All Chapters of 三年の冷遇、離婚の夜に夫は狂う: Chapter 231 - Chapter 240

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第231話

怜央は何も言わず、体の脇に下ろした手を小刻みに震わせていた。よほど腹を立てているのは明らかだった。だが陽咲は彼がどう感じていようと気にも留めず、冷たい視線を一瞥投げかけて警告とした。そして蒼空の方を振り返り、「蒼空、行きましょう」と声をかけた。陽咲と視線が合った瞬間、蒼空の瞳から傷ついたような色がすっかり消え去り、代わりに甘く蕩けるような愛しさが満ちた。「ああ」二人は連れ立って車に乗り込んだ。陽咲がこのまま去ってしまえば、もう二度と会えなくなる――怜央の直感がそう告げていた。たまらず助手席側に歩み寄り、窓を軽く叩いた。「陽咲、待ってくれ」陽咲は窓を下ろすと、冷淡な視線を彼に向けた。「安部社長、まだ何か御用ですか?」彼女は彼を「安部社長」と呼んだ。こんなにもよそよそしく、冷淡に突き放すような呼び方など聞きたくはなかった。「安部社長」というその肩書きが、彼と陽咲の間の繋がりを無惨に切り裂き、二人がこれ以上ないほどの赤の他人であることを突きつけてくる。怜央は胸を震わせ、ひどく掠れた声で絞り出した。「離婚したとはいえ、友達には……なれないか?せめて、俺をブロックしないでくれないか?」陽咲は鼻で冷たく笑った。「友達?さっき私の友達にあんな態度を取った時点で、私たちが友達になる道すらなくなったのよ。安部社長、私の性格はよく分かってるはずよね。私、自分の身内を誰よりも庇う人間なの」そう言い捨てると、彼女は蒼空へ視線を移した。「蒼空、車を出して」蒼空は彼女を見つめ返してこくりと頷いた。そして窓の外に立つ怜央へ視線を投げ落とすと、車を発進させ、そのまま走り去っていった。2人が去った後、怜央は1人その場に立ち尽くし、唇をきつく引き結んで複雑な表情を浮かべていた。……車内で、陽咲は蒼空に尋ねた。「蒼空、私たちこれからどこへ向かってるの?」蒼空はハンドルを切りながら微笑んだ。「碧海荘に帰るんだよ。君の引っ越し祝いさ。白瀬先生から、君を迎えに行って一緒に食事に帰ってこいと頼まれたんだ。雅也さんももう着いていて、あとは僕たちを待つばかりだよ」それを聞き、陽咲の胸の奥にじんわりとした満ち足りた思いが込み上げてきた。「わかったわ」陽咲の瞳に柔らかな笑みが灯る。蒼空は穏やかで柔らかな陽咲の横顔を盗
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第232話

陽咲はぱっと顔を輝かせたものの、蒼空の負担になるのではとためらいがちに尋ねた。「本当にいいの?あなたの迷惑にならない?」蒼空は彼女の気兼ねを察して微笑んだ。「迷惑なものか。僕の周りには人が足りているからね。帰ったら志保に話しておくよ。僕が碧海荘に滞在する時間も決まっていないから、彼女にはマンションで待機してもらうようにする。何か用があれば、彼女に言えばいい」陽咲はこくりと頷いた。「ありがとう、蒼空」蒼空はふっと短く笑い声を漏らし、甘やかな眼差しで陽咲を見つめた。「僕たちは友達だろう?お礼なんて言わなくていいよ。陽咲、僕が君の友達である以上、そんなに水臭くしないでほしいな」彼はそこで少し言葉を切り、こう続けた。「本当はね、白瀬先生に対するのと同じくらい、僕にも心を開いて頼ってほしいんだ」少なくとも、心から自分を頼りにしてほしい。今のように、親しげでありながらもどこか淡々とした遠慮が透けて見える関係ではなく。陽咲は「うん」と小さく相槌を打ったが、それ以上何と答えていいのか分からなかった。しばらくして、彼女は仕方なく話題を逸らした。「あとどのくらいで着く?」蒼空は彼女が懸命に話題を変えようとしているのをすぐに察した。陽咲に少し視線を留め、微かに寂しげな表情を浮かべたが、すぐに何事もなかったかのように平静を装った。まあいい、これから先、時間はいくらでもある。今は陽咲も離婚したばかりだ。急ぐ必要はない。その後は道中無言のまま、車は碧海荘に到着した。エレベーターに乗り込むと、陽咲は上昇していく階数表示を見つめたまま、何を話せばいいのか戸惑っていた。車内で蒼空があの言葉を口にして以来、どうにも彼との間に妙な居心地の悪さを感じてしまうのだ。彼女は頭を振り、深く考えるのをやめた。――どうせ蒼空は私の友達だし、少し前にお兄さんが彼に釘を刺してくれたはずだ。いきなり告白してくるようなことは、もうないだろう。陽咲は心の中でそう結論づけた。エレベーターの扉が開き、陽咲が先に足を踏み出した。蒼空はその場に立ち尽くし、陽咲の後ろ姿を複雑な眼差しで見つめていた。数歩歩いたところで陽咲は振り返り、彼を見た。「何ぼーっとしてるの。早く出てきなさいよ」蒼空はハッと我に返り、エレベーターを降りた。陽咲がドアをノ
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第233話

「ああ、智琉を探す件は俺と周防さんに任せておけ。陽咲、お前は余計な心配をしなくていい。無事に怜央とも離婚できたんだし、これからは自分の人生を思う存分楽しめよ」雅也はそう言って、優しく微笑んだ。陽咲はこくりと頷いた。「ありがとう、お兄さん。栞奈に3日間のお休みをもらったから、この3日でしっかり心と体を整えようと思ってるの」絃葉も「それがいいわね」と頷いた。食事を終え、4人で手分けして後片付けを済ませた。雅也は急いで会社に戻って会議に出る必要があり、蒼空も仕事が残っていた。2人は連れ立ってマンションを後にした。彼らが帰った後、陽咲はソファに深く寄りかかり、大きな窓ガラスから見える景色をぼんやりと眺めた。絃葉がフレッシュジュースを二つのグラスに注ぎ、その一つを陽咲に差し出した。「ほら、あなたの大好きなオレンジジュースよ」彼女は目元を和らげて陽咲を見つめ、これまでにないほどの深い充足感に包まれていた。これからはもう、2人で苦労しながら賃貸物件を探し回る必要はない。――私と陽咲には、ようやく心休まる「家」ができた。陽咲は笑ってグラスを受け取ると、穏やかな声で言った。「絃葉、ありがとう。今までずっと、私の傍にいてくれて」陽咲は心の底からの感謝を伝えた。絃葉はくすりと笑った。「馬鹿ね、小さい頃からずっと一緒に育ってきたんだもの。私たち、とっくの昔に本物の家族みたいなものでしょ」そう、その通りだ。彼女は陽咲にとって、この広い世界で雅也を除けば唯一の大切な身内なのだ。陽咲はオレンジジュースを一口飲むと、グラスをサイドテーブルに置き、スマートフォンを手に取った。そして、離婚届受理証明書を片手に、自撮り写真を1枚撮った。そのまま、SNSのタイムラインにこう添えて投稿した。【悪縁切り完了】投稿して1分も経たないうちに、真っ先に悠里から「いいね」がついた。陽咲が通知を開いてみる。そこには悠里からのコメントが残されていた。【お姉さん、私、お姉さんと怜央さんの仲を引き裂くつもりなんてなかったの。全部誤解よ】相も変わらず、被害者ぶった白々しい台詞だ。陽咲は冷たく鼻で笑い、まともに相手にするのも馬鹿馬鹿しくて、そのまま悠里のアカウントをあっさりとブロックした。すべてを済ませると、陽咲はふっと息を吐
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第234話

栞奈は少し考え、確かにその通りだと納得した。「わかった。じゃあ、あなたの休みが明けたら公表するわ。離婚したてだし、特別に1週間の休みをあげるから、しっかり羽を伸ばしてきなさい」陽咲は「ありがとう、栞奈」と礼を言った。「水臭いわね、私たち友達じゃない。そんなに遠慮はいらないわよ」栞奈のその言葉を聞いて、陽咲はふと、昼間に蒼空が自分に言った言葉を思い出し、胸の奥が少しちくりと痛んだ。あの時の彼の言葉も、きっと栞奈と同じで、純粋に友達として言ってくれたはずだ。それなのに、自分は変に勘違いしてしまった。今夜、蒼空にきちんと謝ろうと心に決めた。電話を切って体を起こすと、不思議そうな顔でこちらを見ている絃葉と目が合った。「どうしたの、陽咲?」絃葉が尋ねる。「栞奈が1週間も休みをくれたから、あなたと一緒にどこかへパーッと遊びに行きたいなって。お休み、取れそう?」陽咲が聞く。絃葉はこくりと頷いた。「大丈夫よ。後でメッセージで休暇の申請をしておくわ」陽咲が言った。「雲市へ遊びに行きたいな」海市の隣にある雲市は風光明媚で景色が美しく、豊かな風情に溢れる街だ。離婚したばかりの今の彼女には、外へ出て気分転換することが必要だった。絃葉も賛成した。「いいわよ、陽咲。あなたがどこへ行くにしても、私もついて行くわ」陽咲はにっこりと笑うと、再びソファに寄りかかり、ゲームの続きを始めた。絃葉は休暇申請のメッセージを打ち込んでいる。しばらくして申請を済ませると、絃葉は陽咲のそばにぴったりと寄り添った。1人はゲームに没頭し、もう1人はドラマを見る。お互いに干渉することなく、思い思いの時間を過ごした。あっという間に黄昏時になった。太陽の残光が、大きな窓から差し込み、2人をあたたかく包み込んでいく。その光景はとても温かく、穏やかだった。夕日に照らされて柔らかな色合いに染まった絃葉の髪を優しい眼差しで見つめながら、陽咲はふっと笑みをこぼした。彼女は、今のこの生活がたまらなく好きだった。いくら大金を積まれても、絶対に手放したくない。夜になり、絃葉がパスタを作ってくれた。2人は並んで座り、絃葉がタブレットを持ってきて、見終わっていなかったドラマの続きを流した。陽咲も一緒に画面を眺めながら、時折、2人で小声
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第235話

「ありがとう、蒼空。それと、昼間は本当にごめんなさい。あの時、返事をしたくなかったわけじゃないの。ただ、あなたが私に向けてくれる優しさが、純粋な友達としての気遣いなのか、それとも友達の枠を超えた……異性としての好意なのか、どうしても分からなくて。このまま何も聞かずにいたら、あなたを傷つけてしまうんじゃないかと思って」蒼空は数秒沈黙した後、静かな声で言った。「友達だよ。友達としての気遣いさ。陽咲、心配しなくていい。僕は君が思っているほど脆くはないから。友達として君のそばにいると決めた以上、その一線はしっかり守るし、絶対に踏み越えたりはしないから」陽咲は「うん」と答えた。「他にも、僕に言いたいことはある?」蒼空はスマートフォンを片手に、窓の外に広がる夜景を見つめながら、優しく問いかけた。明日から旅行に出かけるからか、今の陽咲はいつもより口数が増えていた。彼女は笑いながら答えた。「ここ数日、絃葉と一緒に雲市へ遊びに行くことになったの」蒼空は陽咲とこうして言葉を交わす穏やかな空気感が心地よく、「雲市ではどこを観光するつもり?」と尋ねた。「雲市の霧隠寺がすごくご利益があるって聞いたから、絃葉と一緒にお参りに行こうと思って」「霧隠寺?いつ行くつもり?」と蒼空が言った。「たぶん3日後かな。どうかしたの?」「3日後なら、僕もちょうど行く用事があるんだ。もしかしたら向こうで会えるかもしれないね」蒼空の声には、楽しげな笑みが混じった。それを聞いて、陽咲はぱっと声を弾ませた。「すごい偶然!」蒼空は「うん」と相槌を打ち、「実は数日前から、祖母が雲市に戻って滞在してるんだ。亡くなった祖父のお墓参りに行くらしくてね。祖母が滞在している場所が霧隠寺から近くて、僕もちょうどその日に時間が取れたから、顔を見に行こうと思ってたところなんだ」「それなら、私と絃葉で今村おばあさんのところへご挨拶に行ってもいいかな。このところずっとお会いできていなかったし、お加減がどうなのか気になっていて」蒼空は答えた。「とても元気だから、心配いらないよ」2人はさらにしばらく言葉を交わした。電話を切った後、陽咲は急激な眠気に襲われ、ベッドに横たわるとすぐに深い眠りに落ちた。翌朝、陽咲は9時半に目を覚ました。起きて身支度をしていると、
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第236話

竜翔が絃葉の前に立ち止まった。陽咲は無意識に彼へ視線を向けた。彼は澄み切った月のように優雅な雰囲気を纏い、鼻筋がすっと通り、彫りの深い端正な顔立ちをしていた。漆黒の瞳、気怠げに伏せられた長いまつ毛、そして口角はわずかに弧を描いて上がっている。冷淡さを宿したその瞳は、人の心を惑わす妖怪のごとく、絃葉を見据えていた。竜翔は涼やかな声で言った。「白瀬先生、奇遇ですね。こんなところでお会いできるとは」一方の絃葉は、彼とは対照的に全く嬉しそうではなかった。かすかに眉をひそめ、あからさまに不快感を顔に滲ませている。陽咲は2人の顔を交互に見比べ、何かを察して胸のざわつきを覚えた。「絃葉、この人は?」陽咲は一歩前に出て絃葉を背にかばい、竜翔からの視線を遮った。「前に話したことのある患者よ。結城家の跡取り、結城竜翔さん」絃葉の声は淡々としていた。しかし耳を澄ませば、その響きの奥に微かな不快感が潜んでいるのがわかる。陽咲にもそれは聞き取れた。彼女は警戒心をあらわにして竜翔を睨みつけた。「竜翔さん、何かご用ですか?」と、彼女は尋ねた。竜翔はふっと口角を上げ、身にまとっていた冷ややかな気配を少しだけ和らげた。彼は陽咲を一瞥し、「君は安部さんの元奥様ですね?どこかで見覚えがあると思いましたよ」と言った。陽咲は努めて平静な声で返した。「ええ、そうです。それで、何かご用ですか?」彼女はもう一度繰り返した。竜翔は陽咲越しに背後の絃葉へと視線を向け、小さく首を振った。「いえ、用というわけではありません。ただ、こんな所で君と白瀬先生にお会いできたのが意外だったもので。君と白瀬先生は、どういったご関係で?」彼は少し声を低くし、探るような視線を陽咲の顔に走らせた。陽咲は眉をひそめた。いくら何でもお節介が過ぎないか?こんな男に愛想良く振る舞ってやる義理はない。陽咲は声に不快感を滲ませて言った。「私は絃葉の親友です。特にご用がないのでしたら、私たちはこれで失礼します」そう言い捨てると、彼女は絃葉の手を引き、その場を離れようとした。「お待ちください」竜翔が呼び止めた。陽咲は足を止め、振り返った。彼女の後ろで、絃葉はすでに冷え切った表情になり、氷のように冷たい視線で彼を射抜いていた。「ここを歩け
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第237話

陽咲の問いに、絃葉は小さくため息をつき、ひどく困り果てたように口を開いた。「去年、仕事中に偶然彼を助けたことがあってね。その後、彼がカウンセリングを受けに来た時、たまたま私が担当になったのよ。そうしたら、彼の方で勝手に運命を感じたみたいで……それ以来、ずっと付きまとわれているの」陽咲は眉をひそめた。「まるで三流ドラマみたいな展開ね。本当、いい迷惑だし気持ち悪いわね」絃葉は思わず苦笑した。「そういえば絃葉、お正月前、うちのお兄さんがしょっちゅうあなたの送り迎えをしてたじゃない?竜翔はそれに気づかなかったの?」その話題に触れられ、絃葉はさらに頭痛を覚えるように言った。「彼もそれを見てたわ。だから私もはっきり言ったの、他に好きな人がいるって。でも彼は、『どれだけ好きな相手でも最後は別れるし、結婚しても離婚する。それなら俺から積極的にアプローチした方がマシだ』って言って引かないの。だから最近はずっと彼を避けてたのよ」最近の雅也は仕事に追われて送り迎えができず、当然この厄介事を知る由もなかった。陽咲は言葉を失った。結城家の人間がここまで厚顔無恥だとは思わなかった。とくにあの結城竜翔という男は。陽咲は一瞬黙り込み、それから探るように絃葉に尋ねた。「ねえ、あなたとしては、うちのお兄さんとあの竜翔、どっちがいいの?」絃葉は一切の迷いなく答えた。「当然、雅也に決まってるじゃない」陽咲は絃葉の腕に自分の腕を絡ませてプロムナードを歩き続けながら、からかうように言った。「だったら、今夜お兄さんに電話して、あなたの気持ちを伝えてみたら?ついでに竜翔に付きまとわれてることも話しちゃえばいいのよ。お兄さん、絶対に焦るはずだから」絃葉は少し頬を染め、恥じらいを含んだ声で言った。「それはダメよ。私と雅也はまだ何も関係がないじゃない。せいぜい仲の良い友達っていうだけで、恋人同士でもないのに」陽咲は笑った。「試してみなきゃ、お兄さんの本当の気持ちなんて分からないじゃない?」陽咲が何度もせがむため、絃葉もとうとう折れて同意した。「でも、夜電話するときは、私の部屋にいちゃダメだからね」と絃葉が念を押すと、陽咲は「分かってるわよ」と頷いた。2人はさらにしばらく散歩を楽しんだ。川沿いから吹き抜ける風がとても心地よい。陽咲は、
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第238話

雅也は、絃葉がこれほどストレートに尋ねてくるとは思ってもみなかった。普段は弁が立つ彼も、この時ばかりはしどろもどろになっていた。「も、もちろん……好きだよ。何かあったのか?」直感で、絃葉の身に何かあったのだと悟った。でなければ、控えめな性格の彼女がこんなことを聞いてくるはずがない。絃葉は、竜翔につきまとわれている一件を雅也に打ち明けた。話し終えると、彼女は不安げな声で尋ねた。「私って……ダメな人間だなって思う?こんなことすら、自分でどうにもできないなんて」雅也はしばらく無言だった。絃葉はその沈黙を肯定と受け取り、胸の奥底から失望と羞恥心がわき上がってきた。彼がそんな反応を見せたことへの失望。そして、まだ付き合ってもいない雅也にこんなことを打ち明けてしまった自分自身への羞恥。雅也は自分のことをどう思っているのだろう?絃葉はきゅっと唇を噛み締めた。まるで1世紀にも感じられるほど長い沈黙の後、彼女は消え入るような声で言った。「ごめんなさい……こんなこと、あなたに話すべきじゃなかったわね……」雅也が慌てて彼女の言葉を遮った。「ごめん、絃葉。とっさに頭が追いつかなくて悪かった」こと恋愛に関わると、雅也の思考回路はどうしても鈍くなってしまうのだ。彼はそのまま言葉を継いだ。「君をダメな人間だなんて思わない。絃葉、自分を責めないで。君は悪くない。悪いのは君につきまとう竜翔だ。実は……君からこの話を聞いたとき、少し嬉しかったんだ。でも同時に、自分を責める気持ちも湧いてきた」雅也は静かな声で言った。「どうして自分を責めるの?」絃葉が聞く。「君は俺の好きな人だ。ずっと前から好きだった。今はまだ一緒になれなくても、せめて君のために障害を取り除いて、楽しく暮らせるようにしてあげたかった。それなのに、俺はそんなことすらしてやれなかった」雅也は自嘲気味に笑った。彼が自分の想いをこれほど包み隠さず口にしたのは初めてのことだった。その一言によって、2人の間を隔てていた曖昧な境界線が、ついに取り払われた。絃葉は何も言えなかった。部屋に沈黙が降りる。しばらくして、雅也がおずおずと口を開いた。「俺の言葉、君を怖がらせてしまったかな?ごめん、本当はただ君を慰めたかっただけなんだけど……」絃葉は柔らかな声で言った。「さ
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第239話

絃葉は陽咲の肩に寄りかかり、彼女が雅也にたかっているのを笑いながら眺めていた。ピロン、と軽快な着信音が鳴り、スマートフォンの画面に【口座に1億円の入金がありました】というメッセージの通知が表示された。陽咲はそれでようやく満足げに頷いた。南門通りに到着すると、2人は車を降りて一軒の朝食屋に入った。食事中、陽咲がふと感慨深げにこぼした。「私が小さい頃、おじいさんがよく『雲市の南門通りの朝市は賑やかで一番好きだ』って言ってたの」正雄は昔、自分の作る陶磁器をより人々の暮らしに寄り添うものにするため、あちこちを旅して回るのが好きだった。特にこの南門通りの朝市で朝食をとるのがお気に入りで、そこにこそ本物の生活の息吹があると言っていた。あれから3年が経ち、陽咲の心の奥にあった悲しみもずいぶんと薄らいでいた。絃葉が優しく言った。「陽咲も今、正雄おじいさんが当時していたことと同じことをしてるじゃない。素敵なことだと思うわ」陽咲は頷いたものの、その意識は、すでに運ばれてきた湯気を立てる美味しそうな料理にすっかり奪われていた。朝食後、2人は雲市の観光名所を巡った。その夜、ホテルに戻ったのは11時を過ぎていた。蒼空から陽咲へメッセージが届いていた。【明日は祖母と一緒に霧隠寺へ行く予定なんだけど、何時頃になるかまだ決まってなくて。だから、会うのは難しいかもしれないね】陽咲は【大丈夫だよ】と返信した。特にすることもなかった陽咲は、そのまま何気なく蒼空とのやり取りを続けた。【絃葉、昨日の夜うちのお兄さんと付き合い始めたの。やっと恋人同士になれたわ】陽咲はしみじみとした感慨を込めて、そう打ち込んだ。ここ最近の雅也の絃葉に対する優しさは陽咲もずっと見てきたし、絃葉も雅也に気があることは分かっていた。ただ2人は、どうしても次の一歩を踏み出そうとしなかった。幸いにも、竜翔の存在が期せずして2人の背中をぐっと押してくれた。竜翔のことを思い出した陽咲は、昨日彼に遭遇した一件も蒼空に話した。すると、蒼空から直接電話がかかってきた。「竜翔は一筋縄ではいかない。君も白瀬先生も気をつけて」陽咲は「分かったわ」と答えた。「絃葉とお兄さんも付き合っちゃったし、私の周りでシングルの友達なんて、もう私と栞奈、それにあなたくらいしか残
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第240話

陽咲はぱっと目を輝かせ、嬉しそうに絃葉と一緒に歩み寄って挨拶をした。「奇遇ね、蒼空。もしかしたら会えるんじゃないかって、ちょうど思っていたところなの」絃葉も蒼空に向かって軽く会釈をした。それから、微笑みを浮かべて清子に視線を向ける。清子は目を細め、陽咲と絃葉をにこやかに見つめた。「陽咲ちゃんと絃葉ちゃんも、お参りに来たのかい?」陽咲は頷いた。「はい、そうなんです。霧隠寺はとてもご利益があると伺いましたので、旅行に合わせて二人でお参りしていこうと思いまして」清子は笑みを深めて言った。「そうか。蒼空は雲市に何年か住んでいたことがあってね、半分はここの人間みたいなものなのよ。この子が忙しくない時にでも案内役にするといいわ。あちこち連れて行ってもらいなさいな」陽咲は驚いて、ぱちりと蒼空を見上げた。「あなたはずっと海市で育ったのかと思ってた」蒼空は口角をわずかに上げ、穏やかな声で答えた。「違うよ。祖父母が雲市の出身だから、僕も子供の頃に何年かここで暮らしていたんだ」4人は並んで歩きながら言葉を交わし、和やかな空気に包まれた。「そうそう、この子は小さい頃本当にやんちゃでね。おじいさんも私も、ずいぶんと手を焼かされたものよ」と清子が笑った。陽咲と絃葉は横に並んで歩きながら、清子が語る蒼空の幼い頃の失敗談に静かに耳を傾けた。清子の話によれば、幼い蒼空はひどい悪戯っ子で、友達を引き連れては木に登り、どうしても鳥の巣を降ろすと言ってきかなかった。「生まれたばかりの小鳥が高いところを怖がるから、巣を地面に置いてあげれば怖くなくなる」などと言い張っていた。それから、小さなバケツを持って川へ行き、オタマジャクシを大量にすくって帰ってきたこともあった。「世界で一番大きくてかっこいいカエルを僕が育てるんだ」と息巻いていた。ところが、育ったのは大量のヒキガエルで、バケツの中でピョンピョンと跳ね回る始末。当時の蒼空はすっかり怯えきってしまい、おじいさんとおばあさんに「捨ててきて」と泣きついた。しかし「自分がやったことは自分で始末しなさい」と突き放されてしまった。仕方なく、幼い蒼空は1人震えながらバケツを下げて、川へ放しに行った。それ以来、二度と「カエルを育てる」とは口にしなくなった。陽咲は思わず吹き出し、その瞳に笑み
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