Todos los capítulos de 極道若頭は、愛しき飼い主を逃さない 〜狂犬と呼ばれた彼が、私にだけ従順な理由〜: Capítulo 371 - Capítulo 380

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第372話:頭を上げよ①

 白粉の匂いが、鼻腔の奥に冷たく張り付いている。 鏡台の前に座る姿勢を保つだけで、下腹部の奥から焼け焦げるような痛みが這い上がってきた。 絹が擦れる微かな音。着付けの女性が、背後に回り込み、黒留袖の帯をきつく締め上げる。「……っ」 奥歯を噛み締め、喉の奥にせり上がりそうになった呻き声を飲み込む。 縫合されたばかりの傷口に、固い帯の縁が容赦なく食い込んでいる。呼吸を浅くしなければ、痛みのあまり視界が白く飛んでしまいそうだった。 動ける服ではない。けれど、これは戦闘服ではなく、王として立つための喪服であり、礼装だった。 背中に刺繍された「下り藤」の家紋が、ずしりと重い質量を持って肩にのしかかる。「……そこまででいい。下がれ」 部屋の隅から、低い声が落ちた。 着付けの女性がビクッと肩を跳ねさせ、慌てて一礼して襖の向こうへと消えていく。 硬い足音が、背後からゆっくりと近づいてきた。 鏡越しに視線が交差する。 黒の紋付羽織袴に身を包んだ千隼。 右肩から胸にかけて分厚いテーピングが巻かれているはずだが、羽織の直線的なシルエットがそれを見事に隠し、彼の巨大な体躯に威圧的なまでの鋭さを与えていた。 彼は私の背後に立つと、帯の結び目にそっと両手を添えた。 ゴツゴツとした指先が、絹の生地越しに私の背骨に触れる。「……少し、緩めますか」 頭上から降ってくる息遣いが、私のうなじを微かに温めた。「駄目よ。……これが、久遠の形なんだから」「ですが、額に冷や汗が浮いています。……俺の腕の中で、お座りさせて運びましょうか」「馬鹿なこと言わないで。……私は、自分の足で歩くわ」 鏡の中の自分を見つめる。 血の気のない青白い肌に、紅く引かれた唇。数ヶ月前、初めてこの黒留袖を着せられ、ただ恐怖に震えていた「お飾り」の少女は、もうそこにはいない。「行きま
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第373話:頭を上げよ②

 不来方の陰謀を打ち砕き、特捜部の動きを止め、さらには黒鉄会との抗争を一時的に沈静化させた。 その強大な力を持った「女帝」が、自分たちにどのような裁きを下すのか。 裏切り者の粛清か、あるいは恐怖による完全な支配か。 誰もが、その血の匂いを予感して怯えているのが、閉ざされた襖越しにも肌で感じられた。「開けて」 短く告げる。 権田が頷き、若い衆に合図を送る。 スァァッ、と。 重厚な襖が、左右に滑らかに引き開けられた。 ドッ、と熱気を帯びた空気が顔に吹き付ける。 五十畳はある大広間。 そこに、百人を超える黒スーツと紋付袴の男たちが、敷き詰められるようにして並んでいた。 だが、誰一人としてこちらと目を合わせる者はいない。 全員が、床の畳に額を擦り付けるようにして、深く、微動だにせず平伏していた。 異様な光景だった。 数ヶ月前、初めてこの広間に足を踏み入れた時、彼らは値踏みするような視線と、嘲笑の入り混じった野次で私を迎えた。 あの時の、むき出しの敵意と暴力の匂い。 それが今は、針の落ちる音すら聞こえそうなほどの完全な沈黙に塗り潰されている。 ただ、何百という肺が、息を殺して浅い呼吸を繰り返す音だけが、不気味な波のように空間を揺らしていた。 小さく息を吸い込む。 腹部の痛みを奥歯を噛み締めて封じ込め、一歩、畳を踏みしめる。 千隼が、影のように付き従う。 男たちの黒い背中の間を縫うようにして作られた道を、ゆっくりと上座へ向かって歩く。 一歩進むたび、周囲の男たちの身体が微かにビクッと強張るのがわかった。 彼らは、私の草履の音と、千隼の袴の衣擦れの音に、自らの終わりの足音を聞いているのだ。 上座に用意された、一段高い座布団。 そこにゆっくりと腰を下ろす。 千隼は、私の左斜め後ろ、いつでも前に出られる位置に片膝をついて控えた。 彼の大きな身体から発せられる熱が、背中をじりじりと焦がすように伝わってくる。 沈黙。 誰も顔を上
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第374話:頭を上げよ③

 男たちが、息を呑む音がする。「私たちは、血を流しすぎました。古い怨念に囚われた人間の妄執に巻き込まれ、多くの組員が危険に晒され、傷ついた。……このままでは、いずれまた同じことが起きます」 組んだ指先に力を込めた。「だから、今日、この場所で新しい掟を作ります」 広間の空気が、再びピリッと張り詰める。 極道の世界において「掟」とは絶対の法だ。それを変えるということは、組織の根底を揺るがすことを意味する。「一つ。久遠の代紋を使って、堅気の人間を食い物にすることを固く禁じます。シノギの手段は完全に合法的なビジネスへと移行させる。……二つ。女や子供を、交渉の道具や盾にすることを禁じます」 淡々と条件を告げると、古参の幹部たちの顔が、露骨に歪み始めた。 彼らが長年培ってきた、力と恐怖で他者から奪い取るという生き方の全否定。「……三代目。それは、いくらなんでも」 前列に座っていた、顔に深い傷跡のある年配の組長が、唸るように口を開いた。「極道がきれいごとで飯を食えるわけがねえ。俺たちは泥水すすって、力でシマを広げてきたんだ。……堅気に手を出さねえなんて、首を括れと言っているのと同じだ」 その言葉を合図に、周囲の男たちから「そうだ」「おままごとじゃないんだ」という低いさざめきが上がり始める。 恐怖による平伏から、生存本能に根ざした反発への変化。 背後で、チリッ、と空気が焦げるような音がした。 千隼だ。 彼の右手の拳が、畳をミシッと握り潰す音。「……てめえら」 千隼の喉の奥から、獣の殺気が漏れ出した。 彼が立ち上がろうと、片膝に体重を乗せるのが背中の皮膚越しに伝わってくる。 私の言葉に逆らう者、私の掟を否定する者を、物理的にこの場から排除しようとする純粋な暴力の衝動。 バサッ! 手元に置いてあった扇子を鋭く開き、千隼の顔の前へ突き出した。 竹の骨が空気を切る音が、大広間
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第375話:頭を上げよ④

 声は、広間の隅々にまで冷徹に染み渡っていく。「力で奪えば、必ず恨みが残る。恐怖で縛り付ければ、必ず裏切りが生まれる。……その連鎖の果てに、何があるの? 次の世代の子供たちまで、同じ血の海で泳がせるつもり?」 組長の顔が、苦いものを噛み潰したように歪む。 私は一度、言葉を切り、深く息を吐き出した。 そして、これまでの冷徹な響きとは違う、どこか熱を持った声音で続けた。「私が皆さんに求めているのは、諦めでも、弱さでもありません」 視線を広間に並ぶ男たち一人ひとりに向ける。「愛よ」 その二文字が大広間に落ちた瞬間、戸惑いと困惑が、さざ波のように広がった。屈強な男たちが、場違いな言葉を耳にしたかのように顔を見合わせる。「勘違いしないで。私が言っているのは、あなたたちが夜の街で買い叩くような安い愛のことじゃないわ。……互いの命に責任を持つという、最も重く、不合理な覚悟のことよ」 左手を胸元、傷のある位置へとゆっくりと当てる。「不来方は、奪われた過去を『愛』だと思い込み、世界を壊そうとした。けれど、本当の愛は壊すことじゃない。……相手が生きるために、自分の力を使い、相手を死なせないために、自分が責任を負うこと。それこそが、新しい久遠の掟の核よ」 背後で、千隼の息を呑む気配がした。「私は、あなたたちを捨て駒にはしない。便利な盾として、弾丸の前に立たせることもしない。……その代わり、あなたたちも自分勝手に死ぬことを禁じます。隣にいる仲間のために、帰りを待つ家族のために、そしてこの組織を支えるために、這いつくばってでも生き抜きなさい」 声に、隠しきれない熱がこもる。「恐怖で縛る時代は終わったわ。これからは、互いの生を繋ぎ止める『鎖』を共有しなさい。無意味な血は禁じます。けれど、掟を破る者を見逃すとは言っていません。これから久遠が裁くのは、弱さではなく、責任を放棄した者です。……それが私の愛であり、私の掟よ」 圧倒的な、長としての宣言。 男た
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第376話:頭を上げよ⑤

 ザザァッ、という衣擦れの音が、波のように大広間に広がっていった。 百のつむじが、私の足元にひれ伏している。 小さく息を吐き出し、再び座布団に腰を下ろした。 腹部の痛みが、じわじわと全身に広がっていく。 だが、その痛みすらも、今はこの新しい秩序を構築した証のように感じられた。 背後で、千隼の呼吸が震えるのを感じる。 彼の大きな存在が、私という王の背後を完全に守り抜いているという、絶対的な安心感。 式は、終わった。 血の粛清ではなく、言葉と覚悟によって、久遠組は完全に私のものとなったのだ。 ◇ 大広間での儀式が終わり、幹部たちが足早に退室していく。 残務の指示を終え、誰もいなくなった静かな広間に、私と千隼だけが残された。 空調の音が、やけに大きく聞こえる。 深くため息をつき、ピンと張り詰めていた背筋をわずかに緩めた。 途端に、腹部の傷がズキリと鋭く痛み、思わず「くっ」と短い声が漏れる。「……お嬢」 すぐ横から、低い声が降ってきた。 千隼が、座る座布団のすぐ脇に片膝をついている。 大きな左手が伸びてきて、私の肩をそっと支えた。 着物の生地越しに伝わってくる、火傷しそうなほどの熱。「……無理をなさいましたね。顔色が、紙のように白い」 その瞳が、至近距離で私を覗き込んでいる。 男たちを威圧していた冷酷な狂犬の顔はどこにもない。 そこにあるのは、私の痛みに心を砕く、不器用で真っ直ぐな男の顔だけだ。「平気よ。……これが、私の仕事だもの」 強がって見せたが、千隼の指先が私の肩から首筋へと滑り、微かに汗ばんだ皮膚を優しく撫でた瞬間、身体の奥からどうしようもない安堵感が込み上げてきた。「……見事でした」 千隼の顔が、私の耳元へと近づく。 熱い吐息が、うなじの産毛を揺らした。「『愛』だなんて…&hellip
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第377話:狂犬の帰る場所①

 大広間から漏れ聞こえる喧騒を背に、私は夜の静寂へと踏み出した。 数分前まで繰り広げられていた、新秩序の宣言。久遠組の新たな幕開けを祝う男たちの野太い笑い声と、三味線の甲高い音色は、厚い石壁を隔てると遠い波音のように重たく空気に溶けていく。 一歩進むごとに、重厚な黒留袖の裾が砂利を深く沈ませ、腹部の縫合痕がジンと疼いた。不来方から受けた銃弾の傷は、まだ完全には癒えていない。歩くたびに内側から肉を冷やされるような鋭い痛みが走るけれど、その痛みこそが、私たちがこの凄絶な盤面を生き抜いたという何よりの証明だった。 夜の庭は、ひんやりとした静寂に支配されている。 雨上がりの名残である湿った土の匂い。生い茂る杉の葉の、鼻を突くような鋭い香り。 私は、ベルガモットの香水と白粉の匂いが纏わりつく自分の身体を、夜気に晒して深く息を吐いた。 池のほとりに、一際巨大な黒い影を見つけた。 月明かりの下、石灯籠の青白い光に照らされて、彼は縁石に腰を下ろしていた。 我妻千隼。 漆黒の羽織に身を包んだその背中は、普段の威圧感とは裏腹に、どこか頼りなげで、今にも夜の闇に吸い込まれてしまいそうな危うさを孕んでいた。右肩の包帯が羽織をわずかに押し上げているのが見える。彼は自分の身体を労わることも忘れたように、ゆっくりと、深く重い呼吸を繰り返していた。 私は音を立てないように近づき、その横顔を盗み見た。 膝の上に置かれた彼の手を見つめる。節くれ立ち、無数の傷跡と喧嘩ダコが刻み込まれた、暴力の結晶のような掌。 これまで、この手でどれだけの障害を排除し、どれだけの喉笛を締め上げてきたのだろうか。不来方の妄執を粉砕し、観音の論理を跳ね除け、私をこの玉座へと押し上げた最強の番犬。 役目は、終わったのだ。 久遠組は「恐怖」ではなく「責任」によって再編され、血の雨が降る抗争の時代は、私が先ほど発した宣言と共に幕を閉じた。 もう、彼が盾となって弾丸を受ける必要はない。牙を剥いて誰かを噛み殺す必要もない。 けれど、自由を与えられたはずの彼は、まるで出口のない檻に閉じ込められたままのように、途方に暮れていた。「&
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第378話:狂犬の帰る場所②

 密着した太ももから、正絹の重厚な冷たさと、彼の身体が放つ尋常ではない熱が伝わってくる。 至近距離で見る彼の瞳は、かつてないほど揺れていた。「風が、気持ちいいわね」 私は結い上げた髪を解きたい衝動を抑えながら、白い首筋を夜気に晒した。 千隼は無防備な私の輪郭を、まるで貴重な宝石でも眺めるように、あるいは触れてはいけない壊れ物を見るように見つめ、すぐに視線を池の面へと戻した。「……お嬢」「なあに?」「俺は……」 言葉が、彼の喉の奥でつっかえているのがわかった。 彼は膝の上で、無傷の左手を固く握りしめている。 平和。 スラムのドブ泥にまみれていた幼少期から、一度として望んだことのない未知の概念。暴力という武器を奪われ、戦いのない世界に放り出された時、彼という肉の塊はどこに居場所を求めればいいのか、わからなくなっているのだ。「俺はまだ、貴女の犬でいていいんですか」 低く、ひび割れた声。 私は彼の方を見ず、ただ水面に映る月を見つめていた。 千隼の声は、夜風に乗って私の心臓をチリチリと焼いた。「不来方は死に、黒鉄との争いも終わった。アンタは、立派な王になった。……もう、俺のような暴力しか能のない獣は、アンタの視界を汚すだけではないのかと……」 心臓が、肋骨の裏側で嫌なリズムを刻んでいるのが隣にいる私にまで伝わってくるようだった。 盾として使い潰されることが、彼にとって唯一の「愛」の形だった。それを失った今、彼は自分が捨てられる恐怖に震えている。 スラムで親に置き去りにされたあの夜よりも、ずっと冷たくて鋭い孤独に怯えている。 長い、長い沈黙が流れた。 遠くで、男たちの勝ち鬨が一度上がり、また静寂が戻る。 私はふっと、鼻の奥で小さく笑った。「……本当に、救いようのない馬鹿犬ね」「……お嬢?」「犬でいていいかなんて、
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第379話:狂犬の帰る場所③

 私は、千隼の指の間に自分の指を滑り込ませた。 絡み合う指先。逃げ場のない繋ぎ方。 彼は驚いたように目を見開いたけれど、その手は微かに震えながらも、私を離すまいと握り返してきた。「敵を殺すことよりも、ずっと難しいお仕事よ。……飽きたからって、勝手にどこかへ行ったりしないで。死ぬことで逃げるのも禁止。……一生かけて、私の隣で生き続けなさい。これが、三代目としての私の決定よ」 千隼の喉が、ヒュッと鳴った。 私の言葉は、彼から「暴力」という唯一のアイデンティティを奪い、代わりに「生」という最も過酷な義務を課したものだった。 盾として死ぬよりも、伴侶として生き続けることの方が、彼には荷が重い。 けれど、その重みこそが。 空っぽだった彼の内側を、温かい泥のように、ゆっくりと満たしていくのがわかった。「……死ぬための犬ではないなら、俺は、何のために帰ってくればいい」「決まっているでしょう」 私は、絡めた手にぐっと力を込めた。 彼の手のひらにある硬い胼胝の感触が、愛おしくてたまらなかった。「私のところに決まっているわ。……ここは、あなたの帰る場所なのよ。千隼。あなたの魂に繋がれた鎖の先は、いつだって私の手の中にあるんだから」 千隼の視界が、急激に熱を帯びて歪むのがわかった。 砂利の上に、ポツリ、ポツリと黒い染みが広がる。 人を殺す時にすら眉一つ動かさなかった男が、泣き方すら忘れていたはずの身体から、堪えきれない嗚咽を漏らした。「……あ、……ぁ……」 声を出すこともできず、千隼は私の肩に額を押し当てた。 重厚な正絹の刺繍が、彼の頬にある新しい傷をチクチクと刺激する。 私は何も言わず、空いた右手で、彼の硬い黒髪をゆっくりと撫でた。 大きな身体が小刻みに震える。その振動が私の胸に直接響き、腹部の傷が再び疼いたけれど、不思議と痛みは心地よかっ
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第380話:狂犬の帰る場所④

 夜風が、二人の正装を乱暴に揺らした。 祝宴の喧騒は、もうほとんど聞こえない。 あるのは、重なり合う二人の鼓動の音だけ。 どれほどの時間が経っただろうか。 私は千隼の腕の中で、わずかに身じろぎをした。 名残惜しそうに腕を解く彼を見つめ、私はゆっくりと立ち上がった。 身体に残る重厚な着物の重みが、今度は「誇り」として感じられる。「……千隼。そろそろ行きましょう。祝宴はもう十分よ。二人だけで、ケジメをつけなきゃ」「どこへ?」 千隼が顔を上げると、私は彼に右手を差し出した。 彼は戸惑いながらも、その大きな掌を私の手に重ねる。「夜景の見える、バルコニーへ。……そこで、最後にあなたに命令があるの。……三代目としてではなく、久遠咲良としての、本当の命令がね」 私の瞳の奥で、決意の炎がチロチロと揺れているのを、彼は感じ取っただろうか。 千隼は、その白い指先を迷わず掴み、立ち上がった。 夜の帳が、さらに深く降りてくる。 街の灯りは遠く、星さえも見えない暗闇。 けれど、繋いだ手のひらから伝わってくる、この火傷しそうなほどの熱だけが、私にとって何よりも確かな道標となっていた。 二つの影は、一つの塊となって、静まり返った屋敷の奥へと消えていく。 その歩みには、もう迷いも、死への執着も、一欠片も残されていなかった。 ◇ 最上階へと続く階段を上るたび、古い建物の構造が軋むような、微かな音を立てる。 私の草履が板間を叩く、トントンという小気味よいリズム。 千隼は、私の半歩後ろ、影のように、けれど確実にそこに存在してついてくる。 バルコニーへと続く大きな窓が開け放たれていた。 白いレースのカーテンが夜風に膨らみ、幽霊のように舞っている。 私は迷うことなく、外へと踏み出した。 頬を打つ風が、白粉の匂いをさらっていく。 千隼もその後に続き、手すりに手をかけた。 眼下には、宝
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最終話:愛しき飼い主を逃がさない①

 地上数十メートル、空へ向かって突き出したバルコニーを、夜の静寂が支配していた。 宝石箱をひっくり返したような、あるいは燃え尽きることのない火葬場の火が瞬いているような、東京の夜景。かつて分厚い前髪の隙間から、風景の一部として怯えながら眺めていた街の光は、今ではまだ終わらない夜の中で静かに瞬いている。 冷たい風が吹き抜け、重厚な黒留袖の袖を乱暴に揺らした。 腹部の縫合痕が、風の冷たさに反応してジンと疼く。内臓を直接冷やされるような鋭い痛みは、自分が今、確かにこの世界の土を踏んで生きているという何よりの証明だった。 痛みを逃がすようにゆっくりと息を吐き出すと、隣にある巨大な熱源が微かに動いたのがわかった。「……お嬢。風が、冷え始めています」 掠れた、それでいて深い粘着質を孕んだ低い声。 我妻千隼の大きな手が、私の肩にかけられたジャケット――先ほどまで彼が羽織っていた黒い羽織を、さらに強く引き寄せた。 生地越しに伝わってくるのは、火傷しそうなほどの彼の体温と、雨上がりの杉林の匂い、そして消えることのない微かな煙草の香り。 見上げると、その三白眼が、夜景の光を吸い込みながら真っ直ぐにこちらを見つめていた。その瞳の奥には、数時間前の血の惨劇も、不来方との決別も、すべてを過去の塵として踏み越えた者だけが持つ、凄絶なまでの安堵が揺れている。「……千隼」 私は手すりを掴んでいた指先を解き、彼の方へと向き直った。 千隼は、習慣のように、あるいは主に対する絶対的な儀式のように、その場に膝をつこうとする。大きな身体がゆっくりと沈み込み、大理石の床に膝頭が触れる、その寸前。 私は、彼の左腕の袖をぐいと掴み、強引にその動作を制止した。「あっ……」 千隼の喉から、間の抜けた音が漏れた。 驚きに見開かれた瞳が、私の顔を捉える。 私は掴んだ腕にさらに力を込め、彼を再び直立させた。「今日は、隣に立って」 短く、断定するような響き。 千隼の喉仏が、大きく上下に動いた。戸惑いと
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