All Chapters of 三年の冷遇、離婚の夜に夫は狂う: Chapter 261 - Chapter 270

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第261話

1分が経ち、蒼空はようやく返す言葉を見つけ出した。【前はいたけど、今は友達として付き合ってるよ】陽咲はそれが自分のことだと察してホッと胸を撫で下ろしたが、次の瞬間にはどっと気まずさが押し寄せてきた。実際のところ、ここ最近の蒼空が彼女に向けてくれる好意は疑いようもなく、数え切れないほど助けられてきたのだから。陽咲は昨日の午後のあのハプニング――彼の腕の中へ倒れ込んだ抱擁を思い出し、顔を熱くして、それ以上返信することができなくなってしまった。返信が途絶えた画面を見つめ、蒼空は陽咲が自分と距離を置こうとしているのだと思い込み、心の中でため息をついた。――まあいい。彼女を追い詰めるのはやめよう。自然の流れに任せるしかない。蒼空はそう自分に言い聞かせると、スマホの画面を消して社長室へ入り、椅子に腰を下ろした。そして、やり場のない苛立ちをぶつけるようにスマホをデスクへ放り投げた。……それから丸2日間、蒼空から陽咲に自発的なメッセージが送られてくることはなかった。陽咲は少し不安になった。これまでの蒼空なら、どんなに忙しくても、最近あった面白そうな出来事をわざわざメッセージで教えてくれていた。なのに、この2日間は一体どうしたというのだろう。一通のメッセージすら届かない。2日目の夜、ついに居ても立ってもいられなくなった陽咲は、探りを入れるように蒼空へメッセージを送った。【最近、どうしてる?】メッセージは送信されたものの、いつまで経っても返信は来なかった。きっと今日は早く寝てしまっただけだ。陽咲はそう自分に言い聞かせた。その夜、陽咲は遅くまで寝付けなかった。翌朝、目を覚ました陽咲が真っ先にしたのは、スマホのロックを解除し、蒼空からメッセージが届いていないか確認することだった。ない。陽咲はため息をつき、胸の奥にじわじわと広がる嫌なざわめきを覚えた。何かトラブルにでも巻き込まれたのだろうか?誰もが片時もスマホを手放さない今の時代に、丸2日間もスマホを見ないなんて確率は低すぎる。陽咲はアプリから蒼空へ音声通話をかけたが、呼び出し音が虚しく響くだけで、誰も出ない。立て続けに4、5回かけても、一向に応答はなかった。陽咲はすっかりパニックに陥り、顔を洗う余裕すらなく、慌てて雅也へ電話をかけた。「お兄
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第262話

「陽咲、僕は無事だよ。心配しないで」電話の向こうから、蒼空の穏やかな声が聞こえた。その声を聞いた瞬間、陽咲は安堵に息を吐き出し、目頭がじわりと熱くなった。「蒼空、あなた……私がさっきどれだけ心配したか分かってるの?気が狂いそうになって、もう少しで警察に通報するところだったんだから……」陽咲の体は小刻みに震え、その声には無意識のうちに微かな嗚咽が混じっていた。蒼空は一瞬沈黙し、小声で言った。「ごめん、僕が悪かった。君に心配をかけて……もう二度とこんな思いはさせないから」その真摯な響きには、まるで子供をあやすような甘い優しさがこもっていた。陽咲の腹の底で渦巻いていた怒りは、その声でみるみるうちに宥められていく。しばらくして、彼女は小さな声で「分かった」と答えた。少し間を置いてから、付け加える。「蒼空、ただあなたのことが心配で、あんなきつい言い方になっちゃったの。怒らないでね」蒼空の声が少し弾んだ。「分かってるよ。この2日間、海外で事業提携の交渉をしてたんだ。先方から徹底した情報統制を求められてね。スマホの電源を切って秘書に預けていたから、君からのメッセージに気づけなかった」彼はそう説明した。蒼空は交渉を終えるなり秘書からスマホを受け取り、陽咲が余計な心配をしているのではないかと、真っ先に彼女へ電話をかけたのだった。その説明を聞いて、陽咲はようやく心の底から安堵した。「それならよかった。私、てっきり……」その先は、恐ろしくて口に出せなかった。彼女が言わなくとも、蒼空には彼女の言わんとしていることが手に取るように分かっていた。温かな声で慰める。「陽咲、怖がらないで。僕に何か起きたりしないから」陽咲は「うん」と答えたが、胸の奥に張り付いた恐怖の余韻は、まだ完全には拭いきれずにいた。陽咲がどれほど自分を心配してくれたかを感じ取り、蒼空の胸の奥へじんわりと温かいものが広がっていく。彼は何気ない風を装って尋ねた。「僕のこと、すごく心配してくれたの?」陽咲は少し沈黙した後、最後は自分の心に素直に従うことにした。「……うん」その短い一言に、蒼空の瞳がパッと輝いた。彼は目元を綻ばせ、弾むような声で言った。「じゃあ、僕が今どこにいるか当ててみて」陽咲の胸は早鐘のように鳴っていた。恐る恐る口を開く。「帰りの飛
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第263話

怜央は陽咲の前に立ち止まると、彼女の目元が少し赤いのを見て鼻で笑った。「どうした、蒼空が婚約するって聞いて、まだ泣いてるのか?」陽咲は冷笑を浮かべ、彼を相手にする気にもなれなかった。だがその沈黙は、怜央の目には図星を突かれたことへの肯定として映った。怜央は満足げに彼女を一瞥すると、傍若無人にソファへ腰を下ろし、余裕たっぷりに彼女を眺めた。「一体何が言いたいの?」陽咲はすっかりしびれを切らし、氷のような顔で問い詰めた。怜央はもったいぶるようにゆっくりと口を開いた。「蒼空がもうすぐ三浦家と婚約する以上、あいつにとって君はただの足手まといでしかない。なあ陽咲、俺の言ってることは間違ってないだろ?」陽咲は何も答えず、この男が一体どんな魂胆を隠しているのか、ただ冷ややかに見据えていた。怜央は言葉を続ける。「婚約が決まれば、蒼空はすぐに君を捨てるさ。男なんてみんなそういう生き物だ。だが、俺は違うぞ、陽咲。俺はずっと君を待っていてやれる。君が蒼空を好きでも構わない。元夫として、君がこれ以上傷つくのを黙って見ていられないんだよ。俺と悠里はまだ籍を入れてない。彼女が無事に子供を産んだら、すぐに君と復縁してやる。そうすれば、君は出産の苦しみも味わわずに母親の座に収まれるんだ。どうだ、悪くない話だろ?」陽咲は怒りを通り越して笑い出した。「怜央、一体どんな神経してたら、そんな言葉が口から出てくるの?頭に異常があるなら、一刻も早く病院で診てもらいなさい。ここで時間を無駄にしてたら、手遅れになって取り返しがつかなくなるわよ」陽咲は容赦なく言い放った。怜央は陽咲がここまで自分に顔を潰すような態度を取るとは予想していなかったらしく、途端に露骨に不機嫌な顔になった。「陽咲、君は昔と変わらず物事の道理が分かってないな。俺が君を救ってやろうとしてるのが……」彼の言葉が最後まで続くことはなかった。グレーのトレンチコートを身に纏い、その白皙の肌をさらに際立たせた蒼空が、その類まれなる端正な顔立ちに凄まじい殺気を湛え、大股で足を踏み入れてきた。彼は怜央を見下ろすように立ち、冷え切った声で言い放った。「うちの陽咲のことで、安部さんがわざわざ気を揉む必要はありません。安部さんは暇があるなら、ご自身の『お子さん』のことでも気にかけてはいかがです
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第264話

蒼空も、悠里と修平の姿に気づいていた。陽咲と視線を交わし、2人は示し合わせたように口を閉ざした。やはり何か気がかりなことでもあるのか、悠里は2人の存在にはまったく気づかず、不安げな表情で修平を見つめていた。「修平、どうしよう。今、怜央さんが私を疑い始めているみたいなの。さっき彼からメッセージが来て、お腹の子供が安定期に入ったら羊水検査に連れて行くって……子供の父親が誰なのか、確かめるつもりよ」悠里は不安で押しつぶされそうだった。それを聞いて、陽咲は少し驚いた。怜央の動きがこれほど早いとは思ってもみなかったのだ。ほんの十数分前に蒼空から釘を刺されたばかりだというのに、もうそこまで疑念を深めて行動を起こしていたとは。陽咲は驚きを押し殺し、息を潜めて聞き耳を立てた。修平は眉をひそめ、動揺を隠せない様子だった。「怜央はどうして気づいたんだ?あの夜、僕たちが関係を持った時、彼は泥酔して気を失っていたはずじゃないか」悠里はため息をつき、体を微かに震わせながら、不安に満ちた声で言った。「私にも分からないわ。後でホテルの従業員にお金を握らせて、あの夜の廊下の防犯カメラの映像は消させたのに、どうして疑いを持ったりするの?まさか、まだ陽咲のあの女に未練があって、自分が裏切られた証拠を見つけて陽咲と復縁しようとしてるんじゃないでしょうね?」悠里の口調には苦渋が滲んでいた。自分は何一つ手出しもしていないというのに、とんだとばっちりだった。心の中で冷笑しつつも、声は立てなかった。今さら向けられる情念など、ゴミよりも価値がない。怜央の執着めいた愛情など、今の陽咲にはこれっぽっちも欲しくなかった。悠里の言葉に滲む無力感を聞き取り、修平は胸が張り裂けそうだった。何しろ彼女は、自分が何年もの間愛し続けてきた女性なのだ。修平は苦しげな声で絞り出した。「悠里……いっそのこと、怜央にすべて打ち明けたらどうだ?生まれてくる子は僕が育てる。僕が必ず、君たちにいい暮らしをさせてみせるから」彼の言葉には誠実さが溢れ、その瞳は深い愛情に満ちていた。だが皮肉なことに、今の悠里が最も聞きたくないのがその言葉だった。現在の彼女の頭の中は、もし嘘が暴かれたら、怜央との関係が完全に終わってしまうという恐怖で占められていたのだ。彼女
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第265話

修平は悠里と視線を交わしていたが、しばらくしてついに折れた。「……僕にどうしてほしいんだ?」修平の声はひどく弱々しく、その目からはすっかり光が失われていた。「怜央さんが羊水検査をするというなら、受けて立つわ。たしか、周防家は病院にも出資していたわよね」修平は悠里が何を言い出そうとしているのかを察し、躊躇いがちに眉をひそめた。「それって……まさか……」「羊水検査を受ける時、私は周防家の病院へ行くわ。あなたには、検査結果のデータを改ざんして、この子が怜央さんの子だという結果を出してほしいの」悠里の声には、後戻りのできない賭けに打って出るような決意が滲んでいた。「今はもう、この手を使うしかないのよ」修平はたまらず釘を刺した。「でも、そんなことをしたら従兄の蒼空の目はごまかせない。もし見つかれば、僕は周防家を追い出されるかもしれないんだぞ」蒼空が一族の中で最も忌み嫌っていたのは、身内の裏切り、とりわけ立場を利用して不正を働く行為だった。彼が周防グループの社長に就任した際にも、もし一族の中に権力を悪用する者がいれば即座に追放し、野垂れ死にさせると明言していた。そして一族のいかなる者も、追放された者に決して手を差し伸べてはならないと。悠里は一瞬黙り込んだが、すぐに平然と言い放った。「それはあなたの問題でしょ。私のこと、好きなんじゃないの?私が窮地に立たされるのを、黙って見ていたくはないんでしょう?」修平は沈黙した。陽咲と蒼空はそっと視線を交わし、修平が果たしてこの要求を呑むのかどうか、固唾を呑んで見守った。まるで1世紀もの時が流れたかのように感じられた後、修平は力なく呟いた。「……分かった」蒼空の瞳に、隠しきれない驚きが走った。悠里と修平は、1週間後に病院へ羊水検査を受けに行く手はずを整えた。具体的な日時を決めると、2人は食事もそこそこに席を立ち、足早に店を後にした。2人が立ち去った後、陽咲はようやく口を開いた。「あなたの従弟、思いのほか一途なのね」蒼空は少し険しい表情を浮かべた。「君はどうするつもりだ?僕が力を貸すよ」陽咲は花がほころぶように笑った。「悠里が怜央に真実を知られるのをあんなに怖がっているなら、いっそ彼に真実を気づかせてあげればいいじゃない?真実を知った彼がどう出るか、ちょっと見てみた
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第266話

陽咲は不思議そうに蒼空を見つめた。「どうしたの?」蒼空は深呼吸をした。その胸の内は、実のところ少しばかり緊張で波立っていた。「陽咲、実はお祖母さんも君のことがすごく気に入っていてね。それで、君が僕に対してどんな……」「感情」という二文字を口にするより早く、いつの間にか姿を現した楓斗が、陽咲の名前を呼んだ。蒼空は唇を引き結び、結局その先の言葉を飲み込んだ。陽咲が振り返ると、そこにいたのは楓斗だった。途端に、彼女の表情が氷のように冷たくなった。「どうしてここにいるんですか?」楓斗はふてぶてしい笑みを浮かべ、臆面もなく陽咲の前に歩み寄ってきた。彼女の瞳に浮かぶ明らかな嫌悪感などまるで視界に入っていないかのように、勝手に話し始める。「ここしばらく、ずっと怜央から逃げ回っていたんですよ。ようやく外に出られるようになったんです、真っ先に陽咲さんに会いに来るのは当然でしょう?」陽咲は無表情のまま問い返した。「それで?私に何の用ですか」「怜央と離婚されたそうですね。それなら……僕にもチャンスがあるんじゃないですか?」楓斗は陽咲を見据え、さも上機嫌そうに口角を吊り上げた。陽咲の瞳には微塵の温度もなかった。彼女は顔を上げ、楓斗を上から下まで冷ややかに値踏みするように見つめ返し、冷酷に言い放った。「頭がおかしいならさっさと病院に行って診てもらってください。ここで時間を無駄にしてないで。言っておきますけど、私は一生独身で過ごすことになっても、あなたみたいな――」彼女は一度言葉を切り、再び続けた。「親友を平気で裏切って傷つけるような人とだけは、絶対に一緒になりませんから」その言葉は、あまりにも容赦がなく、痛烈だった。楓斗の顔から一瞬にして余裕の笑みが消え落ち、陰鬱な目で陽咲を睨みつけた。傍らにいた蒼空は、誰にも気づかれないようにそっと安堵の息を吐き出した。楓斗は引きつった笑みを浮かべて言った。「好きな女性をまっすぐに追い求めて、一体何が悪いんですか?」陽咲が言い返す間もなかった。碧海荘に陽咲を訪ねてきていた怜央が、3人が立ち話をしているのを見つけ、無言のまま距離を詰めてきた。陽咲の向かいにいるのが楓斗だと気づき、さらに彼が口にした戯言を聞きつけた怜央は、このところ溜め込んでいた怒りのすべてを彼にぶつけることに
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第267話

陽咲は一言一言、区切るように言い放った。「殴り合いたいならよそでやってちょうだい。もう二度とあなたたちの顔なんて見たくないの。視界に入るだけで虫唾が走るわ!」その容赦のない言葉が落ちた瞬間、怜央の顔から歓喜の色がさっと消え失せた。楓斗は鼻で嗤い、怜央を忌々しげに睨みつけると、再び陽咲へ向き直った。そして相変わらずの厚顔無恥さで口を開く。「陽咲さん、さっき僕が言ったこと、少しは考えてみる気になりました?どうせ怜央はもう完全に終わってますよ。子供だって作れない体なんですから」その言葉を聞くや否や、蒼空は無意識に陽咲の前に立ちはだかり、冷ややかに告げた。「彼女が応じることはありません」楓斗は嘲笑した。「周防さん、君は一体何様のつもりなんですか?」一方の怜央は一言も発さず、蒼空の肩越しに陽咲を見つめていた。彼もまた、陽咲がどう答えるのか知りたかったのだ。その場の空気は、張り詰めたまま膠着状態に陥った。陽咲は数歩前に出て、蒼空と肩を並べるように立つと、氷のように冷たい視線を楓斗に向けた。「蒼空は私にとって、とても大切な人です。楓斗、次に彼を侮辱するような真似をしたら、絶対に容赦しませんから!」蒼空が「大切な人」だと陽咲の口から直接聞かされたのは、怜央にとってこれが初めてだった。彼はショックのあまり呆然と立ち尽くした。背筋から這い上がるような悪寒が、彼を完全に飲み込んでいく。楓斗もまた顔をしかめた。陽咲がそこまではっきりと言い切るとは、思いもよらなかった。陽咲はそう言い放つと、もう楓斗や怜央には一瞥もくれず、隣の蒼空を見上げて言った。「蒼空、今日は送ってくれてありがとう。ここで大丈夫よ。夜は冷えるから、気をつけて帰ってね」先ほどまでの氷のような冷酷さは嘘のように消え失せ、その声には温かな響きがこもっていた。怜央の胸にどうしようもない寂寥感が広がり、それ以上の凄まじい嫉妬が渦巻いた。あんな風に柔らかく微笑む陽咲は、結婚して間もない頃にしか見たことがなかったからだ。怜央はだらりと下げた両手をギリギリと音を立てるほど握り締め、一言も発さなかった。楓斗の顔色も似たり寄ったりで、苦々しさに歪んでいた。蒼空は、顔色を悪くした2人を少し勝ち誇ったように一瞥すると、頷きながら微笑んだ。「最近はずっと君の
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第268話

なぜか、陽咲の胸に微かな後ろめたさが過った。玄関のベンチに腰掛けて靴を脱ぎ、洗面所で手を洗う。そして、ぎこちない足取りで絃葉の前に歩み寄り、強張った声で答えた。「そ、蒼空と一緒に帰ってきたの……」ソファに腰を下ろした絃葉の顔からは、喜怒哀楽の感情がまったく読み取れなかった。陽咲は無意識にごくりと唾を飲み込み、しどろもどろに弁解した。「だ、だって午後……メッセージを送ったら、絃葉もいいって言ってくれたじゃない」絃葉が怒っているのだと思った陽咲は、すかさず彼女の隣にすり寄り、甘えるようにその腕にしがみついてゆっくりと揺さぶった。「絃葉、怒ってる?」絃葉はふうっと息を吐いた。「怒ってないわよ、陽咲。ただ、あなたが蒼空に対して、本当はどういう感情を抱いているのか気になっただけ」今でこそ絃葉は蒼空の義理の妹という立場だが、どうしても「お兄さん」と呼ぶ気にはなれず、どこか居心地の悪さを感じていたのだ。そう言い終えると、絃葉は黙り込んでいる陽咲を見上げ、その手をそっと握った。そして陽咲の瞳を真っ直ぐに見据え、柔らかな声で語りかけた。「陽咲、あなたを問い詰めてるわけじゃないの。ただ、自分の本当の気持ちにちゃんと向き合ってほしいのよ。だって、今朝あなたが蒼空を心配していた様子は、どう見ても嘘や取り繕ったものじゃなかったわ」一言一言、噛みしめるように紡がれる言葉には、確かな真心が宿っていた。陽咲は、それが自分を想っての言葉だと理解し、こくりと頷いた。彼女の顔に途方に暮れたような色が浮かぶ。陽咲は助けを求めるように絃葉を見つめた。「今の私にも、自分が彼に対してどんな感情を抱いているのか分からないの。ただ……あの日、彼の幼馴染の女性を見たとき、胸の奥がすごくざわざわして、いい気分じゃなかったのは確かなの。でもね、絃葉。私はただ、彼と友達でいたかっただけなのに……どうしてあんな気持ちになったのか、自分でも分からないのよ」陽咲は迷子のように呟いた。絃葉は心の中でそっとため息をついた。陽咲が口にしたそのもどかしい迷いは、かつて自分が雅也と恋人同士になる前に抱いていた感情とまるで同じだった。――愛しているのに、その自覚がない状態。絃葉が何かを言うより早く、陽咲は瞳の奥に浮かんだ自己嫌悪の色を伏し目で隠し、低い声で言
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第269話

「そういえば絃葉。さっき蒼空と一緒に上がってくる時、怜央と楓斗に鉢合わせたの」陽咲が口を開いた。絃葉は眉をひそめた。陽咲は先ほど下で起きた出来事を、一部始終彼女に打ち明けた。聞き終えると、絃葉は反射的に彼女を案じた。「あなたに怪我はなかった?」陽咲は首を横に振った。「ううん。蒼空がしっかり庇ってくれたから」絃葉はそこでようやく安堵の息をついた。「でも、あの楓斗ってどうも腹に一物あるというか、私に会いに来る時はろくなことがないのよね」陽咲は言葉を継いだ。――それに、彼の兄の竜翔だって、決してまともな人間じゃないし。だが、その一言はあえて飲み込んだ。絃葉が竜翔を毛嫌いしているのを知っているため、今の穏やかな気分に水を差したくなかったのだ。「ここしばらくは、気をつけたほうがいいわね」絃葉は心配そうに念を押した。「ええ」2人はさらに30分ほどテレビを見た。夜の9時半になり、絃葉が少し眠そうにしているのを見て取ると、陽咲は立ち上がった。互いにおやすみを言い合い、それぞれの部屋へ戻って身支度を整える。10時半。入浴とスキンケアを済ませた陽咲は、ゆったりと心地よさげにベッドへ寄りかかった。少し動画でも見てから眠りにつこうとしていたところへ、蒼空からメッセージが届いた。【もう寝た?】【まだ起きてるよ。どうかしたの、蒼空?】【今週の日曜日に、絃葉を連れて周防家へ顔合わせに行こうと思ってるんだ。さっき彼女にもメッセージで伝えて、了承をもらったところだよ】陽咲は【了解】と返した。一方の蒼空はベッドに横たわったまま、陽咲から送られてきた短い返信をじっと見つめ、思い悩んでいた。本当は、陽咲にも一緒に来てほしいと伝えたかった。そうすれば彼女に会えるからだ。だが、どうしてももっともらしい口実が思いつかない。蒼空からの返信が途絶えたのを見て、彼がもう寝たのだろうと思った陽咲は、布団を被って音楽を聴きながら眠ることにした。何しろ明日はまた陶芸の制作が控えている。ここ最近、海棠陶房の注文は爆発的に増えていた。栞奈が新しく何人もスタッフを雇い入れたとはいえ、多くの客が陽咲本人の手による作品を指名してくる。以前は月に数点しか作っていなかったのに、急激に制作量が増え、陽咲の体もさすがに悲鳴を上げ始めて
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第270話

陽咲はガバッと跳ね起き、荒い息を吐きながら額に冷や汗を滲ませた。スマートフォンを手に取り、時間を確認する。まだ午前4時半、夜明けには早かった。陽咲はベッドを抜け出して白湯を一杯飲み、再び横になると、あれはただの夢だと自分に言い聞かせた。30分ほどしてようやく眠りにつく。7時半に起床したものの、陽咲はどこか気だるさが抜けないままだった。その日は1日中、心ここにあらずといった様子で過ごした。どうにも胸騒ぎがする。ここ数日の寝不足のせいだろう、と陽咲は深く考えないようにした。あっという間に土曜日になった。陽咲もようやくゆっくり羽を伸ばせる。この日、雅也は仕事の商談で海外へ飛んでいた。絃葉が家に残り、陽咲と一緒に過ごしてくれている。元々は2人で買い物に出かけて息抜きをする約束だった。だが陽咲は疲れ果てていた。溜まっていた陶芸の注文をこなすため、丸4日間もぶっ通しで作業を続けていたのだ。「絃葉、今日はやっぱり出かけるのやめない?本当に疲れちゃって、腕も上がらないの」絃葉もそれを分かっていたので、頷いて同意した。2人はソファに丸まり、それぞれ自分のスマートフォンを眺めていた。穏やかで心地よい空気が流れている。しかしなぜか、陽咲の胸にはまたしても原因不明の焦燥感が渦巻き、苛立ちを覚えさせていた。その時、スマートフォンが震えた。栞奈からのメッセージだった。【陽咲、ちょっと深刻な話があるの】陽咲は即座に居住まいを正し、真剣な表情で返信した。【うん、言って】【陽咲の作った陶器が、盗作だって濡れ衣を着せられてるの。こっちで調べをつけたら、裏で糸を引いてデマを流させたのは悠里だった。しかも聡子まで後ろで一緒になって煽り立ててる。どうする?】事態を把握した直後、栞奈は証拠を突き止めて悠里を直接訴えてやろうと考えていた。何しろ海棠陶房と陽咲の名誉に関わる問題だ。決して甘く見ることはできない。だが、逸る気持ちを無理やり抑え込み、まずは第一に陽咲の意向を確認することにした。聡子はどうあっても陽咲の母親である。もし栞奈が徹底的に容赦のない手段に出れば、聡子が逆上して陽咲に責任をなすりつけてこないとも限らない。そうなれば、海市における陽咲の評判は確実に地に落ちる。それこそが、栞奈が最も恐れている事態だっ
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