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All Chapters of 怪人の花嫁: Chapter 31 - Chapter 40

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31話

 そんな目まぐるしい日常の中、うたの中で大きく変わる出来事が起きた。日曜の午前、うたはいつものように洗濯物を干していた。大きなシーツにうたが隠れていたせいで彼女に気づかなかったのか、サボりに来たであろう使用人達の悪口大会に出くわしてしまったのだ。「はぁ、こんなところ、やってらんないわ。怪人の使用人なんて、いつ殺されるか分かったもんじゃないよ」「給料がいいんだけどねぇ」(なんて言い草なの……!) 怒りで拳を固くする。いつもなら「また幼稚な戯言が始まった」と思うのだろうが、多忙で余裕がない今のうたには、不愉快だった。「にしても、あの化け物。ついに女を拐ってきたか」「しかも、あれでも一応華族なんだろ? そうは見えないけどな」「あはは、確かに。ちょっと可愛いけど、なんか野暮ったいのよねぇ」(鏡を見たことがないのかしら) 自分を嘲笑う使用人達に、うたは小首をかしげた。人の顔をとやかく言うのは好きではないが、彼女達の顔立ちが上品だとはお世辞にも言えない。性格の悪さが顔に出て下品だ。「でも、ちょっと可哀想かもね。私達も十分不幸だけど、あの怪人の相手をしないといけないんだから」「本当よね。よりによって、自分の家族を殺すような怪人となんて」「私だったら自殺してるかも」「確かに。人殺しの嫁なんて嫌よ。それも、怪人の嫁なんて」(ひどい……!)「あなた達、最低ね!」 それだけ言うと、うたは中途半端な洗濯物を残して、自室に戻った。ベッドに座って息を整え、愕然とする。(あぁ、私……。文彦さんのことが好きなんだ……。愛してるんだ……) 自分のことを言われてもいつものように流せたのに、文彦のことを言われて怒ったのが、愛した証拠だ。「でも、文彦さんは……」 いつも気遣ってくれるが、夜伽はどこか冷めていて事務的なものだった。気づかないようにしようと思ってはいても、嫌でも分かってしまう。 指が無意識に唇に触れる。躯は男を知ったというのに、唇は未だに無垢なまま。文彦は1度も口付けしてくれない。 ドアがノックされ、慌てて起き上がる。「は、はい」「小生です。今、よろしいですか?」「どうぞ」 文彦は部屋に入るなり、訝しげな顔をしてうたを見る。うたは自分がなにかやらかしてしまったのかと考えるが、心当たりはない。「急いで部屋に入っていくのが見えたので。またあの
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32話

「誰に、何を言われたのですか?」「ち、違う……」「何が違うんですか」「言われたの、私じゃ、なくて……」 こらえていた涙が零れ、うまく言葉を紡げない。そんなうたに、文彦はそっと寄り添うように座った。「ゆっくり、落ち着いてからで構いません。小生は、あなたを責めるつもりなど、ありません。ただ、あなたに不快な思いをさせたくないのです。何があったのか、教えて下さい」「私、洗濯物を干してて……。そしたら、使用人達が、あなたの悪口、言ってて……。聞いてたら、苦しくなって……」「あなたという人は……。小生のことなど、気にする必要ないでしょう」「だって、だって……! なんか、悔しくて……!」「なんて言ってたんです?」「文彦さんが人殺しって、家族を殺したって……。そんな怪人に嫁いだ私が、可哀想って……」 泣きながら紡がれるうたの言葉を聞いて、文彦は失笑する。「なんで、笑うんですか?」「そんなことを、あなたが気にするなんて。くだらない」 彼の言葉は氷の刃となってうたに刺さる。少しでも歩み寄ろうとするうたを突き放すようで、息苦しい、「本当に、くだらない話ですよ。小生の家族が亡くなったのは、集団食中毒です」「え?」「この見た目でしょう? 母がいた頃は、部屋も割り当てられて屋敷で暮らしていたそうなのですが、母は小生が3つの頃に、亡くなりましてね。それ以来、あの集団食中毒が起きるまで、ほとんどずっと、地下の書物庫で過ごしてたんですよ」「そんな……。家族なのに……」「誇り高き水月家に、小生のような異端が産まれたことが、許せなかったのでしょう。話が逸れましたね。 小生はいつも、固くなったパンや残り物ばかり与えられていました。ですが、毎回ではありません。父の機嫌が悪いと、食事はもらえないんです。 その日も父は、機嫌が悪かったようで、食事を与えられませんでした。外から鍵もかけられ、出られず、部屋の隅でじっとしてたんです。まぁ、そのおかげで小生だけが生き残ったのですが。 あれはただの事故。それか、父を恨む者の仕業です」「じゃあ、なんで使用人の皆さんは、あんなことを……」「誰かの責任にしたかったのでしょう。そうでなければ、料理人のせいになってしまいますから」「でも、文彦さんのせいじゃないんでしょう? なら、ちゃんと説明しないと……!」 うたが必死に訴える
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33話

 うたが手を伸ばそうとすると、文彦は意地の悪い笑みを浮かべる。「悪いことばかりではないんですよ。あの料理人を雇い続けることで、毒を盛られることはないんですから?」「え?」「だって、そうでしょう。小生が料理を食べて死んだら、うやむやになってたあの時の集団食中毒の犯人も、あの料理人だったということになるのだから」 文彦の底意地の悪い笑みが、ただただ悲しい。彼と料理人の間にあるのは信頼や絆ではなく、脅迫めいたものなのだから。「あなたが気に病むことなど、何もないのですよ。ここにいる期間は、2年も満たないでしょうから」「そんなこと……!」「では、子を産んでも、ここに残ると?」「最初から、そのつもりです。1度嫁いだんですから、添い遂げようと思います」「おやおや、義理堅いこと」 冷めた瞳が、うたの真意を汲み取っていないことを告げる。うたがなにかを言う前に、文彦は背を向けてしまった。「待って!」「助けてもらった恩とか、世間体とか気にしているのでしょうが、そんなこと、考えなくていいんですよ」 立ち止まり、告げられた言葉は鋭利な硝子片のよう。ショックのあまりなにも言えないでいると、図星をついたと思ったのか、文彦はそのまま立ち去ってしまう。「どうして、あんな悲しいことばかり……」 熱い雫が頬を伝う。うたでさえ、気づかぬうちに。 夜、湯浴みを終えたうたは、寝室へ向かう。どうしても日中の誤解を解きたかった。「文彦さん、うたです」「お入りなさい」 部屋に入ると、文彦はソファに座り、難しそうな分厚い書物を読んでいた。栞を挟むと、うたに目をやる。「そんなところに立ってないで、こちらに来たらどうです?」「はい」 隣に座ると、彼が読んでいた書物に目を向ける。タイトルは外国語で書かれている。英語の授業に力を入れているうたでも読めないあたり、英語ではないのだろう。「この本が気になりますか?」「はい。どんな本なんですか?」「人を殺める魔術や、解体方法について書かれています」「えぇ!?」 物騒な言葉の羅列に驚き、思わず大きな声が出てしまう。文彦はそんなうたを見て、クスクス笑う。「冗談ですよ。あなたはすぐに騙される」「か、からかわないでくださいっ!」「それで、どのような要件で? 今日は夜伽の日ではないでしょう」 要件を問われ、言葉に詰まる。誤解を解
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34話

「起きてください!」 翌朝、ふさのけたたましい声で目を覚ました。「やかましいですね……」 次に聞こえてきたのは、文彦の眠そうな声。 意識が次第に覚醒していき、彼の腕の中で眠ってしまっていたことに気づき、飛び起きる。「す、すいません! 私、あのまま寝てしまって……!」「構いません。むしろ、礼を言いたいくらいです。あなたがあたたかいから、久しぶりによく眠れました」 珍しく穏やかな笑みを浮かべる文彦に、どう返そうか考えていると、ふさの咳払いが聞こえた。「奥様、支度をしてください。遅刻しますよ」「あ、はい。では、失礼します」 急いで自室に戻り、支度を済ませて食堂へ行く。同じ時刻に起きたというのに、文彦は先に座って朝食を食べていた。「遅くなってすいません」「急いで食べたほうがいいようですよ」 時計を見ると、屋敷から出ていく時間まで、あと10分ほど。「いけない!」「仕方ありません、マナーなど気にせずにお食べなさい」 文彦はそう言うが、汚い食べ方をするつもりなどない。うたはマナーを守りつつ、急いで食事を済ませた。「では、行きましょうか」「はい」 文彦と共に馬車に乗り、女学校に向かう。「ところで、なにか欲しいものはありますか?」「え?」「あなたのおかげで快眠だったので、何かお礼をしようと思いまして」 改めて文彦の顔を見ると、機嫌も肌艶もいい。うら若き乙女のうたでさえ嫉妬するほどの張りとツヤだ。「私はなにも……」「物欲がない人ですね。では、新しい服でも作りに行きますか」「いえ、そんな、大丈夫です」 初めて仕立て屋に行った日から、定期的に新しい服が届くため、未だに袖を通せていない服が何着もある。これ以上増えたら、クローゼットの余白がなくなってしまう。「あの、ものではなく、お願い事でもいいですか?」「小生にできることでしたら」「名前を、呼んでくれませんか? うた、と」 文彦は境界線でも引くように、ずっとうたの名前を呼んでこなかった。それがずっと寂しくて、どうしたら呼んでくれるか考えていた。「……妙な願い事を」 呆れ返るような言葉とは裏腹に、彼の表情は穏やかで優しい目をしている。「うた」「はい」「これでいいですか?」「はい」 名前を呼ばれたのが嬉しくて文彦を見上げていると、彼はため息を付き、うたを乱雑に抱き寄せ、
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35話

 女学校が終わると、うたはいつものように校門で馬車を待つ。おぞましい怪人の噂よりも美男子に夢中の友人は、文彦の顔を一目見ようと、一緒に待つ。だが、帰りの馬車に文彦が乗っていることはあまりない。 彼女達がいるのは、本当はうたを冷たい視線から守るためだということに気づいている。うたは彼女達に感謝しながら、雑談に花を咲かせ、馬車を待つ。 馬車は10分もしないうちに到着し、うたの前に停まる。いつもなら御者が降りてドアを開けるのだが、今日はドアが開き、文彦が出てきた。「わぁ、かっこいい」「うたが羨ましい」「西洋の騎士様みたい」 文彦は黄色い声を上げる女学生に会釈をすると、うたに手を差し伸べる。「お手をどうぞ」「はい」 クラスメイトに別れを告げると、文彦の手を借りて馬車に乗る。うたが乗り、文彦がドアを閉めると、馬車はゆっくり動き出し、徐々に加速していく。「彼女達は、いつもああなのですか?」「少しにぎやかですけど、大事な友達です。いつもああやって、守ってくれてるんですよ」「守る?」 文彦は不思議そうに首を傾げ、女学校があった方向に目を向ける。「婚約者が決まってる同級生は何人かいますけど、水月家が1番立派ですから。それに、文彦さんのこと、結構噂になってて……」「あぁ、怪人に嫁いだ可哀想な人と思われているのですね」「……まぁ、そう思う子もいますけど、ほんの少しです。大半の子は、異国の美男子に嫁げるなんて羨ましい、と」 文彦は目を丸くし、数秒固まった後、吹き出した。滅多に見られない笑顔に、胸があたたかくなる。「ぷ、あはははっ! 異国の美男子? 小生が? ふふ、あなたのご友人は、随分面白いですね」「女学生なんて、そういうものですよ。怪人がどうっていう噂よりも、美男子か甘味に目がいくんです」「ほう?」 文彦はまじまじとうたを見つめ、好奇心に満ちた顔をぐいっと近づける。「な、なんですか?」「あなたも、そう思いますか?」「え?」「小生を、美男子だと」「えっと、はい……。とても、綺麗なお顔だと思います。もちろん、その目も……」 以前のように悲しい誤解を招いてはいけないと、恥ずかしさをこらえ、彼の眼帯に触れて本心を言葉にする。「そう、ですか」 文彦は驚いたような顔をしたあと、絞り出すようにそう言うと、うたとは反対方向の車窓を眺め始める。
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36話

「そういえば、勝手にウエディングドレスを想定してしまいましたが、白無垢の方がいいですか? 小生はどちらも構いせんが」「ウエディングドレスがいいです」「そうですか」 一瞬、柔らかな笑みを浮かべたのを、うたは見逃さなかった。(少しは楽しみにしてくれてるって、思っていいよね?) うたはそっと文彦の横顔を盗み見て、自分の心が穏やかになっていくのを感じる。まだ恋かどうかは分からないが、文彦との穏やかな時間は好きなようだ。「まぁ、また会えて嬉しいわ!」 仕立て屋に入ると、例の女主人が両手を広げて歓迎してくれる。「ど、どうも……」「ウエディングドレスを仕立ててほしいんです。それと、社交パーティ用のドレスを2,3着ほど」「まぁ、いよいよなのね! さ、こちらへ。採寸しましょうね。女性の躯は変わりやすいから」 女性はうたの腕を掴み、ぐいぐい引っ張っていく。「あの、ちょっと……」 困惑して文彦を見るが、彼は店の隅にある椅子に腰掛け、本を読んでいる。一瞬目があったが、すぐに目を逸らされてしまう。 前回と同じ小部屋につくと、女性は楽しそうに準備をする。「あの、えっと……」 声をかけようにも、彼女の名前を知らないことに気づき、言い淀んでしまう。「あら、私としたことが、まだ名乗っていませんでしたね。ゆきと申します。よろしく」 そう言うと雪は茶目っ気たっぷりに片目を閉じてみせる。「ゆきさん。私、いきなりここに連れて来られたし、ドレスの知識とか、全然なくて……」「あら、問題ありませんわ。カタログがありますもの。けど、その前に採寸ね」 ゆきはうたの採寸を始めた。躯を触られるのは不慣れだが、前回ほど緊張はしなかった。「少々お待ちいただけるかしら」 うたの返事も待たずに、ゆきは売り場に戻ってしまう。うたはぼんやり待つしかない。「お待たせしました」 ゆきの手には、きらびやかなドレスが何着も抱えられている。作業台に広げられるドレスはどれも美しく、乙女心がときめく。「わぁ……!」「どれもお客様のお躯にぴったりです」 赤や青、橙色など、色鮮やかなドレスがある中、うたの目を引いたのは、象牙色のドレスだ。1番シンプルで好ましい。何より、文彦の髪色だ。彼がどのようなタキシードを着るのか分からないが、髪色と同じものを着れば、一緒にいても統一感が出るだろう。「こち
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37話

「あの、これはさすがに多すぎるのでは?」「そんなことありません。社交パーティというのは、家の裕福さを見せつける場でもあるのです。小生としては、馬鹿らしいの一言で終わるのですが、あなたもいるのなら、同じドレスを着回させて、恥をかかせるわけにはいきませんから」「そう、なのですね」「それに、きっと似合うでしょうから」「え?」 意外な言葉に思わず顔を上げると、文彦は車窓を眺めてうたに背を向けていた。だが、彼の耳は椿色に染まっていた。(どうしよう、自惚れそう) 高鳴る鼓動を抑えようと、胸に手を添えた。 それからは式や社交界の準備で忙しなく、帰りの馬車にはいつも文彦が乗っていた。うたが行ったことない格式高い店に行っては、装飾品や化粧品などを買い揃え、うたの隣室はいつの間にか衣装部屋と化していた。 準備で忙しいため、夜伽もできずにいる。うたにとってそれはとても複雑なものだ。すでに10回は抱かれているが、恥ずかしさは拭えない。それに、翌日は躯が重く、喉を痛めてしまうこともしばしばある。 だが、それ以上に幸せな気持ちになり、文彦に近づける気がするのも事実。それに、少し寂しく思っていた。 忙しない準備期間はあっという間に終わり、気づけば女学校も卒業していた。 式には文彦のはからいで、友人達を呼ぶことも許されている。「明日はいよいよ式ですが、体調などは問題ありませんか?」 夜、珍しく文彦が部屋に来た。彼は長居をするつもりはないのか、ドアの近くに立ったまま、動こうとしない。「緊張してますけど、大丈夫です」「眠れそうですか?」「いえ、実は眠れそうになくて……」「なら、何かあたたかいものでも飲みに行きませんか?」 文彦に誘われ、キッチンに行く。文彦は鍋に牛乳を注ぐと、たっぷりの蜂蜜を入れて、ぐつぐつ煮込んでいく。男性が厨房にいるのが不思議で、うたはぼんやりとその姿を見てしまう。「男が台所に立つのも、普通ではありませんからね」 見越したように答える文彦に、言葉が詰まる。「いえ、あの……」「幼い頃、空腹に耐えきれず、夜中にキッチンに行ったら、ひとりの使用人に気づかれてしまいましてね。彼女に、簡単に作れるものだけは教えてもらいました」 文彦は煮えた牛乳をふたつのカップに入れ、ひとつをうたに差し出す。「ありがとうございます」 うたが礼を言って受け取
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38話

 結婚式当日。水月家の使用人、先代から関係のある華族や権力者。そしてうたの家族と友人達が祝いに来てくれた。「なんてお美しい」「素敵ね。それにとっても華やか」「晴天の日に式だなんて、おめでたいですね」 父とヴァージンロードを歩くと、祝福の声があちこちから聞こえる。文彦が疎まれているという話を聞いていたため、もっと陰鬱な式になると思っていただけに、拍子抜けだ。あの使用人達でさえ、にこやかだ。「思ってもいないことを、よくもまぁ」 神父の前に着くと、文彦は小声で悪態をつく。「いいですか、あなたのご家族や友人の言葉は問題ないでしょうが、小生の知り合いの言葉は、鵜呑みにしてはいけませんよ」 小声で注意してくる文彦にうなずくが、うたは彼らの祝福の言葉を素直に受け取った。たとえその言葉が本心でなくとも、こちらが真心で受け止めれば、真実になる気がしたから。「新郎文彦。あなたはここにいるうたを、病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、妻として愛し 敬い 慈しむ事を誓いますか?」「誓います」 文彦の凛とした声が、教会内に響く。彼の短い返事を聞きながら、いよいよ結婚するのかという自覚が、強くなっていく。「新婦うた。あなたはここにいる文彦を、病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、夫として愛し 敬い 慈しむ事を誓いますか?」「誓います」 静寂に包まれた神聖な場所に、自分の声が響くのを、不思議な気持ちで聞いていた。緊張で喉が渇き、おかしな声が出ないか心配だったが、かろうじてまともな声を出すことができ、安堵する。「それでは、誓いのキスを」 キスという言葉に、胸がちくりと痛む。文彦とは何度も躯を重ねてきたが、キスをしたことは、1度もない。神聖なこの場所でも、誓いのキスはされないのだと、直感していた。「うた……」 文彦の大きくも繊細な手が、うたの両頬を包む。唇が近づくも、寸前で止められてしまう。(あぁ、やっぱり……) 人前でキスをするのは恥ずかしいとは思うが、しない哀しみのほうが、ずっと色濃いように思える。それでも晴れの日だからと、笑顔を作って見せる。 堅苦しい式が終わると、外で立食パーティが行われる。むしろこちらがメインで、思い思いに祝福をしたり、交流をはかったりする。「ふたりともおめでとう。うたさん、苦労するだろうけど、ふみを頼むよ。
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39話

「あの、うたちゃん……。申し訳ないよ」「そんなこと言わないで。お洋服たくさんもらって、全部着られる自信がないの。ちょっと待っててね」 大きな旅行カバンを開けると、ワンピースやブラウスを引っ張り出し、テーブルの上に並べる。「遠慮せずに持っていって。あと、これも」 小さな宝石箱を開け、1番豪奢なネックレスを差し出した。これは以前、家具と共に正一から贈られてきたもののひとつだ。あまりにも見た目が派手で、うたの好みにも、服にも合わない。 もったいないから新婚旅行先で新しい服を見つけようかと思ったが、新婚旅行で他の殿方からの頂き物と合う服を探すのも失礼な話だと思い、悩んでいたのだ。「こんなにすごいもの、もらえないって!」「ううん、もらって。これ、文彦さんのお友達からいただいたんだけど、その、趣味に合わないというか……。だから、もらってくれると嬉しいな。これでお母さんに、お薬とか買ってあげて」「うたちゃん……。ありがとう、本当に、ありがとう……!」「こちらこそ、来てくれてありがとう」 はるの涙をぬぐい、彼女が落ち着くまで抱きしめる。ついもらい泣きしそうになるが、今泣いたら化粧が崩れて文彦に恥をかかせてしまうから、ぐっとこらえた。 はるが泣き終わると、冷たい水で濡らした手ぬぐいで顔を拭ってやり、紅をひいた。「うん、とても綺麗。さ、着替えて」「うん!」 水色のワンピースに着替えたはるを連れ、会場に戻る。ふたりに気づいた文彦は、不格好に膨らんだ風呂敷を持っていた。「あなたは、うたの友人の花売りでしたね。良ければこれをもらっていただけませんか?」 はるは困惑してうたを見る。うたは元気づけるようにはるの手を握った。「友人達からの結婚祝いなのですが、家にあっても埃をかぶらせてしまうような品ばかりですので、受け取っていただければ幸いです」「ありがとう、ございます……! 以前も、お花を買っていただいて……。なんとお礼を言ったらいいのか」「礼を言うべきはこちらです。不用品を引き取っていただけるのですから」 引っ込んだはずのはるの涙が、再び溢れてくる。はるはふたりに礼を言うと、みっともない泣き顔をこれ以上見られたくないからと、会場を後にした。「ありがとうございます、文彦さん」「小生は不用品を押し付けただけで、礼を言われるようなことはしていません」 不
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40話

 ふたりが目的地についたのは、星がきらめき出した時間。海沿いの小さな宿だ。貸し切られた宿には、最低限の従業員と、ふたりしかいない。 案内された部屋は和室で、懐かしい畳の香りに胸がいっぱいになる。「素敵……」 広々とした室内を見回すと、控えめな色とデザインの上品な調度品が並んでおり、大きな窓からは、海が見えた。月明かりが広大な海を静かに照らし、幻想的な世界を作り出している。「たまには和室もいいかと思いまして」「とても懐かしいです」「あなたのご実家は、日本家屋でしたね」 文彦は思い出したように言うと、そっと畳を撫でる。「寝転がると、とっても気持ちいいんですよ。特に夏場はひんやりしてて、つい、寝てしまうんです」 うたは畳の上で仰向けに寝て、促すように視線を送る。「ふふ、いいですね」 うたを真似て彼女の隣に寝転ぶと、文彦は小さく笑った。「どうしたんですか?」「実に清々しいと思いましてね」「え?」「やかましい使用人がいないと、こんなに心穏やかに過ごせるものなのですね……」 ぽつりと呟く文彦に、複雑な気持ちになる。自分の家でくつろげないのは、さぞかしつらいことだろう。実家にいた時のことを思い出す。見栄っ張りの父は、客人が来る日になると、子供達にあれをしろ、これをしろとうるさかった。 長女と次女のえみとうたは、琴や三味線で客人を楽しませ、末っ子のちえは、可愛らしい着物を着てお茶を出していた。もてなしが終わり、下がるように言われても、着替えもおしゃべりもできないから、窮屈な思いをしたものだ。 ほんの数時間でも何もしたくなるほどくたくたになるのだから、常に気を張っている文彦は、もっと大変な思いをしているに違いない。 できることなら使用人達を追い出し、うたが代わりに家事をしたいところだが、あれほど大きな屋敷をひとりで管理するのは、不可能だろう。「なにか、余計なことを考えてますね?」「え?」「眉間にシワが寄ってます。何を考えていたのですか?」「いや、大したことでは……!」(いけないいけない。今だけでも、文彦さんには楽しんでもらわないと) 急いで脳内から使用人を追い出し、笑顔を作ってみせる。だが、文彦は呆れたような顔をする。「お節介焼きのあなたのことです。屋敷をどうするか考えていたのでしょう」「なんで……! あ……」 思わず口を押さ
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