All Chapters of 三年の冷遇、離婚の夜に夫は狂う: Chapter 271 - Chapter 280

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第271話

栞奈はそれをきっぱりと断った。【陽咲、私たちは友達でしょ。そんな水臭いこと言わないで。それに、私もあの悠里のやり方はどうにも虫が好かないのよ。お金なんて振り込まなくていいわ。これくらい大したことじゃないし、お金が絡むと他人行儀になっちゃうから】陽咲は苦笑し、大人しく引き下がるほかなかった。栞奈とのチャット画面を閉じた直後、遠く海外にいる雅也から電話がかかってきた。陽咲はすぐに応答する。「陽咲、お前が盗作の濡れ衣を着せられてる件、秘書から聞いた。望月グループの名義で公式声明を出して、潔白を証明しようか?」妹が陥れられたうえに、その裏で実の母親が糸を引いていると秘書から聞かされたとき、雅也は怒りのあまり全身を震わせていた。本当なら今すぐ帰国して陽咲の代わりにやり返してやりたい衝動に駆られたが、すんでのところで秘書に止められた。「社長、この件の被害者は陽咲様です。まずはご本人の意向を伺ってから決断なさるべきです」そう諭され、雅也はハッと我に返り、すぐさま陽咲へ電話をかけたというわけだった。しかし、陽咲の口からは意外にも断りの言葉が返ってきた。「お兄さん、その必要はないわ。もし今公式声明なんて出したら、悠里は絶対に被害者ぶって泣きつき、逆に私たちが彼女を虐げているって責任をなすりつけてくるはずよ。そうなったら、正しいはずの私たちが悪者にされてしまうわ」陽咲は冷ややかな声で告げ、無意識にスマートフォンを握る手に力を込めた。「それに、もしそんなことになれば、海棠陶房だけじゃなく、望月グループの評判にまで泥を塗ることになる。それだけは絶対に避けたいの」今の世の中、情報の流れが速すぎて、大半のネットユーザーに物事の真偽を見極める力などない。少しでも風の噂を耳にすれば、あっという間に鵜呑みにしてしまう。ましてや、人々は自分の見たいものしか見ようとせず、誰が正しくて誰が間違っているかなんて最初から気にも留めない。彼らが求めているのは、ただ他人のスキャンダルを野次馬根性で面白がり、騒ぎ立てる娯楽に過ぎない。陽咲の瞳にスッと冷たい光が宿り、その声は氷のような冷徹さを帯びた。「いっそ、このまま悠里の思惑通りに動かされているふりをしましょう。裏でじっくり証拠を集めて、彼女が一番有頂天になっているときに、徹底的に叩き潰してやるの」雅
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第272話

陽咲たち3人が広間へ足を踏み入れると、傍らには清子が険しい顔つきでどっかりと腰を下ろしていた。絃葉や陽咲が周防家の連中に理不尽な難癖をつけられないよう、絶対的な後ろ盾としてそこに陣取り、無言の圧力をかけているのは明白だった。陽咲と絃葉の姿を認めた瞬間、清子の顔から氷のような冷たさがスッと引き、目元を和らげて温かな笑みを浮かべた。「絃葉ちゃん、陽咲ちゃん、来たのね?」陽咲はこくりと頷き、歩み寄って清子の傍らに大人しく控えた。今日の主役である絃葉は、当然のことながら陽咲と同じ場所には下がれない。蒼空の斜め後ろに立った彼女は、冷ややかでよそよそしい眼差しで、椅子に並んで腰掛けている周防家の面々を一人ひとり値踏みするように見回した。周防家の人々の視線もまた、探るように絃葉と蒼空の間を行き来していた。――これが蒼空の義理の妹になるという女か。こうして見ると、確かに兄妹らしい面影があるな。蒼空の三番目の叔父である周防尊人(すおう たかと)は、心の中でそう呟いた。蒼空は落ち着き払った様子で口を開いた。その声には、人の上に立つ者特有の威圧感が微かに滲んでいる。「叔父さん方、ご紹介します。僕の妹の白瀬絃葉です」そう紹介を終えると、彼はちらりと絃葉に視線をやり、使用人に茶を運ばせながら、彼女へ目配せをした。絃葉は頷いて湯呑みを手に取り、蒼空の小さな耳打ちに従って、同席している親族たちへ順に挨拶の茶を勧めていった。陽咲は、茶を配り終えれば形式的な挨拶は済み、あとは食事をして顔合わせの儀式はすんなり終わるものとばかり思っていた。まさかここで露骨な嫌がらせを受けることになろうとは、夢にも思わなかった。絃葉が蒼空の二番目の叔父であり、修平の父親でもある周防海吏(すおう かいり)の前へ進み出て、恭しくお茶を差し出した時のことだ。海吏は椅子にふんぞり返ったまま、見下すような目で絃葉を見据えるだけで、一向に湯呑みを受け取ろうとはしなかった。やがて彼は鼻でせせら笑い、蔑みを露わにして吐き捨てた。「お前は我々周防家と血の繋がりもない赤の他人だろう。どうして俺が、お前の差し出す茶など飲まねばならんのだ?俺は身内から差し出された茶しか飲まん主義なんだよ」その言葉が落ちた瞬間、広間の空気が凍りついた。陽咲は彼が意図的に絃葉を貶めよ
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第273話

蒼空が周防グループ社長の座を盤石なものにできたのは、尊人が幾度となく窮地を救ってくれたからに他ならない。それゆえ蒼空にとって、尊人は実の父親よりも遥かに心安い、信頼の置ける存在だった。蒼空がわずかに頷いて見せたのを確認してから、絃葉もこくりと頷き、穏やかな声で応じた。「はい、ありがとうございます、叔父さん」尊人は目を細めて嬉しそうに笑い、絃葉の顔立ちをまじまじと見つめた。見れば見るほど、どこかで見たような気がしてならない。彼は少し眉を寄せて記憶を探った後、ぽつりと言った。「気のせいかもしれんが、この子の目元……どうも静香さんに生き写しのような気がしてならないんだが」清子は絃葉の方へちらりと視線を流したが、無言のままだった。海吏はふんと鼻を鳴らし、極めて陰険な目を尊人へ向けると、腹の底で嘲笑った。――まったく、とんだ腰巾着だ!蒼空に媚びへつらうために、よくもまああんなおためごかしが言えたものだ!この場にいる周防家の人間で、蒼空を除いて、20年以上前に静香が死産した子供のことを知らない者などいない。今この場で尊人がそんなことを口にするのは、遠回しに絃葉へ「早く死ね」と呪いをかけているようなものではないか。海吏は心の中で呆れ返り、尊人の言葉には一切応じなかった。ふと視線を逸らし、清子の傍らに立つ陽咲の姿を捉える。見れば見るほど見覚えのある顔だ。――こいつは少し前に世間を騒がせていた、あの陽菜とかいう陶芸家じゃないか?海吏は根っから余計な口出しをせずにはいられない性分で、陽咲が蒼空と連れ立って現れたのを見て、2人がただならぬ関係にあると踏んだ。もしや蒼空は、陽咲の想い人なのではないか。そう邪推した海吏は、わざとらしく温和な顔を作り、いかにも持ち上げるような口調で陽咲へ声をかけた。「おや、お前があの陶芸で名を馳せている陽菜先生かな?」陽咲は静かに伏し目を上げて彼を一瞥した。何を企んでいるのか分からず、下手な罠にはまるのを避けるため、ただ「ええ」とだけ短く返した。その愛想の欠片もない態度に、海吏の顔に一瞬苛立ちが走り、腹の底で忌々しげに鼻を鳴らした。――孤高の芸術家ぶってはいるが、どうせ蒼空の権力にすり寄ってきた女の一人だろう。この手の手合いを、海吏は虫唾が走るほど見下していた。「若くしてあれほどの成功
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第274話

その声に、蒼空はハッとして身を強張らせた。まさか隆誠が療養所から出てくるとは思いもよらなかったのだ。車椅子に乗った隆誠は付き添いの者に押されて広間へ入ってくると、冷酷で険しい眼差しで居並ぶ面々を舐めるように見回した。だが、その視線が傍らにすっと佇む、冴え冴えとした気品を纏った絃葉の姿を捉えた瞬間、彼の目に驚愕の色が走った。――この娘……どうして若い頃の静香にそっくりなんだ?まさか、あの時の死産したはずの赤ん坊だというのか?隆誠は激しい動揺に襲われ、車椅子の肘掛けを死に物狂いで握りしめた。広間の中央まで進み出ると、彼は手を振って付き添いの者を下がらせた。そして、信じられないものを見るような目で再び絃葉をまじまじと見つめた。似ている、あまりにも似すぎている!まるで若い頃の静香と瓜二つではないか!隆誠は必死に驚愕を噛み殺し、表情を取り繕った。他の親族は若い頃の静香の容貌を詳しくは知らない。何しろ彼が静香と結婚したのは、10年に及ぶ交際を経た後のことだったからだ。結婚に至るまで、静香の若い頃の顔を知っているのは、清子と隆誠を除けば周防家には誰もいなかったのである。清子は、そんな彼の動揺を余さず見透かしていた。「お父さん、どうして戻ってきたんだ?」蒼空は怪訝そうに眉をひそめた。「なんだ、これほどの一族の重大事に、この俺が顔を出しては悪いとでも言うのか?」隆誠は蒼空を冷ややかに一瞥し、その眼差しには明らかな警告の色が宿っていた。それは「余計な口出しをするな」という暗黙の警告だった。何しろ、隆誠を療養所へ追いやったのは他ならぬ蒼空なのだ。この数年、蒼空が周防グループの社長および周防家当主の座を盤石にできるよう、隆誠はずっと屈辱を呑み込み、蒼空のした仕打ちを暴露せずに耐え忍んできた。だが、黙っているからといって、その恨みを忘れたわけでは決してない。その言葉の裏にある凄みに気づいた蒼空は、表情を硬くし、それ以上は口を閉ざした。蒼空が沈黙したのを見て、絃葉と陽咲は顔を見合わせ、揃って隆誠へ視線を向けた。絃葉のどこまでも澄んだ眼差しに見据えられた瞬間、隆誠はひどく狼狽したように思わず口走ってしまった。「お前、あの時死んだはずではなかったのか?どうして生きている!」その言葉の真意を知らない蒼空は、即座に
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第275話

あの時、隆誠は事業の危機で追い詰められ、占い師に自らの命運を占わせた。そして「あなたの運命に、この娘の居場所はありません。もし事業の成功をお望みなら、この娘を手放さなければなりません」と告げられた。当時の隆誠の頭の中は事業のことで占められており、おまけに根っからの男尊女卑の気質だった。だからこそ、子供が産まれた直後、彼は当時の担当看護師を買収し、静香が死産したと嘘をつかせたのである。出産直後でひどく衰弱していた静香は、深いショックを受け、それ以来精神を病んでしまった。当時、清子は分娩室の外でずっと娘の無事を祈って待っていた。そこへ看護師が子供を抱いて現れ、死産だったと告げた。清子に子供の顔を一目だけ見せると、看護師はそそくさとその場を立ち去った。その後、子供の埋葬はすべて隆誠が極秘裏に手配した。そのため、隆誠以外の誰も、その小さな棺の中身を見てはいない。この数十年間、清子はあの死産という出来事にずっと疑念を抱き続けていたのだった。清子は声を震わせ、静香の手を優しくぽんぽんと叩きながら、その瞳に涙を滲ませた。「今になって思うんだよ。絃葉ちゃんこそが、あの時静香が産んだ子なんじゃないかってね。この子の顔立ち、若い頃の静香に瓜二つじゃないか。絶対に間違いないよ!」静香はビクッと身を震わせ、呆然と清子を見つめた後、堰を切ったように泣き出した。清子はむせび泣きながらハンカチを取り出し、静香の涙を拭ってやった。この一連の話を聞いて、同席していた者たちの顔色は様々に変わった。陽咲と蒼空は驚愕のあまりその場に釘付けになり、明らかにこの事態をまだ消化しきれていない様子だった。一方、傍らにいた海吏は深刻な面持ちになっていた。周防家は血筋の子供を何よりも重んじる。子供こそが一族の繁栄を永く支える根幹だからだ。もしこれが事実だとしたら、自分と息子の修平は、これを口実に隆誠の責任を追及できるのではないか?周防家当主の座も、修平に回ってくるかもしれない。何しろ、前当主である隆誠の失態はあまりにも大きいのだから。一方、隆誠はひどく顔をしかめていた。まさか義母が自分の顔に泥を塗り、公の場でこんなことを暴露するとは思いもよらなかったのだ。彼は冷ややかに清子を見据えた。「絃葉が死産した子供かどうかなど、あなたの一方的な
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第276話

「結果はどうだったんだ?」清子、静香、そして蒼空が同時に立ち上がり、医師に食い入るような視線を注いだ。陽咲も緊張を隠せず、無意識に絃葉の手をぎゅっと握りしめた。胸の鼓動が激しく早鐘を打っている。――絃葉は、本当に周防家の子供なのだろうか……もしそうなら、陽咲は心から嬉しかった。何しろ周防家は途方もない財力と権力を持つ名家だ。その後ろ盾さえあれば、幼い頃に養護施設で味わったような理不尽を、絃葉が二度となめることなど絶対にないのだから。一方、当の絃葉は傍らに静かに佇み、周囲に比べればずいぶんと落ち着き払っていた。結果がどう転ぼうと、彼女自身はそれほど気にかけていない。絃葉にとって、周防家の血を引いていようがいまいが、そんなことはどちらでもよかった。彼女の心の中で、身内と呼べる存在は陽咲ただ1人。彼女が認める家族は、陽咲のほかにいなかった。一同の息を呑むような緊張感を感じ取り、医師ははっきりと声を張り上げた。「絃葉様は、隆誠様の実のお嬢様で間違いありません」その言葉を聞いた瞬間、陽咲や蒼空たちは胸を撫で下ろし、安堵の息を漏らした。清子と静香はその吉報を耳にした途端、長年張り詰めていた心の糸がぷつりと切れてしまったのか、なんと二人揃ってその場に崩れ落ちるように気を失ってしまった。蒼空は慌てて使用人たちを呼びつけ、2人を自室へと運んで休ませるよう手配した。そんな中、傍らに控えていた隆誠は、険しい顔色をしていた。だが、今の蒼空には彼を構っている暇などなかった。すぐさま一歩歩み寄り、隠しきれない喜びを瞳に湛えながら、絃葉にまっすぐ視線を向けた。「絃葉、君が僕の妹だと分かった以上、もう誰にも君を傷つけさせやしない」そう言い切ると、彼は冷徹な眼差しで傍らの海吏を一瞥した。先ほど絃葉がお茶を差し出す儀式の際、海吏が彼女へ嫌がらせの言葉を投げつけていたことを、蒼空は聞き逃していなかったのだ。海吏はバツが悪そうに顔を曇らせた。まさか絃葉が本当に周防家の血筋だったとは夢にも思わず、これ以上藪蛇をつつくまいと押し黙り、必死に気配を殺している。何しろ蒼空という男は、表向きこそ温和で人当たりが良さそうに見えるが、その実、受けた恨みは決して忘れず倍にして返すような執念深さを秘めているからだ。父親が気圧されてい
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第277話

隆誠は無様に車椅子を操り、蒼空の前へと進み出た。「蒼空、絃葉は災いを呼ぶ疫病神だ!一族に迎え入れることなど断じて許さん!さもなくば、お前があの時しでかした悪事を世間に暴露してやるからな!」隆誠の語気は切羽詰まっており、絃葉に対する嫌悪感が今にも溢れ出しそうだった。何しろ、絃葉が産まれたあの時期、周防グループは甚大な打撃を受け、危うく立ち行かなくなるところだったからだ。彼はこの脅し文句で、蒼空が狼狽するだろうと思い込んでいた。だが、それは大きな思い違いだった。蒼空が最も恐れないもの――それは他者からの脅しである。蒼空はピタリと足を止めたが、いささかの動揺も見せなかった。傍らに座っていた尊人は、ただならぬ不穏な空気を察知し、そそくさと立ち上がった。「急に用事を思い出してな。俺はこれで失礼するよ」去り際、彼はまだ蒼空の失態を見物したがっていた海吏を、半ば引きずるようにして連れ出した。海吏が去れば、修平がこれ以上この場に留まる理由もない。部屋から次々と人が去り、後に残されたのは陽咲、蒼空、絃葉、そして隆誠だけとなった。部外者がいなくなったのを見計らうと、隆誠はもはや表面上の平静すら保てず、蒼空を指差して口汚く罵り始めた。「お前という奴は本当に恩知らずだ!俺はお前の親だぞ。まさか親の言うことすら聞こうとしないとはな!あの時、お前など産ませるべきではなかった!」蒼空はその言葉に微塵も心を乱されることなく、ひんやりと笑った。「僕を産んでくれたのはお母さんだ。あなたに何の関係がある?それに、僕があなたに対してこれっぽっちの情も抱いていないのは、誰のおかげだと思っているんだ?」その言葉を口にした時、蒼空の声音はほんの僅かに震えていた。だが彼は見事に感情を押し殺しており、傍目には全く気づかれないほどだった。だが、陽咲の耳はそれを逃さなかった。彼女は横目で蒼空を見つめ、その眼差しには痛ましさが滲んでいた。「誰か、お父さんを療養所へ送り届けろ。僕の許可なく、絶対に外へ出すな!」蒼空は低く沈んだ声で命じた。隆誠が車椅子ごと連れ出されると、蒼空の全身から放たれていた威圧感は嘘のように消え去った。彼は穏やかな眼差しで陽咲と絃葉を見つめた。「陽咲、絃葉。さあ、ご飯を食べに行こう」3人で食卓を囲んでいる時。陽
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第278話

蒼空は立ち上がり、陽咲と絃葉を連れて、清子と静香の様子を見に向かった。部屋の入り口まで来たところで、陽咲は足を止めた。「蒼空と絃葉の2人で入ってあげて。私は部外者だし、先に戻るわね」そもそも陽咲は清子たちと血の繋がりがあるわけではない。そんな自分が、むやみに身内の空間へ足を踏み入れるのはどう考えても筋違いだ。それを聞いた絃葉は陽咲の手をきゅっと握り、わずかに眉をひそめ、真剣な眼差しで言った。「陽咲、あなたは部外者なんかじゃないわ」陽咲は、彼女が自分を気遣ってくれているのだと察し、ふっと微笑んで宥めた。「絃葉、中に入って。皆あなたを待っているわ。私は家であなたの帰りを待っているから」そこまで言われては、絃葉もそれ以上食い下がることはできず、頷くしかなかった。「ここで少し待っていて。僕が家まで送るから」蒼空が彼女を呼び止め、低い声で言った。そしてドアを押し開け、絃葉と共に部屋の中へ入っていった。絃葉が入ってくるのを見ると、清子と静香は抑えきれない感動を顔に滲ませた。静香は清子よりも早く目覚めており、清子のベッドの傍らに座っていた。絃葉の姿を認めるや否や、弾かれたように立ち上がって歩み寄ろうとしたが、焦りすぎて危うくつまずきそうになった。「静香、慌てないでおくれ」清子が微笑みながら、呆れつつも慈愛に満ちた声でたしなめた。そして、絃葉へと視線を向ける。絃葉は歩み寄り、清子のベッドの前に素直に立った。「おばあちゃん……お母さん」少し緊張した面持ちで、彼女はそう呼びかけた。清子は何度も頷いた。その温かな団欒の空気を壊さぬよう、蒼空が口を開いた。「お祖母さん、お母さん。絃葉とゆっくり話をして。僕は先に陽咲を送ってくるよ」静香は彼をちらりと見て、静かに頷いた。蒼空は部屋を出る際にそっとドアを閉め、陽咲を連れて外へと向かった。地下駐車場に着くと、蒼空は助手席側に回り込み、紳士的にドアを開けた。陽咲は小さな声で「ありがとう」と言って車に乗り込み、シートベルトを締めた。蒼空は運転席へ戻り、車を走らせた。今日はあまりにも多くの出来事があり、陽咲はすっかり疲労困憊して、今にもまぶたがくっつきそうだった。蒼空は横目で彼女を見て、優しく囁いた。「眠いなら少し寝るといい。家に着いたら起こすから」
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第279話

「わかった」蒼空は優しく応じた。最近はいくらか気温が上がってきたとはいえ、そのまま車内で眠るにはまだ少し肌寒い。蒼空は愛おしそうに陽咲をちらりと見やると、車内のエアコンをつけた。そして後部座席に手を伸ばし、今朝陽咲と絃葉を周防家の本邸へ迎えに行く際に何気なく積んでおいたブランケットを取り出すと、陽咲の体に丁寧に掛けてやった。その動きに気づいた陽咲は小さく寝息を漏らし、「ありがとう、蒼空……」と舌足らずな声で呟くと、そのまま深い眠りに落ちていった。「どういたしまして」蒼空は静かに囁いた。陽咲は途中で一度目を覚まし、手を伸ばして目をこすりながら、あとどれくらいで着くのかと蒼空に尋ねた。車内は暖かく、蒼空が流しているゆったりとした音楽がひどく心地よい眠気を誘う。到着まであと30分だと聞くと、彼女は窓の外の景色をぼんやりと眺めていたが、5分も経たないうちに再び睡魔に襲われた。陽咲の頭がこくりこくりと揺れる様は、見ていてたまらなく愛らしかった。蒼空は呆れたように首を振って、くすりと吹き出した。ここ最近の陽咲は本当によく眠る。彼としては、その質の良い睡眠が少し羨ましいくらいだった。30分後、車は碧海荘の地下駐車場に到着した。今日は日曜日であり、蒼空は周防家の本邸へ戻るつもりはなかった。彼は車を停め、穏やかな寝顔の陽咲を見て、最初は起こそうとした。だが、あまりにも気持ちよさそうに眠っているのを見ると、どうしても起こすのが忍びなくなってしまった。車内の照明が明るく灯る中、蒼空は瞬きもせずに、じっと陽咲を見つめていた。眠りに落ちた陽咲の顔はとてもあどけなく、長い睫毛が目元に小さな影を落としている。すっと通った鼻筋に、思わず指で触れたくなるほど、白く瑞々しい素肌。眠っているからだろうか。その穏やかな寝顔は、彼女が普段纏っている近寄りがたい冷たさを薄れさせ、より柔らかく、そして――男の独占欲をひどく掻き立てるものだった。蒼空は無意識にごくりと唾を飲み込んだ。シートベルトを外し、身を乗り出して、知らず知らずのうちに彼女へと顔を近づけていく。ふと、陽咲の頬に抜け落ちた短い睫毛が一本ついているのが見えた。少し躊躇った後、彼はそっと手を伸ばし、その睫毛をつまみ取ろうとした。人の気配が近づいたのを察知し、陽咲は夢の
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第280話

陽咲は服の裾をぎゅっと握りしめ、伏し目がちに黙り込んだ。どう答えるべきか、分からなかったのだ。「そう思った」と肯定してしまえば、軽い女だと思われないだろうか。かといって否定すれば、蒼空を傷つけてしまうかもしれない。「実はさっき……僕は本当に、キスしようとしていたんだ」蒼空は小さく咳払いをして、掠れた声でこぼした。「でも、君と僕との間でまだ正式に付き合う約束も交わしていないのに、と思って思いとどまるしかなかったんだ。陽咲、無理強いはしないから。安心して」蒼空は優しくそう言った。陽咲は「うん……」とだけ返し、それ以上は言葉を続けず、ただ顔を上げてエレベーターの移り変わる階数表示をじっと見つめていた。エレベーターの中には、どこか気まずい空気が漂っている。2人の距離はひどく近く、蒼空は目を伏せ、陽咲の手に視線を落としたまま物思いに沈んでいた。指先をかすかに丸め、ほんの数センチ横へ滑らせれば、思い通りに彼女の手を握ることができる。だが、蒼空はそうしなかった。陽咲に拒絶されることを恐れたのだ。一方の陽咲も、その場でぼんやりと立ち尽くしながら、ここ最近の蒼空が与えてくれた数々の優しさと助けを無意識に思い返していた。蒼空からの好意に気づいていないわけではない。ただ、自分自身でそれを認めたくなかっただけなのだ。陽咲は伏せていた目を僅かに動かし、傍らに立つ蒼空へ、自分に対して本当はどう思っているのかと、口を開きかけた。しかし、その一言はどうしても喉の奥でつっかえて声にならなかった。聞いてしまえば、この関係がおかしくなってしまうのではないかと恐ろしかった。何より、もし本当に結ばれたとしても、結局は怜央との結婚生活のように、無惨な結末を迎えてしまうのではないかという恐怖があった。それだけは絶対に嫌だった。陽咲はそっと目を閉じ、心の中でひっそりと溜息をついて、結局その問いを飲み込んだ。どれほどの時間が経っただろうか。やがてエレベーターのドアが開いた。陽咲は真っ先に外へ踏み出すと、解放されたような安堵の息を吐いた。蒼空も無意識のうちに彼女の後を追って降りた。陽咲が指紋認証で玄関のロックを解除したとき、すぐ背後で足音が響いた。振り返ると蒼空の姿があり、不思議そうに首を傾げた。「帰らないの?」蒼
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