Todos los capítulos de 極道若頭は、愛しき飼い主を逃さない 〜狂犬と呼ばれた彼が、私にだけ従順な理由〜: Capítulo 361 - Capítulo 370

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第362話:未来を庇う亡霊①

 息を呑む間もなかった。 不来方玄が、床の縁に身を投げ出し、自らのステッキを放り投げて、崩れ落ちようとする千隼の左腕を、骨ばった両手で力任せに掴み上げたのだ。「……っ、ぐ……!」 老人の口から、血の混じった唾液が飛ぶ。 蒼白だった皮膚の下で、細い腕の血管がちぎれんばかりに隆起している。 這いつくばったまま、千隼のジャケットの襟元を両手で力任せに掴む。 重い。九十キロ近い筋肉の塊が、肩と腹部の傷を容赦なく引っ張る。「上がって、千隼!」 千隼のブーツの先が、砕けたコンクリートの断面を蹴る。 ズリ、と。 不来方の革靴が床を滑り、老人の身体ごと裂け目へと引きずり込まれそうになる。だが、その細い指は決して千隼の腕を離さなかった。 老人の額から噴き出した脂汗が、千隼の顔に落ちる。 ギリギリと骨が軋む音が、爆発の地鳴りに混じって響く。 千隼の背中の筋肉が極限まで収縮し、腕の力と蹴り上げる反動で、その巨体が縁を乗り越えて床に転がり込んだ。 ドサッ、と重い肉が床に叩きつけられる。 息を整える間もなかった。 頭上で、耳を劈くような金属の破断音が轟いた。 見上げると、重厚なシャンデリアを吊るしていた天井の太いコンクリートの梁が、爆発の振動に耐えきれず真っ二つに折れ曲がっている。 メキメキと音を立て、数百キロの質量が、這いつくばる位置へと向かって落下してくる。 千隼が、右肩の激痛に顔を歪めながらも、覆い被さろうと身体を反転させる。 遅い。間に合わない。 その時、濃紺のスーツの影が視界を横切った。 ドンッ! 凄まじい衝撃が真横からぶつかる。 息が詰まる。千隼ごと、部屋の隅の壁際へと強引に突き飛ばされたのだ。 背中が書棚の残骸に激突する。 直後。 ズガァァァァンッ!! 床を叩き割る轟音。舞い上がる白い粉塵が、視界を完全に奪った。 口の中に石膏の粉が入り込み、激しく咳き込む。「&h
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第363話:未来を庇う亡霊②

 その理解し難い行動に、千隼の筋肉が混乱で強張り、荒い息が頭の上から降ってくる。 千隼の腕をすり抜け、這うようにして瓦礫のそばへ進み寄る。 腹部の縫合痕が焼け付くように痛むが、止まることはできない。 床に広がる血の温度が、ストッキング越しの膝を通して生々しく伝わってくる。 不来方の口から、ゴボリ、と血の泡が吹き出した。 黄色く濁っていた瞳の焦点が、ゆっくりとこちらへ合う。 呼吸をするたびに、潰れた肺からヒュー、ヒューと笛のような音が鳴っている。 血に塗れた唇が微かに動き、声にならない音が漏れる。 膝をつき、その顔を覗き込んだ。 不来方の目が、顔の輪郭を、瞳の色を、静かに辿っている。「……彼女、なら……」 途切れ途切れの、微かな声。「彼女なら……君のように、怒っただろうな」 血混じりの咳が続く。 不来方の瞳から、それまで張り付いていた狂気的な執着の色が、すっと抜け落ちていくのがわかった。 母・桔梗の身代わりとして見ていた幻影が消え、今ここにいる一人の人間として、輪郭を捉え直している。 その目には、妄執に囚われた権力者の狂気はもうない。 ただの、長い時間を一人で彷徨い続けた老人の、疲れ切った眼差し。「……ええ。お母さんは、誰かのために自分の命を捨てるような真似を、絶対に許さなかったわ」 床に置いた両手を強く握りしめる。 爪が手のひらに食い込む痛みが、この光景が現実であることを教えてくれる。「……そうか」 不来方の唇の端が、わずかに持ち上がった。 歪な嘲笑でも、狂気でもない。ただの、老いた人間の穏やかな笑み。「あなたの時間は、ここで終わりです」 はっきりと、冷たい空気に言葉を落とす。「でも、私たちは先へ行きます。……この血の匂いを引きずったまま、誰も死なせない新しい場所を作る。…&
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第364話:未来を庇う亡霊③

 背後から、分厚い腕が腰に回され、そのまま身体が宙に浮いた。  千隼の無傷の左腕が、膝裏と背中をがっちりとホールドしている。  右腕は動かないはずなのに、千隼は自らの身体を大きく傾けてバランスを取り、しっかりと抱え上げている。  腕の中に収まることで、彼の異常に高い体温と、張り詰めた心音が直接肌に伝わってくる。 「……置いていけって、言うと思ったのに」  千隼の首筋に顔を埋めながら、わざと挑発するように囁く。  千隼の喉の奥から、低い笑い声が胸板を震わせて伝わってきた。 「言いませんよ。……そんなことを言えば、また殴られる」  熱い吐息が、額を掠める。  燃え盛る炎を前にしても、その三白眼に恐怖はない。ただ、腕の中の重量を絶対に落とすまいとする、純粋な決意だけが燃えている。 「命令を守ります。……俺も、貴女も、生きて帰る」  炎の熱気が頬を焼く。  千隼はコンクリートの破片を蹴り飛ばし、燃え盛る廊下へと飛び出していった。  煙が目に染み、呼吸が苦しい。  千隼の硬い胸筋に顔を押し当て、少しでも煙を吸わないようにする。  彼の心音が、早鐘のように耳元で鳴り続けている。  倒れてきた柱をかわし、崩れ落ちる天井の破片を背中で受け止めながら、千隼は一度も立ち止まることなく進み続ける。  炎の轟音と、千隼の荒い息遣いだけが世界を支配している。  熱い。苦しい。  だが、抱きかかえられているこの腕の強さだけが、絶対的な安全地帯だった。  どれだけの時間、炎と煙の中を彷徨っただろうか。  不意に、顔に冷たい風が当たった。  肺に溜まった煙を吐き出し、新鮮な空気を貪るように吸い込む。  雨上がりの、湿った土とアスファルトの匂い。  ザッ、ザッ。  千隼のブーツが、屋外の砂利を踏みしめる音が聞こえる。  まぶたが重い。  全身の力が抜け、千隼の腕の中で泥のように沈み込んでいく。 「……お嬢! ……咲良!」  切羽詰まった声が、頭上から降ってくる。  頬に、冷たい感触が触れた。血と泥に
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第365話:灰の朝①

 白々と明けていく空から、細かい灰が雪のように降ってくる。 焦げた木材の匂いと、コンクリートが砕けた粉塵のざらつきが鼻腔にこびりついていた。 千隼の腕の中にすっぽりと収まったまま、煙を上げる洋館の残骸を背にする。 右肩の傷から血を流し、息を荒くしている千隼の足取りは、ひどく重い。それでも、抱えられた身体が不安定に揺れることは一度もなかった。「三代目! 若頭!」 砂利を踏み鳴らして駆け寄ってくる複数の足音。 鬼瓦の声だ。雨上がりの冷たい空気の中に、タバコと整髪料の匂いが混じって飛び込んでくる。「車、回してます! 怪我の具合は……っ、ひでえ血だ!」「大声を出さないで」 喉の奥から掠れた音を絞り出す。 千隼は鬼瓦たちを一瞥しただけで、無言のまま停められていた黒い大型車の後部座席へと進む。 ドアが開かれ、冷たいレザーシートに身体が下ろされた。 すぐに隣へ千隼の大きな身体が滑り込んでくる。 久遠組の息がかかった地下の医療施設。 白い蛍光灯の光が、瞼の裏をチカチカと刺激する。「血圧低下しています。すぐに点滴を」 手際よく動く医療スタッフの声。 アルコールのツンとした匂い。 右手に、分厚い熱の塊が張り付いていた。千隼の手だ。 ガーゼを当てられ、処置を受けている間も、千隼はパイプ椅子に座ったまま、その手を絶対に離そうとしなかった。「……我妻さん、あなたも右肩の縫合を。かなり出血しています」 医師が困惑したように声をかける。「後でいい」 千隼の低い声が、冷え切った処置室に落ちる。「これ以上、ここから離れる気はない」 頑ななその横顔を見て、小さく息を吐き出した。「相変わらず、言うことを聞かない犬ね」 痛む腹部を庇いながら、わずかに首を動かす。「いいから、隣の椅子で縫ってもらいなさい。血の匂いがきつくて、頭が痛くなるわ」 千隼の眉間がピクリと動く。「…&hel
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第366話:灰の朝②

 廊下からは、絶え間なく組員たちの足音と、切羽詰まった話し声が聞こえてくる。 不来方の本拠地が崩壊し、証拠となるデータ群の回収、そして特捜部内部の混乱への対応。やるべき後始末は山のように積まれている。 コンコン、と控えめなノックの音。「……入れ」 千隼が短く応じる。 ドアが開き、権田が姿を見せた。白髪の交じった頭を下げ、手元のタブレットを操作している。「若頭。不来方の別働隊が、都内のダミー会社周辺で暴れてます。特捜部も上の指示が途絶えて混乱状態ですが、証拠隠滅に動く気配がある。……現場の指揮を、お願いしたい」 権田の視線が、ベッドの脇に座る千隼に向けられる。 千隼は、無言のまま私の手を握る指先に力を込めた。「鬼瓦に向かわせろ。俺はここを動かない」 即答だった。 権田が困ったように顔をしかめる。「そう言われましても……各方面の組長連中をまとめるには、若頭の睨みがねえと」「聞こえなかったのか」 千隼の喉から、低い唸り声が漏れる。 空気が急速に冷え込んでいくのを感じて、私は千隼の手の甲を、空いた左手でポンと叩いた。「行って」 静かな病室に、声の響きを落とす。 千隼の肩が、ビクッと跳ねた。「……お嬢」「あなたがいないと、皆が動けないわ」「ですが、こんな状態で貴女を一人にするわけには……」「一人じゃないわよ。外には権田さんたちもいる。それに……」 私は千隼の目を見上げた。 その瞳が、不安と焦燥に揺れている。「あの時は『死んで終わらせる』つもりだったから、止めたの」 ベッドの背もたれに身体を預け、ゆっくりと息を継ぐ。「今は違うでしょう? 現場を片付けて、泥を払って、ここに帰ってくるためのお仕事よ」 千隼の喉仏が大きく上下した。 握られている手が、微かに震えている。
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第367話:灰の朝③

 重いドアが閉まる音が、なぜか以前のような恐怖を伴わなかった。 彼が確実にここへ帰ってくるという、重力のような信頼。 静寂が戻った病室。 枕元のキャビネットから、組員に用意させたタブレット端末を引き寄せる。 腹部の痛みを逃がすように浅い呼吸を繰り返し、画面を立ち上げた。 不来方の地下金庫から奪い取った、裏帳簿のデータ群。 それを特捜部の内部監査部門や、マスコミのリーク窓口へ送信するためのスクリプトを構築していく。 ただ闇雲にばら撒くのではない。 不来方と癒着していた特定の幹部たちを正確に狙い撃ちにし、警察組織そのものの機能を麻痺させずに、腐敗した部分だけを切り落とす。 画面に並ぶ数字とメールアドレス。 指先を動かし、エンターキーをタップする。 プログレスバーが右へ伸びていくのを眺めながら、冷めたお茶で喉を潤した。 戦いは、まだ終わっていない。 不来方という巨大な暴力のシステムは崩壊したが、関東の裏社会には巨大な空白が生まれた。 黒鉄会は無傷に近い状態で残っている。 久遠組内部の動揺も収めなければならない。 王座に座るということは、終わりのない後始末を引き受けることだ。 血を流さずに盤面を支配する。その新しい掟を、誰の目にも明らかな形で証明しなければならない。「……さて」 タブレットの画面を切り替え、黒鉄会関連の企業の株価推移を表示させる。 ピロン。 短い電子音が鳴り、画面の上部に通知のポップアップが表示された。 暗号化されたメッセージアプリ。 送信者の名前に、わずかに目を細める。『観音 聖』 文字列をタップし、メッセージを開く。 無機質な白い背景に、たった二行のテキストが並んでいた。『黒鉄会の処遇について、君と話がしたい』『明日の午後。場所はそちらで指定してくれて構わない』 タブレットの冷たい縁をなぞる。 敗北した魔術師からの、直接の面会要求。 画面の光が、病室の薄暗
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第368話:王たちの清算①

 久遠ホールディングス本社ビルの最上階。 重厚なオーク材の両開き扉が閉ざされた応接室は、外界の騒音を完全に遮断し、空調の低いモーター音だけが単調なリズムを刻んでいる。 黒革のソファに深く腰を沈め、膝の上で両手を軽く組んだ。腹部の縫合痕が、布地が擦れるたびにチリチリと熱を帯びた痛みを主張してくる。呼吸を浅く保ち、痛みを逃がすようにゆっくりと息を吐き出した。 テーブルの上に置かれたボーンチャイナのカップから、淹れたてのコーヒーの湯気が細く立ち昇っている。 背後で、硬い革靴が床の絨毯を踏みしめる音がした。 千隼だ。 窓際に立っていたはずの巨大な影が、音もなく背後に移動してきている。 新しい黒のスーツに身を包んだその背中には、分厚いテーピングが巻かれているはずだが、衣服の上からではその痛々しさは微塵も感じられない。だが、千隼の身体から放射される熱気は、明らかに平熱のそれを超えていた。 空調の効いた室内だというのに、千隼の喉仏が大きく上下し、低い、唸るような呼吸音が首筋に降りかかってくる。「……息が荒いわよ。千隼」 前を向いたまま、静かに声を落とした。 千隼の右手が、スラックスの横で固く握り込まれるのが視界の端に映った。関節の皮膚が白く引き伸ばされ、手の甲の血管が破裂しそうなほどに浮き出ている。「申し訳ありません。……ですが、あいつをこの部屋に入れるなど」 ギリッ、と奥歯を噛み締める音。「お嬢を……咲良さんを裏切り、危険に晒した元凶です。顔を見た瞬間に、俺が首の骨をへし折ってしまわないか、自分でも確証が持てない」 千隼の声は、ひび割れて乾ききっていた。 彼の中にある、外敵を物理的に排除しようとする本能。それが、これからこの部屋に現れる男――観音聖の存在を前にして、極限まで膨張しているのだ。「駄目よ」 組んだ指先に少しだけ力を込め、ゆっくりと振り返った。 千隼の双眸が、赤く充血して殺気立っている。「今日は、交渉の席。……暴力で
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第369話:王たちの清算②

「……待たせたね」 滑らかなテノールの声。 その瞬間。 ドンッ! と。 千隼が、私の斜め後ろから一歩、前へ踏み出した。 絨毯がへこむほどの凄まじい踏み込み。千隼の全身から、空気を焼き尽くすような強烈な熱気と敵意が爆発的に膨れ上がった。「てめえ……どのツラ下げて……ッ」 低く地を這うような咆哮。千隼の左手が、ジャケットのフロントボタンを掴み、今にも観音の胸ぐらへと飛びかかろうと筋肉を収縮させる。「千隼!」 私は振り返らずに、右手を鋭く真横へ突き出した。 ピンと伸ばした指先が、空中で千隼の動きを制止する。 千隼の胸が、私の手首に触れる寸前でピタリと止まった。「……ッ、ぐ……」 千隼の喉の奥から、苦痛に満ちた呻きが漏れる。飛びかかろうとした運動エネルギーを無理やり押さえ込んだせいで、右肩の傷が激しく引きつったに違いない。「下がりなさい」 冷たく、平坦な声で命じる。 千隼は激しい呼吸を繰り返し、観音を睨みつけたまま、ギリギリと音を立てて半歩後退した。 観音は、目の前で起きた千隼の威嚇に対して、眉ひとつ動かさなかった。 ただ、冷ややかに千隼を一瞥し、そして再び私へと視線を戻した。「相変わらず、血の気が多い番犬だ。……躾が行き届いているようで何よりだよ」「嫌味なら、聞く耳は持たないわよ」 私は突き出していた右手を膝の上に戻し、観音を真っ直ぐに見据えた。「黒鉄会の処遇について、話があるんだったわね」 観音は、銀縁眼鏡のブリッジを中指で軽く押し上げた。「単刀直入に言おう」 観音は、内ポケットから薄い封筒を取り出し、テーブルの上へ滑らせた。「黒鉄会の、解体と再編のロードマップだ。……ダミー会社の清算、裏口座の凍結、そして不来方に連なる不要なフロント企業の切り離し。これらはすべて、
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第370話:王たちの清算③

「感謝するよ」 観音は、小さく頭を下げた。 取引は終わった。 冷え切っていた応接室の空気が、わずかに緩んだように感じた。 観音が立ち上がり、ジャケットのボタンを留める。 そのまま踵を返して扉へ向かうかと思われたが、彼の動きはテーブルの横でふと止まった。 観音の視線が、私の顔の輪郭を、まるで貴重な絵画の細部を記憶に留めるように、ゆっくりと辿る。 その瞳の奥に、今まで見たことのない、どろりとした温度が浮かび上がっているのが見えた。「……もし」 観音の唇が、かすかに動く。「もし、君が彼ではなく、僕を選んでいたら」 静かな声が、部屋の空気を揺らした。 千隼の気配が、背後で再び爆発的に膨れ上がろうとする。 私はそれを制するよりも早く、冷たく言葉を遮った。「選ばなかった未来の話はしないわ」 ピシャリと、冷水の入ったグラスを叩きつけるような音。 観音の言葉の先を、完全に塞ぐ。 未練など、一ミリも残させるつもりはない。私は、私の隣にいるこの不器用な男の手を、絶対に離さないと決めたのだから。 観音は、私の言葉を聞いて、わずかに目を丸くした。 そして。 ふっ、と。 彼の喉の奥から、乾いた、だがどこか憑き物が落ちたような笑い声が漏れた。「……そうだな。不合理な仮定は、計算式を狂わせるだけだ」 観音は、もう一度だけ私を一瞥し、そして背後に立つ千隼へ視線を移した。「せいぜい、大切に飼うことだね。……その狂犬を」 言い残し、観音は扉の方へ歩みを進めた。 重い扉が開き、そして閉ざされる。 ミントとシトラスの香りが、少しずつ部屋から薄れていった。「……不愉快な野郎だ」 千隼が、吐き捨てるように呟く。「終わったことよ。……それより、次の厄介事が来るわ」 私が言うと同時。 再び扉が
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第371話:王たちの清算④

 ドンッ。  千隼の革靴が、紅の指先が触れる数センチ手前の絨毯を、冷酷に踏み鳴らした。 「……」  千隼は、足元にすがりつこうとする紅を、見下ろすことすらしなかった。  彼の視線は真っ直ぐに前を向き、ただ私の背中だけを見つめている。  そこにあるのは、怒りでも嫌悪でもない。  路傍の石ころに対するような、完全な「無」の反応だった。  かつて同じスラムの泥水を啜った過去など、今の彼には一ミリの価値も持たない。  彼の世界には、私が引く鎖の重さしか存在していないのだ。 「……千、隼……?」  紅の顔から、すべての血の気が引いていく。  自分の存在が、彼の視界にすら入っていないという圧倒的な事実。  その絶望が、彼女の顔を醜く歪ませた。 「そこまでよ」  私は、冷ややかに声を落とした。  紅がビクッと肩を震わせ、ゆっくりと私を見上げる。 「観音に切り捨てられ、不来方にも使い捨てにされた。……あなたの持っていた『情報』という武器は、もう何の価値もないわ」 「……殺す気? お嬢様が、自分の手を汚すの?」  紅が、震える唇で強がりの笑みを浮かべようとする。  背後で、千隼の左手が上着の裏に隠したナイフの柄へ動く気配がした。 「千隼。動かないで」  私が短く制止すると、千隼の気配がピタリと止まる。 「殺しはしないわ。……そんなことをすれば、また血の匂いが残るだけだから」  私は、紅の崩れた顔を真っ直ぐに見据えた。 「東京の裏社会から、永久に追放する。……久遠の監視下で、地方の工場で一生を終えなさい。二度と、この街の土を踏むことは許さない」  命を奪うことよりも残酷な、社会的な抹殺。  裏社会を這い回り、情報を武器に盤面を動かしていると錯覚していた女にとって、すべてを奪われ、監視の檻の中で朽ちていくことこそが最大の罰だ。 「……そんな」  紅の口から、掠れた音が漏れる。 「連れて行きなさい」  私の合図で、鬼瓦たちが再び紅の両腕を掴み、乱暴に引きずり起こす。 「嫌……離し
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