Alle Kapitel von 一夜の再会から始まる、雇われない恋: Kapitel 21 – Kapitel 30

89 Kapitel

第21話 思いがけない再会

 陽菜は、立花から次々と送られてくるメッセージを見つめながら、あまりの情報量に、椅子に座っているだけなのに軽いめまいを覚えた。 ここ数日、一条や鷹宮の存在に気を取られていたおかげで、父の事件がもたらす重苦しさは少しだけ薄れていた。 けれど今、立花のメッセージを目にした途端、その感覚は一気に引き戻される。胃の奥をぎゅっと掴まれたような圧迫感が再び押し寄せ、陽菜は息が詰まりそうになった。 その場で、陽菜はすぐに母へ電話をかけた。だが、なぜか母はなかなか出ない。 出かける時間が近づいていた。陽菜は何度か続けてかけ直してみたが、結局つながらなかった。仕方なく、父に電話をかけることにする。 父が入院してからというもの、父を刺激しないようにと、事件に関する話はいつも母を通して伝えていた。 母とは違い、父はすぐに電話に出た。 「どうしたんだい、陽菜ちゃん」 父の声は思ったより元気そうだった。受話器の向こうからは、どこかざわざわとした音が聞こえてくる。 「お父さん、体調は大丈夫?」 「うん、元気元気。最近は心臓もそんなに痛まないんだ。余計なことを考えなければ、気分もいいしな」 「……それならよかった。あのね、お父さん、弁護士先生が聞きたいことがあるって――」 「弁護士」と聞いた途端、父の声色が急に慌ただしくなる。 わざとらしく「おっとっと」と声を上げた。 「ああ、陽菜ちゃん、なんだか急に頭がくらくらしてきたぞ。熱でもあるのかな? ちょっと看護師さんに体温を測ってもらわないと。もし熱があったら心臓にもよくないしなあ……」 「お父さん……」 「それで? 弁護士先生は何て言ってたんだ? 大学の先輩なんだろう? お父さんもお母さんも、陽菜ちゃんが頼った人なら安心してるよ。家のことは分かってるだろう? まずは陽菜ちゃんが少し頑張ってくれ」 今回の出来事の衝撃が大きすぎたのか、それとも父も年を取ったのか、以前のような頼もしさは、もう感じられない。 陽菜が事件の話を真剣に切り出そうとするたび、父はこんなふうに下手な演技で話を逸らす。 そのあからさまな拒絶に、陽菜は胸の奥で小さく苛立ちを覚えた。 母も同じだった。 電話をしても、父への不満や生活の愚痴ばかりで、事件の進展にはほとんど関心を向けない。 すべてを背負っているのは、結局陽菜ひとりだった。 陽
Mehr lesen

第22話 金城月乃

 電話の向こうで泣きじゃくっていた声とはまるで違い、実際に目の前に現れた月乃は、少しも傷ついているようには見えなかった。 むしろ、周囲の視線をすべて自分に集めたいかのように派手で、笑い声も高く、まったく遠慮がない。その様子は、普段から目立たないように過ごしてきた陽菜にはどこか居心地の悪いものだった。 二人はホテル一階のカフェで席を見つけて座った。 だが、腰を下ろして間もなく、月乃はスマートフォンを取り出し、ひたすら画面を指で滑らせ始める。 マナーモードにもしていないらしく、メッセージの通知音や送信音が次々に 鳴り響く。 向かいに座る陽菜の存在など気にしていないようだった。 陽菜は落ち着かない気持ちのまま、そっと髪を整える。 飲み物が運ばれてきて一口飲んだ頃になって、ようやく月乃は思い出したようにスマートフォンを置いた。 「ごめんごめん、いろんな人から連絡来ちゃってさ……。陽菜ちゃん、この数年どうしてた? 見た感じ、学生の頃とあんまり変わってないよね。たしか……T大に行ったんだっけ? 何学部?」 「私は歴史学科で……。月乃ちゃんは――」 陽菜が言い終える前に、月乃が言葉をかぶせた。 「歴史? それって役に立つの? あ、そうだ。前に高校の同窓会あったでしょ? あのすっごく豪華なホテルでやったやつ。私、ちょうど田舎に行ってて参加できなかったんだよね。あれって誰が主催したか知ってる?」 陽菜はわずかに眉をひそめた。 自分の学科が「役に立たない」と言われた気がして、一瞬聞き間違いかと思ったのだ。 だが、月乃はすぐに同窓会の話題に移ったため、陽菜の思考も自然とそちらへ引き戻される。 同窓会の主催者が誰だったのか……陽菜は考えたこともなかった。 ただ、クラスのグループチャットに招待が流れてきたのを見て、もしかしたら鷹宮も来るかもしれないと思い、足を運んだだけだった。 高校時代、卒業後も連絡を取り合うほど親しい友人は特にいなかった。 その同窓会も、陽菜にとっては強く印象に残るものではなかった。会場で鷹宮の姿を見ることもできず、結局早々に席を立ってしまった。  まさか外で突然雨が降り出すとは思っていなかった。 ホテルのロビーで雨宿りをしていると、鷹宮が少し遅れて現れ、エレベーターのほうへ歩いていくのが見えた。 上質そうな三つ揃いのスーツが彼
Mehr lesen

第23話 最後まで話を聞いて

 陽菜はわずかに口を開いたが、何を言えばいいのか分からなかった。 記憶の中の月乃は、服装も話し方も、もっとおとなしくて柔らかな印象だった。 だが今、目の前にいる月乃は、身なりも言葉遣いも、高校の頃よりずっと刺々しい。変わりようがあまりにも大きくて、陽菜は目の前の彼女と、記憶の中の月乃をうまく重ねることができなかった。 この瞬間、陽菜は今日この約束を受けてしまったことを、心の底から後悔していた。 本当なら、もっと大事なことがあるはずだった。 母に電話をかけて、事件の深刻さをきちんと伝えなければならない。 立花先輩からのメッセージにも、早く返事をしなければならなかった。あまり長く待たせるわけにはいかない。 手にしたコーヒーを半分以上飲みながら、陽菜はどう理由を作って席を立とうかと考えていた。 だが、月乃は話をやめる気配がない。 同窓会の主催者のことが聞き出せなかったためか、今度は別の話題を振ってきた。 「ねえ陽菜ちゃん、覚えてる? 高校のときのあの先輩。慎吾って名前だったかな。私たちより一学年上で、あなたにラブレター渡してきた人」 陽菜はきょとんとした。 そんな出来事は……まったく記憶にない。 どの先輩のことなのかも分からない。 ラブレター――そう言われても、思い当たる記憶は何ひとつ浮かばなかった。 「ほら、二年のとき。あの先輩、毎日放課後に陽菜ちゃんを駅まで送ろうとしてたじゃない。覚えてない? あとで聞いたんだけど、薬品会社の息子らしくて、家もかなりお金持ちらしいよ」 「ごめんね、月乃ちゃん。私、全然覚えてなくて……」 「そっか……。あなたが覚えてないなら、もう連絡も取ってないってことだよね」 月乃は目をくるりと動かした。 数秒だけ黙り込み、また別の名前を思い出したように口を開く。 「じゃあ山本くんは? 陽菜ちゃんの家の近くに住んでたよね。幼なじみってほどじゃないけど、連絡先くらいは残ってるでしょ?」 山本は、陽菜の家の近所に住んでいた男の子だった。小学生の頃は同じ学校だったこともあり、よく一緒に遊んでいた。 だが中学に上がってからはほとんど関わりがなくなり、連絡先など当然残っていない。 そもそも、どうして月乃が山本のことを知っているのか、陽菜には分からなかった。 「山本くん……どうして月乃ちゃんが知ってるの? 私、も
Mehr lesen

第24話 一条の連絡先を

 月乃にそう言われてしまえば、陽菜には断ることができなかった。 もともと気の弱い性格だ。たとえ月乃に引き止められなくても、こんなふうに泣いている彼女を置いて立ち去ることなど、できるはずがない。 「話して、月乃ちゃん。ちゃんと聞くから」 「うぅ……」 陽菜の言葉を聞くと、月乃の泣き声は少しだけ小さくなった。陽菜が差し出したティッシュを受け取り、顔の涙をそっと拭う。 だが、ティッシュに滲んだアイシャドウを見た瞬間、慌てたようにバッグから鏡と化粧ポーチを取り出した。 すすり泣く声を漏らしながらも、手元は驚くほど真剣だ。器用に崩れたメイクを直し始める。 その様子に、陽菜は思わず目を丸くした。 あまりに予想外の行動で、どう反応すればいいのか分からない。 月乃は慣れた手つきで素早くアイメイクを整え終えると、ようやく顔を上げ、気まずそうに笑った。 「見苦しいところ見せちゃったね」 「あ……ううん、大丈夫」 陽菜は再び向かいの席に戻る。 月乃はまだ少し鼻声のままだったが、涙はもう止まっていた。そのまま、この数年の出来事を話し始める。 「高校卒業してから……知ってるでしょ、私、国立大学落ちたし。家だって私立行かせる余裕なかったから、結局地元に戻って事務の仕事してさ。それで家の言う通り、お見合いみたいなのも何回かして……」 たしかに、月乃は東京出身ではなかった。 高校の頃、なぜか一人で東京に出てきていて、あまり親しくない叔母の家に居候していた。 生活は決して楽ではなかったらしく、叔母の性格がきついと、何度か陽菜に愚痴をこぼしていたこともある。 「でもさ、地元なんて本当に最悪なんだよ。ボロボロの田舎で、何にもないし、残ってる男なんてろくなのいないし。っていうかさ、人に頼んでお見合いしてもらう男なんて、自分の力で女一人捕まえられない負け犬じゃん? そんなのと一緒になれるわけないでしょ。だから親には黙って別の街に出て、そこで男と知り合ったの」 「……」 「バーで知り合ったんだけどね。超お金持ちってわけじゃないけど、海外に工場持ってる製造業の家でさ。これでやっと人生まともになるかもって思ったのに――」 月乃はそこで歯を食いしばった。 「その男、裏でとっくに結婚してたのよ。しかも子ども三歳だって。ふざけんなって感じでしょ、ほんと!」 次の瞬間、月乃
Mehr lesen

第25話 今すぐ電話して

 もしかすると、月乃の本当の目的は最初から一条の連絡先だったのかもしれない。 これまでいろいろと話を広げてきたが、一条の連絡先を求めた瞬間だけ、彼女は急に真剣な表情になった。 陽菜をまっすぐ見据え、まるで断る隙を与えないかのように視線を外さない。 陽菜はどこか計算されたような、不快な感覚を覚えた。けれど、それは自分の考えすぎかもしれないとも思う。 卒業してからの月乃は、陽菜には想像もつかないほど多くのことを経験してきたのだろう。  だからこそ、こんなふうに攻撃的になってしまったのかもしれない。 たしかに今の月乃は、昔とはまるで別人のようだ。  それでも陽菜の中では、かつての月乃の姿が、まだ彼女の印象の大部分を占めていた。 人はそう簡単に、過去の印象を一瞬で塗り替えることなどできない。だから陽菜はいまでも月乃を友人として見てしまう。 それでも疑問は残った。 「月乃ちゃん、どうしてそれを……」 「どうしてあなたが一条くんと再会したの知ってるかって? もう、陽菜ちゃん。私だってこの数年でいろいろ人脈あるんだよ」 月乃は肩をすくめた。 「うちの高校の子たちってさ、成績いい人はだいたいあなたと同じ大学行ったでしょ? あの大学のサークル、私も顔出したことあるの。もちろん外部だけどね。ああいうところってほんと情報の宝庫なんだよ」 そこで月乃は、少し呆れたように笑った。 「ていうかさ、陽菜ちゃんって学生の頃なにしてたの? 顔だって悪くないし、家だって私より全然いいし、大学にも行ってるのに。もう少しちゃんと自分を飾れば、小さな会社の社長くらいすぐ捕まえられたんじゃない? 私みたいに、後ろ盾がなくて苦労することもなかっただろうし」 その言葉を裏付けるかのように、テーブルの上に置かれた月乃のスマートフォンが、次々と通知音を鳴らしていた。 メッセージの着信音が途切れることなく続く。 月乃はちらりと画面を見ただけで、軽く鼻を鳴らした。  表示された名前を確認すると、それ以上気にする様子もなく放置する。 どうやら、すぐに返事をするほど重要な相手ではないらしい。 「そういえば陽菜ちゃん、聞き忘れてた。彼氏いるの?」 「……まだ、いないよ」 月乃はふっと鼻で笑った。  まるで「やっぱりね」と言わ
Mehr lesen

第26話 カフェでの対面

 陽菜は少し困ってしまった。 どう見ても今は仕事の時間帯だ。 一条が平日のスケジュールをどう組んでいるのかは知らないが、私的な用事でこの時間に電話をかけるのは、どう考えても失礼な気がする。 それに、昨夜もすでに一条に世話になったばかりだった。 陽菜がためらっているのを見ると、月乃はすぐに涙ぐんだ。まるで最初から用意されていたかのように、間髪入れず涙がこぼれる。 「やっぱりっ……陽菜ちゃんも私を騙すの? 私ってそんなに舐められてるのかな……うぅ……どうしてみんな私にこんなことするの……」 店員がまたこちらを気にしているのが見え、陽菜は慌てて手を振った。 「ち、違うよ月乃ちゃん。そうじゃなくて……ただ、一条くんが今仕事中かもしれないって思っただけで、騙すつもりなんてないの。先にLINEで聞いてみるね。電話しても大丈夫かどうか」 そう言うと、月乃はすぐに何度も頷いた。 目尻にはまだ涙の跡が残り、せっかく直したばかりのアイメイクがまた少し滲んでいる。 もし本人が気づいたら、また化粧を直すことになりそうだった。 運が良かったのかもしれない。 陽菜が試しにLINEで「通話できますか」と送ってから、ほんの数分後には、一条から直接電話がかかってきた。 通話ボタンを押す直前、陽菜は向かいの席から小さな含み笑いが聞こえた気がした。 「藤野? そんなに俺のこと恋しい? 今朝別れたばっかりなのに、もう電話してくるなんて、光栄って言うべきかな?ふふっ」 電話に出た瞬間、一条のからかうような声が耳いっぱいに広がる。 その軽い調子と、まったく気にしていない様子に、陽菜はほっと息をついた。仕事の邪魔になっているわけではなさそうだったからだ。 向かいでは月乃が目で合図を送り、落ち着きなく眉を上下させている。 少し緊張しているのか、両手はぎゅっと握られていた。 陽菜は深く息を吸う。 「一条くん、もしお仕事中だったらすみません。あの……一条くん覚えてるか分からないんですが、高校のとき同じクラスだった金城って――」 「……金城月乃のこと?」 まだ名前を言い切る前だったのに、一条はすぐにフルネームを口にした。あまりにも早い反応に、陽菜自身も驚いてしまう。 もしかして……一条も昔、月乃のことを覚えていたのだろうか。 そんな疑問を抱きながら、陽菜は続けた。 
Mehr lesen

第27話 一触即発

 その場の空気は、瞬く間に気まずいものへと変わった。だが、その原因を作った当の一条は、まるで気づいていないかのようだった。 いや、むしろどこか悪趣味で意地の悪い気配さえ漂わせている。 一条がわざと月乃にこんな態度を取っているのだということだけは、陽菜にもはっきり分かった。 もしかすると、まだそれほど親しくもないのに、「一条の連絡先を他人に教えてほしい」と図々しく頼んだことが気に障ったのかもしれない。 それは十分あり得る話だった。 月乃自身もさっき言っていた通り、一条は友人を選ぶ基準がかなり厳しい。 高校の頃からそうで、軽々しく誰かと親しくなるような人間ではなかった。信頼して付き合える相手は、高校を卒業するまでずっと同じ数人だけだったという。 ある意味では、彼は鷹宮とよく似ている。無駄な社交を好まないタイプなのだ。 「一条くん、よかったら私が買ってきましょうか」 陽菜がそう言って立ち上がろうとした瞬間、手首を掴まれて引き止められた。二人の間で初めての接触だった。 だが、強く反応したのは陽菜ではなく一条のほうだった。自分から掴んでおきながら、次の瞬間にはまるで感電でもしたかのように慌てて手を離す。 そして財布を取り出し、陽菜の手に押し付けるように渡した。 「……じゃあ、頼む」 「分かりました。少し待っていてくださいね」 陽菜はそう言って席を離れた。 その背中を見送ると、月乃は何食わぬ顔でテーブルの上のスマートフォンを手に取る。素早くメッセージ画面を開き、陽菜宛ての文章を打ち込んだ。 一条の視線がこちらに戻る前に送信ボタンを押すと、何事もなかったかのようにスマートフォンをテーブルへ戻した。 席に残ったのは、二人だけだった。 一条はそれまで浮かべていた表情をすっと消し、目を細める。そのまま月乃の全身を上から下までゆっくりと見渡したあと、喉の奥で小さく嘲るように笑った。 視線は冷たい。 さっきまで陽菜に向けていたものとは、まるで別人のようだった。 月乃はむしろ面白そうにしている。 前かがみの姿勢を崩さないまま、胸元のラインが見えるよう身体を傾ける。首をわずかにかしげると、金色の髪がさらりと揺れた。 赤い唇がわずかに弧を描き、顎を少し上げて一条を見上げる。その視線はまるで猫のように甘く、媚びるようだった。 カフェという背景も相ま
Mehr lesen

第28話 触れてはいけない

 そこまで言われれば、さすがの月乃も顔色を少し曇らせた。さっきまでのような余裕は、さすがにいくらか削がれている。 それでも、唇に浮かべた笑みだけは崩さなかった。「一条くん、そんなに早く決めつけないで。私があなたにどんな情報を渡せるのか、どれほどの価値をもたらせるのかなんて、まだ分からないでしょう? 私ね、あなたが思っている以上に……あなたの人間関係や生活のこと、そしてあなた自身のことも、いろいろ知っているのよ」 なおも引かない月乃に、一条は露骨に眉をひそめた。 月乃はコーヒーカップの縁に人差し指の先をそっと添え、軽くなぞるように撫でている。 指は細く、手の甲の肌もなめらかで、整えられた爪には上品なネイルが施されていた。柄自体は今日の濃いメイクほど派手ではなく、むしろ控えめで、そのぶん白い肌をいっそう際立たせている。 けれど、そのネイルだけが今日の彼女の全体の装いから妙に浮いていた。まるでそこだけ別の誰かの趣味を貼りつけたように、ちぐはぐだった。 一条はそのときになってようやく、そこに妙な既視感を覚えた。どこかで見たことがある。そう思ってしばらく記憶を探る。 店員が出来上がったコーヒーを運んできた頃になって、ふと思い出した。 海外で最後にデートした女が、ちょうど今の月乃とよく似た格好をしていたのだ。 立ちのぼるコーヒーの湯気に紛れるように、ぞわりとした寒気が胸の内に這い上がる。 その瞬間、一条は初めてまともに目の前の月乃を見た。「でもね、私は一条くんみたいな厳しい性格、嫌いじゃないの。挑戦しがいがあるっていうのかな。それとも……一条くんに征服されたいって言うべき?」 一条はすぐに視線を外した。 胸の奥に込み上げる嫌悪感が、再び全身を覆っていく。これ以上会話を続けること自体が不快でしかなかった。 コーヒーはもう出てきているのに、陽菜はまだ戻ってこない。 一条は注文カウンターのほうへ視線を向けたが、そこにも陽菜の姿は見当たらなかった。スマートフォンを取り出そうとしたその時、不意に目の前へ差し出された手と、その手に握られたスマホに意識を遮られた。 月乃が笑みを浮かべたまま、スマートフォンを一条の目の前へ突き出していた。距離は近い。明るく点いた画面には、友だち追加用の二次元コードが表示されている。「一条くん、私と友だち追加しましょう?」
Mehr lesen

第29話 花

 言葉を失ったままの月乃をその場に残し、一条は陽菜が席に置いていたバッグを何気なく手に取ると、そのまま店の外へ出ていった。 カフェの外、角を曲がったところで待っている陽菜を見つける。 彼女の顔が視界に入った瞬間、さっきまで胸の奥に溜まっていた苛立ちが、不思議なくらいふっと軽くなった。 本当は、いきなり近づいて驚かせてやろうと思っていたのだが、悪戯心を整える前に、陽菜のほうが先にこちらに気づいてしまった。「あっ、一条くん」「俺の財布を持ってどこへ行ったのかと思ったら、こんなところにいたのか。何してるんだ?」「え、あ……ご、ごめんなさい。お財布、先に返します」 陽菜は慌てて手に持っていた財布を差し出した。 だが一条は受け取らず、そのまま彼女の前を通り過ぎ、ホテルの外へ向かって歩き出す。「まあ、考えなくても分かるけどな。ここに隠れてたのも、どうせ金城の指示だろ」「い、一条くん?」 一条がそのまま歩いていくのを見て、陽菜は彼の手に自分のバッグがあるのを確認し、それから自分の手にある一条の財布を見下ろした。 慌てて後を追い、すぐに彼の隣まで駆け寄る。 気のせいだろうか。 一条がくすっと笑ったような気がした。どうやら機嫌は悪くないらしい。「藤野さ、金城のせいで俺がどれだけ面倒に巻き込まれたか、分かってるか?」「……すみません」 なぜそんなことを言われたのか分からないまま、陽菜はとりあえず反射的に謝った。 その言葉に、一条が横目でちらりと彼女を見る。そしてわざとらしく一度ため息をついた。「そのお詫びにさ。俺と散歩でも付き合え」「……え?」*** 一条が散歩と言えば、本当にそのまま車道沿いをあてもなく歩き始めた。 しかも、陽菜のバッグもまだ返してくれない。 この時間帯、このあたりの通りには、のんびり歩く人間はほとんどいない。 行き交うのはスーツ姿で足早に歩く仕事帰りの人ばかりだ。皆どこかへ急いでいる。ゆっくり歩いているのは、一条と陽菜だけだった。「今日は天気いいな」 しばらく二人とも何も話さないまま歩いていたが、不意に一条がぽつりと言った。 一条と陽菜が二人きりで過ごす時間は、ほとんどない。 だから、こうして並んで歩いていると、何を話せばいいのか、二人ともよく分からなくなる。 沈黙が気まずいわけではない。けれど、心地よい
Mehr lesen

第30話 恋の傍観者

 陽菜が戸惑いながら花束を受け取るまでのあいだ、一条は面白そうにその様子を眺めているだけだった。何も説明せず、ただ陽菜の反応を楽しんでいるように。 ようやく花を抱えた陽菜が、少し自信なさそうに「……ありがとうございます」と口にしたとき、一条は「ぷっ」と吹き出した。まるで満足のいく光景を見たと言わんばかりに、笑いで本心を隠すようだった。「白椿。凌が一番好きな花だ」「えっ……」 たしかに花束の中心には白椿がたっぷりと使われていて、澄んだ香りがふわりと漂っている。その周りには、陽菜には名前の分からない青い花が添えられていて、白一色にならないように美しく彩られていた。「再会した日に言っただろ。凌の好きなものを教えてやるって。情報をひとつ売ってやったぞ」「え、あ……そ、そうでしたね。ありがとうございます、一条くん」 陽菜は花束を少しだけ抱きしめる。頬がほんのりと赤くなっていた。花をもらったからなのか、それとも鷹宮の好きな花を知れたからなのか、自分でもよく分からない。 一条はそんな、どこかぼんやりした陽菜の様子を見て、またしてもからかってみたい衝動が湧いてくるのを感じた。困らせてみたい、意地悪をしてみたい――そんな気持ちだ。 その理由は自分でも分かっている。 今の陽菜が、やけに可愛く見えたからだ。 控えめで、受け身で、ほんの些細なことにも驚いたり、嬉しそうにしたりする。 さっきの月乃とは、まるで正反対だった。 だからこそ、一条はふと興味を覚える。「藤野、もっと知りたくないのか? 凌のこと」 一条の問いは、どこか危うい甘さを帯びた誘惑のようだった。まるで毒が仕込まれているかもしれない飴のように。 陽菜には、それがまた自分をからかうための罠なのかどうか分からない。 けれど、もしかすると自分が考えすぎているだけなのかもしれないとも思った。 一条は確かに時々陽菜をからかう。 けれど、本当に傷つけるようなことは一度もない。それどころか、これまで何度も助けてくれている。 少し考えてから、陽菜は正直に答えることにした。「知りたい……です。もちろん。でも、鷹宮さんのご迷惑になるのは嫌なんです。もし鷹宮さんのことを知れたら嬉しいですけど、知らなくても大丈夫です。無理に聞き出したくはないし、誰かに迷惑もかけたくありません」「はぁ……」 一条は小さく息
Mehr lesen
ZURÜCK
123456
...
9
CODE SCANNEN, UM IN DER APP ZU LESEN
DMCA.com Protection Status