All Chapters of 縁が逆転~元カレの叔父が夫~: Chapter 911 - Chapter 920

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第911話

新からの手紙にはこう書かれていた。もし朱音がこのまま聖都で生きていくなら、あのマンションは彼女に安心感を与えてくれるはずだ。もし聖都を離れたいなら、マンションを売却して他の都市で新しいスタートを切ってもいい。どちらの道を選んだとしても、私はあなたを応援します、と。朱音には分かっていた。あのマンションを購入した資金の大部分が、彼が展望技術の開発資金から横領した金だということを。彼がどんな裏工作をしたのかは分からないが、その資金は彼の個人口座を経由しておらず、購入手続き自体も彼自身が行ったものではなかった。そのため、あのマンションは彼とは法的に何の関係もないことになっており、警察に差し押さえられることもなかったのだ。しかし、彼の一介の研究員の給料では、頭金ならまだしも、聖都市中心部の高級マンションをキャッシュで一括購入できるはずがない。朱音は最初、マンションを売却して、彼が横領した金を全額返済しようと考えていた。しかし、一晩明けて、彼女の心に迷いが生じ始めていたのだ。聖都の中心部にあるマンションなら、その価値は二億円は下らない。もしこれを売却して海外へ飛べば、実家の毒親たちはもう二度と彼女を見つけ出せなくなる。彼女はついに、あの底なし沼のような生い立ちから完全に解放されるのだ。それに、彼女の能力があれば、海外で研究職を見つけるのはそれほど難しくない。少なくとも自力で生きていくには十分なはずだ。彼女は一睡もできず、昼間もずっとそのことばかりを考えていたせいで、実験でもミスを連発してしまったのだ。彼女の脳内では、二つの声が激しく争っていた。一つの声は「マンションを売って海外へ逃げろ」と囁き、もう一つの声は「その金は汚い金だ。何も知らないフリをして自分のものにしてはいけない」と警告していた。朱音はひどく苦しみ、どうすべきか全く分からず、誰かに相談することもできなかった。自分のこれからの人生を根底から覆せるほどの絶対的なチャンスが、今まさに目の前にぶら下がっているのだ。たとえそれが汚い金だとしても、全く心を揺さぶられない人間などいるはずがない。家へ帰り、夕食を終えた後も、朱音はあのマンションをどうすべきか考え続けていた。深夜になっても結論は出ず、ベッドで寝返りを打ち続けていた。もう考えるのはやめて寝ようと思ったその時、
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第912話

警察官も非常に親身になってくれ、彼女をホテルまで送り届け、安全を確認してからようやく立ち去った。部屋に入り、ドアのチェーンをかけ、カーテンをしっかりと閉め切ると、朱音はようやくわずかな安心感を取り戻し、ベッドの端に力なく座り込んだ。ひどい恐怖を味わったせいで、彼女の顔色はまだ真っ青だった。しばらく座り込んだ後、彼女は立ち上がって浴室へ向かった。温かいシャワーが頭から降り注いだその瞬間、彼女は心の中である一つの決断を下した。あのマンションを売ろう。それがどれほど身勝手な行いであるかは重々承知していた。しかし、あの泥沼のような実家から完全に逃げ切れる方法は、もうこれしか残されていないのだ。翌朝早く、彼女は不動産仲介業者に連絡を取り、マンションを売りに出した。都心の超一等地に位置する物件であったため、すぐに何件もの問い合わせが殺到した。わずか三日足らずで、そのマンションは二億四千万円という価格で売却された。自分の口座に振り込まれたその莫大な金額を見て、朱音の心臓は激しく高鳴り、いつまでも落ち着くことができなかった。これほどの大金、彼女が一生研究員として身粉にして働いたところで、絶対に手に入らない額だ。彼女の行動は迅速だった。金を手にしたその足で、すぐさま海外の大学院への出願準備に取り掛かり、博士課程へ進む手はずを整え始めた。完全に意識が海外留学へと向いてしまったため、朱音の仕事に対する態度は目に見えておざなりになり、ラボでの実験でもミスを連発するようになった。ついに我慢の限界に達した楓は、ラボの他のメンバーがいる前で彼女を激しく叱責した。「朱音。もし今のたるんだ態度を改められないなら、明日からもうラボに来なくていいわ」朱音は唇を引き結び、楓を見上げた。「先輩。確かに、今の私はここで働き続けるのに相応しくありません。本当はもう少し先で退職届を出すつもりでしたが、皆さんの足を引っ張り続けるのは私としても心苦しいです。今日で辞めさせていただきます。今までお世話になりました」楓の瞳に信じられないという色が過り、朱音を見据えるその目には激しい怒りが燃え上がった。「……今、何て言ったの?」朱音は、閉鎖的な田舎町から血の滲むような努力を重ねて、ようやくここまで這い上がってきたのだ。どれほどの苦労を味わってき
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第913話

楓は眉をひそめ、その瞳には依然として信じられないという色が浮かんでいた。「朱音。あなたがここまで来るのに、どれほどの犠牲を払い、どれほど血の滲むような努力をしてきたと思っているの?本当に、ここで退職するなんて決断をしていいの?」彼女がここまで必死に這い上がってきた軌跡をずっと見守ってきたからこそ、楓は朱音にこんなにも軽率にすべてを投げ出してほしくなかったのだ。朱音の顔に苛立ちが浮かんだ。「先輩。これ以上私に説教するのはやめてください。自分が何を求めているかは、私自身が一番よく分かっています。もう何も言わないでください」今の朱音は、楓の正しい道理など一言も聞きたくなかった。楓は所詮、安全な場所にいる部外者に過ぎない。自分のあの息が詰まるような絶望や、骨の髄まで蝕まれるような苦痛を、彼女が本当に理解できるはずがないのだ。毒親という名の泥沼は、もがいて抜け出そうとすればするほど、さらに深く彼女を引きずり込んでいく。もうこんな地獄のような毎日はご免だった。彼女は完全に限界だったのだ。それに、正しい道理を説かれたところで、楓が自分をあの泥沼から完全に引き上げてくれるわけでもない。正しいことなんて誰だって分かっている。だが、彼女にはもう他に選べる道がなかったのだ。海外へ行き、家族に見つからないようにすること。それが今の彼女にとって最善の方法だった。朱音が自分の言葉を全く聞き入れようとしないのを見て、楓はしばらく沈黙し、それ以上説得するのを諦めた。「……分かったわ。あなたがどうしても辞めるというなら、教授に電話して、自分で説明しなさい」そう言い捨てると、楓は二度と彼女を振り返ることなく、オフィスを出てラボへと戻っていった。朱音は楓が本気で怒っているのを感じ取ったが、謝罪に行くつもりはなかった。たとえ今ここで謝ったところで、彼女の自分に対する失望を拭い去ることなど不可能だからだ。それに、彼女たちがこうして顔を合わせるのも、これが最後になるはずだった。朱音は深く深呼吸をして雑念を振り払うと、スマホを手に取り、恩師である毛利教授に電話をかけた。教授との通話は一時間以上にも及び、その間、朱音の心も何度も揺らぎそうになった。しかし、海外逃亡という選択肢は、今の彼女にとってあまりにも抗いがたい誘惑だった。最終的に、彼女は辞職の意
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第914話

新は元々無表情だったが、その言葉を聞いた瞬間、無意識に目を限界まで見開いた。「今……何と言いました!?」朱音がこれほどの大金を持っているはずがない。彼女は間違いなく、俺が彼女に贈ったあのマンションを売り払ったのだ!そう気づいた瞬間、新の顔からさあっと血の気が引いた。俺が彼女にあのマンションを贈ったのは、彼女が自分の力で毒親から逃れ、新しい人生を踏み出すための資金にしてほしかったからだ。それを売り払って、俺の尻拭いをするために使わせたかったわけじゃない!「先生。今すぐ彼女に会いたい。どうか、彼女にそう伝えてもらえませんか」新の異常なまでの狼狽ぶりを見て、弁護士はしばらく沈黙した後、低い声で尋ねた。「河合さん。このお金には、何か裏があるのではないですか?」新の顔が引き攣り、しばらくの間口ごもってからようやく答えた。「……何もありません。私はただ、彼女に会いたいだけです。この金は受け取れないと伝えたいんです」弁護士は新の顔をじっと見つめ、それ以上は何も言わず、無言で頷いて面会室を後にした。警察署から出た直後、助手から電話が入った。「先生。柴田さんの口座に振り込まれた資金は、確かに不動産売却によるものでした。物件は聖都市中心部の高級マンションで、昨日取引が完了したばかりのようです。手続き自体に法的な問題は一切見当たりませんでした」弁護士は眉を深くひそめ、少し考え込んだ後、声を潜めて命じた。「河合新の裏を徹底的に洗え。柴田さんの現在の収入で、あんな超一等地のマンションを買えるはずがない」彼は確信し始めていた。新が展望技術から横領した莫大な開発資金は、まさにこのマンションを購入するために使われたのだと。もしマンションの購入資金が本当に新の横領金だった場合、最大の問題は、「ただの同僚」に過ぎないはずの二人が、なぜ朱音の名義でマンションを購入したのか、という点だ。考えられる可能性は一つしかない……彼らの間には、単なる同僚以上の、隠された深い関係があったということだ。電話を切ると、弁護士は真っ直ぐに朱音の元へ向かった。しかし、新が面会を求めていると伝えても、朱音は冷酷なまでにきっぱりと拒絶した。「彼のために私ができることは、すべてやりました。これ以上、彼に会う必要はありません」彼女のあまりにも冷淡な態
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第915話

朱音がどこまでも口を割ろうとしないのを見て、弁護士は深くため息をつき、踵を返して立ち去った。弁護士が去った後、朱音は再び荷造りに戻った。スーツケースに服を詰め終えたまさにその時、不意にチャイムが鳴った。ドアを開けると、そこには春樹が立っていた。朱音の瞳に微かな驚きが過ったが、すぐに冷淡な表情に戻った。「もし私を説得しに来たんなら、もう帰って。私は絶対に戻らないから」「違う。僕はただ、どうして君が突然辞める気になったのか知りたくて来た。だって、聖都に来たばかりの頃、君は『ここで絶対に結果を出して、先輩と一緒にこのプロジェクトを成功させる』ってあんなに熱く語っていたじゃなかったか」朱音は眉をひそめた。「別に理由なんてないわ。ただ、今のプロジェクトを続けるより、海外の大学院に進学すべきだって思っただけよ」「進学?」春樹は信じられないという目で彼女を見た。「君、以前は『実家への仕送りで貯金なんて全くないから、とにかく早く正社員になって自分一人でも生きていけるようにならなきゃ』って言ってたはずだ」朱音のドアの枠を掴んでいた手が無意識に白く強張り、冷酷な声で言い放った。「それは私の個人的な問題よ。あなたに何の関係があるの?」彼女のあまりにも刺々しい態度に、春樹もついに怒りを爆発させた。ここへ来る前、春樹はてっきり朱音が何か深刻なトラブルに巻き込まれ、やむを得ず辞職に追い込まれたのではないかと心配していたのだ。どうにかして彼女を助けられないかと思ってわざわざ足を運んだというのに、海外留学するだけの資金を隠し持っていたなんて。自分が馬鹿みたいじゃないか。「僕はただ、かつて同じラボで苦楽を共にした仲間として、あなたを心配して聞きに来ただけだ。君がそこまで拒絶するなら、もう何も言うことはない。勝手に海外にでも行けばいい!」そう言い捨てるなり、春樹は朱音の返事すら待たずに踵を返して立ち去っていった。一方、楓が自宅で夕食をとっていると、不意に春樹から電話がかかってきた。「先輩。僕、さっき朱音のところへ行ってきたんです。そしたら彼女、辞める理由は『海外の大学院に進学するため』だって言うんですよ。彼女、一体どこからそんな大金を工面したんでしょうね?」決して春樹が朱音を見下しているわけではない。以前から、朱音の実家が絶望
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第916話

しばらくためらった末、楓はついに自分の胸の内に渦巻く疑念を雅也に打ち明けた。話を聞き終え、雅也は眉を深くひそめて冷酷な声で言った。「分かった。恭平に命じて、その件を直ちに裏付けさせる」「……ええ」楓は小さくため息をついた。どうか、朱音がその件に巻き込まれていませんようにと祈るばかりだった。夕食後、雅也が書斎に戻り、書類を手に取ったまさにその時、スマホが鳴った。「社長。ファルコンから報告が入りました。星耀の親会社である創和テクノロジーの真の所有者は……あなたもよくご存知の人物でした……」雅也の表情は一切変わることなく、ただ淡々と口を開いた。「水瀬律か?」「……はい」「分かった。星耀の動向から片時も目を離すな。奴の目的は、間違いなく藤堂グループを内部から乗っ取ることだ」「承知いたしました。藤堂泰造にこの事実を警告しておきますか?」もし創和テクノロジーが藤堂グループを完全に呑み込めば、律は展望技術にとって看過できない巨大な脅威となるからだ。「その必要はない。まずは奴がどう動くか静観する。それと、河合新が横領したあの開発資金が、最終的にどの口座へ流れたか至急追跡しろ」「河合新ですか?」恭平は少し記憶を辿り、ようやく彼が数千万の開発資金を横領して逮捕された研究チームのリーダーであることを思い出した。展望技術の規模からすれば、数千万など端金に過ぎない。本来なら、こんな些細な事件はすべて法務部に一任し、雅也自身が口出しすることなど絶対にあり得なかった。それがなぜ、今回に限って彼自ら資金の行方を調査しろと命じるのだろうか?「……承知いたしました」翌朝、楓は起きるなり朱音に電話をかけ、今夜、送別会のための食事に行かないかと誘った。朱音は長い沈黙の後、ようやく口を開いた。「先輩、お気持ちはとても嬉しいです。ですが、食事には行けません。この数日間は荷造りで忙しくて……他に用がないなら、これで切ります」そう言うなり、彼女は一方的に電話を切った。スマホから聞こえる無機質な電子音を聞きながら、楓は静かにため息をつき、スマホを置いて洗面所へと向かった。午前中、楓がラボに到着するなり、春樹が歩み寄ってきた。「先輩。今夜、時間はありますか?もしよければ、今夜僕たちと朱音で食事に行きませんか?」楓は
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第917話

朱音は息を呑み、反射的に反論した。「……何の話をしているのか、全く分かりません!」「柴田さん。今日の午後二時、前回お会いしたあの喫茶店でお待ちしています。もしお越しにならなければ、私はこの証拠を直ちに検察機関へ提出するしかありません」朱音が言葉を返す隙も与えず、弁護士は一方的に電話を切った。彼女には折り返す勇気もなく、スマホを強く握りしめたまま、全身を底知れぬ恐怖に支配されていた。もし本当に彼に会いに行けば、手元にあるこの大金を持ち去れないばかりか、自分自身も展望技術から起訴されるかもしれない。ダメだ……絶対に、今日中にこの国を離れなければ!彼女は深く深呼吸をしてどうにか心を落ち着かせ、再び弁護士の番号へ電話をかけた。「先生。二時は都合が悪いんです。四時に変更していただけませんか?」弁護士はあっさりと承諾した。「分かりました」電話を切るなり、朱音はすぐさまスーツケースをひっつかんで部屋を飛び出した。以前引き取った猫は、隣人にそのまま譲った。彼女は最も早い便の航空券を予約し、タクシーに飛び乗って空港へと急行した。一方、展望技術の社長室。雅也と楓が昼食をとっていると、恭平がノックをして足早に入ってきた。「社長、判明しました……河合新が横領したあの資金ですが、一旦現金化された後、別の口座へ移されていました。彼はその口座を使い、柴田朱音の名義でマンションを購入していたのです。柴田朱音は数日前にそのマンションを売却し、二億四千万円の現金を手にしています」その報告を聞いた瞬間、楓の手から箸が滑り落ち、床に転がった。彼女の顔には信じられないという驚愕の色が浮かんでいた。つまり……それが、彼女が突然仕事を辞めた本当の理由だったの?あの金を受け取ることが犯罪だと、彼女は分かっていなかったとでもいうの?考えれば考えるほど、楓の心は冷たく凍りついていった。ここ最近の朱音の異常な行動の数々、そのすべてのパズルのピースが、今ようやく完全に繋がったのだ。雅也の表情は氷のように冷え切っていた。「直ちに警察へ通報しろ」「承知いたしました」恭平が退出した後、雅也はソファに呆然と座り込んでいる楓の傍に歩み寄り、腰を下ろした。「楓。俺が恭平に通報を命じたこと、怒っているか?」楓は最初の衝撃と信じられな
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第918話

警察署へ連行された後、朱音はこれ以上隠し通すのは不可能だと悟り、すべてを自白した。あの選択をした瞬間から、いつかこんな結末を迎えるかもしれないということは、彼女の頭の片隅にも常にあったのだ。ただ、自分の運はどこまでも悪いのだと、そう思うしかなかった。極端な男尊女卑の家庭に生まれ、血の滲むような努力の末にようやく大学へ進学し、あのラボに入ることができた。しかし、実家の人間たちは弟の作ったギャンブルの借金を肩代わりさせるために彼女の元へ押し掛け、借金のカタとして彼女を売り飛ばそうとしたのだ。もし新が何度も彼女を助けてくれていなければ、彼女は今頃、村の年老いた男やもめに嫁がされていたはずだ。彼が残してくれたあのマンションを売却すれば、すべてを捨てて、誰も自分を知らない遠い国で、新しい人生を始められると思っていた。しかし、運命の女神が彼女に微笑むことは、ただの一度もなかった。自分が自己中心的で身勝手な人間であることは分かっている。だが、もしあの毒親たちにそこまで追い詰められていなければ、彼女とてこんな破滅への道を歩むことはなかったのだ。自白を終えた後、彼女は警察官を見上げて静かに言った。「一つだけ、お願いがあります。ある人に会わせてくれませんか」朱音が逮捕され、自分との面会を希望していると知らされた後、楓は長い間沈黙していたが、最終的に彼女に会いに行かない決断を下した。「面会には行きません。彼女に伝えておいてください。これからは二度と、道を間違えないように、と」「望月さん。彼女はこうも言っていました。もし先輩が会いに来てくれないなら、どうか彼女の代わりに『申し訳ありませんでした』と伝えてほしい、と」「……ええ、伝えていただきありがとうございます」電話を切ると、楓は深く深呼吸をして、この一件を完全に頭から締め出し、再び実験データの記録作業に没頭した。もし朱音がもっと早く、素直に自分に助けを求めていれば、彼女がこんな道を歩むことはなかったかもしれない。だが結局のところ、彼女の心はあまりにも弱く、安易な近道を選んでしまったのだ。しかし彼女は、近道というものが往々にして無数の茨に覆われているという残酷な真実を、完全に見落としていたのだ。夕暮れ時の帰り道、雅也は楓の様子が明らかに沈んでいることに気がついた。彼
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第919話

かつて遠藤拓海と付き合っていた頃、いつも必死に相手の顔色を窺い、彼の気を引こうと高価なプレゼントを貢ぎ続けていたのは明里の方だった。一方の彼は、彼女に対してまともな贈り物などほとんどしたことがなかったのだ。そのことを思い出すたび、明里の胸には苛立ちがこみ上げてきた。プレゼントをくれないだけならまだ我慢できた。彼女はそんなものに困窮しているわけではないのだから。だが、彼が他の女と曖昧な関係を続けていたことだけは、どうしても許せなかった。あの頃の自分は、一体どうしてあんなクズ男に夢中になっていたのだろう。自分の目の節穴ぶりを呪いたくなる。「一番大切なのは、彼があなたと佐智雄の関係に悪影響を及ぼさないようにすることよ」明里ははっきりとは口にしないものの、楓にはよく分かっていた。明里の佐智雄に対する想いは本物であり、本気で彼との結婚を見据えているのだと。楓から見ても、佐智雄はまだ若く、精神的に未熟な部分はあるものの、明里に対する愛だけは真実だった。それだけでも十分すぎるほどだ。「分かってるわ。だから、あいつが送りつけてきた品物は全部そのまま捨てた。あいつには知らせていないわ」楓は唇を引き結んだ。「そのことは、ちゃんと佐智雄にも伝えておいた方がいいわよ。後になって彼がその事実を知った時、余計な誤解を招かないようにね」明里が何か言葉を返そうとしたその時、視界の端で佐智雄がこちらへ歩いてくるのが見え、彼女は立ち上がった。「もう話は終わったの?」「ああ。そろそろ行こうか」楓も立ち上がり、明里を見て言った。「夕飯、一緒に食べていかない?」明里は首を横に振った。「ううん。この後、少し予定があるの」それを聞き、楓もそれ以上引き留めることはせず、雅也と一緒に二人を玄関まで見送った。佐智雄の車が視界から消えるのを見届けてから、楓は雅也と共に家の中へ戻った。「楓」不意に雅也が彼女を呼んだ。楓は振り返って彼を見た。「どうしたの?」「明日の夜、ある入札会があるんだが、俺と一緒に参加してくれないか?」「入札会?私みたいな部外者が同席して、邪魔にならない?」「問題ない。今回の入札には医薬品関連のプロジェクトもいくつか含まれているんだ。君の専門的な視点で、展望技術にとって有益な案件かどうか見極めてほしい」
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第920話

律の瞳の奥に深い嫌悪の色が過ったが、彼が発した声は極限まで優しく、甘い響きを帯びていた。「美雨。今ここで桜井雅也の怒りを買うのは得策じゃない。俺たちにとって今一番重要なのは、狙っているあのプロジェクトを確実に落札することだ。他のことは、藤堂グループの危機が完全に去ってからゆっくり片付ければいい」美雨は冷笑した。「もしあなたに、桜井雅也ほどの巨大な企業を動かす力があれば、私がこんな屈辱に耐える必要なんてなかったのよ!」結局のところ、すべては律が無能であるせいなのだ。美雨の容赦ない罵倒に対しても、律の表情は微塵も揺らぐことはなく、まるで彼女の言葉など耳に入っていないかのようだった。「美雨。そんなに怒らないでくれ。入札の受付と書類の提出時間に遅れてしまうよ」美雨は鼻を鳴らし、確かにそれ以上は何も言わなかった。しかし、律に向けるその視線には、明らかな軽蔑の色が浮かんでいた。もし今の二人の間に慎がいなければ、一瞬の迷いもなく律を蹴り飛ばし、自分が藤堂グループを掌握するために最も有利な条件を持つ男と再婚していただろう。二人は受付カウンターへ向かい、美雨は入札書類を係員に提出した。彼女が律の腕を組んで会場の奥へ進もうとしたその時、ふと視界の端に、展望技術の入札書類が置かれているのが見えた。彼女の瞳が鋭く光ったが、その場では何も言わず、そのまま律と共に会場へと足を踏み入れた。中に入った瞬間、彼女は律の腕をパッと振り払った。「私、ちょっとお手洗いへ行ってくるわ。あなたは適当な席で大人しく待っていて。決して藤堂家の恥になるような真似はしないでよね」ゲーム会社を売却し、もはや一切の後ろ盾を失った律は、周囲の目には完全に「妻に養われているヒモ男」として映っていた。もし藤堂家の報復を恐れていなければ、今頃何人もの人間が彼の目の前で面と向かって嘲笑していただろう。「俺も一緒に行こうか?」美雨は忌々しげに口を尖らせた。「必要ないわ」そう言い捨てると、彼女は足早に背を向けて立ち去った。彼女の背中を見つめながら、律の口角に意味ありげな冷笑が浮かんだ。先ほど書類を提出した際、彼女の視線が展望技術の入札書類に一秒だけ釘付けになっていたのを、彼は決して見逃してはいなかったのだ。何年も一緒に連れ添ってきたのだ。彼女が何を
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