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怪人の花嫁 のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

13 チャプター

1話

「はぁ、はぁ……っ!」 街灯もロクにない時代の夜更け、うら若き乙女は、息を切らせながら走っている。真冬の空気が肺や喉に刺さっても、溶けた雪で泥になった道で転びそうになっても、足をとめるわけにはいかなかった。1秒でも止まれば、人生が終わってしまう。「待て、このアマ!」 しゃがれた怒鳴り声と足音が、松明の炎と共に迫ってくる。(まずい、このままじゃ……!) うたは少しでも前へ行こうと、歩幅を広くした。それがいけなかった。「きゃっ!?」 派手に転び、お気に入りの臙脂色の袴も、矢絣柄の着物も、泥まみれになってしまった。だが、そんなことを気にしている場合ではない。(逃げなきゃ!)「やっと捕まえた! 手間かけさせやがって!」 立ち上がるのとほぼ同時に、半上げにした黒髪を男に掴まれる。絶望のあまり、痛みも感じず、声も出ない。顔や服についた泥を気にする余裕すらない。(終わった……)「おい」 これから訪れるであろう暗い未来に絶望していると、凛とした声が降ってきた。顔を上げると、立派な馬車が停まっており、開いたドアからは、暗闇でも分かる美しい象牙色の長い髪が見えた。「あ、あんたは……。いえ、あなたは……!」 うたを追いかけ回していた人拐いの男は、目を見開き、馬車の中を見る。うたももう一度馬車の中にいる人物をよく見ようとしたが、男に髪を引っ張られ、見ることができなかった。「その小娘は、これから商売道具にするご予定で?」「へ、へぇ。そのとおりで。逃げ出したんで、捕まえに来たところでさぁ」「その小娘、小生が買いましょう」「へ?」 間抜けな声を出す男に、馬車の男は袋を差し出した。男が訝しげな顔をしながら袋を受け取り、中を見ると、彼のような身分ではお目にかかることのない大金が入っている。「こ、こんなにですかい!?」「それだけあれば足りるでしょう。その小娘を置いて失せなさい」「へへ、これだけありゃ、遊んで暮らせるぜ」 人拐いの男は、下卑た笑みを浮かべながら、大事そうに袋を抱えて闇夜に消えた。(助かった……?) 状況を飲みきれていないうたは、呆然と立ち尽くすしかできない。「小娘」 凛とした声に我に返り、顔を上げて息を呑む。満月に照らされた美丈夫がそこにいた。風に揺れる象牙色の長い髪も、吸い込まれそうな大きな瞳も、日本人離れした顔立ちも、すべてが
last update最終更新日 : 2026-02-10
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2話

「そういえば、お礼がまだでしたね。助けていただき、ありがとうございます。私は、稲葉うたといいます。あなたは?」 うたがお礼と自己紹介をすると、美丈夫は冷酷な笑みを浮かべる。どことなく人間離れした容姿も相まって、ゾッとする。「おめでたい人ですねぇ。ただ助けたわけではありませんよ。あなたには、利用価値がある。だから助けた。それだけのこと」「利用価値……? 私に?」 皆目見当もつかず、首をかしげる。「私は、華族の人間ではありますけど、家柄は中の下ですし、4人兄弟の末っ子で、召使のように扱われてきたので、そんなに価値はないと思いますが……」「あなたの家柄など、問題ではありませんよ。明日、ゆっくりお話しましょう」「はぁ……」 結局美丈夫は名前すら名乗らず、彼の屋敷に着くまで、重たい沈黙が続いた。 屋敷に着くと、数人の使用人が出迎えてくれる。屋敷も使用人も、異国情緒溢れる外観や服装で、思わず不躾に見てしまった。「あの、何か?」「え? あ、すいません。洋装はあまり見たことがなくて」 訝しげな顔をする使用人に説明して笑いかけると、使用人の女性はうたを浴室に案内してくれた。そこまではよかったのだが、彼女も一緒に脱衣所に入ってきて、うたの服を脱がせだしたのだ。「え!? あ、あの、自分で脱げますから」「いえ、これも仕事ですから」 いくら断っても、使用人は譲らず、うたの服をすべて脱がすと、彼女を風呂場に連れていき、髪や体を丁寧に洗ってくれる。恥ずかしさよりも心地よさが勝り、うとうとしかけたところで、声をかけられて現実に戻される。「どうぞゆっくり、湯船にお浸かりください。お召し物をご用意いたしますので」 使用人は恭しく一礼すると、浴室から出ていった。「ふぅ……、なにがなんだか……」 小さく息を吐き、今日の出来事を振り返る。いつものように女学校へ行き、帰りに人気の少ない近道を歩いていたら、人拐いに拐かされてしまった。夜になんとか隙をついて逃げ出すも追いかけられ、未だに名前すら知らない美丈夫に助けられ、今に至る。『あなたには、利用価値がある。だから助けた。それだけのこと』 馬車の中で美丈夫に言われた言葉を思い返す。だが、どう頑張っても理解できない。屋敷や使用人の多さから、彼は華族の中でも上位の存在だろう。稲葉家と比べたら、否、比べ物にすらならない。 
last update最終更新日 : 2026-02-10
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3話

 脱衣所に行くと、先程の使用人が待ち構えており、丁寧に体を拭いてくる。恥ずかしくて断っても、「仕事ですから」と言い、やめようとしない。 初対面に裸を見られたという恥ずかしさと、赤子のように拭かれる恥ずかしさで、耳まで真っ赤だ。(はやく終わって……) うたは目を閉じ、拭き終わるのを待った。「では、こちらにお着替えを」「は、はい……」 薄手の浴衣を受け取り、着ている最中、使用人は鉄仮面のような顔で、じっとうたを見つめる。居心地の悪さを覚え、彼女に背を向けて浴衣を着る。帯を締めていると、後ろからわざとらしい、大きなため息が聞こえてきた。「そうではないでしょう?」「え?」(この家特有の結び方でもあるのかしら?) どうすればいいか分からず、困惑していると、使用人は不躾に帯を解き、結び直した。その結び方に、冷めかけていた頬が再び熱を持つ。「あの、これって……」「旦那様がお待ちです。こちらへ」 うたの問いに答えようとせず、使用人は脱衣所のドアを開ける。うたは、前にある帯の結び目に触れると、小さく息を吐いて彼女の後についていく。 使用人は大きなドアをノックする。「旦那様、奥方様を連れてまいりました」「奥方……!?」「彼女だけを入れてください」 うたが混乱しているのも気にせず、使用人はドアを開けると、うたの背中を押して部屋に入れ、ドアを閉めてしまった。「いったい、何が……」「こちらへ」 声がする方を見ると、例の美丈夫は座布団を貼り付けたような、不思議な長椅子に座っている。「はぁ……」 恐る恐る近づくと、彼は自分の隣に座れと、長椅子を軽く叩く。座ってみると、座布団とはまた違った座り心地に感動する。体を包まれるような感覚に、思わず声が出た。「わぁ……!」「ソファも知らないのですか」「そ、ふぁ?」「この長椅子のことですよ」「ソファというのですね。初めて見ました」 ふかふかのソファの手触りを確かめるように押していると、呆れ返るようなため息が聞こえる。「す、すいません。はしたなかったですね」「いえ、緊張感がないと思いまして。自己紹介がまだでしたね。小生は水月文彦。馬車では華族だと言ってましたね。それなら、水月家の名は、聞いたことがあるでしょう」「水月家って、あの……!」 くりくりの目を更に丸くして、文彦を見つめる。水月家の噂は
last update最終更新日 : 2026-02-20
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4話

「だから面白いんですよ。ふふ」 笑い過ぎで出た涙を拭う文彦を見上げて初めて、うたは自分は彼に押し倒されていたことに気づく。「あ、あぁ! 破廉恥!」「何を今更。ふふ、面白い人ですね。毒気が抜かれてしまいますよ」 文彦はひとしきり笑うと、真顔に戻ってうたに向き合う。「この髪を見て、なんとも思わないのですか?」「珍しくて綺麗だと思います」「あぁ、あなたは本当に……。けど、これを見ても、そんなこと言ってられますか?」 文彦は眼帯を取ると、ゆっくり瞼を持ち上げた。隠されていた瞳は、秋空のように青く、澄んでいる。日本人では見ない色だ。「宝石みたい……」「はぁ、あなたって人は」 文彦は呆れ返るような、どことなく嬉しそうな、そんな顔をしてため息をつく。「普通、不気味がるか、怖がるかなのですがね。まぁいい。好都合です」「好都合?」「あなたには、小生の子を産んでもらいます」「え……?」「怪人なんて言われていますが、小生も華族の人間。跡取りを作らなければなりません。ですが、小生の元に嫁がせたいという華族が、なかなかいなくて困っていたのですよ」「あのあの、なんで、私が? よく、分かってなくて……」「小生が助けなかったら、あなたは今頃、遊女として働かされていたでしょう。今、おいくつですか?」「17ですけど……」 年齢を告げると、文彦は絶望しきったようにため息をつく。「はぁ、それなら、何か教えてもらうこともなく、客を取らされていたでしょうね」「え?」「あなたが6つや7つなら、まずは礼儀や芸を叩き込まれ、立派な遊女にしてもらえたでしょうが、17なら、教養を身につける時間もなく、安い金で様々な男に売られていたでしょうね」 文彦の言葉を聞きながら、少し前まで繰り広げていた命がけの追いかけっこが頭によぎる。遊女として働かされるのは想像していたが、具体的なことはまったく考えていなかった。 というより、考える余裕がなかったと言ったほうが正しいだろう。「遊女の生涯は悲惨ですよ。幼い頃から育てられた遊女なら、客を大勢取れる見込みがあるから大事にされるでしょうが、あなたのような歳なら、使い捨てのボロ雑巾のように雑に扱われ、病気にでもなれば、肥溜めに捨てられておしまいです。傷口から悪いものが入り込み、そこから体が腐り、耐え難い苦痛が……」「いやああっ! それ
last update最終更新日 : 2026-02-20
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5話

「実は小生、明日から数日ほど、屋敷を離れなくてはいけないのです。なに、ほんの2,3日程度ですよ。その間、あなたはここで自由に過ごし、好きなだけ贅沢をして、考えてください」「え?」「え? じゃありませんよ。あなたの人生がかかっているんですよ? 小生の妻となり、子を産むか。遊郭で様々な男に抱かれ、肥溜めに捨てられるか……。小生が帰ってくるまでに、決めておいてください」「そんな……!」「ひとりの怪人に抱かれるのと、様々な男に抱かれるの、どちらがマシなのでしょうね?」 文彦は意地悪な笑みを浮かべ、うたを見下ろす。そんなこと、答えは決まっている。2,3日も考える必要などない。「ここはあなたの部屋です。何か分からないことや、困りごとがあれば、使用人を頼ってください。それでは、よい夢を」 彼は皮肉たっぷりに言うと、部屋を出ていってしまった。「どうして、こんなことに……」 うたはよろよろとベッドへ行き、潜り込んだ。文彦にどう言おうか考えているうちに、夢の世界に落ちていった……。 翌朝、例の鉄仮面に体を揺すられ、目が覚めた。「奥様、朝ですよ」「あ、はい。えっと……」「ふさと申します。奥様のお世話係を任命されました」「よろしくお願いします、ふささん」「朝食はできております。はやく着替えてください」「は、はい」 勢いこそないが、淡々と問い詰めるようなふさの口調に圧倒され、背筋が伸びる。「あの、私の服は……」 恐る恐る聞くと、ふさはため息をつき、クローゼットを指差し、付き合いきれないと言わんばかりに部屋を出ていってしまった。「あんな態度取らなくても……」 クローゼットを開けると、色とりどりの洋服がずらりと並んでいた。「私が来たのは昨日だし、予想外の出来事でしょうに、どうしてこんなに服が?」 水色のワンピースを手に取り、着替えながら考え事をする。この屋敷は色々おかしい。無愛想な使用人に、用意周到な部屋。改めて室内を見回すと、人形が飾ってある。 うたの前に、誰かがこの部屋を使っていたのだろう。この服もきっと、前にこの部屋を使っていた誰かが持ち主だ。 そう考えると少し気持ち悪いが、昨晩着ていた着物や袴は泥まみれだし、どこに置いてあるのかも分からない。 幸い、うた自身も洋服は2着ほど持っていたため、ワンピースは着れた。見栄っ張りの父が、外出用に
last update最終更新日 : 2026-02-20
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6話

「急だったものですから、まともな服がなくてすいません」「え? あ、いえ……」 まさか謝られるとは思ってもみなかったので、どう返していいのか分からず、おどおどしてしまう。文彦はそんなうたを見て、小さく笑う。「答えが決まるまで、自分の家だと思ってくれてかまいません」「はい……」(そんなこと言われても……) この屋敷は、あまりにも豪華すぎる。洋館というだけでも圧倒されるというのに、壁にかかっている絵画や、飾られている骨董品が高価なものというのは、うたにも分かる。平屋の日本家屋に住んでいるうたには、住む世界があまりにも違いすぎて、とてもくつろげたものではない。「食事が終わったらすぐに出かけますから、そのつもりで」「どこに行くんですか?」「その仕立て屋ですよ。そんな服では過ごせないでしょう」「ありがとうございます」「礼などいりません。はやく食べてください」「分かりました」 食事を終えると、うたは外に出て文彦を待つ。目の前に馬車が停まっているが、勝手に乗るのは気が引けた。御者はいるが、うたなどいないかのように、煙草を吸ってぶつぶつ独り言を言っている。「お待たせしました」 文彦は屋敷から出てくるなり、怪訝な顔をした。(もしかして、乗って待ってたほうがよかったのかしら?)「高野、客人をずっと立たせるとは何事ですか?」「す、すいません。気づかなくて……」「つまらない嘘をつかないでください。あなたの男尊女卑には呆れ返る。彼女は小生の妻になる女性。丁重に扱いなさい」「へ、へぇ! すいません」 高野と呼ばれた業者がぺこりと頭を下げると、文彦の目が鋭くなる。「謝るのは小生にではなく、彼女にでしょう?」「申し訳ありません、奥さん」 文彦が咳払いをすると、高野は慌てて背筋を伸ばす。「いえ、奥様」「大丈夫です……」「さぁ、行きますよ」 文彦は先に馬車に乗ると、うたに手を差し出し、乗るのを手伝った。「ありがとうございます」「いえ。家を空ける前に、あなたにはいくつか聞いておかないといけませんね。洋食を食べたことはありますか?」「え? いえ、ないです……」「そうですか。では、自宅の造りは? 日本家屋ですか?」「はい、そうです」 仕立て屋に着くまで、文彦はうたに質問をし続けた。主に生活関連のことが多く、うた自身についてはほとんど聞かれな
last update最終更新日 : 2026-02-20
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7話

「こちらの服なら、お嬢さんのお体にぴったりかと」 「では、それをすべて購入しましょう」 「えぇ!? ま、待ってください!」 慌てて止めると、文彦も女性も不思議そうな顔をする。 「気に入らない服でもありましたか?」 「いえ、そうじゃなくて……。そんなにたくさん買っていただくのは、罪悪感が……」 「気にする必要はありません。それより、1着選んで、着替えてきてください。りえ、彼女が着ている服は、処分してください」 「かしこまりました。お嬢さん、どれになさいますか?」 「えっと……」 色とりどりの洋服の前で困惑していると、文彦が薄桃色のワンピースを手に取った。 「これでも着てなさい。時間がもったいない」 「は、はい……」 「では、こちらへ」 再び測定をしていた部屋に案内される。着替えて部屋から出る頃には、服はすべて馬車の中だった。文彦はうたを馬車にエスコートする。 「ありがとうございます」 「服を用意するのは、当然のことです。着物の方がいいと言ってましたが、しばらくはそれで我慢しててください」 「我慢だなんて、そんな……。素敵なお洋服を、ありがとうございます。そういえば、あの服、処分していいんですか? 誰かが着ていたのでは?」 うたの問いに、文彦は顔をしかめる。謝罪しようと思ったが、理解してない状態で謝罪しても、相手が不快になるのは、父を見て学んだから黙っていた。 「あれは、亡き妹のものです」 「妹さん……? 形見じゃないですか……」 「形見? はっ、莫迦らしい」 憎しみが込められた嘲笑に、言葉を選ぼうとするが、出てこない。家族だから仲がいいというのは、幻想だ。少なくとも、華族の間では。男は重宝され、女は蔑ろにされる。男として生まれても、次男や三男は適当に扱われることがある。 きっと文彦にも、事情があるのだろう。 「あなたは、賢いですね」 「え?」 「よく言うでしょう? 沈黙は金と。余計なことを聞かないのは、あなたの美点です」 先ほどとは打って変わり、優しい笑みを浮かべる。 (そんな顔も、できるんだ……) ほとんどずっと、しかめっ面だった文彦の笑みに、胸が高鳴る。つまらなそうな顔よりも、こういう顔をしていたほうが、ずっといい。 屋敷に戻ると、文彦はうたの部屋に服を運んでくれた。 「では、小生は2
last update最終更新日 : 2026-02-23
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8話

 文彦がいなくなった屋敷は、うたにとって地獄でしかなかった。例えば、朝の身支度なんかはふさが手伝いに来るのだが、髪を梳かすにも雑で、うたが痛みを訴えても、自分でやると言っても、聞く耳を持たない。 うたが庭に出ようとすると「逃げる気だ」と言われて屋敷内に引き戻され、掃除を手伝えば、わざとらしくため息をつき、うたが掃除をした箇所を、目の前で掃除し直す始末。 うたにとって1番つらかったのは食事の時間だ。出されるのはすべて洋食。一応洋食は食べたことがある。だが、家で洋食を出される洋食は、あまり知識のない使用人が、見様見真似で作ったもので、味付けも和食のようだった。それに、箸で食べていたため、フォークやナイフなどのカトラリーを見ること自体、初めてだった。「あの、すいません。お箸はありませんか?」「洋食を箸で食べる人など、この世にいませんよ」 ふさは鼻で笑い、カトラリーを並べる。「この熊手のようなものは、どうやって使うのですか?」「熊手ぇ? ぷ、あはは。やだ、熊手ですって。皆、聞いた?」 ふさの後ろにいた他の使用人達も、クスクス笑う。聞いても教えてくれないので、自分なりに考えて使っても、指を指して笑ってくる。食事中は席を外すように言っても、「あなたが決めることではありません」と突っぱね、そんなことも知らないのかと言わんばかりにため息をつく。 父に怒られた日の食事が世界で1番不味いと思っていたが、使用人達に笑われながら食べる食事は、それ以上に不味かった。完全に食欲をなくし、食事の時間に迎えに来たふさにいらないと告げると、無理やり腕を引っ張られ、食堂に連れて行かれる。 まだ文彦のことをよく知らないが、彼らのように意地悪をしないだけ、文彦の方がマシだ。 文彦が屋敷を空けて2日目、客人が顔を出した。うたがふさの命令で床の雑巾がけをしていると、呼び鈴も鳴らさずに、若い男が入ってきた。「お、新しい使用人か?」 男は物珍しそうにうたの顔を見るが、すぐに小首をかしげる。「いや、使用人にしちゃ、着てるモンが立派だな」「正一様、どうなさいましたか?」 ふさは慌てた様子で来ると、うたを隠すように間に立った。「あぁ、ふみに頼まれて、書斎にあるものを取りに来たんだ」「そうでございましたか。では、ご案内します」「いや、いいって。なぁ、その子は? 少なくとも、使用人に
last update最終更新日 : 2026-02-25
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9話

「そりゃな。アイツら、性格悪いし。おっと、自己紹介ちゃんとしてなかったな。俺は清宮正一。清宮家の長男で、ふみとは仕事仲間だ」「私は稲葉うたといいます。ふみって、文彦さん? 仲が良いんですね」「どうだろうな。俺が一方的にかまってるようなものだからさ。というか、ふみの奥さんって本当か?」「あ、えっと……。正式には、まだですが……」「へぇ。ふみのヤツ、こんな可愛い娘、どこに隠してたんだか」(軟派な人……。本当に文彦さんのお友達?) 疑いの目で見ていると、正一がにかっと笑う。「あはは、疑ってる?」「え? いや、えっと……」「分かりやすい娘だな。ま、アイツにはそれくらいがいいか。なぁ、アンタ、好きで掃除してたわけじゃないんだろ?」 真顔て問われ、言葉が詰まる。誰かに聞いてほしいと思っていたが、初対面の男性相手に、そういった話をしていいものだとは思えなかった。「黙ってても分かるんだから、素直に話せばいいのに」 正一は苦笑すると、本棚の前に立ち、数冊の本を引き抜いていく。「アンタがどういう経緯でふみの奥さんになるのか知らないけど、アイツにはちゃんと相談しろよ。とっつきにくいけど、あの使用人みたいに、性格がねじれてるってわけじゃないから」 正一はうたの肩をぽんと叩くと、書斎から出ていってしまった。「変な人……」 ぽつりと呟いてから、正一をお見送りする。彼が屋敷から出ると、ふさはうたを睨みつけた。「なんて女なの! 色々教えてやってるのに、私を悪人に仕立てようとするなんて! 恥を知りなさい!」「きゃ!?」 ふさの容赦ない平手打ちが、大福のように柔らかくて白いうたの頬に叩き込まれる。勢いのあまり倒れると、ふさはうたを見下ろし、鼻で笑う。「どうやってあの化け物に取り入ったか知らないけど、洋食のマナーすら知らない小娘が、いい気にならないで」 ふさはわざとうたのワンピースを踏んで足跡をつけると、水が入った桶を蹴り飛ばした。「綺麗にしなさい」 高圧的に言い捨て、どこかに言ってしまう。「う、うぅ……。どうして私が、こんな目に……」 結婚できる年齢とはいえ、まだ子供。知らない男に拐かされ、追いかけられ、助けられたと思ったら、結婚か遊郭かの2択を迫られる。更に使用人達に莫迦にされながら過ごす2日間。彼女にとって、あまりにも怒涛過ぎた。ついに涙が零れ、
last update最終更新日 : 2026-02-25
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10話

「う、うぅ……」 泣いていると、クスクス笑い声が聞こえる。わざわざ目で確認するまでもない。「見て、あのほっぺ。真っ赤でみっともない」「元々大した顔じゃないけど、ああやって泣くと、見るに耐えないわね」「床がびしょびしょ。泣いてないで掃除しなさいよ」 使用人達が、うたに聞こえるように大きな声で悪口を言う。中には水を持ってきて、床にぶちまける者もいた。(負けてられない……!) 悔しさは闘志に似た感情に変わっていく。うたは立ち上がると、雑巾で床を拭き、桶の中に絞った。他の掃除用具を使えばもっと早く終わるのだが、貸してもらえないから、雑巾で地道に吸い上げるしかない。 陽が傾き、ようやくほとんどの水を拭き終えると、背中に衝撃が走った。確認する間もなく、桶がある方へ倒れ、水が再び床に飛び散る。ワンピースもびしょ濡れだ。「すいませーん、そんな邪魔なところにいるって思わなくってぇ。というか、まだやってたんですね。奥様?」 ふさの腰巾着をしている若い女が、ショックで言葉を失ったうたの顔を、ニヤニヤしながら覗き込んでくる。「せっかくの服がもったいない。もう、それで拭いたら? 雑巾と変わりないんだし」 使用人が高笑いしていると、玄関扉が勢いよく開いた。「何をしているのですか?」「え? あ、あぁ、旦那様! 奥様が倒れてしまったので、今立ち上がらせようと……」「笑っていたように見えましたが?」「あ、あはは、気の所為ですってぇ。ほら、私の悲鳴って独特ですから。あ、あ、あ、あ、あああっ!」 使用人の苦し紛れの言い訳に、怒りが込み上げてくる。「つまらない嘘を……。あなたは解雇です」「えぇ!? どうしてですか!」「即刻出ていきなさい」「でも!」「出・て・い・け」 文彦は声こそ荒げてはいないが、圧が強い。使用人は怖気づいたのか、文彦に頭を下げ、そそくさとその場を去ろうとする。「待ちなさい」「なんでしょう?」「彼女に謝りなさい」 使用人は何か言いたげな顔をしたが、文彦を見て震え、うたに向き直る。「申し訳ございませんでした」 深々と頭を下げると、悔しそうな顔をして部屋に戻っていく。「立てますか?」 差し出された手を見た瞬間、枯れたと思っていた涙が、ボロボロ零れてくる。止めたくても、涙も嗚咽も止まらなかった。「うっ、うぅ……! わた、私……!」
last update最終更新日 : 2026-02-25
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