All Chapters of 月はもう、彼を照らさない: Chapter 1 - Chapter 10

18 Chapters

第1話

東都市において、桐島湊斗(きりしま みなと)の名を知らぬ者はいない。桐島家きっての異端児であり、最大の厄介者だ。十八歳にして実の父親相手にオークションで骨董品を競り合い、価格を吊り上げるという暴挙に出たかと思えば、二十代前半にはアルプスの麓で無謀なカーレースに興じ、命を落としかけたこともある。交際相手を変えるスピードは、ハイブランドの新作コレクションの入れ替わりよりも速い。かつて彼はこう豪語していた。「結婚なんてもう時代遅れだ。したい奴だけが勝手に自縛すればいい」だが三年前、そんな湊斗が、ある家の門前で跪いた。記録的な豪雨の夜、ただ白石紗月(しらいし さつき)に一目会いたいがために、十二時間もの間、泥にまみれて雨に打たれ続けたのだ。紗月は、息を呑むほどの美貌の持ち主だ。由緒正しい学者の家系に生まれ、その佇まいは丹精込めて育てられた高貴な蘭の花を思わせる。本来なら、奔放な湊斗が最も敬遠するはずの「深窓の令嬢」だ。周囲は皆、彼女がいずれ弄ばれ、捨てられて泣きを見るだけだろうと高を括っていた。だが、街中を騒然とさせたあのプロポーズがすべてを覆した。彼は稀少なピンクダイヤモンドを贈り、世間の雑音を封じ込めたのだ。リングの内側には、彼自身の手で一文字ずつ、こう刻まれていた。【囚人・桐島湊斗、刑期は終身】結婚から三年が経っても、紗月のお伽話は終わらなかった。湊斗の彼女への溺愛ぶりは、留まるところを知らない。人々は口を揃えて言った。「桐島家のあの『手のつけられない暴れ馬』が、まさか白石紗月に完全に飼いならされるとは」紗月自身も、そう信じて疑わなかった。だが、結婚三周年の記念日の翌日。紗月が写生に出かけていた時のことだ。「おい!そこの絵を描いてる人!」紗月が顔を上げると、金髪の青年が腹を押さえ、脂汗を流しながら立っていた。「た、頼む、手を貸してくれ!この袋をあっちに届けてほしいんだ。ツレが待ってる!」紗月は言われた通りに小道を抜け、空き地へと向かった。そこには、改造された一台の黒い車が止まっていた。威圧感を放つその車体は、どこか狂暴で、そして――奇妙なリズムで小刻みに揺れていた。スモークガラスが貼られており、中の様子は窺えない。「チッ、あいつ何してやがる。ゴムはまだかよ!」車
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第2話

デザートは届かなかった。湊斗は丸一日、姿を消した。再会したのは、翌日の夕方だった。彼は家に入ろうともせず、車の中から何食わぬ顔で言った。「紗月、俺の新車を見に行こう」湊斗は埃にまみれ、目は充血していたが、妙に興奮していた。紗月は黙って助手席に乗り込む。車内には、彼のものではない甘ったるい香水の匂いが染み付いていた。車は郊外のサーキットへと疾走した。耳をつんざくようなエンジンの轟音の中、彼は紗月の手首を掴んで人混みをかき分けていく。その時、弱々しい声が二人を呼び止めた。「湊斗さん!紗月さん!」梨花だ。サイズの合わない大きなレーシングスーツを着て、袖を何度もまくり上げている。顔は薄汚れていたが、その瞳は異様なほど輝いていた。彼女の後ろには、金髪の男・須藤甲斐 (すどう かい)がついてきていた。湊斗は紗月の手を離し、何でもないことのように言った。「甲斐が梨花を口説いてて、どうしても俺に応援に来いってうるさくてな」彼は言い訳がましく、紗月の顔を覗き込んだ。「彼女は臆病なんだ。レースを見るのは初めてで、怖がってる」紗月の視線は、梨花の襟元から覗く生々しい紅い痕を掠め、そして湊斗を見た。彼は平然としていた。紗月はふと、自嘲気味に笑った。まさか、この男がここまで厚顔無恥だとは思わなかった。絶対に不倫はバレない、と高を括っているのだろうか。紗月は何も答えなかった。ただ顔を背け、梨花が差し出してきた手を初めて無視し、真っ直ぐにコースを見つめた。……運悪く、湊斗の宿敵も来ていた。二人は何かにつけて争ってきたが、レースで湊斗が負けたことは一度もない。男は派手な紫色のスーパーカーにもたれかかり、湊斗に向かって顎をしゃくった。「新車はどうした?一勝負しようぜ。助手席には誰を乗せる?」周囲が静まり返り、すべての視線が集まる。湊斗は一秒の迷いもなく言った。「梨花、来い」梨花の目がぱっと輝いた。彼女は小走りで彼のそばに寄り添い、緊張した様子で彼の袖口をギュッと掴んだ。湊斗は自然な仕草で彼女の肩を抱き、ライバルの男に眉を挑発的に上げた。「こいつだ。勝った方は……」「条件は好きに選べる、どうだ?」周囲から「おおっ」という歓声が上がった。誰も覚えていない
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第3話

「お断りします」紗月の声は大きくはなかったが、夜風に乗って全員の耳にはっきりと届いた。湊斗が弾かれたように振り返り、眉を険しく寄せる。紗月は彼を見ず、ライバルの男だけを見据えて正論を突きつけた。「負けたのは誰?責任を取るべきなのは、負けた当事者でしょう」「紗月!」湊斗が大股で歩み寄り、彼女の手首を万力のように掴んだ。彼は声を潜めた。「騒ぐな」「騒ぐ?」紗月は彼を見上げた。「潔く負けを認めるのが、あなたの流儀じゃなかったの?」湊斗の喉仏が動いた。声はさらに低く、切羽詰まった響きを帯びた。「君があいつらの所に行ったとして、何が起きる?桐島家の正妻に、あいつらも本気で手出しはできない。だが、梨花は違う」彼は車の中で震える梨花を一瞥した。「あの子には身分も後ろ盾もない。あいつらの遊び方がどれだけエグいか知ってるだろ。梨花じゃ壊されて、死ぬかもしれないんだ」紗月は静かに彼を見つめた。彼の瞳にある焦燥は本物だった。だがそれは、彼女のためのものではない。「だから……『正妻』が盾になれと言うの?」彼女は静かに問いかけた。湊斗の呼吸が止まる。彼女は手首を引き抜いた。白い肌には、赤い指の跡がくっきりと残っていた。「湊斗。あなたのルールって、相手によって変わるのね」遠くで、ライバルの男が口笛を吹いた。湊斗の顎の筋肉が強張った。やがて彼は背を向け、照明に長く伸びた影を引きずりながら、強硬に宣言した。「梨花は渡さない。代わりに、俺の妻を一時間だけ貸す」一瞬の沈黙の後、彼はドスの利いた声で続けた。「一時間後に、俺が直々に迎えに行く。もし妻の髪の毛一本でも傷つけてみろ……全員、命の保証はないと思え」直後、黒服の男たちが紗月の両腕を乱暴に掴んだ。どれだけ抵抗しても振りほどけない。紗月はただ、遠ざかる湊斗の背中を見つめることしかできなかった。彼は車を覗き込み、震える梨花に何かを囁いた。梨花は涙目で頷き、彼の服の裾をギュッと掴んでいる。「何を怯えてるんだ?」ライバルの男が紗月の前に現れ、彼女の頬を指でなぞった。「極上じゃないか」不躾な手が、彼女の体をまさぐる。「湊斗!」恐怖が喉を駆け上がった。紗月の悲鳴は震えていたが、エンジンの轟音にかき消されそうになった。だ
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第4話

その頃、バーの個室の中は煙草と酒の臭いで淀んでいた。最初は男たちも遠慮していた。無理やり酒を飲ませ、腰に手を這わせる程度だった。紗月は歯を食い縛り、爪が掌に食い込むほど拳を握りしめて耐えていた。壁の時計が、約束の一時間を告げようとしていた。湊斗は来ない。業を煮やした金髪の男が、酒瓶を床に叩きつけた。「いつまで『桐島夫人』気取ってんだよ!」男は紗月の胸倉を乱暴に掴んだ。「お前の旦那は今頃、あの『か弱いお姫様』を慰めるのに忙しいんだよ!」「触らないで!」紗月は手近にあったグラスを掴み、男に投げつけた。グラスが砕け散る音が、さらなる嘲笑を呼んだ。男たちの理性が飛んだ。四、五本の手が一斉に彼女を押さえつけ、布が引き裂かれる音が響く。「やめて――!」彼女は陸に上げられた魚のように激しく抵抗し、膝で男の股間を蹴り上げた。返ってきたのは、強烈な平手打ちだった。「いい写真だ、もっと撮れ」金髪の男が彼女の髪を掴み、カメラに向けさせた。「みんなに見せてやろうぜ、桐島夫人がどうやって命乞いをするのかを」「湊斗があんたたちを殺すよ……!」「湊斗だと?」男たちは腹を抱えて笑った。「あいつは今頃、他の女のベッドの上だろ?」スマホの画面が紗月の目の前に突きつけられた。そこには、車のボンネットに梨花を押し倒し、熱烈にキスをする湊斗の姿が写っていた。いつの間に撮られたものなのか。紗月の心は瞬時に凍りついた。張り詰めていた最後の糸が、ぷつりと切れた。ベルトのバックルを外す金属音が響いた瞬間、紗月は床に落ちていたガラスの破片を鷲掴みにし、自身の首筋に死に物狂いで押し当てた。鋭利な刃先が皮膚を裂き、赤い血が滲み出す。「指一本でも触れてみなさい」彼女の声は恐ろしいほど掠れ、目は充血していた。「ここであんたたち全員、人殺しにしてやる」男たちの動きが止まった。所詮は遊びのつもりだったのだ。本気で死なれては困る。フラッシュが何度も焚かれ、彼女の蒼白な顔と、服が破け屈辱にまみれた姿が記録されていく。「いい子だ」金髪の男が彼女の顎を掴み、涙で濡れた顔にレンズを向けた。「今日のことを誰かにチクってみろ。この写真と動画をバラ撒くぞ……白石家の名声が地に落ちるのが楽しみだな!
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第5話

「出て行って」紗月は立ち上がり、芳子を見る梨花の視線を遮るように立ちはだかった。梨花は彼女を見上げ、その瞳をゆっくりと潤ませた。「悪気なんてないですよ。私はただ、湊斗さんの代わりに孝行したいだけです。それに、お祖母様も私のこと気に入ってくれてますし。紗月さん、知らないでしょう?以前、お祖母様がこっそり私に言ったんです。『あなたの方が湊斗にお似合いだ』って」病床の芳子の呼吸が、不意に荒くなった。紗月はすぐに身を乗り出した。「お祖母様!」芳子はカッと目を見開き、梨花の方を死に物狂いで凝視した。酸素マスクの下で、唇が激しく震えている。紗月は芳子の背をさすって優しくなだめると、振り返って梨花に言い放った。「よくもそんな嘘を!私もお祖母様も、あなたなんて歓迎していないわ。あなたが来ない方が、お祖母様は長生きできるのよ!」梨花の目から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。彼女は唇を震わせた。「紗月さん、ひどい……どうしてそんなことを言うんですか……」「じゃあ、なんて言えばいいの?」紗月は一歩踏み込み、彼女に詰め寄った。「あなたは純粋だ、無実だと言えばいい?それとも『うっかり』私の夫と寝てしまっただけだ、とでも言うつもり?」いつも穏やかな紗月が、初めて見せた凄まじい剣幕だった。梨花は怯んだように後ずさり、背中を壁に打ち付けた。紗月はそれ以上近づかなかった。かつて心から憐れみ、救い出した少女が流す空涙を、ただ冷ややかに見下ろした。「消えて」梨花は涙を拭い、赤い目のまま病床へ歩み寄った。だがその口元には、密かに歪な笑みが浮かんでいた。「紗月さん。私、お祖母様にどうしても知っておいてほしいことがあるんです」紗月が反応する間もなく、梨花は突然、スマホの画面を芳子に向けた。スマホから、耳障りな男たちの嘲笑と、布が裂ける音が響き渡った。薄暗い光の中、服を乱された紗月自身が、男たちに囲まれている映像だ。カメラがズームし、涙に濡れた顔と絶望的な瞳が映し出される。「離して!」動画の中の紗月の悲鳴は、鋭く、そして壊れていた。芳子の呼吸が、一瞬止まった。直後、モニターが不吉な警告音を鳴らし始めた。老人の胸が激しく波打ち、目は画面に釘付けになったまま、喉の奥から「ヒュー、ヒュー」という異音を漏らす
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第6話

処置室のランプが、三時間もの間、無情に点灯し続けていた。ようやくドアが開いた。主治医がマスクを外し、重苦しく首を横に振った。「手を尽くしましたが……急性心筋梗塞に呼吸不全の併発、それに加えて激しい情動のショックが……」その後の言葉は、紗月の耳には届かなかった。彼女は冷たい壁に背中を預け、ゆっくりと床に崩れ落ちた。視界が涙で滲み、何も見えない。廊下の突き当たりから、急いた足音が聞こえてきた。湊斗だ。後ろから梨花が小走りでついてくる。その目は赤く腫れている。紗月は顔を上げた。湊斗の姿を認めた瞬間、予兆もなく涙が溢れ出し、ポタポタと手の甲を濡らした。ただ彼を見つめ、唇を震わせる。それはまるで、溺れる者が不意に浮木を見つけた時のようだった。裏切られてなお、彼女の瞳は習性として、夫への依存と救いを求めていた。湊斗が大股で歩み寄り、目の前で立ち止まる。無表情だが、瞳の奥には黒く重い何かが渦巻いている。次の瞬間、彼の手が挙がった。パァン!乾いた音が響き、紗月の頬に強烈な平手打ちが飛んだ。「紗月」骨まで凍るような冷たい声。「お祖母様に何を言った?」平手打ちの音が、静まり返った廊下に異常なほど響き渡る。紗月は顔を背けたまま、動けなかった。頬が焼けつくように痛く、耳鳴りがする。彼女はゆっくりと顔を戻し、湊斗を見る。そしてその背後で、梨花がうつむいて涙を拭い、肩を小刻みに震わせているのを見た。まるで、とんでもない被害を受けた子供のように。処置室のドアの隙間から、無機質な光が漏れている。「お祖母様の心臓が悪いことくらい、知っていたはずだろう?たかがお前のくだらない痴話喧嘩のために、なんでお祖母様の前で騒ぎ立てたんだ?」彼は一歩踏み込み、その影で彼女を完全に覆い尽くした。「紗月、お前には本当に失望したよ」梨花がタイミングを見計らったように嗚咽を漏らし、そっと彼の袖を引いた。「湊斗さん、やめて。紗月さんも気が動転してて、それでつい私の悪口をお祖母様に……全部、私が悪いの……」「君は関係ない」湊斗は紗月の手首を強く掴み、睨みつけた。「お祖母様はお前を実の孫のように可愛がっていただろう!美味しいものがあれば真っ先にお前に届けていた。それなのに、お前はお祖母様の体を気遣うことすらし
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第7話

「この女を追い出せ!二度と顔も見たくない!」湊斗は紗月に対して、一片の慈悲も示さなかった。大柄な警備員二人が紗月の口を無理やり塞ぎ、粗暴に引きずり出すと、車に押し込んだ。湊斗が何を命じたのかは分からない。ただ、車は都市の最も賑やかな繁華街で止まり、彼女を路上に蹴り落とした。紗月が顔を上げると、目の前の巨大なLEDビジョンに、見覚えのある映像が映し出されていた。あの動画だ。引き裂かれた衣服、絶望的な涙、男たちの嘲笑と共に響く「桐島夫人」という声。彼女はスクランブル交差点の真ん中で立ち尽くし、巨大スクリーンに映る自分の顔を呆然と見上げた。通行人の好奇な視線と、棘のような囁きが突き刺さる。「清楚ぶってたけど、随分派手に遊んでるんだな」「なるほどね、こういう手口で桐島家に取り入ったわけか」「動画の声、すごい淫乱だったじゃん……」LEDの人工的な光が、彼女の顔を明滅させる。画面の中の彼女は泣き叫び、現実の彼女は凍りついたまま動かない。スマホが狂ったように震え始めた。母からだ。通話ボタンを押すと、十秒ほどの沈黙のあと、嗚咽が聞こえてきた。「紗月……白石家の面目は丸潰れよ……お父さん、あなたと縁を切るって……どうしよう、紗月、お父さんの怒りを鎮める方法はないの?」電話の向こうから、父の怒声が響いた。「そんな恥知らずに何の用だ!我が白石家に、あんな風紀を乱す娘などいない!」プツリ。電話が切れた。紗月は乾いた笑みを漏らした。湊斗の徹底的な制裁の前で、彼女に何ができるというのか。父の行動は迅速だった。十分もしないうちに、白石家からの絶縁声明がスマホのニュース速報として通知された。紗月はその場にうずくまり、行き交う人波の中で膝を抱えた。再びスマホが鳴る。今度は、湊斗からだ。彼女は画面に表示された名前を長く見つめ、ゆっくりと通話ボタンを押した。「見たか?」彼の声は平坦だった。背景から、梨花の軽快な鼻歌が聞こえてくる。湊斗は淡々と言った。「お祖母様の件の償いだ。よく覚えておけ。お前が、お前自身の手で、白石家の最後の誇りを踏みにじったんだ」見上げたスクリーンの動画は最後のフレームで停止していた。ソファに押し倒され、泣き崩れる彼女の顔がアップになっている。脇にはトレンドワー
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第8話

参列者の視線が一斉に突き刺さる。梨花は涙に濡れた目を上げ、怯えたように半歩後ずさった。まるで脅かされた小鹿のようだ。「跪け!」湊斗は一語一語を噛みしめるように命じた。「梨花に謝れ!もう二度と虐めないと誓え!」紗月は芳子の遺影を見つめた。遺影の中の老婦人は、額縁の中から優しく微笑んでいるように見えた。「ごめんなさい」彼女は梨花の方を向き、静かだがはっきりと通る声で言った。「あなたが私を嵌めて動画を撮らせ、それをお祖母様に見せて憤死させた後なのに……」「紗月!」湊斗が怒鳴りつけた。彼女は構わず、梨花を見据え続けた。「……私がまだ生きて、あなたの目の前に立っていて、ごめんなさいね」梨花の顔色が、瞬時に土気色に変わった。「謝罪は済んだわ」紗月は湊斗に向き直った。「これでお祖母様にお別れの挨拶をしてもいい?」葬儀場は死んだように静まり返り、低い哀悼の音楽だけが流れていた。湊斗は彼女を睨みつけた。その瞳の底には、どす黒い怒りが渦巻いている。だが彼女は背を向け、遺影に向かって正座し、深く頭を下げた。一度、二度、三度。その一つ一つが、重く、深かった。湊斗の表情が急激に陰った。彼は紗月の髪を力任せに鷲掴みにした。頭皮が引き裂かれそうな激痛が走る。「死にたいのか!」彼は彼女の首を押さえつけ、猛然と床のタイルに叩きつけた。ドゴッ!一撃目。額が硬い床に打ち付けられ、鈍い音が静寂を切り裂く。「梨・花・に・謝・れ」彼は歯を食いしばり、一文字ずつ吐き捨てた。手首に力がこもる。ドゴッ!二撃目はさらに重かった。紗月の目の前が真っ暗になり、額から温かい液体が流れ落ちた。周囲から押し殺したような悲鳴が上がり、梨花の細いすすり泣きが聞こえる。「私が間違ったことを言った?」紗月の声は掠れていたが、そこには笑いが混じっていた。「彼女がやったことの、どこが冤罪なの?」湊斗の理性が完全に決壊した。彼は彼女の髪を掴み、三度目、全力で床に叩きつけた。ドゴォッ!!!心臓が縮み上がるような衝撃音と共に、床に暗赤色の血飛沫が散った。紗月は床に突っ伏したまま動かない。額の血が目を塞いでいる。血の色に染まった視界の先で、芳子の遺影が目に入った。老婦人は変わらず慈愛に満ちた笑顔を浮かべて
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第9話

区役所のロビーは冷房が効きすぎていた。紗月はベンチに座り、膝の上に書類袋を置いていた。飾り気のない黒いワンピース。額のガーゼの端からは、黄色い消毒薬が滲んでいる。化粧気のない肌は、蛍光灯の下で透けるほど白い。湊斗は三十分遅刻した。彼が自動ドアを開けて入ってきた時、梨花が半歩後ろをついてきていた。彼女は湊斗のスーツの裾を遠慮がちに摘まんでいる。紗月の姿を認めると、梨花はすぐに手を離し、怯えた兎のようにうつむいた。紗月は一瞥しただけで、すぐに立ち上がり、窓口へと向かった。迷うことなく、離婚届に署名した。湊斗は彼女の隣に立った。彼女から漂う、微かな薬の匂いが鼻をつく。彼の喉仏が動いた。ふと、口をついて出た。「家はそのまま使っていい。新しい住居が見つかるまで……」「汚れてるから、要らないわ」 彼女は言葉を遮った。その口調は、まるで天気を語るかのように平淡だ。紗月は足元の小さな画材ケースを持ち上げた。それが、彼女が持ち出した唯一の荷物だ。背を向けて去ろうとした瞬間、湊斗は無意識に彼女の手首を掴んだ。紗月は足を止め、彼に掴まれた箇所を見下ろした。そこにはまだ、あの日葬儀場で彼につけられた青あざが残っている。「指輪は下水に捨てたわ」彼女は顔を上げ、彼を見た。その瞳は空っぽで、何の感情も映していない。言い終えると、彼女は手を引き抜き、一度も振り返ることなく去っていった。湊斗はその場に立ち尽くしていた。掌にはまだ、彼女の体温が微かに残っていた。梨花がそっと寄り添ってきた。「湊斗さん、私たち……お家に帰る?」彼は我に返り、彼女を見下ろした。梨花は上目遣いで、湿り気を帯びた瞳で彼を見つめている。依存心に満ちた目だ。「ああ、帰ろう」……その夜、湊斗はシャンパンを開けた。梨花は新調したシルクのネグリジェを纏い、リビングでくるくると回って見せ、鈴のような笑い声を上げた。彼女はソファのクッションをすべて取り替え、紗月が買い揃えた茶器を棚の奥底に追いやり、甘ったるい香水を部屋中に撒き散らした。「やっと二人きりになれたね。湊斗さん、私すごく幸せ」彼女は身を寄せ、指先で彼の胸に円を描いた。湊斗は酒を煽り、気のない返事をした。深夜、彼は寝返りを打ちながら、無意識に呟いた。
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第10話

梨花は、湊斗が適当に買い与えたダイヤモンドのセットを身につけ、自撮り写真をSNSにアップした。背景は別荘のリビング。キャプションにはこうある。【湊斗さんが家が殺風景だからって、適当に買ってきてくれたの。少しは華やかになったかな?】コメント欄は称賛で埋め尽くされていた。【桐島夫人、お幸せそう!】【湊斗さん、本当に溺愛しているだんね!】そのスクリーンショットが業界内で出回り始めた頃、湊斗は役員会議の最中だった。彼はスマホを一瞥し、無表情のまま画面をロックした。会議が終わると、彼は梨花に電話をかけた。「SNSのあの投稿、今すぐ全部消せ」「えぇ?どうして?」梨花の声は不満げに甘えた。「みんな、私のこと『桐島夫人』って呼んでくれてるのに……」「俺たちは結婚していない」湊斗は冷たく遮った。「身の程をわきまえろ」電話の向こうから押し殺したようなすすり泣きが聞こえたが、彼は容赦なく通話を切った。以前なら、可哀想だと思ったかもしれない。だが今は、ただただ疲れるだけだった。……その夜、接待で酒を飲んだ湊斗は、激しい胃痛に襲われた。書斎のソファで体を丸め、脂汗でシャツを濡らしながら痛みに耐えていた。梨花が慌てふためいて薬箱をひっくり返している。瓶がぶつかる音が耳障りだ。「ない……どうしてないの?湊斗さん、いつも何の薬飲んでるの?」彼は目を閉じた。以前なら、胃が痛むと紗月が何も言わずに白湯と薬を差し出してくれた。彼女は彼が薬の苦味を嫌っていることさえ覚えていて、必ずミントタブレットを一粒添えてくれたものだ。「寝室の……」彼は掠れた声で言った。「一番下の引き出しだ」梨花は寝室へ走った。手当たり次第に探し回り、ようやく小さなアルミ製のピルケースを見つけ出した。ケースは四つに仕切られ、それぞれに二錠ずつ薬が入っている。蓋の裏には、手書きのラベルが貼られていた。【飲み会の前に一粒飲んでね】端正で美しい文字。紗月の字だ。湊斗はその文字を見つめ、胃の激痛が心臓まで這い上がってくるのを感じた。……いつからか、不眠症が悪化していた。湊斗は酒に頼るようになったが、泥酔しても明け方には目が覚めてしまう。そして白々と夜が明けるまで、ただ天井を見つめ続けるのだ。ある深夜、友人から
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