「はぁ、はぁ……っ!」 街灯もロクにない時代の夜更け、うら若き乙女は、息を切らせながら走っている。真冬の空気が肺や喉に刺さっても、溶けた雪で泥になった道で転びそうになっても、足をとめるわけにはいかなかった。1秒でも止まれば、人生が終わってしまう。「待て、このアマ!」 しゃがれた怒鳴り声と足音が、松明の炎と共に迫ってくる。(まずい、このままじゃ……!) うたは少しでも前へ行こうと、歩幅を広くした。それがいけなかった。「きゃっ!?」 派手に転び、お気に入りの臙脂色の袴も、矢絣柄の着物も、泥まみれになってしまった。だが、そんなことを気にしている場合ではない。(逃げなきゃ!)「やっと捕まえた! 手間かけさせやがって!」 立ち上がるのとほぼ同時に、半上げにした黒髪を男に掴まれる。絶望のあまり、痛みも感じず、声も出ない。顔や服についた泥を気にする余裕すらない。(終わった……)「おい」 これから訪れるであろう暗い未来に絶望していると、凛とした声が降ってきた。顔を上げると、立派な馬車が停まっており、開いたドアからは、暗闇でも分かる美しい象牙色の長い髪が見えた。「あ、あんたは……。いえ、あなたは……!」 うたを追いかけ回していた人拐いの男は、目を見開き、馬車の中を見る。うたももう一度馬車の中にいる人物をよく見ようとしたが、男に髪を引っ張られ、見ることができなかった。「その小娘は、これから商売道具にするご予定で?」「へ、へぇ。そのとおりで。逃げ出したんで、捕まえに来たところでさぁ」「その小娘、小生が買いましょう」「へ?」 間抜けな声を出す男に、馬車の男は袋を差し出した。男が訝しげな顔をしながら袋を受け取り、中を見ると、彼のような身分ではお目にかかることのない大金が入っている。「こ、こんなにですかい!?」「それだけあれば足りるでしょう。その小娘を置いて失せなさい」「へへ、これだけありゃ、遊んで暮らせるぜ」 人拐いの男は、下卑た笑みを浮かべながら、大事そうに袋を抱えて闇夜に消えた。(助かった……?) 状況を飲みきれていないうたは、呆然と立ち尽くすしかできない。「小娘」 凛とした声に我に返り、顔を上げて息を呑む。満月に照らされた美丈夫がそこにいた。風に揺れる象牙色の長い髪も、吸い込まれそうな大きな瞳も、日本人離れした顔立ちも、すべてが
最終更新日 : 2026-02-10 続きを読む