこうが、見捨てる。それがこの世界の序列だった。だから愛人と情は交わさない。情が生まれれば序列が乱れる。(あやめも分かっている。俺が愛しているのはあやめだけだと。だが、それが何になる)冬弥の行動には、いつも一つの接続詞がつく。愛している、だけど。その“だけど”の先にあるものこそが、あやめへの裏切りだった。理屈として正しいことと、感情として許されることは違う。そのずれが、確実にあやめを削っている。.出口のない思考に疲れ、冬弥はグラスを飲み干して立ち上がろうとした。「待ってよ」谷川美香が腕を掴む。「放せ」冬弥は絡みついた腕をやや強
last updateÚltima atualização : 2026-02-16
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