All Chapters of 一夜の再会から始まる、雇われない恋: Chapter 101 - Chapter 110

138 Chapters

第101話

 その言葉が落ちた瞬間、室内は不自然な静けさに包まれた。 鷹宮の表情もまた、わずかに強張っている。 何度か口を開きかけては閉じ、陽菜へと向けた視線には、はっきりとした後ろめたさが滲んでいた。 けれど、結局。 陽菜が自分の恋人であることを、母の前で口にすることはできなかった。 綾乃の紹介を終えると、鷹宮の母は当然のように二人の席を隣同士に指定した。 陽菜の席は一条の隣へと移される。 すべてを決め終えてから、ようやく母は陽菜へと視線を向けた。「それで……そちらの方は?」「叔母さん、こちら藤野です。俺たちの……高校の同級生で」 一条はいつもの調子で口元に笑みを浮かべながら、あえて軽く言葉を濁した。その声音にはわずかな軽さがあり、場の空気を和らげるようでいて―― 同時に、これ以上踏み込ませないという、さりげない牽制も滲んでいる。 鷹宮の母は、遠慮もなく眉をひそめる。陽菜を見るその目には、露骨な不満が浮かんでいた。「凌の誕生日に呼ばれる同級生? ずいぶん親しいのね」「もしかしたら、俺のほうと仲がいいのかもしれませんよ、叔母さん」 一条が軽く笑ってそう言う。 その一言で、母の表情はわずかに緩んだ。「あら、修司のほうなの。ごめんなさいね、てっきり凌かと。最近あの子、ほんとうに言うことを聞かなくて……変な女にでも引っかかってるんじゃないかと思っていたのよ」 わざとらしく含みを持たせた言い方だった。 陽菜の顔から血の気が引く。 身体は強張り、言葉を発することもできないまま、ただ視線を落とすしかなかった。 その間にも、鷹宮の母は綾乃との会話を進め、二人を並べては楽しげに話を振っていく。 そのときだった。 ぎゅっと握りしめていた手に、ふいに温もりが重なる。はっとして顔を上げると、一条がそっと自分の手に触れていた。 わずかに寄せられた眉と、言葉にしないままの心配。 その表情が、すべてを物語っている。 陽菜は小さく笑って首を振った。 大丈夫だと、伝えるように。 顔を上げたその先で、今度は鷹宮の視線とぶつかる。彼もまた、どこか不安げな表情を浮かべていた。 陽菜はそれにも気づかれないように、そっと微笑み返した。 食事が終わると、鷹宮の母は当然のようにそのまま部屋に泊まると言い出した。 綾乃も一緒に。 陽菜には、もうここに残る理由は
Read more

第102話

 一条の車に乗り込み、陽菜はしばらく窓の外をぼんやりと眺めていた。流れていく夜の景色が、どこか現実味を失っていく。 ふと、意識が浮上したとき、一条の声が耳に届いた。 どこか言い訳のように、けれど静かに鷹宮を庇うような口調で。「凌の母親って……ああいう人なんだ。さっき見て分かっただろ。一度こうだって思い込んだら、それ以外は一切認めない。だから、凌も……たぶん、お前にこれ以上負担をかけたくなかったんだと思う」 ここ最近、毎日のように電話がかかってきていたことを思い出す。 あれだけでも、鷹宮の母親の性格は十分に伝わっていた。 一条の言葉はきっと正しい。 鷹宮は、そういう人だ。誰かを傷つけるより、自分が背負うことを選ぶ。「……大丈夫です、一条くん。分かっています。鷹宮さんは……私のことを考えてくれていたんですよね」 静かにそう答えると、一条はちらりと横目で陽菜を見た。「……そう思えるなら、いいけど」 その視線には、まだ消えきらない心配が滲んでいる。けれどそれ以上踏み込むことはしなかった。 何度も言葉を口にしかけては、飲み込んだ。 結局、マンションに着くまで、何一つ言えないままだった。 * 一条の住むマンションは、鷹宮の家からそれほど離れていなかった。広さも、造りも、どこか似ている。 エントランスへ向かう途中、一条がふと思い出したように口を開く。「最初はさ、凌と同じマンションにしようって話もあったんだけどな。でも、近すぎるのも味気ないだろ? 距離って大事だからさ。……はは」 わざと軽く言ったのだろう。 陽菜もそれに合わせて、小さく笑みを返した。 エレベーターは最上階で止まる。廊下を歩きながら、一条は淡々と説明を続けた。「必要なものがあれば、凌が明日持ってくるって言ってた。しばらくは……母親がいるだろうし、荷物も一度整理したほうがいいかもしれないな」 部屋に入ると、一条はひと通り案内してくれた。 リビング、キッチン、そして客用の寝室。 その様子は、どこか――あの日、初めて鷹宮の家に来た夜を思い出させた。 まだ距離の測り方も分からず、ぎこちない空気の中で、ただ隣にいるだけで胸がいっぱいになっていた、あの夜を。 次の間に一人きりになったときだった。 静まり返った空間に、わずかな孤独が差し込む。 その静けさを破るように、スマー
Read more

第103話

 陽菜は本当は、これ以上一条に迷惑をかけたくなかった。 それでも、現実はそう甘くはなかった。 ホテルに連泊する余裕はなく、実家の家もまだ差し押さえられたまま。新しく部屋を借りるにも、まとまった資金と時間が必要だった。 それに、鷹宮も一条もきっと止めるだろう。 一条は他にも物件を持っており、陽菜が借りているこの部屋には夜は戻らないようにしていた。 日中に顔を出すときも必ず事前に連絡を入れてくる。 できるだけ、陽菜に気を遣わせないように。 もちろん、それだけではないのかもしれないが。ここ数日、一条は昼間になると決まって顔を見せに来ていた。 今日も同じだった。 陽菜はテーブルに向かい、履歴書を書き直していた。 うっかり片付けるのを忘れたままにしてしまい、それを一条に見られてしまう。「藤野、仕事探してるのか?」 少し意外そうな声だった。 鷹宮は相変わらず忙しく、頻繁に会いに来ることはできない。しかも今は母親の目もあり、自由に動ける状況ではなかった。 こんな生活がいつまで続くのか、陽菜にも分からない。 もうこれ以上甘えるわけにはいかないと思った。 もともと鷹宮の家での仕事も、困り果てた末に頼らせてもらったものだ。本当は、きちんとした仕事を見つけなければならない。 彼のそばにいるうちに、気づかないうちに、頼りすぎていた。 そして、もう離れられなくなっていた。 今こそが、独り立ちするためのきっかけなのだと思った。「そう……です、一条くん。今までは鷹宮さんの家でお手伝いをさせてもらっていましたけど……ずっと養ってもらうわけにもいかないので」 履歴書を見られてしまった気まずさに、少し頬を染めながら答える。取り返そうと手を伸ばすが、一条はそれを軽く避けた。 興味深そうに、じっと読み込んでいる。 鷹宮の家を出てからというもの、一条は二人の関係について、ある程度は理解しているようだった。 けれど、それを口に出すことはなかった。あくまで何も気にしていないような顔をしている。 ーーそのくせ。 陽菜に何かあれば、誰よりも先に駆けつけてくる。「一条くん、それ……返してください」 数分が過ぎても視線を落としたままの彼に、陽菜は不安を覚え、小さな声で促した。「……この履歴、普通にいいじゃん。前の会社も大手だし、正直どこでも通るだろ。すぐ仕事見
Read more

第104話

「えっ?!」 陽菜は驚いて声を上げた。 一条は、その提案をすでに決めたことのように、真剣な顔で続ける。「じゃあこれで決まり。人事に言って、面接の時間を調整させるから、そのまま来ればいい」「え、ちょっと待って、一条くん……」「それとも、俺の会社じゃ不満?」 どんどん話が飛躍していく一条に、陽菜は慌てて首を振った。「そ、そんなことないです……!」 気づけば、面接の話はそのまま流れで決まってしまっていた。あまりにも早い展開に、陽菜自身もついていけないほどだった。 いざ面接と言っても、実際には形式的なものに近かった。 難しい質問をされることもなく、担当してくれたのは、やわらかな笑顔が印象的な女性だった。 終始、陽菜が緊張しないよう気遣ってくれる。 いくつか簡単な質問を終えたあと、仕事の内容について説明が始まった。「配属は企画部になりますが、半分ほどは一条社長の補佐業務も担当していただく形になります。当社は、社員一人ひとりに幅広いスキルを身につけていただきたいと考えていますので、最初のうちは各部署を回って研修を受けていただきますが……大丈夫そうですか?」「はい、大丈夫です」 いろいろな部署を経験できると聞いて、陽菜の胸は少し高鳴った。「分かりました。……本来であれば結果を後日ご連絡する流れなのですが、今回はこの場でお伝えしますね。藤野さん、入社はいつから可能ですか?」 履歴書を準備していたところを見つかってから、採用が決まるまで。わずか一週間ほどの出来事だった。 陽菜は自分の運が良かったとは思えなかった。 むしろ――一条が裏で手を回してくれたのだと、なんとなく分かっていた。 その日の夜。陽菜はケーキを買って帰り、一条に食事をごちそうしようと決めた。 一条はあっさりとそれを受け入れ、しかも遠慮する様子もない。自分が人事に頼んで配慮してもらったことも、あっさり認めてしまう。 そして、陽菜でも負担にならない程度の価格帯のレストランを選び、当然のように「今日はごちそうだからな」と言い出した。「入社したら、今度は俺が奢る番になるだろ?」 道すがら、そんな軽口を叩く。その気取らない様子に、陽菜は思わず笑ってしまった。 その笑顔を見て、一条もどこか満足そうに目を細める。 店は都心の一角、アクセスの良い場所にあった。 地下駐車場に車を止
Read more

第105話

 席を決める際、鷹宮はさりげなく、しかし意図的に陽菜を自分の隣へと座らせた。 さらに、母親からの小言を避けるためか、一条も同じ並びに配置し、陽菜の反対側へと収める。「凌、あなたは綾乃さんの隣に座りなさい」 案の定、その席順を見た母はすぐに口を出した。  鷹宮は珍しくその言葉に従わなかった。わずかに距離を感じさせる笑みを浮かべ、綾乃へと視線を向ける。「高辻さんは、席を替えたほうがいいですか?」 突然話を振られた綾乃は一瞬戸惑ったものの、すぐに整った笑みを浮かべた。「いいえ、このままで大丈夫です」 どこかよそよそしい、互いに気を遣い合うようなやり取り。 二人がそう言う以上、母もそれ以上は口を挟めなかった。ただ席に着く際、わざとらしく陽菜へ視線を流す。 その一瞥に込められた不快と敵意は、はっきりと伝わってきた。「藤野。まさかこんな展開になるとはな……。凌もいるし、今日は遠慮なく奢らせておけ。次は改めて、俺に奢らせろよ」 メニューを眺めながら、一条が小さく囁く。その声は低く、陽菜にしか届かない。「……はい、分かりました」 陽菜も同じように声を落として答えた。そのやり取りを、鷹宮の母は見逃さなかった。「あら、修司の言っていた通りね。藤野さん?ずいぶんと修司と親しいみたいだけど……もしかして、お付き合いしているの?」 その一言で、場の視線が一斉に二人へと向く。 陽菜は顔を赤らめ、とっさに否定しようとした。だが、その前に一条が軽やかに笑って言葉を挟む。「いえいえ、まだ頑張ってる途中ですよ。藤野はこういうの苦手なんで、あんまり直接言わないでやってください。余計に困らせちゃうんで」 冗談めいた口調で、空気を和らげる。 鷹宮の母は小さく笑ったが、すぐに話題を変えた。「そう。ところで藤野さん、ご両親はどんなお仕事をされているの?修司の背後にいる一条家のことは、ご存じでしょう?あの子がそこまで言うくらいだから……藤野さんも、それなりのご家庭のお嬢さんなのかしら」 言葉遣いは丁寧でも、その奥にある軽蔑と優越感は隠しきれていなかった。「わ、私は……」「母さん……何を言ってるんだ」 答えようとしたその瞬間、鷹宮が口を挟んだ。 その表情は真剣で、わずかに眉を寄せている。母へ向ける声も、どこか硬かった。「陽菜さんは、僕と修司の友人だ。少しは失礼
Read more

第106話

 陽菜はそっと、鷹宮の手を握り返した。 大きくて、しっかりとした手。 これまで彼はいつも力加減を絶妙に調整していて、手を引くときもどこか遠慮がちで、優しく添えるような触れ方だった。 陽菜に負担を感じさせないように――そんな気遣いが、いつもそこにはあった。 抱きしめられたときも同じだった。 やわらかく、そっと包み込むようなぬくもり。 それはまるで、彼自身が見せてきた優しさそのもののようで。無害で、安心できて。どこか触れてはいけないもののようでもあった。 その優しさはあまりにもやわらかすぎて、どこか満たされないような、言葉にできない不安を伴っていた。 けれど、今は違う。 指を絡めるようにして、しっかりと握り込まれるその力。逃がさないと言わんばかりの、確かな重み。 それに触れた瞬間、初めて自分はこの人と恋人同士なのだと、はっきりと実感した。 胸の奥がじんわりと熱くなる。 陽菜は――それが、好きだと思った。  鷹宮が声を上げたことで、母親の表情はあからさまに険しくなった。それでもそれ以上は何も言わず、口を閉ざす。 食事の間、会話はほとんどなかった。 ときおり一条が場をつなぐ程度で、他の三人は沈黙を保ったまま。 何度か、母親が視線で鷹宮に合図を送り、綾乃と話すよう促しているのが見えた。 鷹宮はそれに気づかないふりをする。 その代わり、陽菜へもあえて過度に構うことはしなかった。 重く沈んだ空気のまま、食事は静かに進んでいく。終盤、陽菜は一度席を外し、洗面所へ向かった。 そして戻ろうとしたとき、出口の前に鷹宮の母親が立っていた。 最初からそこで待っていたかのようだった。「……あの、」「あなた、凌とただの関係じゃないわよね?」 先ほどまでの外面とは違い、遠慮の欠片もない言い方だった。鋭い視線に射抜かれ、陽菜は思わず息を呑む。「わ、私は……」「ごまかそうとしても無駄よ。凌は私が育てた子なの。何を考えているかくらい、分かるわ」 淡々とした口調の中に、はっきりとした確信があった。「本人は上手くやっているつもりかもしれないけれど……あえて見逃しているだけ。でもね、あなたにはきちんと分かっておいてほしいの」 その声音には、露骨な嫌悪と軽蔑が混じっていた。 なぜそこまで、と陽菜は戸惑う。まだ二度目に会っただけの相手なのに。 それ
Read more

第107話

 時間が、ほんの一瞬で凍りついたかのようだった。 鷹宮の母が投げかけたその問いは、彼女が自分の出自を見下した言葉よりも、なお一層、陽菜の胸に鋭く突き刺さり、耐えがたい痛みを残した。 鷹宮は唇をきゅっと引き結び、陽菜の方を見ることができなかった。 何度も何かを言おうとしては言葉を飲み込み、そのたびに唇がわずかに震えているのが見て取れる。 その姿が、あまりにも痛々しくて、陽菜は胸が締めつけられた。 鷹宮は嘘をつけるような人ではない。あまりにもまっすぐで、正直で。 こういう場面では、その想いが簡単に透けてしまう。「……私が、お話しします」 これ以上彼を苦しめたくなくて、陽菜は先に口を開いた。まっすぐに視線を上げ、鷹宮の母を見据える。「私と鷹宮さんは、何の関係もございません。ただの高校の同級生です。これまで特別な関係であったこともありませんし……これからも、おそらく変わることはないと思います」 彼に嘘をつかせるくらいなら、自分が嘘をついた方がいい。それなら、鷹宮の大切にしているものを壊さずに済むから。「……そう」 鷹宮の母はしばし沈黙し、意味ありげに陽菜を見つめたあと、ゆっくりと鷹宮へ視線を移した。 そして最後に一言だけ、静かに告げる。「藤野さん。今のお言葉、どうか忘れないでくださいね」 それだけ言い残し、わずかに怒りを滲ませたまま、その場を後にした。 場に残されたのは、鷹宮と陽菜、二人だけ。まだ彼が気にしているかもしれないと思い、陽菜は先に微笑んだ。 その笑みはどこかぎこちなくて。「大丈夫ですよ、鷹宮さん。私、本気で言ったわけじゃありませんから……分かってますよね?」 鷹宮もまた、かすかに笑みを返した。 その瞳には、隠しきれないほどの痛みと、陽菜へのいたわりが滲んでいる。 垂れていた手がわずかに持ち上がる。 触れようとしたのだろう。けれど――結局、そのまま空を切った。 今の自分には、その資格がないとでも思っているかのように。 深く息を吸い込み、力なく一度目を閉じる。そして再び開いたその瞳には、濃い後悔が宿っていた。「……ごめん、陽菜さん」 その声は、ひどくかすれていた。 陽菜は微笑んだまま、そっと指先で彼の手に触れる。ほんの一瞬。ぬくもりを感じる間もないほど、すぐに離す。「だから、大丈夫ですって。鷹宮さん」 そう
Read more

第108話

 父から最後に連絡があってから、三週間が過ぎていた。それ以来、一切音沙汰はない。 最初のうちは、父なりに忙しいのだろうと思っていた。だがさすがにここまで間が空くと、不安が胸をよぎる。 それに、いつ家へ戻れるのかも気になっていた。 ある日の仕事帰り、陽菜は父へ電話をかけた。呼び出し音は、長く鳴り続けた。 父は電話に出なかった。 陽菜はそれほど気に留めなかった。父は歳を重ねてから、以前よりもずっと気まぐれになっていた。 病院からなかなか出ようとしなかったのも、その一つだ。 出たくない時は、平気で電話を無視する。今回もきっとそうなのだろうと、そう思っていた。 ――数日後までは。「陽菜……もうダメよ、終わりよ……あの人、あの人ね……何をしたと思うの……!」 突然、母から電話がかかってきた。 泣き崩れるような声が、受話器越しに押し寄せてくる。「お父さんがね……会社の、たった一つしかない特許を売ったのよ!しかも、信じられないくらい安い値段で……!」 叫ぶような声に、鼓膜が震える。「ちょっと待って、母さん……何を……」「分かってるの!? これがどういうことか!仮に裁判がなくなったとしても、うちはもう終わりなのよ! 破産よ、破産!」 あまりにも大きく、鋭い声。 陽菜の思考は、一瞬、追いつかなくなった。 特許。 契約。 東和。 ふいに、あの日の記憶が蘇った。 書店の外で、父が興奮気味に語っていた言葉が。「いい話が来たんだ」「もうすぐ全部うまくいく」 あの時、確かに父はそう言っていた。まるで救われたかのように。 家も戻ってくると。 良い方向へ進んでいるのだと、信じていた。「陽菜……どうしたらいいの……売っちゃったのよ、特許を……これから使うにも、お金を払わないといけないのよ?そんなのおかしいでしょ……あれは……私たちの何十年分の……」 母の声は、次第に泣き崩れる音へと変わっていった。陽菜はただ、その場に立ち尽くしていた。 どうして、こんなことになったのか。 まだ、理解が追いつかないまま。 母との通話を終えたあと、示し合わせたかのように、立花からも連絡が入った。 何もかもが、一日にして押し寄せてくる。 ただ、彼の話はすべてが悪い知らせというわけではなかったが、その声には、無視できないほどの違和感が滲んでいた。「藤野…
Read more

第109話

 立花は「いい知らせかもしれない」とは言っていたが、その声音はどこか歯切れが悪く、とても楽観できるものには聞こえなかった。 そのせいで、陽菜の胸には拭いきれない不安が残る。 その後、何度も父に電話をかけてみたものの、ついに一度も繋がることはなかった。 焦燥は消えるどころか、じわじわと胸の奥に広がっていく。 夜になり、一条がいつものように笑顔で食事に誘いに来た時も、陽菜の眉間には深い皺が寄ったままだった。 ――それでも。 彼の姿を見た瞬間、陽菜はすぐに表情を整え、無理やり笑みを浮かべる。「一条くん、こんばんは」「おー、藤野。お前……」 その言葉の途中で、一条はわずかに言葉を切った。 今日は朝から一日中、工場を回っていた。 これまで長く取引していた工場が原材料不足で出荷停止となり、新商品の発売は目前に迫っている。しかも予約数はかなりの規模だ。 短期間で、品質も安定し、かつ大量出荷に対応できる工場を見つけなければならなかった。 ここ数日探し続けても、納得のいくところは見つかっていない。 もともと一条は、長年積み上げてきた信頼関係を重んじるタイプだ。 だからこそ新規の工場にはどうしても慎重になり、サンプルを見てもどこかに不満を見出してしまう。 これは彼が会社を継いでから最初に手掛ける新ブランドだった。 陽菜は最初、それほど本気ではないのだと思っていた。 実際に会社に入ってみて知った。 コンセプト、デザイン、商品――そのすべてにおいて、一条は細部まで関わっている。 陽菜はかつて、一条は仕事をあまり好まない人なのだと思っていた。勤務時間中もどこか気ままに過ごしているように見えたからだ。 それはただの表面だった。 いざ仕事となれば決して手を抜かない。 むしろ、最後まで会社に残っているのは彼であることが多い。 その事実に、陽菜は少なからず驚いた。 自分がいかに一条という人間を、表面的にしか知らなかったかを思い知らされた。 それでも一条は、そんな一面を見せたがらない。 陽菜が「仕事を頑張っていますね」と褒めれば、必ず軽く否定する。「適当にやってるだけだよ。小さい会社だしな。これで潰したりしたら、親父にめちゃくちゃ怒られるだろうし」「そうですか? でも、一条くん、仕事してる時……楽しそうに見えますけど」「へえ。藤野って、そう
Read more

第110話

 陽菜は一瞬、言葉を失った。何度か口を開きかけたものの、結局何も言えず、しばらくの沈黙のあと、小さく首を振って微笑んだ。「私は大丈夫です。一条くん」 一条の視線がぴたりと陽菜の顔に張りつく。ほんのわずかな違和感さえ見逃すまいとするかのように、じっと見つめていた。 本当は、言いたいことはいくらでもあった。けれど、少し考えた末に、結局は陽菜と同じように、ただ優しく微笑むだけにとどめる。「……そう。藤野が話したくないなら、それでいいよ。でもな、藤野。本当に困ったことがあったら、ちゃんと俺に相談しろよ。いいな?」「……はい」 おそらく叶うことのない約束を、一条と交わす。そうして二人は並んで、会社のビルを出た。 それからの数日間。 陽菜にできることは、ただ父か母からの連絡を待つことだけだった。今の自分の立場では、他にできることなど何ひとつない。 もともと、この件について陽菜は詳しく知らされていなかった。 もし両親が現実から目を背けずに向き合っていたなら、自分がわざわざ立花に依頼して弁護を頼むこともなかっただろう。 立花が何度も口にしていたのは、「お父さんと直接話す必要がある」という一点だった。 だが陽菜がその話を持ち出すたびに、父は頭痛を理由に会話を打ち切ってしまう。 そのせいで、これだけ時間が経っても、立花はいまだ父本人と一度も面会できていない。 当事者であるはずの本人が、ここまで投げやりな態度を取るのなら、いっそ自分も、すべてを投げ出してしまいたくなることがあった。 それでも、できなかった。 自分の家族のことだから。 自分の、父と母のことだから。*  土曜日。 陽菜は久しぶりに母の実家へと向かった。 母の生家はかなりの田舎にあり、行くだけでも長い時間を要する。そのせいで、これまでなかなか足を運べずにいた。 今回も、出発前にあらかじめ母へ連絡を入れていたのだが、父と同じように、母までもが電話に出ることはなかった。 仕方なく、陽菜はそのまま電車に乗り込む。 久しぶりの長距離移動に、身体は思った以上に揺さぶられ、気分が悪くなっていく。 そんな道中で、鷹宮から電話がかかってきた。 今日は会社に出ているらしく、陽菜が移動していると知って、様子を気遣ってくれたのだ。「大丈夫です、問題ありません」 陽菜は声を潜めてそう答える。
Read more
PREV
1
...
91011121314
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status