Alle Kapitel von 一夜の再会から始まる、雇われない恋: Kapitel 11 – Kapitel 20

89 Kapitel

第11話 彼の異変

 鷹宮と母親とのあの電話について、陽菜が事情を知ったのは数日後のことだった。 特別に聞き出したわけではない。一条が前触れもなくメッセージを送りつけ、勝手に話題にしたのだ。 『凌の母親、そろそろ本気らしいよ。相手は京都の名家のお嬢様だってさ。金持ちで美人、凌もなかなかの幸運だよな』 文字だけのやり取りだというのに、どこか軽薄な声音が透けて見えるようで、陽菜はわずかに眉をひそめた。 『もしかしたらあいつ、受けるかもね? どうするの?』 返信する間もなく、追い打ちをかけるように次のメッセージが届く。まるで目の前に立ち、わざと反応を窺っているかのようだった。 挑発なのか、それとも単なる見物か。 その真意は読み取れない。 ちょうどその時、玄関の方から物音がした。 鷹宮だ。 陽菜は慌ててスマホを置き、部屋を出た。 時刻は朝八時。 だが、鷹宮はまだ出勤していなかった。身に着けているのは部屋着のまま、スーツにも着替えていない。 陽菜は六時に起きて朝食を用意していた。 しかし、彼はなかなか部屋から出てこなかった。 休んでいるのか、それとも仕事の連絡に追われているのか。 邪魔をしてはいけないと思い、陽菜は声をかけずに自室へ戻っていたのだ。 一条からのメッセージの余韻が、まだ胸の奥に引っかかっている。 「鷹宮さん、おはようございっ……!」 挨拶を口にしかけたその時、床に半円状に広がる水の跡が目に入り、陽菜は小さく息を呑んだ。 「何かあったんですか?」 「ごめん、手が滑って。水をこぼしてしまって」 鷹宮は申し訳なさそうに微笑み、手にしたマグカップを軽く揺らして見せた。 陽菜が動くより早く、彼はキッチンへ向かい、慣れた手つきで予備の布巾を取り出し、水を絞って戻ってくる。 「鷹宮さんっ、私がやりますよ!」 慌てて近づくが、彼は首を横に振り、先にしゃがみ込んで床を拭き始めた。 「大丈夫だよ、陽菜さん。それに、契約通りに言うなら、まだ君の勤務時間じゃない」 近くで聞くその声は、どこかいつもより柔らかい。 活力を帯びた穏やかさではなく、疲労を滲ませた静けさだった。 よく見れば、顔色も優れない。 「鷹宮さん、もしかして……」 言葉を探す間もなく、彼は床を拭き終えると、低く「ごめんね、急いでるから」とだけ呟き、足早に部屋へ戻った。 やがて
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第12話 思わぬ事故

 このマンションの防犯システムについては、陽菜は十分すぎるほど把握していた。 だからこそ、扉の向こうにいるのが危険な侵入者であるはずがないと、疑いもしなかった。 答えは明白だった。 あの物音の主は、鷹宮に違いない。 深く考える余裕などなかった。 短い動揺のあと、陽菜はスリッパもきちんと履かないまま、寝間着姿のまま勢いよく部屋を飛び出した。 リビングを横切ると、玄関の自動灯が点いているのが見えた。 橙色のやわらかな光が、床に座り込んでいる男の身体を包み込んでいる。冷たい色味のスーツも、その光の下ではいくらか温度を帯び、孤独の輪郭をほんの少し和らげていた。 「……鷹宮さん?」 彼は玄関扉に向かうようにして座り込み、左肩を壁に預けている。 陽菜の声にも気配にも気づかないかのように、ぴくりとも動かない。 近づいてみると、目を閉じているのが分かった。 朝は時間がなく整えられなかった髪が、強い風に吹かれたのだろう、一日を経て乱れている。 無防備なその姿は、作り上げた成熟した雰囲気をすっかり脱ぎ落とし、陽菜の記憶に残る高校時代の彼に、どこか重なって見えた。 胸がどくりと強く打つ。 まるで学生時代、壇上に立つ直前のあの張り詰めた緊張のように。 「鷹宮さん、眠っていらっしゃいますか?」 起こしてしまうのが怖くて、声は自然と小さくなる。 隣にしゃがみ込んでも、触れることすらためらってしまう自分がいる。あまりにも過敏すぎるのではないかと、心のどこかで思いながらも。 彼の身体からははっきりと酒の匂いがした。 やはり、飲んできたのだ。 数分が、やけに長く感じられる。 彼は微動だにしなかった。 このまま玄関で眠らせるわけにはいかないから、陽菜は意を決し、もう一度名前を呼び、そっと肩に触れた。 ほんのわずかに揺らしてみた。 「ん……」 低い声がかすかに漏れる。 鷹宮は眉を寄せ、重たげにまぶたを持ち上げた。 だが次の瞬間、玄関の灯りが眩しかったのか、片手で目元を覆ってしまう。 「鷹宮さん、大丈夫ですか?」 再び眠ってしまうのではないかと不安になり、陽菜は急いで問いかけた。 「……」 反応が……いつもよりかなり遅い。 数秒の間を置いてから、焦点の定まらない目がようやく陽菜を捉えた。 「ああ……ごめん、陽菜さん。少し飲みすぎたみたい
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第13話 「すぐ行く」

 あとから思い返し、断片的な記憶をつなぎ合わせてようやく気づいたことがある。 鷹宮は倒れる瞬間、反射的に陽菜を抱き寄せていたのだ。 だからこそ、彼女は床に直接叩きつけられずに済んだ。 額がぶつかった硬い感触は、おそらく床ではなく、鷹宮の胸だったのだろう。 ほんの一瞬。 ほんの、どうしようもなく短い一瞬だけ。 このまま自分も意識を失ってしまえたら、と陽菜は思った。 そうすれば、こうして彼と触れ合ったまま、あと少しだけ時間を引き延ばせるのではないかと。 けれど、酒に酔っている鷹宮とは違い、陽菜の意識はやけに冴えていた。 胸が高鳴っても、心が揺れても、弱みに乗じるような真似はできない。 これまでずっと、陽菜は規則正しく、枠からはみ出さない生き方をしてきた。 言い方を変えれば穏やかで慎ましい。 けれど別の言い方をすれば、臆病で、現状を変える勇気を持てない性格だった。 だからこそ、あの頃も想いは胸の奥に埋めるしかなかった。 一歩近づいて、もう一言多く話す勇気さえ持てなかった。 それが堅実さなのか、単なる弱さなのか。 今も答えは出ない。 ただ、この瞬間だけは……時間が止まってくれればいいと、本気で願った。 たとえ数分でもいいから。 「鷹宮さん? 聞こえますか?」 呼びかけても返事はない。 自分が動き出すまで、彼の体重はまったく変わらなかった。 意識があれば、鷹宮はこんな状況を許さないはずだ。 誰よりも節度と距離感を重んじる人だ。もし正気なら、今ごろ慌てて何度も謝っているに違いない。 そっと身体をずらし、彼の下から抜け出す。 陽菜はその場に座り込み、しばらく呆然と彼を見つめた。 再び名前を呼ぶ。 何度も。 そのうち、ようやく違和感が確信へと変わった。 鷹宮はここまで飲む人ではない。 どんなことにも節度がある人だ。仕事だけは例外的に全力だが、それ以外で自分をここまで追い込むことはない。 陽菜にとって彼はいつも余裕を失わない人だった。 学生時代も、再会してからも。 恐る恐る彼の額に手を当てる。 次の瞬間、思わず息を呑んだ。 異様なほど熱い。 「鷹宮さん! 熱があります!」 意識を失っている相手に向かって、思わず声を上げてしまう。 朝から感じていた違和感がひとつにつながった。 ほんの数分前まで、自分はこの状
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第14話 対価

 一条が鷹宮のマンションへ駆けつけたとき、玄関の鍵はかかっていなかった。 ドアを開けた瞬間、目に飛び込んできたのは玄関の床に崩れるように座り込む陽菜と、そのすぐ傍らで意識を失ったまま倒れている鷹宮の姿だった。 あまりにも非現実的な光景だった。 玄関先に二人そろって倒れ込んでいることも、あの鷹宮が無防備に床に横たわっていることも、一条にとっては面白い光景だった。 状況は明らかに深刻なはずなのに、胸の奥に浮かんだのは、わずかな可笑しさだった。 不謹慎だと分かっていながら、彼は小さく息を漏らすように笑ってしまう。 その音に、陽菜がはっと顔を上げた。 一条の姿を認めた瞬間、彼女の瞳がぱっと光を宿す。絶望の中に差し込んだ光のように、縋るような色を帯びて。 立ち上がろうとするが、力の抜けた脚がもつれ、何度もよろけた。 一条は思わず手を差し伸べかけたが、彼女がどうにか自力で立ち直ったのを見て、宙に浮いたままの手をさりげなく下ろす。 「い、一条くん……来てくれたんですね」 泣いていたのかどうかは分からない。 一条の目には、陽菜の瞳がうっすら赤く映った。けれどそれは、玄関の自動灯の黄色い光のせいかもしれない。ここはいつも、妙に灯りが柔らかすぎる。 この家の玄関灯は前から明るさが足りないと思っていた。 こんな色味では、人の表情も、本当の感情も、はっきりとは見えない。 「鷹宮さん、今日帰ってきたときから……様子がおかしくてっ……一度立ち上がったんですけど、そのあと……急に……」 言葉が途切れ途切れになる。 焦りと不安がそのまま声に滲んでいた。 一条は最後まで聞き終えると、床に倒れた鷹宮を見下ろし、呆れたように口を歪める。 「……ほんと、こいつは」 「一条くん、病院に連れて行ったほうがいいでしょうか」 陽菜の声は震えていた。 「大丈夫。ただの過労だよ。体調悪いくせに無理して働いて、限界がきただけ」 あまりにも迷いのない即答だった。 陽菜は言葉を失い、同じようにしゃがみ込んだ一条を見つめる。 「過労……?」 「初めて見たんだろ、こういうの。だからそんなに慌てる。……珍しくもないよ。こいつさ、仕事になると何も見えなくなるから。熱があっても平気な顔して会食に出るし、薬もろくに飲まない。何考えてるんだか」 一条は淡々と、しかしどこか苛立ちを滲
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第15話 何を差し出してくれる?

 陽菜が答えを迷っているわずかな沈黙のあいだ、一条はベッドに横たわる鷹宮へと視線を落とした。 そして、今夜の出来事を短く思い返す。 今日の夜、彼らは一緒にいた。 いや、夜だけではない。 昼間も、その半分ほどは一条が仕事を口実にして鷹宮を付き合わせていた。 業務上の往来があることを理由に、帰国してからというもの、一条はほとんど毎日のように鷹宮のそばにいる。 もっとも、それが完全に仕事のためかと言えば、そうとも言い切れない。 今回の新ブランド開発は、一条の父親が言い出したものだった。 一条自身には大して興味はない。ただ、父親は昔から鷹宮を格別に信頼している。だから一条が鷹宮と行動を共にしていると知れば、余計な説教はしてこない。 一条は昔から、享楽的な人間だった。 鷹宮とは正反対だ。 家業にも起業にも、強い情熱は持っていない。任された仕事はきちんとこなすが、最上を目指して身を削るようなことはしない。 面倒ごとが嫌いなのだ。 そんな性格を長年の友人である鷹宮もよく知っている。呆れたように「お前な」と言われることもあれば、父親からも同じ調子で「お前は本当に……」と言われ続けてきた。 だが一条は気にしない。 会社をきちんと管理しろと命じられたときも、もっとも業務が軽そうな子会社だけを引き受けた。ところが新ブランドを立ち上げろと言われ、渋々ながら鷹宮に助力を求めた。 契約上の利益配分は、一条のほうから鷹宮に最高待遇を提示した。 金で解決できることなら惜しまない。 金で済むなら、それ以上に簡単なことはないのだから。 そう思っている。 一条は、自分がこの世でいちばん鷹宮の性格を知っていると自負している。 生まれる前から両家は商売上の付き合いがあった。 同い年に生まれ、自然と一緒に育ち、気づけば親友になっていた。 性格はまるで違う。だが、不思議なほど噛み合っていた。 だからこそ、隠し事があるはずはないと思っていた。 ――陽菜の存在だけは、例外だった。 若い女性を自宅に住まわせ、同居に近い生活を送っている。それほど重要なことを、鷹宮は一度も自分に話さなかった。 偶然、外出中の陽菜と出会わなければ、一条は知らないままだったかもしれない。 それが妙に引っかかっている。 気に入らない。 だからこそ、最近の鷹宮の些細な変化さえ、やけに
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第16話 悲しませたくない

 陽菜の意識は、半分はベッドの上の鷹宮を案じ、もう半分は自分が一条に差し出せる“取引材料”について必死に考えていた。 一条のことを彼女はよく知らない。だから彼が何を望んでいるのか見当もつかない。 結局、正面から尋ねるしかなかった。 「……一条くんは、何が欲しいんですか?」 口にした瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。 もし、自分には到底差し出せないものを求められたら、どうすればいいのだろう。 不安に押されるように、陽菜は慌てて言葉を継ぎ足す。 「私に、出せるものなら……」 一条もまた、同じ問いを胸の内で転がしていた。 眉をわずかに上げ、陽菜をじっと見つめる。  そのまましばらく黙り込んだあと、口を開きかけた、その瞬間―― 背後から低い呻き声が聞こえた。 ちょうどそのとき、鷹宮が目を覚ましたらしい。  だが完全に意識が戻ったわけではないのか、言葉にならない夢うつつの声が零れるだけだった。 陽菜の意識は一瞬でそちらへ引き寄せられる。 一条の存在などすぐに視界から消えた。 「鷹宮さんっ……!目が覚めましたか? お辛いですか?」 おずおずと問いかける。  自信のなさがそのまま声の小ささになっていた。  それに、部屋の入口に立ったままでは距離がありすぎる。今の状態の鷹宮に、その声が届くはずもなかった。 一条は小さく鼻で笑った。 せっかく芽生えた悪戯心が、急速に色を失っていく。  自分に意識を向けていない相手に、これ以上構う気も失せた。 部屋の入口まで歩み寄ると、陽菜の背を軽く押す。 「ほら、早く行ってやれよ。そうしたいんだろ? ……取引の件は、ひとまずツケにしといてやる」 「一条くん!?」 突然背中を押され、陽菜はよろめきながら部屋へ踏み込む。 振り返ると、一条はすでに踵を返してリビングへ向かっていた。 彼は一瞬、このまま帰ってしまおうかとも思った。
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第17話 三人で迎える朝

 その後の時間は、どこか現実味がなかった。 鷹宮に「もう休んで」とやんわり促され、気づけば自分の部屋へ戻っていた。 きちんと「おやすみなさい」と言えたのかどうかも覚えていない。 どうやって部屋に戻ったのか、いつベッドに横になったのかも曖昧なまま、ふと意識がはっきりしたときには、すでに布団の中だった。 目を見開いたまま、暗闇にぼんやりと浮かぶ天井を見つめる。 頬がひどく熱い。まるで本当に熱を出しているのは自分のほうみたいだった。 あの言葉は、どういう意味だったのだろう。 そこに、何か特別な含みはあったのだろうか。 考えすぎてはいけないと分かっている。 鷹宮はもともと人を気遣う優しい人だ。一条があんな物言いをするから、安心させようとしてくれただけかもしれない。 ……それでも。 もし、ほんの少しでも鷹宮の視線が、自分に向けられていたのだとしたら。 それはあまりにも曖昧で、あまりにも甘い期待だった。 陽菜は慌てるように布団の中へ潜り込み、両手でまだ火照る頬を覆う。遅れて実感する。胸の奥で心臓が激しく打ち続けていることに。 深く、深く息を吐いた。 翌朝、陽菜はいつもよりずっと早く目を覚ました。 一晩じゅういくつもの夢を見ていたせいで、眠った気がしない。睡眠の質は最悪だった。 夢の中に広がっていたのは、数えきれないほどの高校時代の風景。 校舎前の長い廊下。 教室前のざわめく通路。 高一の教室。 バスケットコート。 合同体育で使った体育館。 小さな売店。 あらゆる場所で、陽菜は何度も鷹宮とすれ違っていた。 声をかけることもなく、ただ視線だけが彼を追いかけている。 一年、また一年と、彼が少しずつ大人びていくのを、遠くから見つめ続けている。 やがて夢の中の鷹宮が、どこか惜しむように息をついて言う。 「一度くらい、同じクラスになれたらよかったのに」 胸が締めつけられる。 けれど、悲しむ間もなく、次の言葉が重なる。 「陽菜には、悲しい思いをしてほしくない」 感情が一気に揺さぶられる。 まるでジェットコースターに乗せられているみたいだった。 目が覚めたあとも、その激しい高低差の余韻が胸の奥に残り続けている。 身支度を整えて部屋を出た陽菜は、朝食の準備をしようとキッチンへ向かった。 けれど、自分よりも早くキッチンで動い
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第18話 不穏な兆し

 一条のその問いかけに、陽菜は思わず手元の牛乳をこぼしかけた。 だが一条の反応は早かった。さりげなくカップを横へ押しやり、倒れないよう支える。 「気をつけろよ」 口元に笑みを浮かべて言う。 陽菜がまるで大敵を前にしたかのように身を固くしているのとは対照的に、鷹宮は困ったように小さく首を振った。 申し訳なさを滲ませた視線を一瞬だけ陽菜へ向け、それからゆっくりと一条へ戻す。穏やかな声でやんわりとたしなめる。 「修司、からかわないって約束しただろう」 生まれつきの性分なのだろう。本気で誰かを叱りつけることなどできない。 結局、何度も陽菜のほうへ向き直っては、代わりに謝ることしかできなかった。 「ごめんね、陽菜。修司に悪気はないんだ。朝食だって自分から言い出したんだし、本気で君を困らせようとしてるわけじゃない……ほら修司、少しはその性格を抑えろよ」 「大丈夫です、鷹宮さん。一条くんはただからかうのが好きなだけですから」 一条の言葉に驚きはしたものの、彼の物言いにはある程度慣れている。 どう受け止めていいか分からず戸惑うことはあっても、本気で腹を立てたことはなかった。 それに、昨日彼が駆けつけてくれなければ、自分はきっともっと途方に暮れていたはずだ。 二人のやり取りを聞きながら、一条はすぐに両手を上げて降参の仕草をする。 だが、その態度にはこれっぽっちも誠意がない。 軽い調子のまま、肩をすくめて言った。 「はいはい、悪かったよ。……でもさ、男女二人きりだったんだろ? そりゃ気になるだろ」 悪びれた様子はまるでない。 テーブルに両手をつき、身体をわずかに陽菜のほうへ傾ける。その目には、陽菜には読み取れない何かが宿っていた。 「陽菜さんは薬を持ってきてくれただけだよ。それと、少し昔の話をしただけ」 鷹宮が間に入る。 「昔の話?」 「同じクラスになれなかったって話だよ」 一条の目がわずかに見開かれる。 喉仏がひとつ上下し、低く含みのある笑いが漏れた。 一瞬、いかにも何か意地の悪いことを思いついたような表情がよぎる。 また何か仕掛けるつもりなのだと分かる顔だった。けれど、なぜかそのまま考えを引っ込めたらしい。 何も言わず、口元に笑みだけを残したまま、くるりと背を向ける。 そしてキッチンへ戻り、焼き上がったトーストを取りにいっ
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第19話 ちょっと悔しいな

 一条は迷いなく言い切った。  東和キャピタルとはそういう存在だと、最初から決めつけているかのように。 陽菜彼が本気で怒っている姿を初めて見た気がした。さきほどまで自分をからかっていた態度とは、まるで別人だった。 長いあいだ、陽菜は一条に嫌われているのだと、勝手に思い込んでいた。鷹宮のそばにいる自分を、内心では軽蔑しているのではないか、と。 けれど、今の彼の怒りを目の当たりにして、はじめて気づく。 あれは決して本気の敵意ではなかったのだと。 少なくとも、自分に向けられていたものは、ずっと穏やかな部類だったのだと。 「修司……もしかしてまだ樹くんのことで怒って……」 鷹宮は小さく息をついた。 だが、そこまで言いかけて言葉を飲み込む。そして、不自然なほど唐突に、話題を切り替えた。 「そういえば、弟さんもそろそろ帰国なんだって?」 弟の話題が出た途端、一条の表情がわずかに緩む。 とはいえ、口調は相変わらず遠慮がない。 「そうだよ。景臣、今年で大学卒業だ。帰ってきたら盛大にパーティーでもやらないとな。そういえば凌、お前あいつにもう何年も会ってないだろ。海外行ってから完全に浮かれてさ、正月すら帰ってこない。クソ親父は毎年俺に八つ当たりしてくるし……てかなんで俺なんだよ、一番とばっちり食ってるのは俺だろ」 一条には、数歳年下の弟がいる。 彼たちが卒業した年、ちょうどその弟が新入生として同じ高校に入学した。 陽菜は卒業式の日、家族と並んでいる一条の姿を見かけたことがある。だから、ぼんやりとした記憶が残っていた。 当時、一条に好意を寄せていた女子たちが、「弟もイケメンらしい」と騒いでいたのも思い出す。 だが鷹宮は当然、陽菜がそんなことを知っているとは思っていない。隣で静かにしている陽菜に気づき、気遣うように説明する。 「修司には景臣っていう弟がいるんだ。高校を卒業してからイギリスに留学していてね。僕たちからすれば、後輩になるかな」 「俺より生意気なやつが、何が後輩だよ」 「同じ学校なら、立派な後輩だろ」 鷹宮は穏やかに笑う。 景臣のことを話すときの声音は、どこか柔らかい。 本当に仲が良いのだろう。 もし鷹宮にも弟がいたなら、きっと優しい兄になっていただろう。あの穏やかな性格なら、誰よりも面倒見のいい兄になれたはずだ。 けれど鷹宮
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第20話 静かな波紋

 朝食を食べ終えたあと、陽菜は食器を片づけようとしたが、その役目もまた一条に半ば強引に奪われてしまった。 「食洗機に入れるくらいのこと、わざわざお前がやる必要ないだろ」 そう言いながら、一条は手際よく皿やカップを集めていく。 鷹宮の家だというのに、まるで自分の家のように気楽な様子だ。 陽菜が戸惑っているうちに、気づけばすべての食器は食洗機の中に収まっていた。 その間に、鷹宮も出かける準備をすっかり整えていた。 玄関を出るとき、一条は「この仕事中毒め」と不満そうに文句を言いながらも、結局は素直に鷹宮の後ろについていく。 鷹宮はもう慣れているらしく、一条の文句にはまったく取り合わない。 ただ、玄関を出る直前に振り返り、陽菜へやわらかく微笑んだ。「行ってきます、陽菜さん」「いってらっしゃいませ、鷹宮さん……と一条くん」 彼は鷹宮から数歩遅れて靴を履いていた。鷹宮が先に外へ出ると、その少し後で一条がふと振り返る。 細められた目が、いたずらっぽく陽菜を見た。 声はわざと低く抑えられている。 「藤野さ、昨日の約束、忘れるなよ」 「……」 陽菜は一瞬きょとんとして、それからようやく彼の言葉の意味を思い出した。 思わず、代わりに何を求めるつもりなのか聞きそうになる。だが、扉の向こうに見える鷹宮の背中に気づき、慌てて口を閉じた。 一条は靴を履き終える。 身につけているのは鷹宮から借りた服だが、驚くほどよく似合っている。 玄関を出る前、少し考えるように間を置いたあと、口元の笑みをさらに深めた。 どこか楽しそうに、しかしやはり小さな声で言う。 「何をもらうか決めたら、そのとき言うよ。じゃあな、藤野さーん〜」 鷹宮に聞かれたくない、小さな秘密のようだった。 陽菜は小さく答える。 「……いってらっしゃい」 扉が完全に閉まる前、外から鷹宮の声が聞こえた。 その声は相変わらず穏やかで、無意識のうちに陽菜をかばっている。 「修司、また陽菜さんをからかったの? あまり困らせちゃだめだよ」 「ははっ、知らない人が聞いたら、まるでお前が彼氏みたいだぞ。大丈夫だって、普通に挨拶しただけ」 「修司……僕は本気で言ってるんだ」 「分かった分かった。約束しただろ、いじらないって」 二人の会話は、扉が閉まると同時に途切れた。 すぐに何も聞こえなく
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