Todos os capítulos de 僕は僕が欲しいものなんて知らない 聖北学院大学演劇研究会 続編: Capítulo 101 - Capítulo 110

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第九十九話

九十九「わ、ナベ。なんだろう。……暗殺者?」 裕子が黒いロングコートを着たナベを見て、そんな感想を伝えた。「暗殺者かぁ。……あなたの命を今夜いただきにまいります」「ちょっとやだ、どきどきする」「ふふ」 本番前で気が昂ぶっているのか、ナベはふだんならしない軽口を叩いている。「ちょっと私もメイクしてくる」「行ってらっしゃい」 発声練習でもしようかと考えたが、全体でやるかもしれないと思い直す。ちょうど麻美も来ていたのでナベは近づいていく。「今日、全体で発声練習とかやる?」「んー。いる人だけでやるかな?いやでもな、何かあったらやらない可能性もあるから状況によるとしか言えないかな」「わかった、ありがとう」 そういうことならと軽くやっておくことにした。深呼吸し、腹に意識を向ける。ロングトーン、破裂音、母音の練習を軽くこなす。大きな声を出すと少し落ち着くのを感じた。六時を過ぎて全員すでに多目的ホールについていたが、メイクを最優先にしているためバタバタとしている。音響操作の骨折、照明操作のコロと久美子が操作練習をしているため、ホール内はランダムな音や光で乱れていた。 半年前は入部したばかりで右も左も、そもそも演劇を作ること自体がなんなのかわかっていなかったのに加えて、最初から携わっていたわけでもなかった。だが今回は違う。一から作り上げてきた。空気に呑まれてひとりでにナベの鼓動は高鳴っていく。台本を最初から最後まで読んでいる時間ももうなかった。だが何もしないということもできなかったので、柔軟運動で気を紛らわせる。 ゲネ開始二十分前。客入れ曲がホールに流れ始めた。中には役者・スタッフ含めて全員がそろっていた。麻美が口を開く。「えー、明日のこの時間は客入れが始まってるので声出しとかもうできません。ゲネは本番と同じ条件でやるから意味があります。それはわかってるんですが。今日まだ声出してない人もいるので、軽く発声練習しちゃいましょう」 それから発声練習を全員で行う。練習を終えたタイミ
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第百話

百 暗転から照明がつき、シーン1が始まる。滞りなく舞台は進む。出番が近づき、舞台袖でナベは自分の台本のシーン2を流し読みして壁際へ置いた。最初のセリフを言うことができればあとは体が覚えている。「木戸くん、聞いたよ。ショウ大丈夫かな」 瞳が演じる丸橋サトミとガジンが演じる木戸ジンイチが舞台上に立っているのをナベは舞台袖から覗く。客席は見えない。もっとも、見えていたら客席からナベの姿が見切れていることになるのでこれが正常な状態だ。「あいつなら大丈夫だよ、きっと。とにかく落ち着けよ。悪い、トイレって言って抜けてきたからもう戻る」 ジンイチが舞台を去り、ナベはロングコートのフードを被る。まもなく出番だ。「うん。木戸くん、ありがとう」 サトミがシーン1の最後のセリフを言い終え、暗転する。この間にサトミが下手奥へハケ、三上ショウを演じる山口が舞台中央に寝転がる。明転し、ナベは舞台へ上がる。視線はショウに合わせず下を向いて歩き、舞台上をただ通り過ぎようと意識する。だがナベの視界にショウが入り、急に地面に倒れた人間に気づいて立ち止まる。「お、おい!あんた、大丈夫か」 たぶん驚けたはずだ、とナベは思い込む。うまくいっていると言い聞かせる。「おい!……おい!」 周りを気にしながらショウのポケットから財布を抜き取り、自分のポケットへ入れる。客席にシュンが座っているのがわかる。舞台の照明に照り返され、表情まで見えた。それから携帯電話を取り出す。「もしもし、道の上で人が倒れています。すぐに来てください。場所は栗原公民館の裏にある田んぼの農道で……」『栗原小学校は農道の先に見えますか?』 頭の中で電話相手の声が自動再生される。シーン2が進んでいき、泥棒としての最後のセリフになった。「こいつは助けを呼んだ手間賃としてもらっとくぜ。悪く思うなよ」 ナベは救急車の効果音を聞きながら舞台袖へ戻る。脱いだロングコートを待機していた裕子が受け取り、白衣を手渡される。急いで白衣に袖を通し、出番を待つ
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第百一話

百一 ゲネはシーン9まで進んでいた。ナベの目には、いまのところ順調に公演が進んでいるように見えた。舞台袖から理恵が演じる小野フミカと山口が演じる浦島マモルを眺め、シーン9までの間に台本では描かれなかった石山先生の時間を頭の中で思い描き、石山先生として舞台に上がる準備をする。「ヨロシク、マモルおじさん!」「イセポちゃん、いいかい?僕はマモルお兄さんだよ!」 声色を変えたフミカにマモルが対応したタイミングで照明が切り替わる。フミカが舞台を降り、ナベは舞台に上がる。マモルとの対話でフミカについて石山先生として話し始める。フミカがマモルに心を開いてくれたのなら、マモルの協力を得るのもいいかもしれない。ナベと石山先生の境界が曖昧になっていく。「……誰にも言わないって約束してくれるかい?」「はい」 マモルの目を見据え、石山先生は覚悟を決める。「……信じよう。フミカちゃんはね、小さい頃にお母さんをなくしているんだ。お父さんはフミカちゃんの高額な治療費を稼ぐために海外で働いていて、ほとんど日本に戻ってこない。お見舞いに来るよりもお金を稼いで早く治ってほしい、ということなんだろう……」 だから、父親はフミカちゃんのそばにはいなくて、いつも寂しい思いをしている。ということを石山先生は考えている。そのとおりなのだが、石山先生と共存しているナベはこのセリフは違う、と認識している。心は合っているがセリフは違う。なんていうんだっけ?ナベの瞳が揺れる。山口もナベの不自然な間に気づいたようだ。「……石山先生?……ええと、それでフミカちゃんはいつも一人なんですね」 山口が間を繋いでくれている。ええと、セリフ……とにかく、寂しいから、そう、人形だ。「……うん、そうなんだ。だから、フミカちゃんは、学校の、友達に会えなくてね。お母さんの、お母さんからもらった、うさぎの人形を、いつも持ち歩いている」 合ってるか?
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第百二話

百二「それじゃあみんなメイクを落としてくださーい。そのあとゲネのダメ出ししまーす」 メイクを落としている間、ナベは最低限の受け答えしかせず、だれとも話をする気にならなかった。ダメ出しが始まったときの時刻は八時半を過ぎていた。シーン1から順にダメ出しが始まる。ナベは自分のダメ出しをメモすることに終始し、それを咀嚼することができなかった。「つづいて、シーン9です」 ナベの肩がびくりと震える。「えー。石山先生、セリフ飛びましたね。まあでも、なんとか持ち直したので本番でもなにかあったらアドリブで対応してください。ただ、そのあとの石山先生、役が抜けてたので、トラブルがあってもすぐ忘れて切り替えてください」「はい」 そのあと、どうやって家まで帰ったのかナベはよく覚えていなかった。夕食を食べて入浴し、自室へ戻る。風邪を引いたり体調を崩すわけにはいかないので、布団にくるまり台本を開く。体は疲れていて頭も重かったが、眠気は感じていなかった。台本の最初から最後まで舞台をイメージしながら隣の部屋に響かないよう気をつけながらぶつぶつとつぶやく。 それからゲネのダメ出しで取ったメモを読み返す。ただのセリフを言う機械では舞台に上がっている意味がない。舞台の上で生きる人間として他の役者とコミュニケーションを取れなければただの異物だ。深夜二時を過ぎても、コーヒーも飲まずナベの意識は昂ぶったままだった。「ちょっとあんた、なにやってんの」 ナベの母が自室に入ってきた。トイレのために起きてきたのは物音でわかっていた。部屋の明かりがドアの隙間から漏れ、気づかれたのだろう。「ぜんぜん眠くならなくて」「そんなことしてたら、体壊すよ」「うん、もう寝るよ」 体を休めなければ明日――ではない。日付が回っているのですでに今日だ。今日の演技に支障が出るのではないかという心配はあったので、ようやく横になることにした。だが、眠りにつくまでは頭の中でシミュレーションは続けるつもりだった。台本を見なくてもセリフは頭に入っている。はずだった。 いまもこうして目を閉じたまま、頭の中で舞台上の時間は進ん
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第百三話

百三 ナベは学食と大学生協の弁当のどちらがいいだろうかと迷ったが、学食のほうが栄養価の高さが期待できると考えた。いまの時間であれば三コマ目も始まり混雑は緩和に向かっている頃合いなので、学食へ向かう。本番前の夕食は早めに麺類で済ませるつもりなので、昼はしっかり食べることにした。 大盛りにした生姜焼き定食にからあげの小皿一つと野菜の小皿を二つ追加する。昼食代はふだんの二倍になったが、今日は特別だ。もりもりと昼食を食べると、体じゅうに栄養が行き渡っていく気がした。食べ終わると腹が膨れ、学食の外の景色を眺める。学内に生えている葉の落ちきった白樺の白い樹皮と緑が映える松のコントラストがきれいだ。札幌はまだ根雪にはなっていなかった。 なんとなく気分が落ち着き、ナベは立ち上がる。本番までできることをやるつもりだった。「おはようございまーす」 ナベが多目的ホールに入ると、ガジンと瞳、山口、理恵、麻美の姿があった。裕子の姿は見えない。ホール内には劇中に使わない邦楽がかかっていた。「ナベと山口、昨日セリフ飛ばしたとこやっとく?」 麻美の提案に乗り、ナベと山口は舞台に上がる。昨夜のシミュレーションが功を奏したのか、問題なくセリフを言うことができた。ナベは胸をなでおろす。今日は調子がいい。かどうかはわからないが、そう思い込むことにした。 順番は逆になったが、柔軟運動と発声練習を終わらせる。それから一通り最初から最後まで通して石山先生としての動きとセリフをさらった。舞台は山口と瞳が使っていたので、ナベは客席横のスペースを陣取っていた。「昨日眠れなかったから、台本読んでイメージトレーニングしてたよ」 ナベは自主練を終えて客席に座ったガジンに話しかける。「え、大丈夫?」「うん、さっきまで医務室で寝てたから平気。っつーか、むしろ調子いいかも」 ナベも客席に座る。「頼もしいね」「ガジンはさ、緊張とかなんかあんまりしてるように見えないんだけど、慣れ?」「どうだろ。高校で何度か舞台に上がってたけど。なんだろな。緊張はするよ。でも、どうしたってお客さんの前に立
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第百四話

百四 もうすぐ開場時間だ。由美とみずとも以外のメンバーが揃っていた。二人は五コマ目の授業に出ているのだろう。メイクが始まり、終わった者は衣装に着替える。準備を終えたナベは、舞台中央に立つ。掃除を終えて誰も座っていない客席を眺める。長い間準備をしてきた。それは今日を含めた三日間のためのものだ。せめて稽古でできたことは観客に伝えたい。できればそれ以上のものを出せるといい。「おくれてすいませ〜ん!」 ナベが物思いにふけっていると、慌ただしく由美が入ってきた。午後六時を少し回ったところだった。五コマ目に出ていたのなら、この時間にこれたのはかなり早いほうだろう。由美の息は上がっていたので、全力で走ってきたのかもしれない。待ち構えていたタイガーがすぐに由美のメイクを始める。「ごめんなさい、すぐ準備します!」 みずとももやってきた。ナベの目にはふだん物静かなみずともの顔つきが引き締まっているように見えた。気合が入っているのだろう。全員でいいものを作りたい。役者として共演者を高める存在でありたい。ナベはそう自分に期待する。 まもなく開場する。お客さんはまだ来ていないみたいなので、声を出す最後のチャンスだった。ナベはいったん全身の力を抜き、それから徐々に声量を上げて発声する。息の続く限り声を出し、最大声量を維持し続ける。声と息を吐き出しきると、少しだけ世界がはっきり見えるようになった気がした。「お客さん並び始めてまーす」 受付をしていたキムがホール入り口の暗幕から現れ、大声で呼びかける。ほうぼうから気合のこもった返事が飛び交う。ナベも了解!と大声で返していた。「はい、じゃあ全員そろいましたね。全員集合!あ、田中さん、受付も呼んできてもらっていいですか?」「オッケー。お客さん対応必要だから、今日は一人残して呼んでくるわ」 舞監が二人とも役者なので、本番の舞監を任されていた田中に麻美が依頼する。田中はキムを連れて戻る。由美とみずとももメイクを終えていた。「もう開場なので手短に。公演の準備が始まってから、二か月……三か月?ですかね。入ったばかりの私についてきてくれてありが
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第百五話

百五 舞台袖ではまばらに「いらっしゃいませ」という挨拶や椅子に座る音、観客同士の密やかな会話、パンフレットやチラシをめくる音が聞こえてくる。それがナベの緊張感を高めていた。「お客さんたくさん入ってるみたいだね」 耳元のささやき声にナベが振り返ると、裕子だった。「そうだね。良かったけど、緊張する」 ナベもささやき声を返し、意識せずに両手を握ったり開いたりを繰り返す。「どうしたの?」「なにが?」「両手」「……ああ、なんだろう。指が冷たいのかな」 裕子はナベの両手首を掴んで引き寄せ、両手を包み込んだ。「……、ありがとう。あったかくなってきた」 ナベは何に緊張しているのかよくわからなくなってきたが、指先は温まった。裕子の手を包み返す。「今日は……今日からは、昨日みたいな失敗はしないよ。こんなふうに励ましてもらえたから」「うん、がんばろうね」 ナベは光のあまり届かない舞台袖にいてよかったと思う。光のもとでは顔の紅潮がばれてしまっていただろう。「お前ら元気か〜」 ささやき声で反対の下手舞台袖にいたはずのガジンがやってくる。「ナベ、裕子ちゃん、今日がんばるぞ〜」 そうささやいてガジンは二人に両手を差し出す。三人で輪になって手を握りあった。ナベはさきほどまでの照れ隠しで、ガジンの手だけ思い切り握ると、ガジンも思い切り握り返してきた。二人で対抗しながら笑い合っている姿を裕子も笑って見守っていた。 ガジンは立ち去る。全員に同じことをして回っているのだろう。ナベの中にふと、全員と気合を入れ直したいという気分が沸き起こる。「裕子ちゃん、俺らも行こうか」「オッケ〜」 客入れ曲はまだ二曲目だったので、残り三曲分以上の時間的余裕があった。上手奥で待機していた山口と瞳も誘い、下手側へ最奥のパネル裏を移動していく。すると、そこにはすでに残りの役者たちが集まっていた。
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第百六話

百六 舞台上で丸橋サトミを演じる瞳と城田マイを演じる裕子が会話を始める。ナベの頭の中にシーン2の台本を読もうかという考えが一瞬よぎったが、やめた。台本なら昨夜からさんざん確認したので、舞台を見ながら役に入ることを考えたほうがいいだろうと切り替える。 最初の出番は泥棒の男で、早着替えで石山に変わる。二役の切り替え時間は短い。だから舞台上で石山として準備する時間は充分なものではない。が、いままでの稽古のおかげで、ナベの中にすぐ石山を呼び出すことは可能になっていた。 泥棒の男としては金に困ってさまよっている状況、石山としては医師としての日常。それを頭の中に意識してロングコートのフードを被る。「うん。木戸くん、ありがとう」 ナベは舞台袖から出ていくタイミングを測る。暗転後の明転。ナベは舞台に上がる。客席は観客で埋まっているようだった。下を向いて歩いているので詳しくはわからない。ただ目的もなく歩く。そこへ、降って湧いたような倒れた男が目に入る。「お、おい!あんた、大丈夫か」 目覚めなければいい。カモが飛び込んできた。心配するふりをしながら体を揺さぶる。「おい!……おい!」 あんた、運が悪かったな。周りを確認して財布を抜き取る。救急車代だと思って諦めてくれ。「もしもし――」 倒れた男を残して立ち去る。舞台袖で裕子の姿を確認し、ナベは頭を切り替える。ロングコートと白衣を交換し、医師としての日常を思い出す。今日は少しだけイレギュラーが起こった。道で倒れている男性の対応要請が入り、救急車を受け入れた。頭部に打撲痕が見られたので念のため検査にかけたが、幸い異状は見られなかった。スズが男性の看護をしているのが見えた。「石山先生」 スズが心配げな表情で振り返る。いつも患者に一生懸命向き合ってくれているのはとても助かっている。「検査の結果、目に見える外傷以外に重篤な症状はなさそうだよ」 ほっとしたようなスズの表情。看護婦としての経験が数年を超え、信頼を置けるようになってきた。スズに仕事を任せてその場を去る。舞台上ではショウ
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第百七話

百七 長期入院中の小学生、小野フミカがうさぎの人形を持って走ってくる。フミカは石山の背にぶつかった。「おっとっと。フミカちゃんか」 石山は背に軽い体重を感じて振り返るとフミカが薄く笑っていた。「もう、フミカちゃん。走ると危ないっていつも言ってるでしょ」「先生、スズさん、ごめんなさい」 ぺこりとフミカがお辞儀する。「うん、きちんと謝って偉いねえ」「先生、フミカちゃんに甘いですよ」「孫みたいなものだしねえ」 フミカはまた走り去っていった。「こら、フミカちゃん。走っちゃダメでしょ!……もう、先生が甘やかすからですよ」「フミカちゃんとは、もう長いからねえ」 石山は言い訳とも言えない言い訳を口にする。「そんなの、わたしだってそうですよ」 やはりスズには通じなかったな、とごまかすように笑いながら石山が上手へハケると照明の色合いが切り替わり、ショウが下手から登場する。またすぐ出番なので、舞台袖でナベは待機する。「ずいぶんよくなりましたね、浦島さん」 スズがまだ少しゆっくり歩く浦島に話しかける。「あー……はい。おかげさまで」「どうかしました?」「いえ、冗談で決めた名前が本当になっちゃったなあって」「ああ、誰も知り合いがいないから、浦島太郎みたいって、失礼でしたよね」「いえ、わかりやすいのでしっくりきますよ。……それでその、俺もう退院しなきゃならないですよね。入院代も払えてないですけど」「それはまあ、体の方は回復されましたからね」「どこか住み込みで働けるところを探さなきゃなあ」「家も戸籍もないですもんね……あ、ごめんなさい。また失礼なこと言っちゃった」 もうすぐ入るタイミングが来るので、ナベは姿勢を正す。「いえ、気にしないでください。就職情報誌でも見ながら考えます」 浦島
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第百八話

百八 完全に暗転したタイミングを見計らい、ナベは移動を開始する。暗転したと思っても実はまだ照明が消えきっていないことがあったりして、観客に気づかれることがある。だから気持ち長めに暗転するのを待つ。暗転後の移動は気をつけなければならない。パネルの側面、目の高さに蓄光テープが貼ってあるのでそれを目がけてゆっくり歩く。 ナベが骨折から聞いた話で、ハケたと思って照明が点いたらパネルの前に移動しており、観客から丸見えでとても焦ったことがあったそうだ。ギャグシーンだったからいちおうごまかせたと骨折は話していたが、自分の身に置き換えるとナベの肝は冷えた。 パネルの足に貼った蓄光テープが見えたので足にぶつからないよう手を前に出して足の位置を確認する。照明がついた。客席から見切れていないか自分の体の位置を確認する。どうやら安全圏に移動できていたようだ。出ハケの練習は仕込み後から始まるので、少し練習量が足りなくなる傾向がある。暗闇での移動を考えて間に合うように暗転時間は確保されているが、暗転が長くなると芝居の空気に影響が出るのであまり長くとることもできない。 ナベの出番はこのあとシーン9までないので、少し余裕がある。シーン3までを思い返すと、いままでで一番役に入り込めていた気がした。シーン9以降の台本を読むか、少し迷う。おそらく今は調子がいい。台本を読むことでセリフに囚われ、役に入り込む邪魔をしてしまうかもしれない。今日の本番前は台本を読んでいなかったので、このまま行ってみようと判断した。ナベは舞台袖から舞台の様子を確認する。 舞台上では三上トモコを演じるみずともと丸橋サトミを演じる瞳が三上ショウを探し回っている。三上ショウの行方はわからず、二人は北海道へ戻り、そのまま三年が経過する。三上トモコはサトミに婚約の解消を申し出るが、サトミはそれを断って三上ショウを探しながら待ち続けている。木戸ジンイチは、婚約者のいなくなったサトミに近づくが、ジンイチに好意をもつ永瀬シオリはそれがおもしろくない。サトミの親友の城田マイは、三上ショウはもう帰ってこないかもしれないと思い始め、丸橋に希望を与えることが苦しくなってきている。 一方、記憶の戻らない三上は浦島マモルという新たな名前を自分でつけて暮らし
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