All Chapters of 縁が逆転~元カレの叔父が夫~: Chapter 941 - Chapter 950

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第941話

弁護士は首を横に振った。「藤堂さん、私はこれで。必要であれば他の弁護士を紹介しますよ」「ふん、いいわ。あなたが最後までその弁護士費用を手にできるか、見せてもらうわ!」弁護士は無言で彼女の横を通り過ぎた。美雨は怒りに任せて協議書を引き裂こうとしたが、一瞬手を止め、中身に目を通した。読み終えるなり、彼女はそれをゴミ箱へ丸めて投げ捨てた。律の頭は確実におかしくなっている。離婚の補償金として十億円を支払うなどと書かれていたのだ。彼はずっと藤堂グループ傘下のゲーム会社で働いており、月給などたかが知れている。十億円などどこから湧いてくるというのか。彼女は助手に電話をかけ、冷たく命じた。「律の居場所を今すぐ調べなさい!」しかし丸一日経っても居場所は掴めず、美雨はついに激怒した。「無職の男一人の居場所も探せないなんて、どういうこと!?」助手はすっかり萎縮していた。「監視カメラは確認しましたが、屋敷を出た後すぐに見失ってしまい……探偵を雇ってみてはいかがでしょうか?」「役立たず!」美雨は一方的に電話を切った。少し考えた後、彼女は義母の蓮に電話をかけた。離婚の話を聞き、蓮は耳を疑った。「離婚?子供までいるのに、どうして……」そこまで言って、彼女はハッと言葉を失った。以前、彼女が恒一とよりを戻そうとした時、律から強く警告されたことを思い出したのだ。まさか、あの子はまだ楓に未練があるというの?頭がおかしくなったんじゃないの!?蓮の不自然な沈黙に気づきながらも、美雨はあえて追及せず冷ややかに言った。「お義母さん、彼と連絡がつかないの。お義母さんから彼に電話して、今すぐ帰るように言って。慎のためにも、私は絶対に離婚なんてしないから!」「美雨さん、落ち着いて。今すぐあの子に電話して、今夜必ず帰らせるから」電話を切ると、蓮はすぐに律に電話をかけた。「今どこにいるの?」「何か用?」律の声はひどく冷淡だった。「用って何よ!?どうして美雨さんと離婚するなんて言い出したの!自分には家庭があるってこと、忘れたわけじゃないでしょうね?楓一人のために今の幸せを全部壊して、妻と息子に一生恨まれたいっていうの!?あれから何年も経ってるのよ。あの女はもう桜井雅也と子供まで作ってるのに、あんたはまだ執着する気!?
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第942話

「来る必要はない。美雨に伝えておいてくれ。離婚に同意するまで、俺は二度と彼女には会わないとね」律は一方的に電話を切った。蓮が再度かけても繋がらず、彼女は怒りに任せてスマホを投げつけた。楓さえ戻ってこなければ、律が離婚など言い出すはずがなかった。すべてはあの女のせいだ。怒りに駆られた蓮は、そのまま車を飛ばして展望技術へと向かった。受付から来客の知らせを受けたとき、楓はちょうど実験レポートを作成している最中だった。その報告を聞いて、彼女は少し首を傾げた。もし知り合いであれば、直接電話をかけてくるはずだ。事前の連絡もなく、いきなり直接訪ねてくることなどあり得ない。「相手は名乗っていましたか?」「いいえ。ですが、いらしてすぐに楓さんをご指名でしたので、お知り合いかとは存じます」受付の女性は首を横に振った。「分かりました。少し待っていてもらえますか」受付が立ち去った後、楓はレポートのデータ入力を終わらせると、白衣を脱いで階下へと向かった。エレベーターを降りてすぐ、一階ロビーの窓際に座る蓮の姿が目に入った。楓はピタリと足を止め、不快そうに眉をひそめた。まさか訪ねてきたのが彼女だとは思ってもみなかったのだ。蓮のそばまで歩み寄るも、楓は腰を下ろそうともせず、冷ややかな声で見下ろした。「水瀬さん。私に何の用かしら」蓮は顔を上げ、いきなり声を荒らげた。「楓!あんた、一体どんな手を使って律をたぶらかしたの!あの子、あんたのために美雨さんと離婚するって言い出したわ。うちの息子を家庭崩壊させないと気が済まないの!?」その怒声はロビー中に響き渡り、行き交う社員たちが足を止め、遠巻きにスマホを向ける者までいた。周囲の耳目を集めたことに味を占め、蓮はさらに声を張り上げた。「他人の家庭を壊して何が楽しいの!どうしてそんな酷いことができるのよ!」楓は少しも狼狽することなく、蓮を冷ややかに見据えた。周囲の人々はざわめき始め、中にはこっそりスマホを取り出してカメラを向ける者までいた。「名誉毀損で訴えられたいの?」その堂々とした態度に蓮は一瞬怯んだが、すぐに言い返した。「名誉毀損!?なら私と律の通話録音、今ここで流すわよ!」楓は完全に呆れ果て、受付のスタッフに指示した。「この人を外へつまみ出して。二度と中に入れな
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第943話

律の顔を見るなり、蓮は冷笑した。「私がいくら呼んでも来ないくせに、あの女に会いに来たらすぐ飛んでくるのね。母親よりあの女の方が大事だってわけ!?」律は無駄口を叩くこともなく、無理やり彼女を車に押し込むと、運転手に急いで車を出すよう命じた。これ以上ここに居座らせれば、さらに何を仕出かすか分かったものではないからだ。蓮がドアを開けて飛び降りようとするのを見て、彼は氷のような声で言った。「この速度で飛び降りれば、死ぬぞ」蓮の手が止まり、彼女は律を睨みつけた。「今の家庭を捨ててまで、楓と一緒になりたいの!?」「俺の問題だ。母さんに口出しされる筋合いはない」「離婚すればあの女が振り向いてくれるとでも思ってるの!?五年前もあんたに見向きもしなかった女が、今更相手にしてくれるわけないでしょう!」その言葉は律の急所を的確に突き、車内の空気は凍りつくほど冷え込んだ。「母さんに俺を説教する資格があるのか?恒一さんを老人ホームに追いやっておいて、自分の生活が上手くいかなくなったらまた縋りつこうとした母さんが、俺に『頭を冷やせ』と?」「あんたって子は!」蓮は怒りで卒倒しそうになっていた。「いいわ、親子の縁を切りましょう!」「勝手にしろ」律のあまりにも冷淡な態度に逆上した蓮は、力任せに彼の頬を張り飛ばした。車内に乾いた破裂音が響き、重苦しい静寂が降りた。律の全身から立ち上る底知れぬ殺気に当てられ、蓮は叩いた自分の手が震えるのを感じた。彼女は後悔を覚えつつも振り上げた拳を下ろせず、黙って窓の外へ顔を背けた。やがて車は見知らぬ邸宅の前に停まった。自宅ではないと気づいた蓮は「ここはどこよ?」と尋ねたが、律は「降りろ」とだけ告げ、ドアを開けて真っ直ぐ中へと歩き出した。蓮は不満を押し殺して奥歯を噛み締め、彼の背中を追った。自分こそが母親のはずなのに、今や二人の主導権を握っているのは完全に律の方だった。「降りろ」リビングに入ると、律は鋭い声で警告した。「二度と楓に近づくな」「私が彼女のところへ行かなきゃ、あんたは私に会おうともしなかったじゃない!」「もし次に彼女に近づいたら、俺は一生母さんの目の前から姿を消す」蓮は再び激昂した。「私を脅す気!?誰があんな女のところへ行きたいもんですか!あんたが離婚
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第944話

「そんな言葉、自分で信じてるの?」楓さえ戻ってこなければ、離婚などあり得なかったはずだ。律は無表情に言い放った。「母さんが信じるかどうかはどうでもいい。自分のことだけ心配して、俺の人生には干渉しないでくれ」「一体どこまで私を怒らせれば気が済むの!?」「俺は母さんを怒らせるようなことは何もしていない。自分の思い通りにならないからと逆ギレしているのは母さんの方だ。他人の人生に干渉すべきじゃないと、いい加減学ぶべきだ」「あんたを留学までさせて立派に育てたのに、こんな恩返しをされるなんてね!もういい、あんたみたいな息子はいないものと思うわ!」蓮はバッグをひっつかみ、怒り狂って屋敷を飛び出した。車に戻るなり、彼女は美雨に電話をかけた。「あの子には言ったけど、全く聞く耳を持たなかったわ。そっちで何とかしなさい」「お義母さん、慎はあなたの孫なのよ?彼が片親になってもいいの?」蓮は吐き捨てるように言った。「私にどうしろって言うのよ。五年間も一緒にいて夫の心も繋ぎ止められないなんて、あなた自身に問題があるんじゃないの?」美雨は嘲笑した。「よくそんな偉そうな口がきけるわね!あんな薄情な男に育て上げたのは、他でもないあなたでしょう?たかが五年の結婚生活が、二十年以上も母親として植え付けた影響力に勝てるわけないじゃない!」蓮は顔を真っ赤にして電話を切った。美雨はスマホを床に叩きつけ、激しい怒りを燃やした。まずは泰造の遺産を奪い取ることが先決だ。あいつらへの復讐はそれからでいい。展望技術の社長室。展望技術の社長室。ロビーの防犯カメラの映像を確認した雅也の顔色は、凍りつくほど冷え切っていた。傍らに控える恭平は、その威圧感に怯えて息を潜め、一言も発することができないでいた。「水瀬蓮の現在の夫が経営しているのは、藤堂グループから独立した子会社だったな」「……はい」「自分の妻すらまともに教育できない人間に、会社の経営などできるはずがないな」「……承知いたしました」恭平は即座に意図を察した。恭平が退出した後、律から電話が入った。雅也は冷笑して通話ボタンを押した。「母が会社で騒ぎを起こした件、謝罪したい。今夜、楓と一緒に食事でもどうだろう」「食事の必要はない。本当に謝罪する気があるなら、お前の母親を連
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第945話

「楓は母の顔など見たくないはずだ」「なら、お前の顔なら見たいとでも思っているのか?」律の声が低く沈んだ。「今は会いたくなくても、将来は分からない。今の彼女が君の隣にいるからといって、永遠にそこにいるとは限らないようにな」雅也の全身から凄まじいオーラが放たれた。「警告しておく。彼女によからぬ未練を抱くのはやめろ。たとえどれほど莫大な富を築こうが、どんな権力の頂点に立とうが、俺は必ずお前からすべてを奪い尽くしてやる」「随分と大きく出たな。どうやって俺からすべてを奪うのか、見せてもらおうか!」電話が切れ、雅也の顔には陰惨な怒りが張り付いていた。どうやら律は、聖都から完全に消え去りたいらしい。夕暮れ時の車内。楓は雅也の不機嫌な空気を察し、尋ねた。「どうしたの?何か怒ってる?」「どうして今日、水瀬蓮が会社に乗り込んできたことを俺に言わなかった?」楓は目を丸くした。「どうして知ってるの?」楓の瞳に驚きが走った。あの時は警備員がすぐに追い出してくれたし、多忙な雅也の耳に届くはずがないと思っていたのだ。雅也は唇を真一文字に引き結んだ。「あんなひどい目に遭ったのに、俺には一言も相談してくれなかったな。楓、君は俺を……本当に恋人だと思っているのか?」「仕事で忙しいあなたを、こんな些細なことで煩わせたくなかったの」「俺にとって、君に関わることで『些細なこと』など一つもない」彼の不満げな顔を見て、楓は手を伸ばして彼の頬を軽くつねった。「ごめんなさい、私が悪かったわ。これからは毎日、小さなことでも全部報告するから。ね?」「約束だぞ。忘れたら、罰を与えるからな」雅也は罰という言葉に意図的に力を込めた。「それと、今後二度と水瀬律とは個人的に会うな」「ええ、絶対に会わないわ」律に対しては、五年前の不快な記憶しかなく、彼女自身も二度と関わりたくなかった。夕食を済ませると、雅也は再び外出の途に就いた。今夜彼が会う相手は、他でもない泰造だった。律が藤堂グループを破滅に追い込もうとしているなら、逆に藤堂グループを支援して危機から脱出させ、彼らを利用して律を追い詰めてやればいい。個室で待ち受けていた泰造は、雅也の姿を見るなり愛想笑いを浮かべて立ち上がった。「桜井社長、本日は……」雅也は席に座るなり
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第946話

「それだけじゃない。先日、藤堂グループは資金繰りのために奴が任されていたゲーム会社を売却したな……今、あのゲーム会社の真の所有者が誰になっているか、分かるか?」泰造の顔色が変わった。反射的に雅也の言葉を否定する。「まさか……彼が創和テクノロジーの黒幕だというのですか?」雅也は、突然の事実が受け入れ難いことだろうと察し、恭平に目配せをして一冊のファイルを泰造の前に置かせた。「藤堂会長。まずはこれに目を通せ。自ずと判断がつくはずだ」泰造はファイルを手に取った。読み進めるうちに、その顔色はみるみる青ざめていく。「なんという……これほど長年にわたり、奴は完全に正体を隠し通していたというのか……もし今日桜井社長に教えていただかなければ、私は会社が息の根を止められるその瞬間まで、あの男の真の顔に気づけなかったでしょう……」雅也の表情は淡々としていた。「藤堂会長。この数年間で、律は藤堂グループの中枢に自らの手駒を相当数送り込んでいる。早急に彼らを一掃しなければ、会社の動きはすべて筒抜けだ。一ヶ月もすれば、藤堂グループは完全に奴のものになるだろうな」泰造は激しく胸を波立たせ、ファイルをデスクに叩きつけた。「奴め、どこまで私を愚弄すれば気が済むんだ!」「すべてを知った今、どう動くつもりだ?」泰造は深くため息をつき、無力感を滲ませた。「恥を忍んで申し上げます。現在の我が社は完全に疲弊しきっております。このまま外部からの支援が得られなければ、長くは持ちません」雅也は微かに眉を上げて笑った。「俺が支援しても構わない。条件は、危機を脱した後、水瀬律を潰すために協力することだ」泰造の瞳に喜びの色が走った。「もちろんです!奴がこれほどまでに我が一族を陥れていたと知った以上、桜井社長に言われずとも、絶対にこのまま生かしてはおきません!」話がまとまったと見るや、恭平がすかさず用意していた契約書を泰造に差し出した。契約書を開き、泰造の表情は興奮に上気していった。「桜井社長。この危機さえ乗り越えれば、真っ先にあの恩知らずにきっちり落とし前をつけさせてやりますよ!」雅也の口角が上がった。「では、良い取引を」泰造が契約書を抱えて退出した後、恭平が懸念を口にした。「社長。危機を脱した後、藤堂泰造が約束を反故にする可
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第947話

美雨は使用人に視線を向けた。「分かったわ。先に戻りなさい。慎の寝顔を見てからすぐに向かうから」使用人は頷いた。「かしこまりました、お嬢様」美雨は二階へ上がり、薬をバッグに忍ばせて服を着替え、本邸へと向かった。泰造が書斎にいると知っていたが、すぐには向かわず、キッチンへ足を運んだ。「お爺様は私の淹れたお茶が一番好きだから、私が淹れて持っていくわ」茶の準備を整え、美雨は自らトレイを手に書斎のドアをノックした。中に入った瞬間、待ち受けていたのは泰造の氷のように冷たい瞳だった。美雨の足が微かに止まったが、すぐに微笑んで茶をデスクに置いた。「お爺様、誰か気に障るようなことでも?」泰造は冷笑し、一冊のファイルをデスクに投げ出した。「自分で見ろ!」美雨は泰造の前に茶碗を差し出した。「お爺様、まずは温かいお茶でも……」言葉が終わる前に、泰造は差し出された茶碗を乱暴に弾き飛ばした。熱い茶が美雨の手の甲に降り注ぐ。焼け付くような激痛に、彼女は思わず茶碗から手を離した。赤く腫れ上がった手の甲を見つめていると、頭上から泰造の冷酷な声が降ってきた。「美雨。そのファイルにしっかり目を通せ。お前が一体、どんな男と結婚したのかをな!」美雨は一瞬呆然としたが、痛みを堪え、ファイルを手に取って開いた。読み進めるうちに、彼女の表情は当惑から驚愕へ、そして信じがたいという色に変わった。「……こんなこと、あり得ないわ!」律が、創和テクノロジーの黒幕だというの?五年間連れ添い、ただ藤堂家に寄生して生きているだけの男だと思っていたのに、上場企業のオーナーだったなんて!「お爺様……何かの間違いじゃない?彼が本当に創和テクノロジーのトップなら、どうして五年間も我が家で大人しく婿養子に収まっていたの?」泰造は冷笑した。「私も間違いであってほしいと心底思っている。だが、これは桜井雅也から渡された情報だ。偽物の可能性はない」「どうして彼が、こんなことを?」「どうしてだと?」泰造は彼女を鋭く睨みつけ、怒りを露わにした。「当然、藤堂グループを狙ってのことだ!あのゲーム会社は今や奴の手に渡っている。つまり我々は、藤堂グループの金でゲーム会社を買い戻し、奴は一銭も出さずにあの優良企業を手に入れたということだ!」
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第948話

律が、創和のオーナー?もし他人から聞かされたなら夢物語だと笑い飛ばしただろうが、雅也が泰造に渡した証拠なら間違いない。だが……もし彼が創和テクノロジーのトップなら、もう泰造を殺す必要はない。創和の資産価値は、今の藤堂グループの比ではないのだ。そこまで考えが至り、美雨は一瞬喜んだが、直後に顔色を変えた。……お爺様に淹れたあのお茶!あの薬を入れたままだった!もしお爺様があのお茶を飲んでいたら……!美雨は慌てて立ち上がり、本邸へと全速力で引き返した。リビングに飛び込むと、使用人がちょうど彼女の淹れた茶器をトレイに乗せてキッチンへ下げようとしているところだった。彼女は急いで使用人を引き止め、息を切らしながら尋ねた。「そのお茶……お爺様は飲んだの!?」使用人は怪訝な顔をしながらも首を振った。「いいえ。大旦那様は夜に茶を飲むと眠れなくなると仰って、代わりにホットミルクをお持ちしました」「あ……そう、よかったわ……」美雨が深く安堵の息を吐き出すのを見て、使用人の訝しげな視線を感じた彼女は慌てて取り繕った。「い、いや、ちょっとどこかで読んだのを思い出してね。高齢者は夜にお茶を飲むと体に毒らしいのよ……そうだ、このお茶は私にちょうだい。私の一番好きなほうじ茶だから、持ち帰って飲むわ」使用人は奇妙に思いながらも、言われるがまま茶器を渡した。「かしこまりました、お嬢様」「ええ、もう休んで」使用人をやり過ごし、美雨は茶器を抱えるようにして足早に本邸を立ち去った。本邸では、泰造が冷酷な顔つきで使用人を呼び止めていた。「さっき、美雨はお前に何と言っていた?」突如現れた泰造に驚き、使用人は顔を青ざめさせた。「大旦那様。お嬢様は、高齢者が夜にお茶を飲むのは体に良くないと仰って……それに自分の一番好きなほうじ茶だから無駄にしたくないと、持ち帰られました」泰造の瞳が暗く沈んだ。「そうか。もう休んでいい」「は、はい……」使用人が去ると、泰造は背後に控えていた執事に命じた。「さっき美雨が書斎で茶を淹れた時、私が茶碗を弾き飛ばして床にこぼれた分がある。専門の鑑識を呼び、あの茶の成分を徹底的に分析させろ。何か不審なものが混ざっていないかな」執事の顔色が変わった。「大旦那様。まさか、お嬢様が何かを盛っ
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第949話

考えれば考えるほど、泰造の胸の奥は冷え切っていった。泰造の失望に満ちた表情を見て、執事も茶から本当に何かが検出されたのだと察した。「大旦那様……この件は……」泰造は深く息を吸い込み、重々しく言った。「この件は、お前も一切知らなかったことにしろ。誰にも口外するな」「……承知いたしました」一方、自分の凶行が露見したことなど知る由もない美雨は、帰宅して茶を捨て、茶器を粉々に砕いてゴミ箱に捨てることで証拠隠滅を完了した。処理を終えて安堵の息を吐き、ソファに座り直すと、彼女の思考は再び律との関係へと向かった。以前から離婚する気はなかったが、彼が創和のオーナーだと知った今、さらに同意するわけにはいかない。律の妻である限り、創和に関する資産の半分は自分のものだ。しかし離婚してしまえば、すべてを失う。五年間も結婚生活を送り、子供まで産んだというのに、たった十億円で自分を追い出し、あわよくば子供まで奪い去ろうだなんて。そんな虫のいい話が通るはずがない。翌朝、美雨は真っ直ぐに創和のオフィスビルへと乗り込んだ。エントランスに入るなり、受付に止められた。「いらっしゃいませ。どなたにご面会でしょうか?お約束はございますか?」美雨は傲慢な態度で言い放った。「水瀬律に会いに来たのよ」受付の女性は少し戸惑い、端末を確認した。「お客様、当社の社員名簿に水瀬という該当者はおりません。場所をお間違えではありませんか?」「自社の本当のボスの名前すら知らないなんて、あなた本当にここの受付なの?」受付は眉をひそめた。「当社の代表は黒田でございます……やはり、お間違えのようですね」「ならその黒田を呼びなさい。私が水瀬律の妻だと言えば分かるわ」美雨が全く引く気配を見せないため、受付の表情も冷ややかになった。「警備員。こちらで騒いでいる方を外へお連れして」美雨は信じられないというように目を見開いた。「私を追い出すっていうの?私がこの会社のオーナーの妻だって言ってるでしょ!」受付は完全に呆れ返っていた。「当社の黒田社長はすでに七十近いご高齢で、お孫さんがちょうどあなたと同じくらいの年齢ですよ。それに、水瀬という社員はいないと申し上げております。これ以上居座るなら、警察を呼びますよ」そう言うなり、受付は警
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第950話

昭夫はしばらく沈黙し、スマホを取り出して律に電話をかけた。「社長。奥様が現在、本社の下へお見えです。面会を求めておられますが」間もなく通話を終え、昭夫は美雨を見た。「社長は現在、紫華ノ杜(しかのもり)の壱番館におられます」美雨の口角が上がった。「ご丁寧にどうも、黒田『社長』」そう言い残し、彼女は車に乗り込んで走り去った。紫華ノ杜の壱番館の前に到着した美雨は、その豪奢な外観を複雑な面持ちで見上げた。数年前、この分譲地が売り出された際、壱番館は多くの人間が血眼になって争奪戦を繰り広げた。二百億円の値をつけた者もいたが、所有者は決して売ろうとしなかった。当時から、この豪邸の主は創和のオーナーだという噂が囁かれていたが、誰もその正体を突き止めることはできなかった。創和の代表を務める昭夫に対しても、宴席のたびに探りを入れる者は後を絶たなかった。しかし彼は口が堅く、一言も情報を漏らそうとはしなかった。まさか、この豪邸の主が律だったとは、美雨は夢にも思わなかった。彼女は深く息を吸い込み、車を降りた。事前に訪問が知らされていたため、警備員はそのまま彼女を通した。広大なリビングに足を踏み入れ、贅を極めた内装を目の当たりにすると、彼女の心境はさらに複雑になった。これほどの富を持ちながら、自分の前ではただの貧乏人を演じ続けていた。すべては藤堂家を油断させ、密かに手駒を送り込んで藤堂グループを瓦解させるためだ。自分が何年も努力してようやく手に入れた専務の座も、彼の計算によって奪われた。そう考えるほど、美雨の胸の奥に不満と憎悪が込み上げてきた。律はソファに座り、淡々とした眼差しで美雨を見た。「ここへ来たということは、考えは決まったか?」美雨は冷笑を漏らし、彼の向かいに座った。「水瀬律。あなたが創和のオーナーだと知らない時でさえ離婚に同意しなかった私が、今さら離婚すると思う?」「創和は俺の婚前財産だ。創和を狙っているなら、夢を見るのはやめろ」「設立自体は結婚前かもしれないけど、結婚後の数年間で、かなり稼いだはずよね?もし私が裁判所に結婚後の資金の流れを調査するよう申し立てれば、何も出てこないとでも思ってるの?」律は目を細め、瞳に冷たい光を宿した。「……どうしたいんだ?」「離婚には同意しない。
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