All Chapters of 一夜の再会から始まる、雇われない恋: Chapter 111 - Chapter 120

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第111話

 夕方になってようやく車が止まり、陽菜はバッグを手に降り立った。 ここへ来るのは、もう十年近くぶりになる。かすかな記憶をたどりながら、母の実家へと足を向けた。 幸い、あたりの風景は昔とほとんど変わっていない。迷うこともなく、目的の家に辿り着くことができた。 玄関の鍵はかかっていなかった。「お母さん?」 そう声をかけながら中に入ると、家の中はひっそりと静まり返っている。 一階も二階も見て回ったが、人の気配はない。母の姿はどこにもなかった。 電話も相変わらず繋がらないまま。 陽菜は居間の畳に腰を下ろし、どうしたものかと考えていると、手にしていたスマートフォンが震えた。 母からかと思ったが、表示された名前は立花だった。 立花はよほどのことがない限り、休日に連絡をしてくるような人ではない。 そのことをよく分かっているからこそ、通話ボタンを押す指先に自然と力がこもる。「立花先輩……」『ああ、藤野。今どこにいる? ちょっとな、直接話したいことがあって。今回の件についてだ』「急ぎですか? 今、母の実家に来ていて……戻るには少し時間がかかります」『そうか……いや、今すぐってほどじゃない。ただ、俺の見立てが当たってるなら、少し厄介なことになるかもしれない。最初に想定していた範囲を、もう超えてる可能性がある』 一瞬、陽菜の胸がきゅっと締めつけられた。 間を置かず、立花が言葉を重ねる。『それと、この件で外部の協力を頼むことになるかもしれない。君の同意をもらっておきたくてな。……正直、俺一人じゃ判断しきれない部分が出てきてる』「そんなに……悪い状況なんですか。外部の方については、私は問題ありません。先輩が必要だと思うなら、お願いします」 気づけば背筋がぴんと伸びていた。両手に持ったスマートフォンを、無意識に強く握りしめる。 その変化を感じ取ったのか、立花の声が少し柔らかくなる。『せっかく向こうにいるんだ。あまり考えすぎるな。少しは気分を休めろ。……たしか、母親の実家ってこのあたりだったよな?』 記憶をたどるように、地名を口にする。「はい、そこです」 大学時代に一度話したことがあったのだろう。立花の記憶力の良さには、今さら驚かない。 方向感覚以外は。『空気がいいところだよな。俺も少し前に証拠を追って行ったことがある。藤野、ゆっくり休め。今
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第112話

 長く失望を重ねてきたせいか、母はもう怒ることさえ億劫になっているようだった。 父のことを多くは語ろうとせず、先ほど落としてしまった袋の中身を整えると、陽菜と一緒に家の中へ入る。 それでも、ぽつりぽつりと漏れる言葉から、父がいまだ入院していることは分かった。 今回も強いストレスを受け、心臓発作を起こしかけたらしく、今は安静にしているという。 重症ではない。命に別状はない――。 陽菜の顔が曇るのを見て、母はあまり考えすぎるなとたしなめた。「お父さん、歳は取ったけど、そこまで弱くないわよ」「お母さん……」「来るなら早く言ってくれれば、あなたの好きなもの、もっと買ってきたのに」 話題を変えるように、母は買ってきた野菜を片づけ始める。 袋から橙を取り出し、一つずつ丁寧に果物皿へ並べながら、ふと陽菜に視線を向けた。「大丈夫。私、好き嫌いないから」「昔はそうじゃなかったでしょう。ちゃんと食べさせるのに、どれだけ苦労したか」「それ、小さい頃の話だよ。中学に入ってからは、そんなことなかったでしょ」「中学生にもなれば、もう半分は大人みたいなものだもの。多少わがまま言っても、いちいち叱ったりはしないわ」 取り留めのない思い出話を交わすうちに、不思議と気持ちが軽くなっていく。 母と過ごす時間は、余計な不安を少しずつ遠ざけてくれた。 夜は、久しぶりに母と同じ布団で眠った。 最初は静かに眠れていたものの、スマートフォンが震えるたびに、陽菜はつい目を覚まして画面を確かめてしまう。 その気配に気づいたのか、母が小さく声をかけた。「どうしたの、陽菜。誰かの連絡を待ってるの?」 本当は、鷹宮からの返信を待っている。 それを口にすることはできなかった。「ううん、別に」「お母さんも、そのくらいの年頃は経験してるのよ。お父さんもね、若い頃はきちんとした人で……今はああなっちゃったけど、昔は本当に格好よかったの。毎晩みたいに連絡をくれてね」 陽菜はしばらく何も言わなかった。 今回のことがなければ、両親の関係は今も穏やかなままだったはずだ。 母が父を見る目には、いつだって愛情があった。父もまた、同じように母を見ていた。 そんな二人を見て育ったからこそ、陽菜は恋というものに憧れていたのだと思う。 そして一人だけを見続けるその在り方を、自然と身につけてし
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第113話

 陽菜は、翌日の午前中の便で帰ることにした。 滞在時間はあまりに短く、母と過ごせる時間も限られている。帰り支度を手伝いながら、母は相変わらず口では小言をこぼしていた。「次はこんな急に来ないでよ。何も用意できないし、ゆっくりもしてあげられないじゃない」 別れのときは、いつだって再会よりも感情が揺れる。 母が家にあった果物をいくつか選び、ひとつひとつ確かめながら陽菜のバッグに入れていく。その仕草を見て、ふと気づいた。 いつの間にか白髪が増えている。 背中も、少しだけ丸くなっていた。 昔はきびきびとしていた動きも、どこかゆっくりになっている。 胸の奥がじんと熱くなり、陽菜は思わず駆け寄って母を抱きしめた。「お母さん、私、ちゃんと働くから……もし家が戻らなかったら、私が部屋を借りる。そしたら、一緒に住もう」「何言ってるの。あなたくらいの年で、まだ親離れできてないなんて。私はね、やっと一人の時間が持てるようになって、けっこう楽しくやってるのよ」 そう言いながらも、母の目はやわらかく細められ、まるで嬉しさをこらえきれないように微笑んでいた。 高速バスに乗る前、母はふと思い出したように、昨日の話題に触れた。「陽菜、もし好きな人ができたら、機会があれば連れてきてね」「え……」「お母さんだって見る目はあるのよ。どんなに条件がよくても、私の娘にふさわしいかどうかは別なんだから」 自信満々に言い切るその様子に、陽菜は思わず笑ってしまう。 乗車の前に、もう一度だけ母を抱きしめた。「うん、わかった」 ほっと息をつくように、小さくそう答えた。* 月曜の夜。 仕事を終えたあと、陽菜は立花と約束していた時間に合わせ、急いで彼の事務所へ向かった。 夜になっても事務所は慌ただしい。 受付に案内され、応接室で十分ほど待っていると、ドアが開き、立花が先に姿を見せた。 その後ろに、もう一人。 おそらく、彼が言っていた外部の協力者だろう。 陽菜は反射的に立ち上がり、立花に挨拶をしようとして――その隣にいる人物の顔を見た瞬間、思わず目を見開いた。「い、一条くん……?」 一条の口元には、わずかに悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。人をからかってうまくいったときの、あの得意げな表情だ。 彼は今日ここで陽菜と顔を合わせることを、最初から知っていたはずなのに。 
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第114話

「りゃく……だつ?」 陽菜は聞き慣れない言葉を前にしたように、しばらく意味を掴めなかった。 自分の生活とはあまりにも縁遠い響きだったからだ。 これまでの人生が、あまりにも平凡で穏やかだったせいかもしれない。陰謀や駆け引きなど、自分とは無関係の世界のものだと思っていた。 その反応を見て、一条はわずかに眉をひそめる。 どう説明すべきか、言葉を探すようにしてから口を開いた。「東和樹。覚えてるか。同じクラスだった年があっただろ」 不意に出された名前に、陽菜は高校時代の記憶をたどる。久しく聞いていなかった名前だったが、ぼんやりとした輪郭が浮かび上がる。 たしか……鷹宮とも親しかったはずだ。 ただ、一条ほど常に一緒にいるような関係ではなかった。「東和くん……」「東和キャピタルパートナーズの末子だ。将来の後継者候補として有力視されていて、兄たちより評価が高いとも聞いている」 立花が淡々と補足する。 その言い方に、一条は鼻で笑った。 露骨な嫌悪が、その表情に滲む。「そりゃそうだろ。あいつは一番性格が悪い。狡猾で、遠慮がない。あの家の中でも飛び抜けてる」 立花はその評価に対して否定も肯定もしなかった。直接関わりがあるわけではない以上、踏み込んだことは言えない。 把握している情報だけを静かに並べる。 もっとも、陽菜がその東和と同級生だったという事実には、わずかに驚いたようだった。「藤野、なかなか濃い顔ぶれだな。修司に加えて、東和までいるとは」「……褒めるなら俺だけにしてくれ。あいつを並べるな」 一条は不満そうに言い返しながら、ソファに腰を下ろす。すぐには話さず、しばらく考え込むように眉を寄せる。 やがて顔を上げ、改めて陽菜を見た。「東和グループはな、昔から同じやり方をしてる。将来性のある中小企業を狙って、特許を安く買い叩く」 言葉は低く、はっきりとしていた。「そのために、何年もかけて内部に入り込む。資金の流れをいじったり、トラブルを起こしたり、場合によっては違法すれすれのこともやる。で、会社が訴えられたり立ち行かなくなったところで、“助ける”って顔をして買い取る……実際には、自分たちで追い込んでおいてな」「……」 陽菜は言葉を失ったまま聞いていた。 父の会社が突然告発されたこと。 数年前から続いていた不自然な資金の動き。 点
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第115話

「高校の頃から……」 陽菜の顔から、さっと血の気が引いた。一条の言葉が、すぐには信じられなかった。 けれど心のどこかでは分かっている。 彼はこんなことで冗談を言うような人ではない。善悪の線引きがはっきりしていて、不正を嫌う性格だ。 そんな彼が東和に対してあそこまで断じるのなら、東和は、本当にそれほどのことをしているのだろう。「藤野、以前話していただろう。大手の法務チームが、お父さんに契約を持ちかけてきたと。それを聞いて思い出した。数年前、俺も類似の案件を扱ったことがある。当時、倒産寸前だった会社が、東和に市場価格を大きく下回る額で買収されていた。それ以来、こうした動きには注意している」 陽菜は確かに、立花に父や会社の状況をかなり詳しく話していた。あのとき、東和の名前を出したかどうかは覚えていない。 思い返せば――父が口にしていたのは、確かに東和の弁護士だった。「やっぱり……東和、だったんだ……」 力が抜けたように、陽菜は椅子へと崩れ落ちた。 全身から何もかもが抜けていくような感覚。穴の空いた風船のように、ただ果ての見えない無力感だけが残る。「藤野、大丈夫か?」 その様子に、一条が思わず声をかける。 ソファから立ち上がると、すぐに陽菜のもとへ歩み寄り、その場で片膝をついた。見上げる形で陽菜を覗き込む。 その唐突な距離の近さに、陽菜も立花も一瞬息を呑んだ。立花が何か言おうとするより先に、一条は堪えきれず、陽菜の手をそっと握る。 あまりにも顔色が悪かったからだ。どうしても、放っておけなかった。 ――自分の気持ちに気づいてしまってから、ずっと抑えてきた想い。 それでも、陽菜はいつも視界の中にいる。近くにいるほど、自分が我慢していることを思い知らされる。 そして、そのたびに胸が軋む。 手の温もりに、陽菜は反射的に手を引くこともできず、ただ呆然と一条を見つめた。 一条の視界にも、今は陽菜しか映っていなかった。「大丈夫だ、藤野。俺たちがいる。何か方法はあるはずだ」 その言葉に、立花も静かに口を挟んだ。 彼の視線が一瞬だけ、重なった二人の手に落ちる。だがすぐに逸らし、何事もないように表情を整えた。「そうだな。藤野、一緒に打開策を探そう。まずは……お父さんが署名した契約書を手に入れてほしい。原本でも、写真でも構わない」* 立花の事
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第116話

 見つめ合っていた時間は長くは続かなかった。すぐに、車の窓の外からの物音に遮られる。 コン、コンと軽く叩く音がして、陽菜は振り返った。 予想もしていなかった光景が目に入る。 鷹宮が車の外に立っていた。 ごくわずかに笑みを浮かべ、窓越しにまっすぐ陽菜を見つめている。その瞳は、夜の中でもはっきりと光を帯びていた。 一条の胸が、重く沈む。 自分がさっき何をしたのかを思い出し、気まずさを隠すように小さく咳払いをし、視線を逸らした。「鷹宮さん……?」 驚きと、どこか弾むような喜びが混ざった声で、陽菜が呼ぶ。 ドアを開けると、鷹宮の落ち着いた声が静かに届いた。「ちょうどこの近くで用事があってね。ついでに顔を見に来たら、ちょうど戻ってきたところだったみたいだ。……タイミングがよかった」 穏やかな調子のまま、少しだけ気遣うように続ける。「でも、車の中で話していたなら……邪魔してしまったかな」 その声音には、ただ自分の突然の訪問が迷惑になっていないかを気にする色だけがあった。 一条が顔を上げる。「いや、ちょうどいいところだった。藤野とは今、別れ際だったんだ。凌が来たなら、俺はここで失礼するよ」「修司、このあとどこか行くのか?」「ああ、少しな。今日はたまたま藤野と帰りが同じ方向だっただけだ。……変に勘ぐるなよ」 鷹宮は一瞬きょとんとした表情を見せる。「勘ぐる」という言葉の意味がすぐには結びつかなかったらしい。 やがて軽く笑い、頷いた。「ありがとう、修司」 鷹宮はそのまま陽菜と一緒に帰ることはなかった。 言った通り、この近くで会食の予定があり、その前に立ち寄っただけらしい。 陽菜はスマートフォンを取り出し、着信履歴に目を落とす。鷹宮からの不在着信がいくつか並んでいた。 マナーモードにしていたせいで、気づかなかったのだ。「すみません、鷹宮さん。電話、気づかなくて……」「大丈夫だよ。連絡はつかなかったけど、こうして会えたから」 鷹宮はやわらかく微笑む。 車を降りたあと、二人はマンションの前で並んで立った。言葉を交わしながらも、互いの間にはわずかな距離が残ったまま。 縮めようとする気配はどちらにもない。 鷹宮はただ思い至らないだけで、陽菜は踏み出す勇気がない。 静かな時間だった。 二人だけの、落ち着いたひととき。 いくつか言
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第117話

 父が署名したあの契約書――その写しを手に入れるまでに、想像以上の時間と手間がかかった。 最大の障害は父だった。 強い刺激を受けて以来、一度も陽菜の電話に出ようとしない。母は電話には出てくれるものの、契約の詳細を把握しておらず、父に確認を取りに行こうともしなかった。 そのため、一週間が過ぎても、陽菜はいまだに契約書の中身を目にできていない。 焦りだけが募っていく。 このままでは埒があかない。 休みの日に病院へ行き、直接父に会おうと考えていた。ちょうどそのタイミングだった。 その意図を見透かしたかのように、一条が先に口を開いた。「今度の休み、病院に行くつもりか?」 陽菜が驚いて顔を上げると、一条は少し探るような目で続ける。「よかったら、俺も一緒に行く。契約の件、できるだけ早く確認したほうがいい」 思わず目を見開く。 正直、そこまで付き合わせるのは気が引けた。 自分の家の問題だ。これ以上、一条に負担をかけたくない。 けれど一条の様子はどこか切迫していて、言葉にもはっきりした理由があった。「東和は動きが早い。こっちが対策を考えてる間に、向こうは全部片づけてるかもしれない。時間をかけるほど不利になる」 一度息をつき、低く続ける。「それに……あいつに好き勝手させるのは、見てられない。俺にも、あいつに対して思うところがある。今回の件、簡単には引けない」 そこまで言われてしまえば、断る理由はなかった。 土曜の午前に出発することが決まり、一条が車を出して、郊外の病院へ向かうことになった。 * 当日。 出発したときは晴れていた空が、途中から急に雲に覆われた。やがて細かな雨が降り出し、フロントガラスに無数の水滴が打ちつける。 一条は手際よくワイパーを動かしながら、小さくつぶやいた。「こんな予報、出てなかったはずなんだけどな」「急に降り出したみたいですね」 陽菜はスマートフォンを見ながら答える。 車内には静かな音楽が流れていた。 一条が好む、落ち着いた雰囲気の英語のバラード。 耳に心地よい旋律だったが、彼がとりわけ好きだと言っていたあの曲だけは、なぜか流れない。 何気なくそのことに触れると、一条は少し困ったように笑った。 ぼそりと、聞き取れないほどの小さな声でつぶやいた。「最近は、あまり聴かないようにしてる、聴くと……思い
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第118話

 悠真の名を口にしただけで、一条の胸の奥が締めつけられる。今でもなお、心臓がひどく痛むのを、はっきりと感じていた。 高城悠真――。 鷹宮とはまた違う意味で、一条にとってかけがえのない存在だった。 二人が出会ったのは高校一年のとき。 悠真は一条の前の席で、出席番号も近く、自然と同じ班に振り分けられることが多かった。掃除当番も一緒になることが多く、気づけば言葉を交わす機会が増えていった。 一見すると物静かで穏やかな印象だったが、内には熱いものを秘めている人間だった。 世界に対する好奇心が強く、本をよく読み、同年代とは思えないほどの知識と視野を持っていた。 家庭環境にも恵まれていたのだろう。 父親は地方で工場を営んでいて、裕福とは言えないまでも、年に何度か家族で海外へ出かけられる程度の余裕はあった。 物欲は薄く、ささやかなことで満足できる性格だった。 だからこそ、その暮らしは彼にとって十分に満ち足りたものだったはずだ。 悠真は両親を大切にしていた。 一条も、何気ない会話の端々から、それを感じ取っていた。 ただ一つだけ、問題があるとすれば。 彼は、人を見る目だけは致命的に甘かった。 数多くの優秀な同級生がいる中で、よりにもよって金城月乃を選んだ。そして一度想いを寄せてしまえば、簡単には引き返せなくなる。 当時の一条は、月乃の本性を知らなかった。 告白がうまくいったと聞いたときも、心から祝福していた。 今になって思えば、あのとき、止めるべきだったのだ。 もし月乃が関わっていなければ、結末はここまでひどくはならなかったかもしれない。 すべては、あの女と東和のせいだ。「東和がいつ悠真に目をつけたのかは分からない。入学当初は同じクラスでも接点はなかった。ただ……後になって考えれば、あいつは最初から、クラスの人間の家庭事情を一通り把握していたんだろうな」 一条の声が、ゆっくりと沈む。「悠真は格好の標的だった。家の規模は小さいが、完全な一般家庭とも違う。東和にとっては、ちょうどいい相手だったんだ」「ちょうどいい……?」「練習台だ。前にも話しただろう。東和キャピタルパートナーズは、小規模な企業を狙って、価値のある技術や特許を安く買い叩いてきた。あの会社がここまで大きくなったのも、その積み重ねだ」 吐き捨てるように言
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第119話

 事実の重さに圧倒され、陽菜はしばらく言葉を失った。 唇を閉ざしたまま、何も言えない。 つい先ほどまでの月乃の言動を思い返す。 人は大人になってから急に変わるのではなく、最初からそういう本性を持っていたのかもしれない。ただ、それに気づかなかっただけで。 その沈黙に気づいたのか、一条がちらりと陽菜を見る。少しだけ表情を曇らせ、気遣うように口を開いた。「悪い、藤野。今の話、きつかったか」「え……」 陽菜は一瞬きょとんとし、小さく首を振る。「違います……ただ、月乃がああいう人だなんて、思ってもみなかっただけで」 車外の雨は、いつの間にか強くなっていた。フロントガラスを打つ音が、次第に存在感を増していく。 雨のせいで空も暗く沈み、昼間の明るさはどこかへ消えていた。 穏やかな英語のバラードが流れる車内は、不思議なほど静かで、外の世界から切り離されたような空気に包まれている。 その中にいるのは、陽菜と一条、ただ二人だけ。* 病院に着いた頃には、すでに夕方になっていた。雨脚は衰えるどころか、さらに強まっている。 胸の奥に、言いようのない不安が広がった。 父から聞いていた病室を頼りに向かう。 だが、そこに父の姿はなかった。 ナースステーションで確認すると、父はすでに別の病室へ移されているという。 しかも、個室に。「個室……」 移動したのは数週間前。 時期を考えれば、あの契約の話をしてきた頃と重なる。 一条の眉が、わずかに寄った。 嫌な予感がする。 二人は足早に個室のある階へ向かった。そのフロアはひどく静まり返っている。 父の病室の前には、一人の男が立っていた。 スーツ姿で、無言のまま周囲を警戒している。 陽菜は見覚えがなかったが、一条は小さく声を落とした。「……東和の人間だ」「東和……?」 胸が大きく跳ねる。 今日一日だけでも、驚くことばかりだ。 それでも、目の前の状況を見れば、すべてが繋がる。 連絡の取れなくなった父。 勝手に移された病室。 そして、入口に立つ見張りのような男。 陽菜は一条と視線を交わす。 一条の表情には迷いと苦さが混じっていたが、やがて静かに頷いた。「……お父さんが、閉じ込められてるんだ……」 ほとんど声にならないほどの小さな呟き。 これまでも父が電話に出ないことはあった。だから
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第120話

 陽菜は病室の外壁に掲げられた父の名前を、もう一度確認した。 そして、努めて理性的に、けれど胸を張るように声を上げる。ほとんど叫びに近かった。「中にいるのは私の父です。どうして私が入ってはいけないんですか!? 私より、あなたは何なんですか。どうして父の病室の前に立っているんですか!」 陽菜はこれまで、こんな大声を出したことなど一度もなかった。たとえ演技だとしても、誰かとここまで正面から衝突したこともない。 だが男は、これまでにも理不尽に騒ぎ立てる人間を嫌というほど見てきたのだろう。急に声を荒らげた陽菜など、まるで相手にしていない。 むしろ滑稽だとでも言うように、鼻で笑った。「お嬢さん、藤野さんは今、静養が必要な状態です。どうかご理解ください。……あなたが本当に娘さんなら、なおさら」 その一言に、陽菜は本気で頭に血が上りそうになった。 胸の奥から湧き上がる怒りに任せて、陽菜は「父に会わせてくれないなんておかしい」と男に食ってかかり、病室へ押し入ろうとした。 ほどなくして、その騒ぎを聞きつけた数人の看護師が慌ただしく駆け寄ってくる。 人が来たのを見て、陽菜はさらに引き下がらなかった。スーツの男を指さし、看護師たちに向かって訴える。 場は一気に混乱した。 その混乱に紛れて、一条はスーツの男の注意が逸れた一瞬を逃さず、病室の中へ滑り込んだ。 陽菜の父は、扉のすぐそばに立っていた。 早い段階で外の騒ぎに気づいていたのだろう。 一条が慌ただしさに紛れて入ってきたのを見るなり、びくりと肩を震わせた。しかも一条は、彼にとってまったく見覚えのない男だ。身体は反射的に後ろへ下がり、その姿は明らかに怯えていた。「藤野のお父さん、ですよね?」 あまりにも怯えた様子に、一条はできる限り柔らかな声で呼びかけた。両手を軽く上げ、危害を加えるつもりはないと示しながら、早口で自己紹介する。「俺は娘さんの友人です。藤野陽菜さん、ですよね。高校の同級生で、一条修司といいます。……藤野が俺の名前を出したことがあるかは分かりませんが。今回は、ご家族の件で彼女と一緒に来ました」 娘の友人だと聞いて、陽菜の父は少しずつ警戒を解いた。だがすぐに、病室の外にいる陽菜のことを心配そうに尋ねる。「一条くん……? 娘は今、外にいるんだろう? あの子は大丈夫なのか?」「大丈夫です
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