جميع فصول : الفصل -الفصل 60

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第四十九話

 僕は上手へ戻りかけ、三上ショウを振り返る。「こいつは助けを呼んだ手間賃としてもらっとくぜ。悪く思うなよ」 そう言って僕は悠然と上手側へハケた。ピーポーピーポー、と骨折さんが救急車の効果音をラジカセから流す。「暗転します」 コロさんの合図で山口さんはうつ伏せから仰向けに向き直り、看護婦の結城スズ役の由美ちゃんが上手から出る。「明転します」 結城スズは仰向けの山口さんの顔をすでに心配そうに覗き込んでいる。それから体を転がし、背中を拭き始める。僕もジャージの上着を羽織って上手から出る。白衣という設定だ。稽古が進むにつれてこういう約束事は無数に増えている。結城スズが僕を振り返る。「石山先生」「検査の結果、目に見える外傷以外に重篤な症状はなさそうだよ」「そうですか。どうして意識を失くしたんでしょうね」「頭を打っているようだからね。じきに目を覚ますだろうから、今は安静にしておくべきだね。結城さん、彼が目覚めるまではこまめに様子を見ておいてね」「はい、わかりました」 僕と結城スズは上手側へ向かい、結城スズだけ立ち止まって心配そうに三上ショウを振り返った。「照明変化しました」「……っつ……」 コロさんの合図でゆっくりと三上ショウが上体を起こす。「どこだ、ここは。……病院?」 三上ショウはきょろきょろと周りを見回す。ゆっくり振り返って横に手を伸ばし、ナースコールをする。結城スズが上手から舞台へ出ていく。「良かった、目が覚めたんですね。お加減はいかがですか?」 ぱん、と手が鳴る。由美ちゃんは台本を取りに行く。「スズが喜んでるのはわかるんだけど、もっとオーバーにお願いします。あともっと慌てて駆けつけてください」「はい」「じゃあ、もっかい『良かった』から」 由美ちゃんが台本を置くと、ぱんと麻美さんの手が鳴る。ばたばたと結城スズが三上ショウに駆け寄る。「良かった!目が覚めたんですね。お加減はいかがですか?」「なんだか頭がぼうっとしています。ええと、ここは……」「ここは石山総合病院です。あなたが気を失って倒れていたところを救急車で運ばれてきたんです」「倒れていた……?」「名前を教えていただいてもよろしいですか?」「ああ、名前は——」 三上ショウは言葉に詰まり、片手で額を押さえる。骨折さんが操作するラジカセから洋楽がフェードインし、
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第五十話

「はい、じゃあ頭からダメ出ししていきます。泥棒が財布盗んで立ち去るとこまでは、さっき止めてダメ出ししたことを注意してください。泥棒の声なんですけど、もうはっきり石山先生との違いはわかるんですが、もしできればのどが潰れない程度に高くしてみてください。のどがダメになりそうならいいです。結城スズが三上ショウの世話してるところ、もっと手慣れてください。何年もしてる仕事って感じがしないです。三上ショウが目覚めたあと、周りを見回すところ、何を考えて見回してるのか伝わってこないです。なんで見回してるんですか?」「んーと、目覚めたら知らない部屋で、頭も痛いしなんか病室っぽいなって思って、ナースコールあるんじゃないかって探してる感じ」「あー……っとですね、ナースコールはたまたま目に入って、あ、使えるって思ってください。それまでは別のこと考えるようお願いします」「はい」「えー、ダメ出しの後の良かった目が覚めたんですねはいまのでオッケーです。三上ショウの最後『俺が誰なのかわからない』だけいきなり混乱し始めたように見えるので、感情の流れが自然に流れるように見せてください」「はい」「はい、じゃあもっかいいきます」 そうして稽古は続いていき、午後四時すぎに僕はバイトに出かけた。外へ出ると、なんだか雨が降りそうな雲だった。「おはよう、早いね」「はい、今日はちょっと帰っても夕食がないので先に食べます」「あ、そう。廃棄弁当あるけど食べる?今日お客さん少なくてさ。雨の予報じゃなかったのに」「ありがとうございます、いただきます」 いまは小雨がぱらついていた。合宿所にいたのでわからなかったが、いつから降っていたのだろうか。店長の言う廃棄弁当というのは期限切れで売れなくなった弁当だ。たまにこんなことがあるので、弁当を買わずに事務所へ来たが狙い通りだ。制服を羽織り、お客さんがレジに並んでいないのを確認してから店のレンジで弁当を温める。「なに、ご両親が出かけてるの?」「いえ、大学で合宿中です」「合宿って途中で抜けていいの?」「ええまあ、体育会系のサークルじゃないですし」「ゆるいんだねぇ」「ってわけでもないんですけど。いる人でできるシーンの稽古すればいいので」「なるほどねぇ」 今日のペアは僕の教育係をしてくれた篠原さんだった。アルバイトを始めてからそろそろ三ヶ月くらいにな
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第五十一話

「戻りましたー」 午後十時半過ぎに僕が戻ると、稽古場にはすでに布団が敷かれていた。今日はもう寝るのだろうか。「おかえりナベ。お腹空いてない?」「うん、今日はコンビニで廃棄の弁当とパンを食べてきたからね」 裕子ちゃんの気遣いが嬉しい。「そうなんだ。えっとこれからね、せっかく合宿してるからそれぞれの役をみんなで深堀りすることになったんだよ」「あー……その役がどんな人間なのかみんなで考えるってこと?」「そうそう。いまはそれぞれで考えてたとこ」「そっか。えーと、もうみんなお風呂入ったの?」「うん」「じゃあちょっと、俺も風呂入りながら考えてくるよ」 合宿所の風呂は一階にあった。脱衣所の床は一見畳のようにも見える。だが足裏から伝わる感触は硬いので、竹か竹を模したプラスチックだろう。濡れる頻度が高い場所なので材質に気を配られているはずだ。 浴場は銭湯よりは小さいだろうか。テレビでしか見たことないけど。十人くらいまでなら一緒に入れそうだった。この時間、一人で入れてよかった。僕はアレの大きさに自信がないので、学生のノリで比べ合いとか始まったらどうしようかと心配していたからだ。 風呂は古いけどきれいだった。誰かが定期的に清掃しているんだろうか。ああいや、もうみんな役について考えているので、遅れている分を取り戻さないと。いやでも、稽古が始まってからずっと考えてるから、そうでもないのか。体を洗って浴槽に浸かりながら役について考える。あー……やばい、寝そうだ。上がったらコーヒー飲もうかな。自販機はたしか合宿所の廊下で見た気がする。もうすぐ冬だからちゃんと温まらないとな。廊下に暖房は入ってないからけっこう寒い。じゃなくて、役について考えないと。疲れた体に風呂が気持ちよくて集中できない。 十分温まってから上がり、廊下に出る。けっきょくほとんど考えられなかった。自販機でコーヒーを買って雑魚寝部屋に戻ると、暖かい空気が顔に当たる。「あ、戻ってきた。それじゃあ丸橋サトミから順番にやっていきます」 やっぱりもう始まるみたいだ。かばんから役作り用のノートを取り出して布団の上に座り、ペットボトルのフタを開けてコーヒーを飲む。少しだけ頭が冴えてきたような気がする。「お、ナベやる気だね」 手に持ったコーヒーにガジンが気づく。「いや、違うんだよ。風呂入ったら眠くなってさ」
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第五十二話

「えーと、丸橋サトミはですねぇ、年齢が二十六歳で入社四年目です。高卒か大卒かどっちかなぁっていちおう考えたんですけど、いまあんまり高卒の子っていないと思うんですよね。私が大学生だからかもしれないですけど、高校でも就職する子あんまりいなかったと思うんですよね。で、キタムラ商事は輸入雑貨の会社なので、サトミは文系です。そもそも理系の女子少ないですけど。それからキタムラ商事に入社して、城田マイとは同期入社で、三上ショウと木戸ジンイチ、永瀬シオリは先輩社員です。二歳年下の弟がいます」 瞳ちゃんの説明に少し間があいたので僕は手をあげる。「ちょっと細かいけど、丸橋サトミは文系だったから、キタムラ商事が就職先の選択肢に入ったってことでいいのかな?」「海外の小物とか、日本では見かけないかわいいものが多いので、サトミはもともと好きで……いい小物を仕入れてくる会社だなって思ってたので、就職しようと思った感じ。他にも輸入雑貨店の面接は受けてるけど、キタムラ商事の商品が好きだからここにしたの」「あ、他にも受かってるんだ」「就職氷河期だから、たくさんは受からないよね」 城田マイ役の裕子ちゃんも手をあげる。「サトミとマイは入社して初めて会ったの?」「私はそう思ってたよ。入社してから同じ事務職で働いて、雑貨の趣味も合ってるから仲良くなったんだろうな、と思ってて。裕子ちゃんはどう考えてた?」「うん、わたしも会社で初めて会ったのは同じ。雑貨はね、最初はそんなに好きって思ってなかったかな。就職できればどこでもいいって思ってたくさん面接して、たまたま受かったキタムラ商事に入って、サトミと話すようになってから雑貨のここがいいって話をたくさん聞いて好きになってった感じ」「あー、なるほどね。たしかにそっちのほうがいいかも」 今度は婚約者の三上ショウ役の山口さんが質問する。「三上ショウとはどうして婚約者になったって考えてる?」「最初は新人なのでたまに話をするくらいだったんですけど、仕事を覚え始めてから話す機会も増えて……入社した年にですね、仕事で大きなミスをしちゃった時に一
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第五十三話

 ガジンが手をあげた。「木戸ジンイチのことはどう思ってる?」「うーん。ちょっと苦手かな。なんかけっこうぐいぐいくる感じがするから。嫌いではないけど、なんだろう。押しの強い先輩だなって感じ。無理なことは言ってこないけど、いつも無意味に絡んでくるなあ、みたいな」「おおぅ。まったく脈がないね」 木戸ジンイチは丸橋サトミのことが好きだという設定だ。「永瀬シオリとはどんな感じ?」 麻美さんが尋ねる。瞳ちゃんはちょっとだけ考えて話し始める。「女の人で営業職やってるってすごいなあって、尊敬してる感じ。積極的でパワーとかエネルギーとかがあふれてるなあ、すごいなあって思ってる」 みずともも手をあげた。「三上トモコのことはどう思ってる?」「ショウのお母さんだから、始めはどんな人だろうって緊張してたけど、優しい人で良かったなあって思ってる」 丸橋サトミの深堀りを終え、三上ショウの深堀りに移っていた。時刻は午後十一時を過ぎている。「三上ショウの家は、今は母子家庭で、弟と妹が一人ずついます。中学生の時に父親が死んで、高卒でキタムラ商事に入社して、今年で九年目です。だから丸橋サトミより二歳年上の二十八歳です。高校生のときは家計を支えるために部活に入らず三年間アルバイトしてました。そのアルバイト先がキタムラ商事で、輸入雑貨店の店員をしてそのまま就職しました。木戸ジンイチと永瀬シオリとは同い年の同期です。って考えてたけど、ガジンと麻美さん、どう?」 山口さんは木戸ジンイチ役のガジンと永瀬シオリ役の麻美さんに尋ねる。「俺は大卒のつもりでした。留学して卒業が一年遅れてるって考えてました。で、三上より木戸の方が年上で、会社では木戸は後輩だから対等な関係ってつもりで。三上より一年あとの入社かな。だから……三十一歳か」「私はね、木戸の一年後に入社してる。高卒女子で営業はちょっと厳しそうだから、大卒。就職浪人はしてない。……となると、二十九歳か。三上が高卒で母子家庭ね。……うん、ありだと思う」
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第五十四話

 みずともが手をあげる。「母親のことはどう思ってますか?」「父親がいたときは、ふつうに優しい母親だと思ってて、母子家庭になってからは、いつも仕事が大変そうで、なんとか支えてやらなきゃなと思ってた。大学もべつに行きたいと思ってなかったっていうか、選択肢に入らなかったな。それより働かなくちゃって。下に弟と妹もいるし」 今度は由美ちゃんが質問する。「結城スズはどんな感じですか?」「記憶がなくて怪我もしててずっと世話してくれて、なんていうか生まれたばかりのひなが親鳥を見た感じ。母親に近いんだろうな」「え、恋人じゃないの?」「なんていうか、絶対に裏切れない存在」「最後に振るじゃない」「んー、まあそれは、母親みたいなもんだって気づいたから」「なるほどねー」 僕も聞いてみる。「石山先生はどうですか?」「恩人だね。体も直してくれたし、就職先ももらえたし。実際さ、記憶喪失の人の戸籍とかとるのすげー大変らしいじゃん。すぐ仕事が決まるとか奇跡に近いよね」「あー、大変そうですね。どうすんですかね」「なんかね、裁判所に就籍許可の審判とかいうのを申し立てなきゃいけないらしいよ」「そんなんあるんですね」「調べたよ。気になったからさ」 理恵ちゃんが手をあげる。「小野フミカのことはどう思ってますか?」 小野フミカは石山総合病院に長期入院している子どもだ。病院の清掃員浦島マモルとして生きている三上ショウと交流をもっている。「ずっと入院してて大変だなっていうか、元気になってほしいと願ってる。素直な気持ちとか純粋な願いとか、フミカと関わったことでそういうのが自分の過去と向き合うきっかけになったから感謝してる」
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第五十五話

「木戸ジンイチはですねー。両親健在で一人っ子、けっこうお金持ちの家庭で育ちました。父親は高給取りのエリートサラリーマンです。大きい会社の部長とかですかね。甘やかされて育ったわけではなくて、けっこう小さい頃から習い事をたくさんしてました。でも優秀なのでどれもすぐいい成績を出します。なので自分に自信があります。キタムラ商事に入ったのは、あまり大きい会社じゃない方が自分の力で会社を大きくできると思ったからです」 ガジンによる木戸ジンイチの深堀りを受けて山口さんが質問する。「三上ショウが先輩としていて、どんなふうに思ってた?」「えっとですね、新人として入社して三上が木戸の教育係をしてたって考えてます。年下の先輩なので、最初はどんなもんかって試してる気分もあったんですけど三上も優秀だったので見直した感じです。対等のつきあいができるなって」「すげぇ上から目線。ジンイチっぽい」「途中までそうだったんですけど、丸橋サトミが入社してきて、付き合いたいって思っていろいろちょっかいかけてるうちに三上と付き合い出したので、いまはいけ好かないやつだって思ってます」「俺先輩だぞ」「役の中の話ですよ」「ほんとか〜?実際ガジン俺より年上で後輩だろ?」「ちーがーいーまーすーよ。尊敬してますよ先輩」「嘘くさい」 ガジンも山口さんも笑っている。「付き合いたいってどれくらい本気なの?」 瞳ちゃんは丸橋サトミ役として気になるのだろう。「なんかね、清楚な女性が好きなんだよね。木戸ジンイチはわりとなんでも大雑把に行動してるんだけど、要所は押さえてるから失敗しなくて、けっこう思いつきで動くタイプなんだよ。サトミはそれについてこれるだけのスペックがあって、押しも強くないからこいつは俺についてこれそうって思って、俺の女にしたいって感じ。あと顔が好み」「うーわー。嫌いなタイプー」「いや、しょうがないじゃん。台本読んだらこんな感じのやつなんだからさ」「うんうん、わかった」「なにが?」「嫌いってことが」「これだよ」 ガジンと瞳ちゃんが言い合っ
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第五十六話

「城田マイはどうですか?」「マイはねー。ごめんね、印象薄いわ」「もう、みんなそう言うー。なぁに、もっと目立とうかしらわたし」 三上ショウと木戸ジンイチから同じことを言われて裕子ちゃんがへこんでいる。「台本悪かったかなぁ。テコ入れする?」「や、大丈夫麻美さん。がんばって個性出す」 少し会話に間が空いたので、麻美さんは視線を巡らせた。「はい、じゃあ他に木戸ジンイチについてなんかある?」「俺はいまのところこんなとこ」 ガジンはもうないようだ。「質問ある人ー」 だれも反応しない。麻美さんは腕時計を見る。「じゃあどうしようかな。十二時回ったけど。えーと、明日バイトある人だれ?」 ガジン、みずとも、瞳ちゃんが手をあげた。「バイトの時間教えて。あー、ここ出てから戻ってくるまでのだいたいの時間」 麻美さんの問いにガジン、瞳ちゃん、みずともの順に答える。「俺は朝八時から昼一時まで」「私は朝六時から昼二時まで」「私は朝十時から昼一時半くらい」 時間を聞いて麻美さんが考える。「いいね、みんな午後二時には戻ってくるね。せっかく合宿してるからさ、稽古より今みたいな役の深堀りのほうが大事になってくると思うから、明日全員戻ってきてから、また今日の続きやります」 全員ではーいと答えると、ケンさんが話し始めた。「そうそう、ほんとはね。ふだん稽古してるときに今みたいな深堀りを自分の稽古してないときに人捕まえてやったほうがいいんだよ。次の公演から……いや、明日からみんな意識してやってみて。まあ、全員で集まってやるのが一番効率いいんだけどね。あ、ごめん。麻美さんどうぞ」「いえいえ。じゃあ、今日はもう寝ましょう。明日は朝ごはん食べてからバイトない人たちで稽古します。お疲れ様でした」『お疲れ様でした!』 うーん。結果論だけど、僕の深堀りの順番にならなかったのでコーヒーは飲まないほうが良かったか?いやでも、今日の深堀
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第五十七話

 歯磨きを終えて僕は雑魚寝部屋へ戻る。もちろん男女別だ。といっても、稽古場として使っていた大部屋のふすまを閉めるだけだけど。部屋に戻るとみんなもう布団に入っていた。電気はついたままだ。「お、おかえりナベ」「戻りました。電気消します?」 僕はケンさんに尋ねる。戻るまで消さずに待っていてくれたのだろう。「え?まだ早くない?合宿だよ?」 そうでもなかったらしい。ガジンはまだ起きてる気だ。もうすぐ一時なので早くはないと思うんだけど。「よし、じゃあ好きな人の話でもするか?」「高校生かよ」 骨折さんの提案に山口さんがつっこむ。僕の頭の中に裕子ちゃんの顔がよぎったが、慌てて考えないようにする。僕の精神は人と付き合えるほど成熟していない。と思う。「ばっかおまえ、俺らまだ成人してないんだぜ?枯れてんじゃねーよ」「俺ら成人してるぞ。なあ、ガジン」「そうですね」「彼女持ちはいいんですよ」 たしかにケンさんはコロさんとつきあってるけど。骨折さん、酔っ払ってないよな?「俺彼女いないですよ」「ガジンは誰狙ってんの?」「いやー、俺の前にはまだ運命の人は現れてないですね」「なんだよつまんねーなー。全員眼中にないって?」「いやいや、みんな素晴らしい人ですよ」「出たよガジン。理想が高すぎんじゃねーの?じゃあ、ナベは?」 ああもう、こっちに来た。めんどくさいな。「……いないですよ」「お、いまの間は気になるな。誰かいるなこれ。言わないから言ってみ?」「いや、だからいないですよ」「なるほどね。好きかどうかわからないけど、気になる人はいる、と」 勝手に決めないでほしい。いや、的を射てはいるんだけど。「少女マンガかよ」「お前はどうなんだよ。だれか好きなやついないの?」 山口さんのつっこみに骨折さんがからむ。「なんでそんな気にすんだよ。お前こそどうなんだよ。麻美さんか?」
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第五十八話

 翌朝。七時くらいに目が覚めた。もう少し眠っていても良かったんだけど、昨夜コーヒーを飲んだせいかすっきり起きることができた。枕元においていたメガネをかける。磨り硝子に囲まれたようだった世界が輪郭を取り戻す。周りを見るとケンさんの姿だけない。早起きだな。とりあえず顔を洗おう。 昨日、ハンガーにぶら下げたタオルをふすまの上の横木——鴨居というらしい——に引っ掛けていた。それを手に取り、洗面所へ向かう。一階の脱衣所にあったはずだ。脱衣所のドアは開け放されていた。なら、たぶん誰も本来の用途で使用していないだろう。ラッキースケベとかかんべんしてほしい。気まずくなるだけだ。脱衣所の中から水の音が聞こえる。誰か洗面しているのだろう。いちおう声をかけておくか。「入っていいですかー?」「いいよー」 コロさんの声だ。中に入ると、コロさんが顔を洗っていた。洗面台の周りによくわからない化粧道具と思われる瓶が何本か置いてある。「おはようございます」「おはよう。律儀だねー、ナベ」「ええまあ、事故が起こると気まずいので」「紳士だねー」「なんか演劇研究会って家族よりも一緒にいる時間が長いので、なにもない方が一緒に過ごしやすいと思うんですよ」「まあそうだねー」 僕はざぶざぶと適当に顔を洗う。僕の洗面が終わってもコロさんはまだ化粧をしている。こういうとき女性はたいへんだな、と思う。挨拶してまた雑魚寝部屋に戻るが、三人ともまだ寝ている。ケンさんはどこにいるのだろう。朝のコーヒーを飲みたくなったので食堂へ向かう。役の深堀りもしたかったので台本と役作り用のノート、筆記用具も持っていく。もしかしたら食堂の戸棚にインスタントコーヒーとか置いてたりしないだろうか。 食堂に入ると、ケンさんがコップに入ったコーヒーを飲みながらテーブルに広げた新聞を読んでいた。「……おはようございます」「おう、おはようナベ」「新聞は今日のですか?」「そうだよ。コンビニで買ってきた。コーヒー飲む?」 いつから起きていたのだろ
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