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月はもう、彼を照らさない
月はもう、彼を照らさない
Auteur: ネイファ

第1話

Auteur: ネイファ
東都市において、桐島湊斗(きりしま みなと)の名を知らぬ者はいない。桐島家きっての異端児であり、最大の厄介者だ。

十八歳にして実の父親相手にオークションで骨董品を競り合い、価格を吊り上げるという暴挙に出たかと思えば、二十代前半にはアルプスの麓で無謀なカーレースに興じ、命を落としかけたこともある。

交際相手を変えるスピードは、ハイブランドの新作コレクションの入れ替わりよりも速い。かつて彼はこう豪語していた。

「結婚なんてもう時代遅れだ。したい奴だけが勝手に自縛すればいい」

だが三年前、そんな湊斗が、ある家の門前で跪いた。

記録的な豪雨の夜、ただ白石紗月(しらいし さつき)に一目会いたいがために、十二時間もの間、泥にまみれて雨に打たれ続けたのだ。

紗月は、息を呑むほどの美貌の持ち主だ。由緒正しい学者の家系に生まれ、その佇まいは丹精込めて育てられた高貴な蘭の花を思わせる。

本来なら、奔放な湊斗が最も敬遠するはずの「深窓の令嬢」だ。

周囲は皆、彼女がいずれ弄ばれ、捨てられて泣きを見るだけだろうと高を括っていた。

だが、街中を騒然とさせたあのプロポーズがすべてを覆した。

彼は稀少なピンクダイヤモンドを贈り、世間の雑音を封じ込めたのだ。

リングの内側には、彼自身の手で一文字ずつ、こう刻まれていた。

【囚人・桐島湊斗、刑期は終身】

結婚から三年が経っても、紗月のお伽話は終わらなかった。湊斗の彼女への溺愛ぶりは、留まるところを知らない。

人々は口を揃えて言った。

「桐島家のあの『手のつけられない暴れ馬』が、まさか白石紗月に完全に飼いならされるとは」

紗月自身も、そう信じて疑わなかった。

だが、結婚三周年の記念日の翌日。

紗月が写生に出かけていた時のことだ。

「おい!そこの絵を描いてる人!」

紗月が顔を上げると、金髪の青年が腹を押さえ、脂汗を流しながら立っていた。

「た、頼む、手を貸してくれ!この袋をあっちに届けてほしいんだ。ツレが待ってる!」

紗月は言われた通りに小道を抜け、空き地へと向かった。

そこには、改造された一台の黒い車が止まっていた。

威圧感を放つその車体は、どこか狂暴で、そして――奇妙なリズムで小刻みに揺れていた。

スモークガラスが貼られており、中の様子は窺えない。

「チッ、あいつ何してやがる。ゴムはまだかよ!」

車内から、しわがれた男の声が漏れ聞こえた。情欲に蒸された、苛立ちを含んだその声。

紗月の呼吸が止まった。

湊斗だ。

直後、おどおどした女の声が響いた。

「湊斗さん、そんなに怒らないで……ナシじゃ、だめなの?」

短い沈黙。

すぐに、男の喉から低くあさましい笑い声が漏れた。

「いい度胸だな」

女の声はさらに低く、どこか試すような響きを帯びた。

「紗月さんより、度胸あるでしょ?」

湊斗は気だるげに答えた。

「シラけるな。あいつの話をするな。

あいつは妊娠を怖がるし、ルールだの何だのうるさい。つまらない女だ」

「本当?」

女の声に、隠しきれない得意げな色が混じる。

「じゃあ湊斗さん……今の私は面白い?」

「御託はいい」

ガクン、と車体が沈み込んだ。湊斗の声が急激に獣じみたものに変わる。

車体の揺れは激しく、急なものになり、女の嬌声が断続的に響き始めた。

紗月の手からビニール袋が滑り落ちた。

中身が地面に散らばる。

それは、コンドームの箱だ。

……

どうやって家に帰り着いたのか、紗月は覚えていなかった。

震える指ではスマホを握ることすらままならない。

画面が明るくなり、湊斗とのチャット画面が表示された。

今朝のメッセージが、まだ残っている。

【愛しい君へ。夜はデザートを買って帰るよ。いい子で待ってて】

先週、彼女が生理痛で寝込んだ時、彼は真夜中に街中を駆け回って薬を買ってきてくれた。

一ヶ月前、彼が地方へレースを見に行った時も、深夜にテレビ電話をかけてきた。画面越しの彼は不敵な目をしていたが、声は甘かった。

「紗月、会いたいよ」

どの一言も真実味に溢れ、どの行動も「愛妻家」そのものだった。

けれど、全部嘘だ。

胃の中で何かが激しく暴れ、涙がこぼれ落ちた瞬間、紗月はたまらずその場にうずくまり、からえずいた。

さらに滑稽なのは、車の中にいたあの女を、彼女が知っているという事実だ。

森下梨花(もりした りか)。

半年前に田舎へ写生に行った際に出会った少女だ。小柄で、驚くほど大きな目をしており、いつも怯えたような視線を向けていた。

紗月は彼女の身の上を憐れみ、田舎から連れ出した。

服を買い与え、メイクを教え、清潔で日当たりの良いマンションまで借りてやり、一年分の家賃まで肩代わりした。

ある時、紗月が梨花に画材を届けさせた際、ちょうど湊斗が在宅していたことがある。梨花は紗月が贈ったワンピースを着て、怯えながら「桐島さん」と挨拶した。

湊斗は目もくれなかった。

それどころか、眉をひそめて紗月にこう言ったのだ。

「どこで拾ってきたんだ、あんな小娘。目が泳いでるし、あざとい。家に上げるな」

紗月は彼をたしなめた。

「そんなに悪く言わないで。梨花ちゃんも苦労してるのよ、私はただ力になりたいだけ」

湊斗は舌打ちをし、紗月の腰を抱き寄せてキスをした。

「君は優しすぎる。この世の中、優しい人は食い物にされるんだぞ。俺が守ってやらないとな」

湊斗のキスには特有の強引さがあったが、紗月に触れる時だけは優しかった。

紗月は彼の腕の中で力を抜き、こう思った。

「彼の目には私しか映っていない。この叱りも、私への愛ゆえだ」と。

まさかその二人が、最も醜悪なやり方で、彼女が大切に積み上げてきた完璧な世界を粉々に破壊するとは、夢にも思わなかった。

リリリリン――

回想を断ち切るように、スマホが鳴った。

桐島家の本宅に仕える家政婦、松本(まつもと)からだ。

「大奥様がようやく目を覚まされました……ずっと若奥様のお名前を呼んでおられます。もう一度会いたい、このままだと心残りだと……」

桐島芳子 (きりしま よしこ)、湊斗の祖母。

湊斗が悪さをすれば杖で叩いて叱り、紗月のことは実の孫のように可愛がってくれた人。そして彼女を芸術の世界へと導き、半生の技術をすべて授けてくれた恩師でもある。

そんな大切な人が、重病で最期の時を迎えようとしている。

紗月は涙を拭い、弁護士の番号をタップした。

「谷口(たにぐち)先生、離婚協議書の準備をお願いします。

ですが、私が合図をするまでは絶対に動かないでください。

お祖母様を最後に見送ったら……私はここを出て行きます」

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