All Chapters of 一夜の再会から始まる、雇われない恋: Chapter 91 - Chapter 100

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第91話 不意打ちの口づけ

 その名前は、陽菜にとって聞き覚えのないものだった。 一条が口を閉ざしてから、車内にはどこか言いようのない奇妙な沈黙が落ちた。 鷹宮もそれ以上は何も言わず、再び静かに目を閉じてしまう。 車がマンションのエントランスに着いた頃には、彼はもう完全に眠っていた。 酔った鷹宮は騒ぐこともなく、ただ静かに眠っているだけだった。その点だけは、むしろ手がかからず助かる。 一条は慣れた様子で鷹宮を背負い、そのまま部屋まで運び入れた。 寝室のベッドへ半ば投げるように寝かせると、適当に掛け布団をかけ、ようやく役目を終えたように長く息を吐く。 寝室のドアの外に立つ陽菜に気づき、一条は反射的に笑みを浮かべた。 何か言おうとしたものの、言葉が見つからない。何を口にしても、今はどこか含みを持って聞こえてしまいそうで。 しばらく考え込んだ末、結局何も言えず、気まずそうに鼻先へ指を触れる。 そして、先にここを離れることにしたように、ゆっくりと口を開いた。「藤野……俺は先に帰るよ。また連絡する」「あ、はい……今日はありがとうございました、一条くん」 玄関へ向かう足取りは、なぜか妙に遅かった。何度も振り返り、陽菜の様子を確かめるように視線を向ける。 扉を開ける直前になっても、なお念を押すように言った。「何かあったら、すぐ連絡して。……何もなくても、していいから」「は、はい……」 陽菜が頷くと、一条はようやく少しだけ安心したように目を細め、そのまま部屋を後にした。 一条を見送ったあと、陽菜も自分の身支度を整え始めた。 身に纏っているのは、まだあの華やかなドレスのままだ。 慎重に脱いでハンガーに掛けると、一条へ返さなければと思い、念入りに全体を確認する。 ほつれや汚れはないだろうか。 細かく目を走らせ、問題がないことを確かめて、ようやく胸を撫で下ろした。 クリーニングに出したほうがいいのだろうか――けれどオーダーメイドのドレスなら、普通の方法では駄目かもしれない。 そんなことを考えていた時、部屋の外から、甲高い割れる音が不意に響いた。「……っ」 陽菜はびくりと肩を震わせ、慌ててリビングへ飛び出した。 そこには、乱れたスーツ姿のまま、キッチンのアイランドカウンターの前で立ち尽くす鷹宮の姿があった。 足元には、粉々に割れたマグカップ。「えっ……鷹宮さ
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第92話 鷹宮とのキス

 最初の口づけだけは、驚くほど優しく、かすかに触れるほど淡いものだった。 確かめるような、試すようなキス。 それが現実だと確かめたかのように、鷹宮はほんの一瞬だけ唇を離した。どこか焦点の定まらない、熱を帯びた眼差しで呆然と固まる陽菜を見つめる。 その間はたった一秒にも満たなかった。 次の瞬間には、再び顔を寄せ、陽菜の唇をそっと噛むように塞いだ。 距離が、さらに近づく。 アルコールの匂いと、鷹宮がいつも使っている爽やかなヘアオイルの香りが、陽菜の全身を包み込んでいく。 相手が鷹宮だからなのか、不快さも苦しさもまるでなかった。 ただ――信じられないという思いだけが胸いっぱいに広がって、陽菜は目を大きく見開いたまま、全身を硬直させていた。 呼吸も、思考も、その瞬間ぴたりと止まってしまう。 何も、うまく考えられない。 鷹宮が……自分に、キスしている。 幻想の中でさえ想像することすらできなかった光景が、今、目の前で現実になっていた。 どうして……。 どうして、こんなことになっているのか。 陽菜にはまるで理解できなかった。 鷹宮との初めてのキスは、ひどく現実味がなかった。 自分ではない誰かの視点で、自分と鷹宮が口づけを交わしているのを見ているような、不思議な感覚。 時間は永遠のようにも感じられたし、瞬きの間に過ぎ去ったようにも思えた。 いつの間にか、鷹宮の両腕が陽菜の腰を抱き寄せていた。 その力はどこまでも優しく、壊れやすい宝物に触れるようだった。  強く抱きしめることはないのに、決して手放したくないという想いだけが伝わってきた。 やがて唇が離れ、息を詰めて頬を赤く染めた陽菜を見つめながら、鷹宮は低く笑った。 その笑みは、普段の礼儀正しくどこか距離を感じさせる微笑みとはまるで違っていた。 見ているだけで胸の奥がじんわりと温かくなるのに、どうしようもなく切なくなる。 そんな、綺麗な笑みだった。 視線は確かに自分へ向けられている。 身体もこれほど近い。 しかも、自分に向かって微笑んでいるはずなのに、陽菜はなぜか、言いようのない違和感を覚えた。 鷹宮は、自分を見ていないような気がしてならなかった。「ちゃんと息をして。……前にも教えただろう?」 低く落ちた鷹宮の声には、どこか人を惑わせるような甘さが滲んでいた。きっと本人
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第93話 どう償えばいい?

 最後の口づけがどう終わったのか、陽菜にはもうよく分からなかった。 実際、自分がどうやって鷹宮が最後の力を使い果たして眠りに落ちるのを見届けたのか。 どうやって彼に毛布をかけ、そして自分もベッドへ入ったのか、その一連の記憶は、どこかひどく曖昧だった。 気がつけば、陽菜は自室のベッドに横たわっていた。 目を開けていても、閉じていても、脳裏に浮かぶのは鷹宮の姿ばかり。 そして、あの愛しさに満ちた声で呼ばれた名前。 ――詩織。 あの人が、鷹宮の好きな人なのだろうか。 忘れられない元恋人なのだろうか。 次々と疑問が胸に押し寄せてくる。そのたびに無理やり心の奥へ押し込めた。 首を振って、浮かんでくる嫌な考えを振り払おうとする。それでも、ほんの少しも消えてはくれなかった。 結局そのまま、朝になるまで眠ることはできなかった。 スマートフォンに設定したアラームが鳴るまで、ただずっと横になっていただけだった。 鷹宮とどう顔を合わせればいいのか分からなくて、陽菜は珍しくベッドから出られなかった。 一時間ほど遅れてようやく起き上がり、簡単に身支度を整えてリビングへ向かうと、そこには鷹宮の姿があった。 彼はいつからそこに座っていたのだろう。 ソファに腰を下ろしたまま、何かを思い詰めるように、じっと考え込んでいた。 昨夜はそのままソファで眠ってしまった彼を、陽菜一人では運べず、仕方なく毛布をかけて寝かせたのだ。 今見ると、その毛布はすでに片づけられている。 鷹宮は着替えも済ませていた。 髪はまだ柔らかく濡れたように整っておらず、どうやら先にシャワーを浴びたらしい。 近づくと、ほのかにボディソープの清潔な香りが漂ってきた。 ただ、この時間の鷹宮なら、普段はすでにスーツ姿で出勤の準備を終えているはずだった。 それなのに今は、家でくつろぐ時に着るようなラフな服装のまま、ソファに座り続けている。「鷹宮さん? おはようございます……」 近づいても気づかないほど思い詰めている様子に、陽菜は先に声をかけた。 すると鷹宮の肩がびくりと大きく揺れた。振り返った顔には、隠しきれない驚きの色が残っている。「……おはよう、陽菜さん」 その声もかすれていて、昨夜より少しも調子が良くなっていないように見えた。 おそらく、ひどい二日酔いなのだろう。「鷹宮さん、
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第94話 一日付き合って

 陽菜は、こんなにも落ち込んだ様子の鷹宮を見るのは、もしかすると初めてだったかもしれない。 何度も何度も謝罪の言葉を口にする彼を見ているうちに、かえって陽菜のほうが申し訳ない気持ちになってしまった。「本当に……私は大丈夫です……」 どれだけそう言っても、きっと鷹宮には強がりにしか聞こえないのだろう。陽菜は一度言葉を飲み込み、しばらくしてからそっと口を開いた。「それなら……鷹宮さん。もし本当に申し訳ないと思っているなら、今日一日、私に付き合ってもらえませんか。……償いだと思って」「……一日、付き合う?」 陽菜の突然の申し出に、鷹宮は少し戸惑ったように目を瞬かせた。すぐには意味を飲み込めないようだった。 彼が考えていたのは、もっと現実的な償いだったのだろう。 陽菜が欲しいものを買うこと。 あるいは、自分にできる範囲で与えられるものを差し出すこと。 まさか、こんな願いを口にされるとは思っていなかったに違いない。「だって、鷹宮さんってお仕事が大好きじゃないですか。だから……今日だけは仕事をしないで、私に付き合ってもらう。それなら、少しは鷹宮さんにとって罰になるかなって……」 陽菜は少し俯きながら、もっと上手い言い方を探すように言葉を紡ぐ。 罰なんて、もちろん口実だった。 本当は、鷹宮にちゃんと休んでほしかった。 そして何より、今日一日だけでも、彼にそばにいてほしかった。 何年も想い続けてきたのに、今までこんなふうに何かを望んだことは一度もない。 けれど昨夜、あんなことがあって。鷹宮の心には、忘れられない誰かがいることも知ってしまった。 そう思えば思うほど、自分の恋心がひどく余計なものに思えてしまう。 陽菜は自分の想いが彼を困らせることだけはしたくなかった。 彼の心にもう誰かがいるのなら……たった一度だけ、そばにいられる時間を願って。 そのあとで、この恋を手放そう。 それくらいなら、きっと許されるはずだ。 鷹宮が真剣に償い方を考え込む姿を見ながら、陽菜はふとそう思った。 本当に、このままずっと。 一生片想いを続けるわけにもいかないのだから。*  鷹宮はすぐに外出の支度を整え、陽菜にも出かける準備を促した。「陽菜さん、行きたい場所はある?それとも、何かしたいことでも」 陽菜の提案を受け入れた鷹宮は、今日の選択をすべて
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第95話 ハートケーキ

 ショッピングモールを一通り見て回るころには、気づけばもう昼の時間になっていた。 午前中ずっと陽菜に付き添っていた鷹宮は、時計にちらりと視線を落とすと、穏やかな声で言った。「そろそろお昼にしようか。僕がよく行くお店、陽菜さんにも紹介したい」「はい」 そうして連れて行かれたのは、高層ビルの上階にある落ち着いたレストランだった。 店内に足を踏み入れた瞬間、陽菜は思わず小さく息をのむ。 静かで、どこか凛とした空気が漂っている。 席と席の間はゆったりと距離が取られ、周囲の会話もほとんど耳に入らないほどだった。 大きな落ち着いた色合いのテーブル。 その横には天井まで届くほどの大きな窓があり、窓の向こうには昼の陽光にきらめく街並みが広がっている。「……綺麗」 思わず零れた声に、鷹宮がかすかに笑う。「気に入った?」「はい……でも、少し緊張します」「そんなに構えなくていいよ」 そう言って椅子を引いてくれる仕草さえ、あまりにも自然で、胸がふわりと熱くなる。 席に着いてメニューを開いたものの、見慣れない料理名ばかりで何を選べばいいのかわからない。 視線がさまよっていると、向かいに座る鷹宮がそれに気づいたのか、やわらかな声音で口を開いた。「陽菜さんは甘めのソースとか、あまり重すぎないもののほうが好きそうだよね」「え……」 自分の好みを、そんなふうに自然に考えてくれていることに、胸が小さく揺れる。「この魚料理、たぶん君は好きだと思う。あと、前菜はこっちのほうが食べやすいかな。試してみる?」 あまりにも優しく勧められて、陽菜は思わず目を瞬かせた。 その間も、彼の視線は絶えず陽菜へと注がれていた。 今日一日、彼女に付き添うと交わした約束を、ひとときも忘れまいとするかのように。「……じゃあ、鷹宮さんのおすすめで、お願いします」「わかった。任せて」 注文を済ませたあとも、彼の意識はずっと陽菜に向いていた。 水のグラスが少し減れば、自然に店員を呼んでくれる。 窓の外を見ていると、「あっち、今日はよく見えるね」とさりげなく話題を振ってくれる。 その一つひとつがあまりにも優しくて、陽菜は落ち着かない。 料理が運ばれてきてからは、店の静けさもあって、二人の間に流れる空気は穏やかだった。 ナイフとフォークの小さな音だけが、時折静かに響く。向か
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第96話 書店

 今日の予定はすべて鷹宮に任せることにして、陽菜はただ彼の後をついていった。 食事を終えると、鷹宮はさりげなく店員を呼び、慣れた手つきでカードを差し出す。 会計はあっという間に済まされた。 午前中、陽菜が何気なく「鷹宮さんの好きな場所や景色を見てみたい」と口にしたことがあった。 その言葉を覚えていたのか、午後になると鷹宮は都心から少し離れた書店へと彼女を連れていった。 静かな街区にあるその場所は、時間の流れが緩やかになったかのようだった。慌ただしさとは無縁で、行き交う人々もどこか穏やかに、ゆったりと歩いている。 書店の中もまた、同じように静けさに満ちていた。 人は決して少なくないのに、誰もが言葉を交わすことなく、それぞれ本を探している。 ここは、鷹宮が学生の頃からよく通っていた場所だという。 そう穏やかに語る彼は、陽菜がずっと前からそのことを知っていたなど、思いもしないだろう。 高校時代のある日の放課後。 昼から休みになった帰り道、たまたま一人で歩いていた鷹宮の姿を見かけたことがあった。 気づけば、陽菜は無意識のうちに彼の後を追っていた。 そして、こうして彼が足を運ぶこの書店へと辿り着いたのだ。 あの時の陽菜は、店の外に立ち尽くすことしかできなかった。中へ入る勇気など、持ち合わせていなかったから。 今はこうして、彼と並んで店内に立っている。 店の中には、ほのかに甘い香りが漂っていた。 おそらく香りづけのフレグランスと、新しい本特有の匂いが混ざり合っているのだろう。 陽菜はふと顔を上げ、隣にいる鷹宮を見つめた。ほんの一瞬だけ、時間が巻き戻ったかのような錯覚にとらわれる。 まだ何もかもが未熟だった、高校時代へ。 あの年頃は、すべてが簡単そうに見えて、本当は何一つ簡単ではなかった。 たとえば……好きな人に声をかけること。 たった一言の「おはよう」でさえ、口にする勇気が出なかった。 あるいは、偶然を装って近づくこと。 少し打算があったとしても、それでも何もできずに後悔するよりは、ずっと良かったはずなのに。 ――後悔。 その言葉が、ふと胸の奥に落ちた。 そうだ。 さっきレストランで感じた、あの言いようのない苦しさの正体は、ずっと押し殺してきた欲望が、満たされないまま残っていたこと。 その欲望は、ずっと機会を待っていた
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第97話 珍しいね

 書店に戻ると、陽菜は純文学の棚の前に立つ鷹宮の姿を見つけた。手にはすでに書店の袋を提げており、会計はもう済ませているらしい。 大きなガラス窓から差し込む陽光が、彼の横顔をやわらかく照らしていた。まるで淡い光のヴェールをまとっているかのように、静かに輝いて見える。 何度見ても、まるで一枚の絵のように美しかった。 その視線に気づいたのか、鷹宮がふと振り返る。 陽菜は咄嗟に目を逸らすこともできず、そのまま彼の視線に捕らえられた。 そこにあったのは、どこまでも穏やかな、ぬくもりを帯びたまなざし。 店の外に降り注ぐ陽射しのように、やさしく、あたたかい。 一日という時間は、ゆっくりと流れているようでいて、同時にあっという間でもあった。 その後も二人はしばらく書店に留まり、棚の間を歩きながら本を眺めていた。 鷹宮は学生時代に夢中で読んでいたという小説をいくつか手に取り、静かに語り始める。「当時、よく読んでいたんだ。こうして今も同じ場所に並んでいるのを見ると、不思議な感じがする」 長い年月が過ぎても、変わらずそこにあり続けていることに、どこか感慨を覚えているようだった。 時間は確かに流れているのに、すべてがそのまま残っているような――そんな不思議な感覚。 陽菜もその穏やかな語りに引き込まれ、やがて自分の好きだった本のことを話し始めた。 学生の頃、何度も読み返した物語。 大切にしていた言葉や、忘れられない一節。 鷹宮はその一つひとつを、丁寧に受け止めるように聞いていた。 途中で遮ることはなく、陽菜が話し終えるのを待ってから、静かに自分の感想を口にする。 そんなやり取りが、心地よかった。 気づけば午後の時間は、書店の中で静かに過ぎていった。どこか夢の中にいるような、穏やかで満たされたひとときだった。* 夜のレストランは、昼とは違い、照明も抑えられ、ひときわ落ち着いた雰囲気に包まれた高級店だった。 店内に入った瞬間、空気が一変する。 照明はぐっと落とされ、柔らかな間接光だけがテーブルを淡く照らしている。グラスに映る光が揺れ、どこか幻想的で、静かな夜の気配をまとっていた。 周囲に目を向ければ、ほとんどが男女の二人連れ。低く交わされる会話と、グラスの触れ合う音だけが、静かに流れている。 陽菜は無意識に姿勢を正した。「こっち」 鷹宮に案
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第98話 一条兄

 一条もまた、誰かと一緒に来ていたらしい。 陽菜がその方向へ視線を向けると、そこにはスーツ姿の男性が座っていた。店内の客のほとんどがカップルである中、その存在はどこか場違いにも見える。 陽菜の視線に気づいた一条は、くすりと笑って言った。「俺の兄だよ。ちょっと声をかけてくる。お前たちと一緒でもいいか聞いてくるから」 そう言うや否や、すぐに兄のもとへと歩いていく。陽菜も鷹宮も、止める間もなかった。 二人きりだったはずの夕食は、あっという間に三人の賑やかな席へと変わる。 ――いや、正確には。 一条の兄だけが、元の席にぽつんと残されていた。 さすがに気が引けたのか、鷹宮は陽菜に一言断ってから、その兄もこちらへ呼び寄せた。 鷹宮と一条の兄は、どうやら面識があるらしく、自然と会話を交わしていた。 陽菜にとっては初対面だった。 一条がやや不機嫌そうな視線を向ける中、簡単な自己紹介が交わされる。「一条修人だ。初めまして。どうやらうちの弟と仲がいいみたいだな。これからも、よろしく頼むよ」「い、いえ……私のほうこそ、一条くんにはいつもお世話になっていて……。藤野です。よろしくお願いします」「藤野さんは謙虚だね。うちの弟は少し性格に難があるから、ほどほどに付き合ってやってくれ」 修人はそう言って、陽菜に手を差し出す。軽く握手を交わした、その直後だった。 ぱしり、と音がして、その手がはたき落とされた。「兄貴、そういうのやめろ」「そういうのって、どれだ?」 修人の問いに、一条は答えず、わざと聞こえなかったふりをした。 彼らもまた来店したばかりで、まだ注文も済ませていなかった。そのまま四人で食事をする流れになり、修人はメニューを見ながら「面白い偶然だな」と何度も口にする。 一条はそれを無視し、陽菜は曖昧に笑みを浮かべる。鷹宮は修人と顔見知りなこともあり、自然と仕事の話題へと移っていった。 主に話しているのは修人のほうだった。 一条が任されている子会社の状況について、細かく気にかけている様子がうかがえる。 当の一条本人は、ほとんど話を聞いていなかった。 時折陽菜へ視線を向けては、小さく笑みを浮かべ、兄たちが話している隙に、料理の好みや細かなことを静かに尋ねてくる。 そんな弟の様子を、修人はときおり横目で確認していた。気
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第99話 告白

 修人がそこまで丁寧に謝ってきた以上、陽菜はそれ以上何も言えなかった。ただ慌てて手を振り、「気にしていません」と小さく首を横に振る。「ただ……鷹宮さんは、そのことをご存じないので。その……鷹宮さんの前では、あまり触れないでいただけると……」 修人はくすりと笑い、「もちろん」と軽く肩をすくめてみせた。それからちらりと一条へ視線を送り、意味ありげに片目を細める。 まるで、彼の恋を応援しているかのように。 一条はそれに気づき、露骨に顔をしかめた。「……余計なことすんなよ、兄貴」 ぼそりと呟くその声に、修人は思わず吹き出す。「ほらな、こういうところ。可愛いだろ?」 わざとらしく言いながら、陽菜に視線を向けた。 ――そんなやり取りもあって。その後の食事は、思いのほか穏やかで楽しいものになった。 食事を終えると、修人は長居するつもりはないらしく、席を立つ。 そして、まだ残ろうとしていた一条の腕を強引に引いて、そのまま店を後にした。 残されたのは、再び陽菜と鷹宮の二人だけ。 帰り道、鷹宮はほとんど口を開かなかった。どこか思い詰めたような沈黙が、車内に静かに流れている。 やがて車は、少し高台になった場所で止まった。眼下には、無数の灯りが広がっている。 街の夜景は、息を呑むほど美しかった。 陽菜がその光景に見とれるより先に、低く落ち着いた声が、隣から響いた。「陽菜さん……君は、僕のことが好きか?」 どこか迷いを含んだ問いかけ。 その一言に、陽菜はひどく驚いた。思わず手を引いた拍子に、手の甲がドアにぶつかる。 鈍い痛みが走った。「大丈夫か?」 すぐに向けられる気遣い。 答えを返さなくても、鷹宮の中ではもう結論が出ているのだろう。「どうして……鷹宮さんが、そんなこと……」 それまで、彼はまったく気づいていなかった。だが先ほど席へ戻る途中、偶然にも修人の言葉を耳にしてしまったのだ。 一条に「鈍い」とよく言われていた。 本人は気にも留めていなかったが、今になって、ようやく思い知らされる。 振り返ってみれば、陽菜の態度は決して隠しきれていたわけではない。それでも一度も、そういう可能性を考えたことがなかった。 ただ、助けを必要としている人だと、それだけだと思っていた。 なぜあの雨の夜、迷いなく自分の手を掴んできたのか。 どうしてあそ
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第100話 婚約者

 やがて、鷹宮の誕生日がやってきた。 鷹宮自身は、あまり誕生日を盛大に祝うタイプではない。毎年決まって、一条が彼の家を訪れて簡単に祝う。 そんな過ごし方が常だった。 今年も例外ではない。 インターホンが鳴り、ドアを開けたのは陽菜だった。 扉の向こうに立つ一条は、陽菜の顔を見るなり、わずかに気まずそうに鼻先を指でこすった。 すぐに何事もなかったかのような顔に戻るが、その一瞬のぎこちなさは隠しきれていない。「久しぶり、藤野。最近は――」 言いかけて、言葉が途切れる。 陽菜と鷹宮が付き合っていると知ってからというもの、一条はどこか距離を測るようになっていた。 その変化は、陽菜にもはっきりと伝わっている。「一条くん、鷹宮さん、今ちょうどキッチンにいます」 陽菜はさりげなく話題を変えた。「凌が? へえ、今日は当たりだな」 一条はそれを察したように笑い、手に提げていた紙袋を軽く持ち上げながらキッチンへ向かう。 鷹宮はちょうど料理を仕上げているところだった。テーブルには、彼の得意料理だというパスタが並んでいる。「凌、食材とワインを持ってきた。それと――主役のケーキもな」「ありがとう」 鷹宮は柔らかく笑いながら受け取る。 さらに一条は、さりげなくもう一つの箱を差し出した。 中身はあの腕時計だった。 箱を開けた瞬間、鷹宮の表情がわずかに明るくなる。手に取ると、すぐに腕へと通し、嬉しそうに確かめるように眺めた。「ほら、誕生日なんだからさ。あとは俺がやるから、主役は座ってろ」 一条が軽く手を振る。 陽菜にとっては、初めて一緒に迎える鷹宮の誕生日だった。だからこそ、どうしても特別な一日にしたかった。 一条も鷹宮も、どこか普段通りで。あまりにも自然で、肩の力が抜けた空気が流れている。 まるで、特別な日などではないかのように。 その中で、ひとりだけ気持ちが高ぶっている自分に、陽菜は少しだけ戸惑っていた。 どうすれば、この日を特別なものにできるのだろう。 そんなことを考えていると、不意に鷹宮が微笑んだ。殻を剥いたばかりの海老を、そっと陽菜の皿の上へと乗せる。「……ありがとう、ございます」 頬をわずかに染めながら、陽菜は小さな声で礼を言った。「そんなにかしこまらなくていい。僕たちの間なんだから」 やさしい声音だった。 そのやり取
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