All Chapters of 三年の冷遇、離婚の夜に夫は狂う: Chapter 251 - Chapter 260

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第251話

雅也は悔しさに奥歯を噛み締め、ふんと鼻を鳴らした。しかし、絃葉の方へ向き直るや否や、まるで別人のようにすっと表情を和らげた。「絃葉、それじゃあ俺は行くね」絃葉はこっくりと頷いた。ドアが閉まると、陽咲と絃葉は買ってきた陶器の小さな置物を片付け始めた。……雅也は車で会社へ戻る道中、何度も助手席のギフトボックスに視線を走らせていた。ようやく会社に着き、エレベーターでオフィスへ上がると、椅子に腰を下ろし、まるでお宝でも扱うかのように慎重に包みを解いた。中から現れたのは、本物そっくりに作られた陶器の薔薇だった。雅也は驚き、そして顔を輝かせた。――俺が花好きなこと、それなのに花粉症であることを、絃葉はどうやって知ったのだろうか?雅也は瞳に甘い笑みを浮かべ、スマートフォンを手に取って写真を一枚撮り、絃葉へ送信した。【絃葉、プレゼントすごく気に入ったよ。薔薇も君も、どっちも大好きだ】メッセージを受け取った絃葉は、パッと花が咲いたように顔をほころばせた。……時間はあっという間に過ぎ去り、気づけば月曜日――記者会見の当日となっていた。陽咲はナチュラルメイクを施し、いっそう優雅で柔和な雰囲気を纏っていた。背筋をぴんと伸ばして壇上に座るその姿に、物怖じする様子は微塵もない。隣には栞奈が座っていた。「はい。私が先日騒動になった『望月家令嬢事件』の当事者です」陽咲は穏やかな声で答えた。ある記者が質問を投げかけた。「あなたが望月家の本当のお嬢様だという噂ですが、なぜ偽のお嬢様があなたに対してあそこまで横暴に振る舞うのを許していたのですか?」陽咲はふっと微笑み、カメラを真っ直ぐに見据えた。記者の質問には直接答えず、こう告げた。「私が望月家の実の娘であることは事実ですが、少し前に望月家とはすでに縁を切っています。今はもう何の関係もありません。ですので、ネットの皆さんも私を巻き込まないでくださいね」彼女はちゃめっ気たっぷりにウインクしてみせた。記者はその美しさに一瞬目を奪われたが、我に返るとすぐさま追及した。「その理由をお聞かせ願えますか?」それを聞いた栞奈は眉をひそめ、心配そうに陽咲をちらりと見た。このデリケートな話題から助け船を出して話を逸らそうとした、その時だった。陽咲が彼女へ「安心して」と視線で合図
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第252話

蒼空は全身から冷徹なオーラを放っていた。いつもは穏やかな笑みをたたえているその瞳には今、ぞっとするような凄みが満ちている。彼はすらりと伸びた長い脚で、堂々とした足取りで会場へ歩み入ってきた。聡子は唖然として彼を見つめ、彼がたった今口にした言葉の意味を咄嗟に理解できなかった。ただ一つ記憶にあったのは、大輔からきつく言われていたことだ。今の周防グループは飛ぶ鳥を落とす勢いだから、是が非でも蒼空に取り入り、絶対に機嫌を損ねるような真似はするな、と。そこまで思い至ると、聡子は陽咲を憎々しげにねめつけ、すぐさま蒼空へ向き直って媚びへつらうような笑みを浮かべた。「周防社長……どうしてこちらにいらっしゃったのですか?」蒼空は彼女を冷ややかに一瞥した。その端正な顔立ちには氷のような冷徹さが張り付き、見ているだけで息が詰まるほどの威圧感を放っている。彼は唇を開き、聡子の顔を微塵も立てようとはしなかった。「陽咲があなたのどんな癪に障ったのか存じませんが、大勢の面前で彼女を誹謗中傷なさるとは、一体どういうおつもりですか」まさか彼がここまで露骨に陽咲を庇い立てするとは思っておらず、聡子の頭は完全にフリーズしていた。すると、蒼空が言葉を重ねた。「海棠陶房には周防グループも出資しています。つまり、陽咲は我が周防グループのスタッフです」彼は一呼吸置き、さらに続けた。「聡子さん、あなたがそのように陽咲を侮辱するということは、我が周防グループを見下していると受け取ってもよろしいですか?」聡子は額から今にも冷や汗が滴り落ちそうだった。顔を引きつらせて愛想笑いを浮かべる。「め、滅相もございません!周防社長、何かの誤解ではございませんか?」「誤解、ですか」蒼空は彼女を冷ややかに見下ろした。「では、それが誤解だと言うのなら、陽咲に謝罪していただきましょうか。あなたの誠意とやらを、見せていただきたい」陽咲は傍らに立ち、凛とした佇まいで自分の前に立ち塞がり、これほどまでに守ってくれる蒼空の背中を見て、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。まるで、自分がどんな危険に見舞われようとも、蒼空は常に自分の味方でいてくれるかのようだ。陽咲は柔らかな眼差しで蒼空を見つめた。それに気づいた蒼空は、「安心して」と視線で合図を送った。陽咲の強張っていた肩の力がふっ
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第253話

記者会見が終わり、報道陣が散っていく。蒼空は陽咲に歩み寄り、「少し待っていて」と声をかけた。しばらくして外から戻ってきた彼は、腕に抱えきれないほどの大きな薔薇の花束を抱き、逆光を浴びながら陽咲のもとへ大股で歩いてきた。降り注ぐ陽光が彼を包み込み、その姿にどこか柔らかな雰囲気を添えている。先ほど聡子に向けていた冷徹なオーラはすでに消え失せ、落ち着いた足取りで近づく蒼空は、ただひたすらに甘く愛おしげな眼差しで陽咲を見つめていた。陽咲の隣にいた栞奈が、彼女の腕をつんつんと突き、からかうようにウインクをして小声で囁いた。「意外ねぇ。あなたたち2人、一体どういう関係なわけ?」蒼空は珍しく気恥ずかしそうに陽咲をちらりと見た。陽咲は微かに唇を結んだ。明らかに、栞奈に2人の関係を誤解されたくない様子だ。それを察した蒼空は、瞳の奥に過った寂しさを押し隠すと、陽咲に花束を差し出して微笑んだ。「ただの友人関係ですよ。木下さん、誤解しないでください」陽咲は密かにほっと胸を撫で下ろした。しかし、先ほど彼が身を呈して自分を庇ってくれた姿を思い出すと、蒼空に対して少し申し訳ないような気持ちにもなった。陽咲は蒼空から花束を受け取り、小さな声で「ありがとう」と告げた。「栞奈は冗談で言っただけだから、気にしないでね」陽咲がそう言うと、蒼空は「うん」と頷いた。しかし、その熱を帯びた視線はずっと陽咲に注がれたままで、長い間逸らされることはなかった。その光景を目の当たりにした栞奈は、信じられないといった様子で蒼空をまじまじと見つめた。――私の勘が正しければ……蒼空さん、まさか陽咲のことが好きなの?彼女は喉元まで出かかったその言葉を、ぐっと飲み込んだ。海棠陶房へと戻る道中、陽咲と栞奈は車の後部座席に座っていた。そこへ、明美から陽咲のスマートフォンに着信が入る。「陽咲、あの記者会見を見たわ。私、あなたが陽菜だったなんて本当に夢にも思わなかったわ」明美の口調には驚きの色が濃く滲んでおり、あの記者会見の衝撃からまだ抜け出せていないのは明らかだった。陽咲は小さく「はい」と相槌を打ち、少しの罪悪感を覚えながら口を開いた。「ごめんなさい、わざと隠していたわけじゃないんです」明美は理解を示した様子で言った。「いいのよ。ねえ、ここ数日でい
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第254話

陽咲の姿を認めるなり、明美は慌てて彼女を席へと促した。陽咲はすっと視線を外し、素直に頷いて腰を下ろした。傍らに座っていた怜央は、そんな彼女の静かな物腰を目の当たりにして、胸の奥がひどくざわついた。ここ最近、怜央は陽咲が白檀荘にいない日々にどうしても慣れることができずにいた。妊娠中の悠里は就寝時間が早く、夜更かしができない。怜央はこの数日、夜の11時か12時を回ってから帰宅する毎日だった。だが、どれほど疲れて帰宅しようと、迎えてくれるのは灯りの落ちた冷え冷えとしたリビングだけ。人の温もりなどどこにも感じられなかった。結婚して間もない頃を思い出す。自分がどれだけ夜遅くまで仕事に追われていようと、陽咲はいつもリビングのソファに座って帰りを待っていてくれた。帰宅が遅くなると、陽咲はソファの上で小さく丸まりながら本を読んでいた。点いているのはフロアスタンドの明かりだけだ。その柔らかな光に照らされて、彼女の物静かで従順な横顔がいっそう引き立っていた。静かで、穏やかで、温かな空間。そこには確かに、「家庭」の温もりがあった。あの頃の怜央は、そんな彼女を背後からそっと抱きすくめ、心地よさに安堵のため息を漏らすのが好きだった。しかし、離婚してからは、すべてが変わってしまった。怜央はきゅっと唇を噛み締め、胸にこみ上げるやりきれない喪失感を押し殺すように伏し目がちに目を逸らした。食卓には、どこか重苦しい空気が漂っていた。陽咲にとっても、まさか怜央と悠里までここに顔を揃えているとは完全に想定外だった。心の中にじわりと広がる苛立ちを押し隠し、ただ黙り込むしかなかった。その空気を察した明美が、自ら口を開いた。「陽咲、ごめんなさいね。今日、怜央と悠里がご飯を食べに来ること、すっかり忘れていたの。私が悪かったわ。あなたが気に障るようなら、怜央と彼女には今すぐ帰ってもらうからね!」その言葉に、悠里は血の気を引かせ、血が滲むほど唇を噛み締めながら怜央にすがるような目を向けた。しかし当の怜央はそれに気づくこともなく、ただ心ここにあらずといった様子で陽咲をちらりと見つめていた。陽咲は首を横に振り、にこりと微笑んだ。「大丈夫ですよ、明美さん。お気になさらないでください」彼女は明美を「明美さん」と呼んだ。明美は胸をちくりと痛
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第255話

かつて嫁姑であった2人は連れ立って外へ出ると、裏庭をゆっくりと散策した。小さな池のほとりに差し掛かったところで、陽咲は足を止めた。明美は低くため息をつき、陽咲を見つめて言った。「陽咲、あなた、一体いつになったら怜央と復縁するつもりなの?悠里のお腹も日に日に大きくなっているじゃない。この件、もうこれ以上先延ばしにはできないわ。今、怜央は会社をうまく回しているわ。あと半年もすれば、たとえ望月家が安部グループから資金を引き揚げたとしても、あの子なら十分に乗り切れるはずよ」明美は言葉を尽くして、陽咲に怜央との復縁を説得しようとした。陽咲は知的で優しく、道理をわきまえている。怜央の妻として、これほどふさわしい女性はいない。おまけに、幾度となく紬希の危機を救ってくれた彼女の素性は、明美自身が誰よりもよく分かっている。自分もいずれは老いていく。安部家のすべてを陽咲に任せられるのなら、こんなに安心なことはなかった。陽咲は黙り込んだ。明美になんと答えるべきか、どうしても言葉が見つからなかったからだ。明美も急かすことはせず、彼女が口を開くのを静かに待っていた。やがて沈黙を破り、陽咲が口を開いた。「明美さん。私はもう怜央と離婚しました。復縁の可能性は二度とありません。それに、以前、明美さんと直樹さんは私に約束してくれましたよね。私の願いを一つ叶えてくれると。私はその約束を使って、怜央と完全に縁を切りたいんです」明美は、陽咲がここまで決然としているとは思ってもみなかった。陽咲の胸の内では、怜央に対する想いがすでに完全に冷え切ってしまっているのだと悟るしかなかった。明美はため息をついた。「陽咲。本当に私たち安部家があなたには申し訳ないことをしたわ。でも、私からもう一つだけ聞かせてちょうだい」陽咲は静かな瞳で明美を見返した。「何でしょうか、明美さん」「本当に怜央には愛想が尽きたの?もう、どうにもならないのかしら?」陽咲はきっぱりと頷き、かつてないほど真剣な面持ちで答えた。「はい。明美さん、私は怜央と3年間夫婦として過ごしてきました。私の性格はご存知のはずです。一度決めたことは、絶対に覆しません」途端に、明美の目頭が赤く染まった。彼女は涙ぐみながら頷いた。「分かったわ。なら、私からももう無理は言わない。たとえ怜央と離婚したとしても、
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第256話

「お腹の赤ちゃんは無事なの!?」明美は眉をひそめながら悠里を抱き起こすと、開口一番にお腹の子の無事を案じた。悠里は体を強張らせ、こみ上げる惨めさをぐっと呑み込んで、小さく首を横に振った。陽咲は立ち上がり、悠里の前に歩み寄ると、探るような視線を投げかけた。「あなた、怜央とテレビを見ていたはずじゃなかった?どうしてここまで『ついてきた』の?」わざわざ「ついてきた」と口にしたのは、悠里の盗み聞きという魂胆などとうに見透かしているからに他ならなかった。悠里は唇を噛み締め、黙り込んだ。お腹の子供が無事だと確認し、ようやく安堵の息を吐き出した明美は、すぐに怜央へ電話をかけ、裏庭の東屋まで来るようにと告げた。怜央の到着を待つ間、明美はたしなめるような目を悠里に向けた。「あなたね、身重なんだからもっと気をつけなさいな。どうしていつもそんなにそそっかしいの?」悠里はばつが悪そうに俯きながらも、陽咲が余計なことを口走らないかと、怯えたような視線をチラチラと送っていた。だが、陽咲はただ冷ややかな目で彼女を見下ろすだけで、口を開こうとはしなかった。5分後、怜央が慌ただしく駆けつけてきた。悠里が転びそうになったと明美から聞かされると、怜央は眉をひそめ、その眼差しには微かな苛立ちの色が浮かんだ。しかし、明美が悠里を責め立てるような視線を向けているのに気づき、彼はため息をつくと、珍しく悠里を庇うように口を開いた。「お母さん、確かに悠里は少し不注意なところがあるかもしれないけど、彼女のお腹にいるのは俺の子供なんだ。そんなに厳しく責めないでやってくれ」怜央が自分を庇ってくれたのを聞いて、悠里はこれまで溜め込んでいた惨めさがせきを切ったようにあふれ出し、うつむいてヒックヒックと声を殺して泣き始めた。明美は眉を寄せたが、それ以上は何も言えなかった。怜央にそこまで言われてしまっては、これ以上とやかく言うのもあまりに情を欠いているように思えたからだ。明美は悠里の腕を支えて立ち上がった。「私と悠里は先に戻って、かかりつけの医師に診てもらうわ。あなたと陽咲はまだ話があるみたいだから、邪魔しないでおくわね」悠里は何か口を挟む間もなく、明美に半ば強引に連れられてその場を後にした。2人の姿が見えなくなると、陽咲は怜央を淡々と一瞥した。もう
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第257話

だが、時が経てばすべては変わる。永遠を誓ったはずの彼女自身が、誰よりも先に心変わりした。怜央の胸の奥でカッと怒りの炎が燃え上がった。――いったい何の権利があって?彼女はどうして自らの誓いをいともあっさり反故にできるというのか?彼が胸の内で何を考えているかなど知る由もない陽咲は、怜央が黙り込んでいるのを見て、そのまま外へ歩き出そうとした。怜央は顔を険しくして大股で前に出ると、東屋の出入り口に立ち塞がり、彼女の行く手を阻んだ。「まだ何か用?」陽咲は眉根を寄せた。その瞳には、すでに隠しきれない鬱陶しさが滲んでいる。その顔を見た瞬間、怜央はふと思い出した。離婚の直前、陽咲は自分に対してずっとこんな態度をとっていた。どこまでもよそよそしく、微かな苛立ちすら隠そうとしない態度。怜央は喉の奥を詰まらせ、咄嗟に言葉を失った。今さら、何を言えるというのか。今の陽咲は彼のことを心の底から疎ましく思っており、ただの一言すら言葉を交わしたくないのだ。しばしの沈黙が流れた。再び足を踏み出して立ち去ろうとする陽咲を前に、焦りを覚えた怜央は、心の奥底に燻っていた本音を衝動的に口走ってしまった。「俺は……ただ、ここ最近ずっと君に会いたかったんだ。もっと君と、話がしたくて……」陽咲は虚を突かれた。怜央がこんな歯の浮くような台詞を口にしたことなど、かつて一度でもあっただろうか?あまりの気味の悪さに、先ほど口にしたばかりの食事を吐き戻しそうになった。彼女はさっと一歩後ずさり、その瞳で露骨な嫌悪感を剥き出しにする。その冷ややかな眼差しは鋭い刃となって怜央に突き刺さり、濁っていた頭を瞬時に覚醒させた。陽咲がさらに警戒を強めたのを察して、怜央は気まずげに咳払いをし、視線を泳がせながら取り繕うように言った。「だ、だって……君とは3年間も夫婦だったんだ。犬だって3年も飼えば情が移るだろう?」陽咲はあまりのバカバカしさに、怒りを通り越して失笑した。「怜央、気の利いたことも言えないなら黙ってて。誰もあなたに喋れなんて頼んでないから。それと、私たちはもう離婚したの。事あるごとに『結婚して3年』なんて未練がましく口にするのはやめてもらえる?余計な誤解を招きたくないから」そうピシャリと撥ねつけた後、彼女はさらに冷ややかに付け加え
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第258話

陽咲は怜央の姿には気づいておらず、少し気まずそうに蒼空の腕の中から体を離した。「ここ数日、陶芸の作業で少し疲れていたせいかも。咄嗟に反応できなくて……蒼空、ありがとう」陽咲は小声で言いながら、心臓を早鐘のように打ち鳴らし、蒼空の顔をまともに見上げることもできなかった。先ほど彼の胸に倒れ込んだ時、その体から漂う馴染みのある心地よいシダーウッドの香りに包まれ、一瞬にして全身の強張りが解けていくのを感じた。蒼空がそばにいれば、絶対に自分を怪我させるようなことはしないと分かっていたから。彼に対するそんな自らの依存心に気づき、陽咲は頬を染めた。ますます自分が何を考えているのか分からなくなってくる。自分たちは、ただの友人同士でしかないはずなのに。蒼空は腕を引くと、体側に下ろした指先を名残惜しそうに微かに擦り合わせた。彼の指は先ほど、陽咲の髪に触れていた。彼女を抱きとめた瞬間、陽咲の体から漂う甘いジャスミンの香りを嗅ぎ取った。その瞬間、蒼空は目の前の愛しい女性を力いっぱい自らの腕の中へ閉じ込め、二度と離したくない衝動に駆られていた。しかし、そんな真似ができるはずもなかった。陽咲の目から見れば、自分は彼女の友達でしかないのだから。蒼空は唇を引き結び、滲みそうになる寂寥感と、胸の奥で渦巻く切ない慕情を必死に押し殺した。「気にしないで。これからは歩く時、もっと気をつけてね。僕が咄嗟に腕を引いてなかったら、そのまま地面に倒れ込んでいたよ」彼はそう言って微笑んだ。陽咲が何か返そうとした、その時。空気を読まない怜央の声が響いた。「君たち、人目につく道端で抱き合ったりして、一体何の真似だ!」彼は大股で近づいてくると、怒り心頭の様子で陽咲を睨みつけた。先ほどの光景を目の当たりにし、酷く目に障ると感じたと同時に、胸の奥がずきずきと痛んだのだ。陽咲は怜央が出てくるとは思いもよらず、即座に眉をひそめて彼を見据えた。「怜央」彼女は冷ややかに鼻で笑った。「いくらなんでも、お節介が過ぎるんじゃない?私と蒼空がどうしようと、あなたには関係ないでしょ」怜央はぐうの音も出なかった。陽咲は彼を冷ややかに一瞥すると、踵を返して歩き出した。蒼空は怜央へ挑発的な視線を投げかけると、陽咲の後に続いて歩き出した。「どこへ行
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第259話

陽咲の姿が見えなくなると、蒼空は冷ややかな目を紗菜に向け、警告を含ませた声で言った。「今後、僕の許可なく勝手に触らないでくれ。変な誤解を招く」紗菜はまったく気にする様子もなく笑った。「何を気にしてるの?どうせ最後は私があなたのお嫁さんになるんだから、今のうちに愛を育んでるだけじゃない」蒼空は鼻で冷たく笑い飛ばし、一切の感情を欠いた声で言い放った。「誰が君と結婚するって?紗菜、前にもはっきり言ったはずだ。僕は君のことを妹としてしか見ていない。これ以上そんなふざけたことを言うなら、容赦はしないからな」紗菜は不満げに唇を尖らせると、遠ざかっていく陽咲の後ろ姿に目をやり、何気ない風を装って言った。「あなたが好きになったのって、まさかあの陽咲って人じゃないわよね?」蒼空は何も答えず、ただ大股で三浦家の方へ歩き出した。……陽咲は道端でタクシーを拾った。碧海荘に着くと、スマホで運賃を決済して車を降り、家へと向かった。帰宅後、靴を脱いで部屋着に着替えた陽咲は、ソファに深く腰を下ろしてようやく一息ついた。ふいに、紗菜が親しげに蒼空の腕に手を絡めていた光景が脳裏をよぎる。陽咲は微かに眉をひそめ、胸の奥から込み上げてくるざわめきを必死に押さえ込んだ。――私たちはただの友達。それだけのこと。自分にそう言い聞かせる。その夜、陽咲は夢を見た。昼間、道端で転びそうになった時の夢だ。だが、現実とはほんの少しだけ違っていた。足元がおぼつかず、彼に腕を引かれた拍子に体が前のめりに崩れ落ち――蒼空の唇へ、真正面から自分の唇を重ねてしまった。陽咲はハッと目を覚ました。勢いよくベッドに起き上がり、無意識に自分の唇に触れたまま、呆然と座り込んでしまう。しばらくして彼女はぶんぶんと首を振り、ベッドを降りて洗面所へ向かった。冷たい水で顔を洗い、ようやく少しだけ頭がすっきりした。だが、一度こんなことで目が冴えてしまうと、もう二度と眠気は訪れなかった。目を閉じれば、昼間、紗菜が蒼空と腕を組んでいたあの光景が無意識に浮かんできてしまう。陽咲は小さくため息をつき、枕元の小さなランプだけを点けてベッドボードに寄りかかった。胸の奥で燻る苛立ちと、名状しがたいこの感情を無理やり心の奥底へ押し込めると、明かりを消して再び目を閉じた。結局、
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第260話

陽咲は呆然とそのニュースを見つめ、無意識のうちに記事をタップしていた。これまでにないほどの得体の知れない焦燥感が、彼女の全身を呑み込んでいく。その瞬間、自分が何を感じているのかすら分からなかった。ただ、心の奥底に言葉にできないほどの虚無感と寂寥感が広がっていくのを感じた。陽咲は胸の奥のざわめきを必死に押し殺し、ニュースの本文に目を走らせた。写真を撮った記者は、意図的にいやらしい角度を狙ってシャッターを切っていた。掲載された画像には、昨日の午後、紗菜が蒼空の腕に手を絡めているあの光景が、はっきりと捉えられている。陽咲は伏し目がちに苦笑を漏らした。画面を閉じようとしたはずが、呆然としていたせいか、誤って共有ボタンに触れてしまったらしい。慌てて指を離そうとするよりも早く、無意識のうちに蒼空のアイコンをタップしてしまう。うっかり、このニュースを蒼空本人に送信してしまったのだ。我に返った陽咲はハッと息を呑み、慌てふためきながら送信取消の操作をしようとした。だが、一瞬の躊躇いが指を止めさせ、結局メッセージはそのまま残った。彼女は画面に穴が開くのではないかというほど、2人のトーク画面をじっと凝視した。自分でもどうかしている。今の彼女は、どうしようもなく答えを求めていた。蒼空自身の口から語られる、真実の答えを。5分が経過しても、蒼空からの返信はない。陽咲は顔から火が出るほど気まずい。根も葉もないゴシップを真に受けて騒ぎ立てるような、浅はかな女だと思われただろうか。それとも、彼の気を引きたいだけの思わせぶりな行動だと受け取られただろうか?陽咲の心は千々に乱れ、落ち着かなかった。あれこれとネガティブな想像を膨らませていたその時、蒼空からメッセージが届いた。【ごめん陽咲、さっきまで会議でスマホを見てなかったんだ】少しの間を置いて、蒼空はこう返信してきた。【ガセだよ。信じないで】そのたった数文字の言葉だけで、不思議なほど陽咲の胸のつかえはすっと消え去っていた。なんと返せばいいか分からず、陽咲はとりあえずOKのサインを出す黒猫のスタンプを一つ送った。一方の蒼空は会議を終え、社長室へ戻る廊下を歩いているところだった。陽咲から送られてきたそのスタンプを見ると、彼はふと足を止め、目元に柔らかな笑みを
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