All Chapters of 一夜の再会から始まる、雇われない恋: Chapter 121 - Chapter 130

138 Chapters

第121話

 外がまだ騒然としている隙をついて、一条は来た時と同じように静かに病室を抜け出した。 その姿を鋭く捉えた陽菜は、一条が離れたのを確認した瞬間、先ほどまでの勢いが嘘のように弱まっていく。男に食ってかかる気迫も急速にしぼみ、やがて看護師たちのやわらかな説得に押される形で、完全におとなしくなった。 立ち去る直前、陽菜は男を睨みつけるように一瞥した。だが、感情を一切映さない無機質な視線を受けると、それ以上は何も言えず、どこか気まずそうにその場を離れた。 安全な場所で一条と合流した瞬間、陽菜はようやく張り詰めていたものを解いたように、深く息を吐いた。 膝はまだわずかに震え、手も先ほどの騒動の余韻を引きずるようにかすかに揺れている。「一条くん……こんなこと……もう二度と、したくないです……」 弱々しくこぼれた言葉に、一条は思わず小さく笑みを浮かべた。衝動を抑えきれず、そっと片手を伸ばして彼女の肩を支える。「でも藤野、いい知らせがある。お父さんは見た感じ問題なさそうだったし――契約書の原本も、ちゃんと手に入れた」 そう言って、一条は手にした書類を軽く振って見せる。 陽菜はすぐにそれを受け取り、数ページめくった。目に映る文字を追うほどに、表情は次第に明るくなっていく。「よかった……! 一条くん、本当にありがとうございます……!」 心からの安堵と喜びが、その声に滲んでいた。 一条はそんな彼女を見つめ、穏やかに笑う。「礼はいらないよ。むしろ――今回の立役者は藤野のほうだろ。ちゃんとご褒美、考えないとな」 契約書を手に入れたことで、帰り道の空気は明らかに軽くなっていた。 行きの車内に漂っていた重苦しさは消え、二人の会話も自然と他愛のないものへと変わっていく。 道の途中、ふいに陽菜のスマートフォンが鳴った。 一条の話に耳を傾けていた彼女は、画面をよく確認しないまま、反射的に通話ボタンを押す。その間も、一条は拾ったばかりの白い子猫の話を、楽しそうに続けていた。「はい……」「陽菜さん? 今日……あっ、もしかして今、修司と一緒にいるのか?」 受話口から聞こえた声に、陽菜ははっと我に返った。 鷹宮の声だ。 思わず一条を一瞬だけ見てから、背筋を伸ばし、きちんと答える。「はい……今日は一条くんに、父のお見舞いに連れてきてもらって……」「お父さん? 何か
Read more

第122話

 契約書を手に入れてからというもの、立花は間髪入れず、そこに記された条項の一つひとつを精査し始めた。わずかでも東和に不利となり得る隙を見つけ出すため、徹底的に読み込むつもりだった。 陽菜はその間、落ち着かない日々を過ごしながら、連絡を待ち続けた。 けれど、数日が経っても、望んでいたような“いい知らせ”は届かなかった。 東和の法務チームは、やはり一流だった。 一見すれば理不尽に思える条項がいくつも並んでいる。だがそのどれもが、絶妙な線で法律の枠内に収まっており、形式上は完全に合法とされるものばかりだった。 それでも立花は諦めなかった。 電話越しに、次の手を冷静に伝えてくる。「大丈夫だ、藤野。契約自体に明確な瑕疵は見当たらないが……まだ特許の正式な移転登記は済んでいない。だからこちらから、地裁に特許権移転登記禁止の仮処分を申し立てる。少なくとも東和の次の一手は止められるし、その分だけ時間も稼げる」 法律のことは、陽菜にはよく分からない。 立花の言葉には迷いがなかった。「はい、先輩。私にできることがあれば、何でも言ってください」「今の藤野に一番大事なのは、ちゃんと休むことだ。考え込みすぎるな。……修司から聞いたぞ、この数日ほとんど眠れてないって。あいつ、結構心配してる」 一条の名前が出た瞬間、立花の声が少しだけ軽くなる。隠しきれない興味が滲んでいた。「えっ……それは、一条くんが大げさに言ってるだけです」「そうか? でも、あいつが女の子のことでそこまで気にするの、初めて見たかもしれないな……はは。藤野、ちゃんと休めよ。あまり心配させるな」 軽く冗談を交えたあと、立花のほうに新しい仕事が入ったらしく、通話はそこで切られた。 スマートフォンを下ろした陽菜は、無意識のうちに視線を横へ向ける。 ――一条のいるオフィス。 扉は半開きになっていて、中の様子が少しだけ見えた。 一条はデスクに向かい、書類に目を落としている。表情はいつもよりわずかに険しく、眉がほんの少し寄っていた。 どうやらあまり良い内容ではないらしい。 だが、そのとき。 まるで視線に気づいたかのように、一条がふと顔を上げた。 目が、合う。「……っ」 陽菜は慌てて視線を逸らした。 けれど、それではあまりにも不自然だと気づき、すぐにもう一度だけ、そっと見直す。 一条は、
Read more

第123話

 一瞬、陽菜は鷹宮が何かを含んだ言い方をしているように感じた。 それが何を指しているのかは分からなかった。少し考えた末、やはり事件のことは鷹宮に話さないことにした。 家の中で起きているあんな事情は、決して人に誇れるものではない。陽菜は鷹宮に心配をかけたくなかったし、何より、彼の中で自分の価値がほんの少しでも下がるのが怖かった。「……特に変わったことはありません。最近、一条くんが新しい工場を探していて、私も海外の工場にいくつか連絡しているんです。ただ、サンプルの郵送に時間がかかりすぎて、一条くんも少し困っていて……」「工場か……たしかに修司から聞いたよ。僕のほうでも知り合いの社長に聞いてみる。何か力になれるかもしれない」「あ、い、いいですよ。これも私の仕事ですし……それに鷹宮さん、もう十分お忙しいのに、これ以上忙しくならないでください」「大丈夫。君の力になりたいんだ」 鷹宮は穏やかに笑った。 陽菜がそれ以上話そうとしないことを察したのか、彼もまた、深く問い詰めることはしなかった。 食事がまだ半分ほど残っている頃だった。不意に、玄関の外から物音がした。 続いて聞こえてきたのは、鷹宮の母の声だった。「凌、いるの?」 陽菜だけではない。鷹宮でさえ、明らかに動揺していた。 それでも彼はすぐに自分を取り戻そうとした。 陽菜を見つめた数秒のあいだに、彼の頭の中ではいくつもの選択肢が巡ったのだろう。彼は陽菜を隠すこともできた。なにしろこの家は広い。どこかに身を潜めれば、少なくともすぐには見つからない。 けれど、そんなことをすれば、まるで二人が本当に後ろめたい関係であるかのように見えてしまう。 結局、鷹宮は唇を固く結んだだけだった。 そして、食卓の上に置かれていた陽菜の手へと、自分の手を伸ばした。 陽菜も緊張していた。怖くさえあった。 鷹宮の母は、それほどまでに人に圧を与える女性だったから。 不思議なことに、鷹宮の手が自分へ伸びてきたその瞬間、陽菜の中にあった恐怖はふっと消えていった。 鷹宮の母が部屋へ入ってきて最初に目にしたのは、二人が固く手を握り合っている姿だった。 彼女の目が、一瞬で大きく見開かれる。 信じられないものを見たかのように。 そして次の瞬間、陽菜の全身を震わせるほど鋭い悲鳴が響いた。「あなた……あなたたち……!」
Read more

第124話

 乾いた音が、唐突に室内へ響き渡った。 次の瞬間、陽菜の思考は完全に途切れる。何が起きたのか理解できず、少なくとも一分ほどは、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。 鷹宮の母は手加減などしていなかった。鈍い痛みがすぐに左頬から広がり、じわじわと顔全体へと侵食していく。目には当たっていないはずなのに、まるで眼球の奥まで痛みが届いているかのようだった。 鷹宮もまた、一瞬遅れて我に返った。 その顔からは血の気が引いている。言葉すらまともに出てこないまま、慌てて陽菜のもとへ駆け寄り、両肩を強く抱き寄せた。そのまま自分の胸の中へと引き込み、守るように覆い隠す。 頬の痕を確かめたあと、鷹宮は顔を上げ、母親を鋭く睨みつけた。「何を……しているんだ……!」 その問いに対して、母はまったく悪びれる様子もなかった。「何? 息子をたぶらかした女よ? 母親として叩いて何が悪いの?」 むしろ、息子が自分を責めるような視線を向けたことが気に入らないのか、その怒りはさらに強くなっていく。 そして、その矛先は再び陽菜へと向けられた。「こんな女さえいなければ、私があれほど大切に育てた息子が、こんなふうになるはずがないでしょう」「……」 彼女の言葉の中に、一つだけ否定できない事実があった。 暴力が許されるはずはない。だが同時に、鷹宮には母をどうこうする術がないという現実も、確かに存在していた。 謝らせることも、考えを変えさせることもできない。 それでも、傷つけられた事実だけは、どうしようもなく残る。 鷹宮は苦しげに眉を歪めた。 母が謝ることなどあり得ないと分かっていた。だからこそ――次の瞬間、彼はためらいなくその場に膝をついた。 あまりにも速く、躊躇のない動きだった。「ごめん……陽菜さん。母の代わりに謝る。どうか、許してほしい……」 その声には、抑えきれない苦痛が滲んでいた。 頬の痛みよりも、その光景の方が、陽菜にははるかに衝撃だった。 心臓が止まりそうになる。 鷹宮の母でさえ、一瞬言葉を失い、やがて遅れて悲鳴を上げた。「な、何をしているの……!」「や、やめてくださいっ……鷹宮さん……!」 陽菜は慌ててしゃがみ込み、彼を引き起こそうと手を伸ばした。だが鷹宮はまるで床に縫い付けられたかのように動かない。 力ではどうにもならず、陽菜もその場に膝をつく
Read more

第125話

 鷹宮は、本当はもう少しだけ陽菜と一緒にいたかった。 彼女を送りに出てからというもの、ポケットの中のスマートフォンはひとときも静まらない。着信の振動が途切れることなく続いていた。 誰からの電話かなど、二人とも分かっていた。 苛立ちを隠しきれなくなった鷹宮は、ついに電源を落とそうとしたが、その手を陽菜がそっと制する。「鷹宮さん、戻ってください。私は大丈夫ですから」 戻れば、また母との激しい衝突が待っている。それでも、ここで連絡を断てば、状況はさらに悪化するだけだと、陽菜には分かっていた。 車はすでに一条のマンションの前に停まっている。 陽菜はドアを開け、外へ出ようとした。 その直前、彼女は鷹宮の手をそっと握り、最後に言葉を残す。「鷹宮さん、自分を責めすぎないでください。あれは鷹宮さんのせいじゃありませんし、私は怒っていません。それに……私の性格、知ってますよね。すぐ忘れますから」 鷹宮は彼女を見つめた。 唇がわずかに動く。きっと、また謝ろうとしたのだろう。 「これ以上謝ったら、もう口ききませんよ?」 陽菜の一言に、彼は思わず小さく笑った。飲み込むようにして謝罪の言葉を引っ込め、代わりに低く呟く。「……陽菜さん。ちゃんと、なんとかする」 今の彼にできる、精一杯の約束だった。 陽菜は柔らかく微笑む。「はい」 * マンションへ戻って間もなく、陽菜のスマートフォンが鳴った。 一条からの着信だった。「藤野、今から飯どう? 俺が奢る」 軽い調子の誘い。 今の陽菜には、とても誰かと食事をする気分ではなかった。やんわりと断ろうと口を開きかけたその時、一条が先に言葉を重ねる。「実はさ、ちょっと行ってみたいところがあってさ。一人で行くのはさすがに気まずくて……付き合ってほしいんだよ」「え……お仕事関係ですか?」 その言い方に、陽菜は自然と仕事のことを連想した。「……ああ、そう。仕事」 一瞬の間のあと、一条は即座に肯定する。それが一番断りにくい理由だと、分かっているように。 そして実際、その効果はあった。「それなら……」「頼むよ藤野。来週どこかで代休やるからさ。ちょっと急ぎでさ、今日じゃないと間に合わないかもしれない」 仕事に関わることなら断れない。 陽菜は一瞬言葉に詰まり、それから小さく返事をした。「……分かりました
Read more

第126話

 陽菜は当然のように、工場へ向かっているのだと思っていた。 一条の車は進めば進むほど繁華街へ近づいていき、やがて大きな商業施設の屋上駐車場へと滑り込む。「一条くん……こういう場所にも工場ってあるんですか?」 その後、一条に連れて行かれたのは、商業施設の中にある猫カフェだった。 それでも陽菜は疑っていない。 きっと工場関係の担当者がいるのかもしれない。あるいは展示会のようなものなのだろうか――そんなふうに真面目に考えていた。 一条はずっと笑いを堪えていた。 注文を済ませたところで、とうとう耐えきれなくなったらしい。肩を震わせながら低く笑い、陽菜を見てさらに吹き出しそうになる。「藤野、お前ほんと騙されやすいな」 陽菜は一気に顔が熱くなった。 思い返せば、道中ずっと工場の話をしていた気がする。それを聞きながら、一条はよく笑わずに耐えていたものだ。「一条くん……」「悪い悪い。でも別に嘘は言ってないだろ? 可愛い“モノ”見せるって言ったし」 奥の席へ向かう途中、何匹かの子猫が興味津々といった様子で二人のあとをついてきた。 けれど数歩近づいただけで、また素早く別の場所へ駆けていく。「わあ……一条くん、私、こういう場所初めてです」 ソファ席へ腰を下ろした陽菜は、周囲を見回しながら思わず呟いた。 人より猫のほうが多い空間。 その様子に目を輝かせる陽菜を見て、一条は満足そうに目を細めた。 そして、先ほど買ったばかりの猫用おやつを彼女の手に乗せる。「そうか? でもこういう店の猫って案外現金なんだよ。食いもん持ってなきゃ、全然寄ってこない」 その言葉通りだった。 袋を見た途端、おやつの存在に気づいたらしい一匹の子猫が、「にゃあ」と鳴きながら陽菜の手元へ駆け寄ってきた。 柔らかな身体が指先に触れ、陽菜は思わず何度も撫でてしまった。 それから袋を開け、一番最初に来た子へおやつを差し出す。 すると今度は、ほかの猫たちまで次々に集まり始めた。気づけば、陽菜の周囲には何匹もの猫が擦り寄っている。 なのに、一条のほうには一匹も来ない。「一条くんも、おやつどうぞ」 自分ばかり猫に囲まれているのが申し訳なくて、陽菜はおやつを差し出した。 一条は笑いながら、陽菜の膝元にいた白猫の頭を軽く撫でる。「いいよ。……藤野、猫好きなら今度うちの子見に来る
Read more

第127話

「え……」 一条にそんなふうに見つめられ、陽菜はなぜだか急に落ち着かなくなった。猫のキーホルダーを握る指先にも、知らず少しだけ力が入る。 赤信号を待つ時間が、妙に長く感じられた。 陽菜は一条を見つめたまま、しばらく考え込んでから、どこか自信なさげに口を開く。「一条君って……なんだか、掴めないです」「掴めない、ね」 一条は小さく笑った。「俺、自分では分かりやすい人間だと思ってたけど」 軽い口調だったが、陽菜の言葉自体はちゃんと受け止めているようだった。「えっと……前までは、私はそう思ってました。でも最近、一条君といる時間が増えて……知らなかった一条君を、たくさん見るようになったというか……」 どう説明すればいいのか悩みながら、陽菜は真剣に言葉を探していく。 その様子が可笑しかったのか、一条はまた笑った。「藤野。別に無理して答え出さなくていいって。そんな真面目に悩まなくても」 ちょうどその時、信号が青に変わる。 一条は再び車を走らせた。 しばらく走ったあと、不意にぽつりと呟く。「……でも、そういうふうに本音を言ってもらえたのは、普通に嬉しかった」  車がマンションの前へ戻ってきた頃、一条は再び口を開いた。 何気ない雑談の続きのような、自然な声音だった。「藤野。今日、楽しかったか?」「はい……すごく楽しかったです。ありがとうございます、一条君」「ならよかった」 そう答えながら、陽菜はふと気づく。 鷹宮の母に言われたことも、胸の中に沈んでいた嫌な気持ちも、いつの間にか、少し薄れていた。 シートベルトを外しながら、陽菜は数秒だけ迷う。 それから、改めて一条を見た。「一条君……鷹宮さんに頼まれて、私のところに来てくれたんですか?」 申し訳なさそうに眉を下げる。「ごめんなさい……。本当は、私と鷹宮さんの問題なのに。一条君にまで気を遣わせてしまって……」 一条の誘いは、あまりにもタイミングが良すぎた。 もし本当に仕事ならまだ分かる。けれど実際に連れて来られたのは猫カフェだった。 つまり――何か聞いていたのだろう。 図星を突かれた一条は、少しだけ困ったような顔をした。 運転席に座ったまま、視線を前方へ向ける。しばらく沈黙したあと、諦めたように小さく息を吐いた。「……まあ、確かに。凌に様子見てやってくれって頼まれた
Read more

第128話

 一条の声音は、冗談めかしているようでいて、とても真剣だった。 そのせいか、陽菜も自然と背筋を伸ばしてしまう。胸の奥に、不思議と「この人をがっかりさせたくない」という気持ちが芽生えていた。「……はい」「口だけはなしだからな? 藤野、お前ってそういう、“人に迷惑かけたくないから一人で抱え込む”タイプだろ。……だから、約束」 そう言って、一条は陽菜へ向かって小指を差し出した。 指切り。 まるで子供みたいな約束なのに、なぜだか妙に胸が落ち着かなくなる。 陽菜は思わず吹き出した。「え、そんな……」「ほら、早く」 一条に急かされ、陽菜も小さく笑いながら小指を差し出す。 二人の指先が絡んだ。「よし。もし約束破ったら――針千本飲ませるのはさすがに可哀想だから、その代わり」 一条はわざと間を空けて、楽しそうに口元を上げた。「俺とデートな」「えっ……」 思わず陽菜は手を引っ込めようとした。だが一条は、小指を絡めたまま離さない。「一条君……!」「もう遅い。約束したからな。今さら撤回は禁止」 そのまま指切りを終え、最後に約束の印のように親指同士を重ねてから、一条はようやく満足そうに手を離した。 ハンドルへ軽く身体を預けながら、機嫌の良さそうな笑みを浮かべる。「じゃ、早く上行け。今日はちゃんと休めよ。また明日」「はい。……一条君も、運転気をつけてください」「ん。おやすみ、藤野」  部屋へ戻ったあとも、陽菜は眠る直前まで鷹宮からの連絡を待っていた。 けれど、結局メッセージは一つも届かない。 きっと家へ戻ってからも、母親とのやり取りが続いているのだろう。そう思うと胸が苦しくなる。 原因の一端は、自分にもあるのだから。 本当は連絡したかった。大丈夫ですか、と聞きたかった。 それでも、鷹宮から何も送られてこない以上、自分から連絡することで余計に負担になるのではないかと怖くなり、結局何も送れなかった。 代わりに届いたのは、一条からだった。 帰宅したらしい彼から、立て続けにチーズの写真が送られてくる。 丸くなって眠る姿。 おやつを見上げる顔。 カメラに近づきすぎてぶれている一枚。 陽菜は思わず笑ってしまった。 沈んでいた気持ちが、少しだけ軽くなる。 猫のスタンプを返すと、一条からすぐに「おやすみ」が届いた。陽菜も思わず頬を緩
Read more

第129話

 電話を切ったあとも、陽菜はしばらく席に座ったままぼんやりしていた。 そんな彼女の前を、退勤しようとしていた一条が通りかかる。「藤野? 帰るのか。送ってくぞ」「……っ、一条君!」 突然名前を呼ばれ、陽菜はびくりと肩を震わせた。その反応が思った以上に大きかったのか、一条が不思議そうに目を瞬かせる。「どうした? 考え事してたのか。……俺、驚かせた?」「あ、いえ……違うんです。さっき、立花先輩から電話があって。仮処分の申立てが通ったって……」 そう告げると、一条は驚いた様子もなく、むしろ予想通りだと言いたげに笑った。「そっか。よかったな。まだ始まりに過ぎないけど、それでも十分いい知らせだ」 そして自然な流れで続ける。「せっかくだし、今夜は祝い飯でも行くか?」 一条は、担保金のことには一切触れなかった。 陽菜はじっと彼の表情を見つめる。  ――一条君、自分から話すつもりはなかったんだ。 そう確信してから、ようやく口を開いた。「あの……先輩から聞きました。一条君が、三百万の担保金を払ってくれたって……」「あー……」 一瞬だけ、一条の表情に微かな気まずさがよぎる。だがそれもすぐ消え、何でもないことのように肩をすくめた。「そんな深刻そうな顔してるから、もっと大ごとかと思った。……ただの金だよ。お前が気にすると思ったから、わざわざ言わなかっただけ」 さらに、一条は当然のように続けた。「それに藤野。これは別に、お前一人の問題じゃない。東和は俺にとっても敵だ。だったら、俺が力を貸すのは当然だろ」「でも……」 一条の言葉には隙がなかった。 おそらく、最初からこう言うつもりでいたのだろう。 陽菜が何か言い返そうとした瞬間、一条は「はいはい」とでも言うように片手を上げる。「この話は終わり。……どうしても礼したいなら、今夜ちゃんと俺に付き合え」  一条に促されるまま車へ乗り込む。 そのままレストランへ向かうのかと思っていたが、途中で車は鷹宮の会社へと向かった。 一条は車の中から鷹宮へ電話をかけ、半ば強引に夕食へ誘った。それから十五分ほどして、ようやく鷹宮が姿を現す。 かなり急いできたのだろう。スーツの上着はきちんと着る暇もなかったらしく、片手に雑に抱えたままになっている。「修司? 急にどうしたんだ……って、陽菜さんもいたのか。こん
Read more

第130話

 三人は席で鷹宮が電話を終えるのを待ってから、店を出ることにした。 まさか――ほんの数十分の間に、鷹宮の母が店の前まで来ているとは思わなかった。 まるで最初から居場所を把握していたかのように、彼女はレストランの下で待ち構えていた。 そして、鷹宮と陽菜が並んで出てきた瞬間、その顔に浮かんだのは「やっぱり」という確信の色だった。 向けられる視線には、露骨な怒りと怨みが滲んでいる。 陽菜に対しても。 そして、自分の息子に対しても。「凌! あなた、今は母親に嘘をつくようになったの!?」 鋭い声が夜の街へ響く。「修司と一緒って言ってたでしょう!? これがあなたの言う“修司”なの!?」 鷹宮の母は陽菜を指差した。 怒りのせいで、唇が細かく震えている。 声量も抑えきれておらず、近くを通る人々が次々と足を止め、こちらを振り返り始めていた。 鷹宮は露骨に頭を押さえる。 左のこめかみへ手を当てたまま、疲れ切った声で言った。「母さん……ただ食事しただけだろ。どうしてそこまで――」 母の声がさらに鋭くなる。 その怒りは、もう抑えが利かなくなっていた。「ただの食事!?今問題にしてるのは、あなたがこんな女のために、何十年も育ててきた母親に嘘をついたってことよ!あなたが私の選んだ相手に不満なのは分かるわ。でもだからって、わざわざこんな女を選んで私に当てつける必要がある!? あなたの見る目、いつからこんなになったの!? それとも、最初から私に反抗するためだったの!?」「母さん!」 鷹宮の声にも苛立ちが混じる。「陽菜さんにそんな失礼な言い方をするなって、前にも言ったはずだ」 それでもなお陽菜を庇う息子を見て、ついに鷹宮の母の堪忍袋も切れたらしい。「せめてもう少しまともな家の娘ならまだしも、どうしてよりにもよって訴訟まみれの家の子なの!? あなた、この子のお父さんが何をしたか知ってるの!? 今あの家、裁判所に差し押さえまでされてるのよ! そんな子があなたに近づく理由なんて、鷹宮家の人脈とお金以外にあるわけないでしょう!」「……っ」 その瞬間、その場の空気が凍りついた。 鷹宮は言葉を失う。 訴訟の件について、彼は何も聞かされていなかったのだろう。 反射的に否定しようとしても、事情を知らない以上、言葉が出てこない。 気づけば、彼は陽菜を見ていた。
Read more
PREV
1
...
91011121314
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status