All Chapters of 一夜の再会から始まる、雇われない恋: Chapter 141 - Chapter 150

158 Chapters

第141話

 月乃のあからさまな脅しを含んだ口調に、陽菜は思わず息を呑んだ。 不安を紛らわせるように胸元のバッグをぎゅっと抱きしめ、警戒するような眼差しで月乃を見る。 だが、そんな反応すら月乃には滑稽にしか映らなかった。 何か言おうと口を開きかけたその時、スマートフォンの着信音が鳴り響く。 画面に表示されていたのは東和の名前だった。 おそらく状況が気になり、わざわざ確認の電話をかけてきたのだろう。その名前を目にした瞬間、月乃の顔色が変わった。「見張ってて」 そうぶっきらぼうにスーツ姿の男たちへ言い残すと、月乃は慌ただしく車を降り、外へ出て電話に応じる。 残された二人の男は、ただ陽菜が逃げ出さないよう監視するためだけにいる存在だった。 月乃がいなくなった後も、一言も喋らない。 二人とも背筋を伸ばした同じ姿勢で座り、陽菜が一人の女性でしかないからか、ほとんど視線すら向けてこなかった。 陽菜の心臓は激しく鼓動を打っていた。 男たちの注意がそれほど自分に向いていない隙を見て、バッグで手元を隠しながら、そっとスマートフォンを握り締める。 指先の感触と、バッグの隙間からかろうじて見える僅かな画面だけを頼りに、ロックを解除した。 誰かに助けを求めなければ。 そう思いながら連絡先を開く。 一瞬、頭に浮かんだのは鷹宮だった。 けれど混乱した指先が実際にかけていたのは、一条の番号だった。 電話はすぐにつながる。 陽菜はそれを確認すると、慌ててバッグでスマートフォンを覆い隠し、わざと声を大きくして隣の男へ話しかけた。「あの……車の中、少し空気がこもっている気がして……地下駐車場だからでしょうか。できれば――」 言い終える前に、男が不機嫌そうに遮った。「静かにしろ」 陽菜は恐怖で頭が真っ白になりそうになりながらも、やめることができなかった。「ここって東和の会社ですよね? あなたたちは……東和の人なんですか? それとも月乃が雇った人なんですか?」 もちろん、返事は返ってこない。 反対側の男が警戒するように陽菜を睨みつけ、その全身から放たれる威圧感に思わず息が詰まりそうになる。 陽菜はスマートフォンの画面を見る勇気もなく、そのまま黙り込んだ。 そして、月乃が再び車へ戻ってくると、男もようやく視線を逸らした。「何かしてないでしょうね?」 戻ってき
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第142話

 月乃の口から飛び出すのは常軌を逸した言葉ばかりで、その目には狂気が宿り、まるで次の瞬間にも本当に実行してしまいそうな危うさがあった。 その姿を前にして、陽菜は初めて目の前の女に恐怖を覚える。 理解できない。 完全に――狂っている。「月乃ちゃん……一条君のこと、好きだったんじゃないの? そんなことをしたら……」「好き? はははははっ……」 月乃は腹を抱えるように笑った。「陽菜、私、一条君のことなんて一度も好きだったことないわよ。ただ条件とお金が良かったから狙ってただけ。こんな歳になってまだ愛だの恋だの言ってるなんて、陽菜、あなたも相当おめでたいわね」「……」「それにね、一条君、私を振ったのよ。こっちはベッドに連れ込むところまでいったのに、あの男、拒否したの」 あの夜のことを思い出すだけで、今でも奥歯が軋む。 一条は、月乃が目をつけた男たちの中で唯一、自分の身体を拒んだ男だった。 男なんて欲望には勝てない。 ずっとそう信じていた。 それなのに、いかにも女遊びに慣れていそうな一条に、自分が負けた。その事実が、今でも悔しくてたまらない。 強い屈辱と不甘心は怒りへと変わり、その矛先は陽菜へ向いた。 月乃は隣に座る男たちへ視線を向けると、冗談でも言うかのように楽しげに笑った。「ねえ、あなたたち。この女としたくない? タダよ? それに樹君が言ってたもの。何をしても責任は自分が取るって。だからさ……ここでやっちゃわない?」 そう言いながら、月乃はすでにスマートフォンを取り出し、カメラを起動していた。 レンズの先に映るのは、恐怖で身体を強張らせた陽菜。「月乃……自分が何をしてるか、分かってるの?」 陽菜の震える声に対し、月乃は狂ったように笑った。 本当に楽しくて仕方がないというように。 スマートフォンを揺らしながら男たちへ指示を飛ばす。「ほら、服脱がせて」 男たちは一瞬だけためらった。 しかし彼らは命令に従う立場の人間だった。 月乃の執拗な命令に押され、一人の男が身体を動かし、手を伸ばして陽菜の肩へ触れようとする。「いやっ!」 男の手が触れるより先に、陽菜は悲鳴を上げた。 必死に車から飛び出そうと身をよじる。 だがすぐに両脇の男たちに押さえ込まれた。 そのもみ合いの中で、膝の上に置いていたバッグとスマートフォンが床へ
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第143話

 一条が電話の向こうで何を言ったのかは分からない。 だが、話をするうちに月乃の表情はますます明るく輝き始め、嬉しそうに何度も「それなら大丈夫」「悪くないわね」と繰り返したあと、満足げな笑みを浮かべて通話を切った。 陽菜を見る目からさえ、先ほどまでの敵意が少し薄れている。「陽菜、どうやら一条君の中で、あなたってそこまで大した存在じゃないみたいね。私、少し買いかぶりすぎてたみたい」 意味ありげな言葉だけを残すと、月乃は調子外れの鼻歌を口ずさみながら背を向けた。 何が起きているのか分からない陽菜は、ただ黙ったまま何も言えなかった。 スマートフォンは月乃に取り上げられたまま。 もう誰かに助けを求めることもできない。 時間だけが少しずつ過ぎていく。 ひどく長く感じられた。 車内は静まり返っていた。これだけ人がいるのに、誰一人として口を開かない。不気味なほどの沈黙が続く中、陽菜の胸には少しずつ焦りが広がっていく。 実際には、まだそれほど時間は経っていないのかもしれない。 けれど、この場所で過ごす一秒一秒があまりにも苦しくて、陽菜はもう限界に近づいていた。 重苦しい静寂の中で、陽菜はふと鷹宮のことを思い出した。 今頃、鷹宮は何をしているのだろう。 まさか自分が誘拐されているなど、想像すらしていないに違いない。 もしこうなると分かっていたなら、昨日ちゃんと電話をしておけばよかった。 そうすれば今頃、あの優しい声を思い出して、自分を落ち着かせることができたかもしれない。 しかし、恐怖が強すぎるせいなのか、頭の中の鷹宮はうまく形にならなかった。 顔も。 声も。 何ひとつ思い出せない。 必死に思い浮かべようとするほど、脳裏には真っ白な空白だけが広がっていく。 そのことが余計に陽菜を焦らせた。 額にはじんわりと薄い汗が滲む。 陽菜は小さく首を振り、なんとか冷静になろうと深く息をついた。 先ほど一条の名前が出たせいだろうか。 一度頭を空っぽにした瞬間、今度は不思議なくらい鮮明に、一条の姿が思い浮かんだ。 その直後だった。 耳元で、ドンッと重い衝撃音が響いた。 陽菜はびくりと肩を震わせ、反射的に振り向く。 そして目に飛び込んできたのは――焦りと怒りを滲ませた、一条の顔だった。 張り裂けそうなほどの不安に押し潰されかけていた心は、
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第144話

 車内にいる陽菜には、外で交わされている一条と月乃の会話まではよく聞き取れなかった。 ただ、一条が険しく眉をひそめていることと、月乃の口元に浮かぶ得意げな笑みから、どうやら月乃にとって都合のいい話になっているのだろうということだけは察することができた。 しばらくして、話に決着がついたのか。 一条はスマートフォンを取り出し、何かを操作すると、その画面を月乃に見せた。 月乃は眉を上げる。 そして、ゆっくりと顔を横に向け、陽菜のいる方へ視線を向けた。 黒いスモークフィルム越しに、外にいる月乃から車内の様子が見えるはずはない。 それなのに陽菜は、一瞬だけ、月乃と目が合ったような気がした。 月乃はそのまま車のドアへと歩み寄る。 何のためらいもなくドアを開けると、車の傍らに座っていた黒服の男へ顎をしゃくった。「降ろしてあげて」  地面に足をつけた時も。 そして、その手首を一条に強く握られた時も。 陽菜はまだ状況をうまく飲み込めずにいた。 無意識のうちに一条のすぐそばへ身を寄せながら、警戒するように月乃を見つめる。 だが、月乃はそんな陽菜の視線など気にも留めていなかった。 一条とどんな取引をしたのかは分からない。少なくとも今の彼女にとって、陽菜などもはや眼中にないらしい。 陽菜には一瞥もくれず、ただ一条だけを見て言った。「一条君、約束を忘れないでね」 一条は喉の奥で低く笑った。冷ややかな、嘲るような笑いだった。 しかし、何も答えはしない。 そのまま陽菜の手を引き、足早にその場を後にする。 自分の車までたどり着き、二人がようやく座席に腰を下ろしたところで、一条は初めて安堵したように息をついた。 そして、心配そうに陽菜の全身を何度も見回しながら、かすかに震える声で尋ねる。「藤野……あいつら、何もしてないよな?」 陽菜は小さく首を横に振った。 恐怖はまだ完全には消えていない。心臓も激しく脈打ち続けている。 それでも、一条が隣にいるという安心感に包まれた途端、それまで張り詰めていた緊張が一気にほどけた。 恐怖の反動なのか、全身から力が抜けていく。「ううん……。ありがとう、一条君」「よかった……本当に……俺、怖かった」 一条は大きく息を吐いた。 張り詰めていたものが切れたのか、その声はかすかに震えていた。 陽菜と同じように
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第145話

 鷹宮の母親から突然連絡が来たのは、それから一週間後の土曜日のことだった。 この一週間、一条は陽菜のことをひどく気にかけていた。 また自分の知らないところで手の届かない事態が起きるのではないかと後を引いているのか、陽菜を危険な目に遭わせたくないという思いが強く、仕事帰りは必ず自分が送り迎えすると譲らなかった。 陽菜は申し訳なく思う一方で、胸の奥には誰にも知られたくない小さな喜びも隠れていた。 月乃に誘拐されたことは、結局鷹宮には話していない。 もともと鷹宮との連絡はそれほど頻繁ではない。 たまに鷹宮から電話がかかってきても、わざわざそんな話をして心配をかけたくなかった。 それに、もう終わったことだ。 今さら話したところで、何かが変わるわけでもない。  突然鷹宮の母親から連絡が来たことに、陽菜は驚きと同時に少しの恐怖を覚えた。 この一週間、鷹宮とは一度も顔を合わせていない。 いったい何の用なのだろう。 送られてきたのは、とあるレストランの名前と住所だった。 短いメッセージの文面からも変わらぬ強引さが伝わってきて、必ず来るようにと念を押されている。 陽菜は迷ったまま時間だけを過ごしていたが、結局は断り切れなかった。 やはり自分は気が弱いのだろう。 相手は鷹宮の母親なのだから、無視するわけにもいかない。 そう思い、約束の場所へ向かった。 ただ、鷹宮の母親が自分一人を呼び出したのだと思っていた陽菜は、レストランの個室に入った瞬間、思わずその場で立ち尽くした。 そこには鷹宮と、見知らぬ女性がいた。 鷹宮もまた、陽菜が来るとは思っていなかったのだろう。その表情には驚きがありありと浮かんでいる。 一方で、鷹宮の母親は陽菜の姿を見ると、ぎこちない笑みを無理やり浮かべ、「藤野さん、早く座ってちょうだい」 と促した。 その女性は、以前鷹宮の母親が見合い相手として連れてきた綾乃ではなかった。 陽菜の知らない顔だった。 鷹宮は黙ったまま、何を考えているのか分からない。 陽菜が席に着いても特に反応を見せなかったが、しばらくしてようやく我に返ったように小さく笑い、「陽菜さん、最近は元気だった?」 と、控えめな声で声をかけた。 息子が陽菜に話しかける様子を見て、鷹宮の母親は思わず小さく鼻を鳴らす。 そして、終始落ち着いた表情を崩さ
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第146話

 一度の食事は、陽菜にとってひどく息苦しいものだった。 陽菜はほとんど箸をつけられず、鷹宮の意識もまた完全に詩織へ向いていた。 鷹宮の母親が何度か話しかけても、彼はどこか上の空だった。 陽菜はずっと知っている。 鷹宮が今でも初恋の相手を忘れられずにいることを。 そして、二人の関係を狂わせたあの過ちのキスも、結局は詩織を想っていたからこそ起きたものだった。 本当なら胸が痛んで、苦しくてたまらないはずだった。 何年も好きでい続けた人なのだから。 けれど不思議なことに、陽菜は自分が思っていたほど傷ついてもいなければ、嫉妬しているわけでもなかった。 驚くほど穏やかだった。 穏やかなまま、これまで何年も鷹宮を見つめ続けてきた日々を振り返る。するとそれさえも、ただの懐かしい思い出のように感じられた。 もう、特別な意味など何も残っていない。「……あ」 そういうことだったのか。 陽菜は俯き、そっと胸のあたりに手を触れる。 長く長く続いた恋は、いつの間にか終わっていたのだ。 夕食を終えると、鷹宮が陽菜を送ると言い出した。 すると珍しく鷹宮の母親も反対せず、むしろ詩織の腕を親しげに抱き寄せながら、「詩織ちゃん、今夜はうちに寄っていかない? 凌が帰ってきたら、またゆっくり昔話もできるでしょう?」 と笑顔で声をかける。 詩織は反射的に鷹宮を見た。 鷹宮もまた、その視線を受け止める。 だが、詩織は笑顔で首を横に振った。「おばさま、今日はもう遅いですし、母にも早く帰るって約束しているんです。また今度、両親と一緒にご挨拶に伺いますね。どうでしょう?」 そんな会話を交わしながら、二人は先に歩いていく。 その場には、鷹宮と陽菜だけが残された。 鷹宮はしばらく詩織の後ろ姿を見つめていたが、ようやく我に返ったように陽菜へ視線を向け、申し訳なさそうに小さく笑った。「陽菜さん、送っていくよ」 陽菜は頷き、鷹宮の後をついて駐車場へ向かった。 車が走り出してからしばらくの間、車内には静かな空気が流れていた。 鷹宮は何度も口を開きかけては閉じる。 何かを言おうとしているのだろう。 その表情はどこか硬く、結局しばらく走っても言葉は出てこなかった。 先に口を開いたのは陽菜だった。「鷹宮さん……少し、お話ししてもいいですか?」「あ……うん。どこか
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第147話

 鷹宮が陽菜に対して他にどんな感情を抱いていたとしても、少なくとも二人の関係に対して、彼なりの責任感を持っていたことだけは確かだった。 短い沈黙のあと、鷹宮は気を取り直すように口を開く。「陽菜さん。僕と詩織はもう……過去のことなんだ。別れたのも、二人で何度も話し合った末に決めたことだったし。ただ、詩織の家と僕の家は昔から親しくしているから、今日母さんがあんなことをしたのも……」「違うんです、鷹宮さん。責めたいわけじゃないんです。ただ……好きな気持ちって、隠そうとしても隠しきれないものだから……」「……」 鷹宮は黙り込んだ。 反論できる言葉はなかった。 陽菜の言葉は間違っていない。彼は一度も、本当の意味でその想いを手放せてはいなかった。 口ではずっと「二人で決めたことだった」と言ってきたが、鷹宮にとってそれはただの諦めでしかなかった。 詩織は空を自由に羽ばたく鳥のような人で、鷹宮はそんな彼女を閉じ込めてしまう鳥籠になってしまう。 だからこそ、自分は鳥籠にはなりたくなかった。 詩織には、自分の望むままに、自由に、そして眩しく生きていてほしかった。 長い沈黙の末、鷹宮は苦笑を浮かべた。「ごめん、陽菜さん。僕、誰に対してもきっと、いい彼氏にはなれないな」「違います。私は鷹宮さんを責めたいわけじゃなくて……ただ、私は……私たちは……」 もう、終わりにした方がいい。 その言葉は何度も舌の先まで上ってくるのに、どうしても口にすることができなかった。 こんな時になっても、まだ手放したくないと思ってしまう自分が情けない。 きっと自分は欲張りなのだ。 けれど、自分から言い出さなければ、責任感の強い鷹宮は絶対に切り出さない。 彼は無理をしてでもこの関係を続けようとする。 何も悪くないのに、必要のない責任まで背負ってしまう。「どうした? 陽菜さん」「鷹宮さん……私たち、この関係を終わりにしませんか?……昔から本当に鷹宮さんのことが好きでした。でも、このままじゃ、私が鷹宮さんに無理をさせているみたいで……私は、そんなの嫌なんです」「……陽菜さん。僕、努力するから」「気持ちは努力だけでどうにかなるものじゃありません。好きな人がいるまま、別の人に責任を取ろうとしたって……そんなの、私たち二人とも苦しくなるだけです」 陽菜は、なんとか自分の気持
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第148話

 陽菜のその言葉に、鷹宮はそれ以上引き止めようとはしなかった。 しばらく黙り込んだあと、小さく息を吐く。 陽菜を見る眼差しには相変わらず申し訳なさが滲んでいたが、それと同時に、陽菜と同じようにどこか解放されたような安堵も浮かんでいた。「ごめん、陽菜さん」「鷹宮さん、今日ずっと謝ってばかりですね。何度も言いましたけど、鷹宮さんのせいじゃないんです。できることなら……鷹宮さんとは、こんなふうにお互いに申し訳なく思わなくていい関係になりたいです」 陽菜はそう言って、鷹宮に小さく微笑みかけた。「もちろん……」 鷹宮はすぐに頷いた。 ただ、気持ちの整理はまだ追いついていないのだろう。 すぐには難しそうだった。 陽菜もそれ以上無理に求めることはせず、しばらく車窓の景色を眺めたあと、笑顔で鷹宮に頼んだ。「鷹宮さん、最後に一つだけお願いです。……家まで送ってもらえますか?」「……陽菜さん。これから先も、僕を頼ってくれていいんだよ」「友達として、ですか?」「もちろん。陽菜さんが嫌じゃなければ」 鷹宮は陽菜をマンションの前まで送った。 別れを口にしてからの車内は、不思議なくらい最初よりも空気が柔らかくなっていた。 鷹宮も目に見えて肩の力が抜けていて、その姿に少し複雑な気持ちになりながらも、陽菜は本当によかったと心から思った。 車を降りる前、鷹宮は何度も念を押すように言った。「陽菜さん。これから何かあったら、遠慮しないで連絡して。僕にできることがあるなら、何でもするから」 陽菜は頷き、鷹宮に笑顔を向ける。「……おやすみなさい、鷹宮さん」 車を降りたあとも、陽菜は鷹宮の車が見えなくなるまでその場で見送った。そしてマンションへ入ろうとしたその時、不意にスマートフォンが鳴り出す。 画面に表示されていたのは、一条の名前だった。 一条から突然電話がかかってくること自体は、別に珍しいことではない。 けれど、こんなにも絶妙なタイミングだと、陽菜は思わず一条が何か知っているのではないかと考えてしまう。「一条君?」 電話に出て声をかけた途端、受話器の向こうから一条の明るい声が返ってきた。「おう、藤野。今ちょうど信号待ちしててさ、せっかくだから電話しようと思って。明日の予定のことなんだけど――」 どうやら、一条は陽菜が別れたことを知って電話してきた
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第149話

 何が起きたのかは分からなかった。 ただ、本能的に一条の身に何かあったのだと感じていた。 そんな予感と、何度かけても繋がらない電話に、陽菜はますます焦りを募らせた。 それでも、どうすることもできない。 ただ、何度も何度も通話ボタンを押し続けることしかできなかった。 そんな状況は翌日になっても変わらず、陽菜は依然として一条と連絡が取れないままで、どうしようもなくなった末にようやく鷹宮の番号を押した。本当は、こんなに早く鷹宮を頼るつもりはなかった。「た、鷹宮さん……あの……その……」「あ、陽菜さん? 待って待って、まず落ち着いて」 電話が繋がった途端、陽菜は焦りのあまり言葉にならなくなる。 そんな様子に鷹宮は一瞬驚いたものの、すぐに優しく声をかけた。 落ち着いた口調に、陽菜も少しだけ冷静さを取り戻す。何度も深呼吸をしてから、ようやく言葉を絞り出した。「鷹宮さん、一条君が……一条君が……」 けれど途中でまた焦りが込み上げ、うまく言葉を続けられない。 そんな混乱の中で、受話器の向こうからかすかなため息が聞こえた。「陽菜さん。君が聞きたいことは分かってる。今から迎えに行くから、そのあとでちゃんと話す。いい?」「一条君、何かあったんですか?」 いつもの陽菜なら、もっと落ち着いて鷹宮の話を聞けたはずだった。 なぜか今は駄目だった。 どうしても待っていられないほどの焦燥感に駆られていて、そんな陽菜の様子を察した鷹宮は、先に安心させるように言った。「陽菜さん。修司は大丈夫だよ。……うん、元気だから。今から迎えに行く。それから一緒に会いに行こう。いい?」 鷹宮はすぐにやって来た。 昨日別れた時と同じ服を着たままの陽菜を見ると、鷹宮はほんのわずかに目を見開き、何か言いかけたものの、その言葉を飲み込んだ。 陽菜は昨夜、一睡もしていなかった。 不安で落ち着かず、着替える余裕すらなかったのだ。 そんな自分に鷹宮が気づいたことで、陽菜もようやく我に返ったように、気まずそうに服の裾を引っ張った。「ごめんなさい……ちょっと、焦りすぎてて……」「大丈夫だよ、陽菜さん。先に準備する? それとも、このまま行く?」 結局、陽菜は着替えてから鷹宮と一緒に出発した。 道中も陽菜の不安は隠しきれず、本人は平静を装っているつもりだったが、運転する鷹宮は何度
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第150話

 一条の全身の半分以上には包帯が巻かれていた。 片手は点滴のために布団の外へ出され、顔も半分ほど腫れ上がっていて、痛々しい痣が広がっている。 その姿はあまりにも痛々しく、一目見ただけで陽菜はまともに見ていられなくなった。 目の奥が熱くなり、涙が滲んでくる。 物音に気づいたのか、一条はゆっくりと顔を向けた。鷹宮と陽菜の姿を見つけると、挨拶しようとしたのだろう。 手を上げようとするものの思うように動かず、ようやく浮かべた笑顔も、どこかの傷に響いたのか、「っ……」 と小さく息を漏らし、そのまま引きつったような笑みで止まってしまった。「はは……俺、今すげぇ悲惨な顔してる?」 こんな時だというのに、まだ冗談を言う余裕がある。 陽菜は俯いたまま鷹宮の後ろについて立ち、一条を見ることができなかった。 泣いている顔を見られたくなかったからだ。 ぽたぽたと床に落ちる涙は隠しようもなく、一条はすぐに気づき、困ったように口元を歪めた。 本当は陽菜を慰めたくて、できることなら抱きしめて安心させてあげたかったが、身体に力が入らず、優しく声をかけることしかできなかった。「藤野、泣くなって。俺、大丈夫だから。見た目は派手だけど、全然痛くないし! ほとんどかすり傷みたいなもんだって。本当。本当に心配なら、先生呼んで説明してもらおうか?」 そう言いながら、一条は本当にナースコールを押そうと懸命に手を伸ばしたが、それを鷹宮が止めた。「修司、動くな」 そう言ってから少し考え、「後で僕が陽菜さんを連れて先生の話を聞きに行くから、お前は変なことするな。大人しく寝てろ」「はは……それならいいか。藤野、先生の話を聞けば分かるって。俺、本当に大したことないから」 一条は笑いながらそう言った。 なんとか陽菜を笑わせたかったのだろう。 本人は、自分の声がどれほど掠れていて、いつものような明るさや張りを失っているのかまったく気づいていなかった。 陽菜が何も言わないものだから、一条も不安になったのか、何度も彼女の名前を呼んだ。「藤野。藤野。……もう少しこっち来て? な?」 声を落とした一条は、きらきらとした目で陽菜を見つめながら、一歩ずつ近づいてくる彼女の姿を追う。 そして、涙の跡が残る頬と、今もぽろぽろと零れ続ける涙を見てしまった。 本当は、からかうつもりでいく
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