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All Chapters of 怪人の花嫁: Chapter 41 - Chapter 50

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41話

 湯浴みや食事を終え、いよいよ夜伽の時。ふたりはあえて狭く作られた寝室に行き、布団の上に向き合って座る。「安心なさい。無理はさせませんから」 肩に置かれた手を掴み、文彦をまっすぐ見つめる。彼は不思議そうにうたを見る。「あ、あの……!」「どうしました? 体調でも優れませんか?」「いえ、そうではなくて、お願いが……」「なんでしょう?」「き、キスを、してほしくて……」 文彦からの返事はない。恥ずかしくて彼の顔を見ることができないが、呆れられてるかもしれないと思うと、寂しい。「その、夫婦になりますし、私、もっと文彦さんと、仲良くなりたいというか、えぇと……」「あなたは、本当に義理堅いですね」 穏やかな声音に顔を上げると、文彦は寂しそうに笑っていた。(どうして、そんな顔するの……?)「子供を産んだら、うたは帰っていいんですよ。小生のことを気にする義理も必要性も、どこにもありません。お気持ちだけで充分ですから」「違います。前にも言いましたが、私は義理とか世間体で添い遂げようと思ってるわけではありません」「えぇ、そうですね。他の人なら、つまらない嘘をつくなと一蹴するところですが、あなたは嘘がつけません。ですから、義理や同情で小生といようと思っているわけではないのは、重々承知です」「じゃあ、どうして……!」「あなたには、感謝しているんです。だからこそ、小生のそばに置いておきたくないのですよ」「え……?」 意味が分からなかった。感謝するのはうたの方であって、文彦に感謝される覚えなど、ひとつもない。「あなたは、小生を人間だと言ってくれた。普通に接してくれた。それだけで、充分なんです」「けど……!」「あなたには、好いた人と幸せになってほしい。処女は奪ってしまいましたが、ファーストキスは、大事に取っておいてください。いずれ会う、想い人のためにも、うた自身のためにも。女性にとって、ファーストキスは特別なものなのでしょう?」 鈍器で頭を殴られたような気分だ。うたはまだ、恋を知らない。だが、文彦を特別だと思っている。それこそ、生涯を捧げてしまってもいいと思うほどに。 文彦の突き放すような気遣いは、息が詰まる。「……あなたから様々なものを奪った小生が言える立場ではありませんが、自分を大事になさい。今日はもう、寝ましょう」 文彦は布団に入り、うた
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42話

 翌朝、朝餉を食べると、文彦はお金をうたに手渡してどこかに行ってしまった。「好きなことをしてきなさいなんて言われても……」 握らされたお金を見て、ため息をつく。 うたとしては、一緒に海岸を散策してみたかったのだが、提案する間もなく出ていかれてしまった。「どうしよう……」 出るのはため息ばかり。「新婚旅行中です」と言っても、今のうたを見れば、信じる人はいないだろう。「海、行こう……」 身支度をすると、ひとりで砂浜を歩く。潮風と波の音が心地よい。だが、気持ちは沈んだまま。「前に、海を前にすれば、どんな悩みもちっぽけに思えるって、誰かが言ってたっけ……。嘘つき」 貝殻を拾い、海に投げた。 自分では彼の役に立てないのだろうか? 根本的な解決に導くことはできなくても、緩和させることなら、あるいは……。 思考が波のように押し寄せては、引いていく。「はぁ、私じゃ、頼りないよね……」 自分の手のひらを見て、ため息をつく。傷一つない色白の手はどこまでも頼りなく、手にしたいものを掬ったり掴んだりするには、あまりにも小さい。「帰ろ……」 宿に戻ると、文彦が本を読んでいた。うたに気づくと顔を上げ、手招きをする。「こちらをどうぞ」「これは?」 手のひらにのせられた小箱は、小さいながらに高級感がある。「西洋では、結婚相手に指輪を送るそうですよ」 開けてみると、小さなダイヤがついた美しい指輪が鎮座している。「綺麗……」「気に入っていただけましたか?」「はい。あの、つけてくれますか?」 文彦は一瞬目を見開くも、穏やかな笑みを浮かべ、うたの手のひらにある小箱を手にする。「では、左手を」「はい……」 左手を差し出すと、文彦は壊れ物のように丁寧に下に手を添え、薬指にそっとはめ込む。夫婦の証が形になったようで、胸がいっぱいになる。「すごく、嬉しいです……」 文彦の左手に目をやるも、彼の薬指には光るものがない。「文彦さんの指輪は? 結婚指輪は、夫婦でお揃いのものをつけると、姉様が言ってました」「ありますけど、どうも落ち着かなくて」「できれば、つけてほしいです」「変わってますね」 そう言いながらも、文彦は外套のポケットから同じ小箱を出し、自分の指にはめる。「これでいいですか?」「はい」 指輪が並ぶように、左手を重ねる。ふたつ並ぶダイヤ
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43話

 誰もいない季節外れの海。海水で更にひんやりとした風が、文彦を包む。「分からない……。どうして……」 冷たい風で冷え切った左手には、うたのぬくもりが残ったまま。「好き? 嘘だ、そんなわけ……」 口でいくら否定しても、分かっている。うたの言葉には、嘘などないと。『美しい髪ですね』(気持ち悪い色の髪)『聡明でいらっしゃる』(化け物のくせに生意気だ)『あなたは文明開化の代表となるでしょう』(西洋かぶれの若造が) 今まで向けられた賛辞には、すべて裏があった。そして家族や使用人達の悪意にさらされ続けた文彦は、相手がどんなに完璧に取り繕っても、その裏を感じ取ってしまう。 だからこそ、うたの言葉や行動に、嘘がないと分かっていた。それが嬉しくもあり、恐ろしくもある。 他人に期待などしていなかった。人間など、自分の利害でしか動かない生き物で、自分と違うものを異様に嫌う愚かな生き物だ。そう思っていた。そう思うことで、自分を守ってきた。 だがうたはどうだ? 日本人離れした文彦の髪と瞳を綺麗だと褒め、普通に接してくれる。それどころか、おせっかいを焼いてくる。困った友人には手を差し伸べ、そのために他人を頼ることもできる。 うたの慈愛は、眼の前に広がる海のように広く深い。慈愛の海がちっぽけな捻くれ者を包み、高く硬く積み上げてきた心の要塞を溶かしていくのが恐ろしい。 要塞がなくなって残るのは……。「寂しがりの子供だ……」 無意識に出た言葉に、愕然とする。「あぁ、小生は、本当に弱い……」
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44話

 文彦が戻ってきたのは、夕方。「取り乱してすいません。もう、大丈夫ですから」 向けられた言葉と笑顔は、どこか作り物めいていて、距離を感じる。「私、余計なこと言ってしまいましたか? でも、事実はちゃんと伝えたくて……。誤解されたままでは、悲しいから……」 罪悪感を覚えてうつむくと、ふわりと漂う煙管の香りと、自分より少し高い体温。見上げると、文彦の顔がそこにあった。「余計なことではありません。好きだと言ってもらえて、嬉しかった。ですが、それ以上に恐ろしいのです……。情けないですね」「そんなこと、ないです。その、少しずつ、夫婦になっていきませんか?」「少し、考えさせてください。愛とは無縁だったものですから、混乱してて……」「分かりました。ゆっくりで、いいんです」「ありがとう、うた……」 文彦は真剣に考えているのか、食事中も、湯浴みを終えた後も、終始難しい顔をしていた。うたは話しかけたいのをぐっとこらえ、彼の思考と時間を尊重した。(結局、あの後何も喋れなかったな……) 言葉を交わせなかったことを寂しく思いながら布団に入ろうとすると、浴衣の裾を掴まれた。軽く引っ張られてそちらを向くと、文彦がうつむき加減で、じっとしている。「どうしたんですか?」「嫌でなかったら、あなたを抱きしめて眠りたい」 気づけばうたは、文彦に抱きついていた。「そうしましょう、夫婦なんですから」「えぇ、ありがとうございます」 久方ぶりに文彦の胸板に顔を埋める。白檀のような香りが、うたを眠りへ誘っていった……。 残り4日の新婚旅行はとても穏やかなもので、ふたりは一緒に海辺を歩いたり、買い物をしたりしていた。まだぎこちなさがあるものの、うたに寄り添おうとする文彦を見ていると、嬉しくなる。 夜になっても夜伽はせず、ただ静々と、抱き合って眠った。そんな穏やかであたたかい日々が愛おしい。(戻っても、こうしてられたらいいのに……) 最終日、そう願いながら、うたは白檀の香りに包まれ、眠った。
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45話

 新婚旅行も終わり、文彦に扉を開けてもらって中に入ると、ふさが困惑した顔で待ち構えていた。「旦那様、奥様、おかえりなさいませ。帰宅早々申し訳ありませんが、奥様に来客です」「え? 誰ですか?」「弟君です。2日前から居座っておりまして。おふたりは新婚旅行でまだ帰らないと言っても、帰って来るまでいると言って、聞かないのです」「清が!?」 驚きのあまり大声を出してしまう。清は稲葉家4兄弟の3番目であり、唯一の男児。父の期待を一身に背負い、品行方正が服を着て歩いているような少年だ。彼が居座りなど非常識なことをするなど、考えられなかった。「応接室におります。荷物はお預かりしますので、行ってあげてください」 いくら子供とはいえ、男に頭が上がらないのか、ふさは清の元へ急ぐようにうながす。「小生も行きましょう。ふさ、荷物は頼みましたよ」「はい、お預かりします」 ふさに荷物を預けると、ふたりは応接室に行く。来客用のソファには、少しぶかぶかな制服を着た清が、背筋を伸ばして座っていた。「姉様、おかえりなさい」 清はふたりが入ってくると立ち上がり、ペコリとお辞儀をする。「清! どうしたの。2日前からいるんだって? なんでそんなこと……」「姉様、僕は父様に失望しております。水月様、どうか僕を使用人として、ここに置いてください」 深々と頭を下げる清に、ふたりは思わず顔を見合わせる。「まずは、話を聞かせてもらいましょうか」 文彦は向かいのソファに座ると、足を組んでそう言った。うたも隣に座り、清の話を聞こうとする。「僕は純粋に、姉様が幸せになる結婚を喜んでいました。ですが父は、これで上流階級になる好機ができただとか、えみ姉様とちえに、お前達も見習って、うた姉様のように上流階級と結婚しろだとか、毎日口うるさくて」「ほう」「僕、それが許せません。汚い大人の目論見を、幸福な結婚に持ち込むだなんて、あんまりです」 うたは言葉に詰まった。清の言いたいことは分かる。結婚とは、本来ふたりが幸せになるためにするものだ。だが、政略結婚の重要さも、ある程度理解している。同級生のひとりは、父の会社が倒産し、裕福な暮らしから借金地獄になってしまった。だが、政略結婚で借金を返済してもらい、今はまともな暮らしができている。 どちらも理解できるのに、清にかけるべき言葉が見つからない。
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46話

(すごい、私が言いたいこと、全部言語化してくれた……) 非の打ち所がない文彦の説明に、うたは心の中で拍手を送る。だが、肝心の清は納得できていないのか、腕を組み、神妙な顔をする。「父が守ろうとしているようには見えません。あの人は、ただの見栄っ張りです」「見栄も多少はあるでしょう。ですが、見栄も大事なんですよ」「見栄なんて、どうしようもないじゃないですか」「そうでもありませんよ。例えば、この絵画を見てください」 文彦は暖炉の真上に飾ってある絵画を指さした。絵画には赤い外套のような服を着た立派な貴族らしき人物と、ボロの布切れをまとった男性が描かれている。ふたりでひとつの果実を持っている。「どちらが上に見えますか?」「赤い服の方が上でしょう。どこからどう見ても貴族です。貴族が乞食に果実を与えているのでしょう」「そういうことです」「え?」「見栄を張るというのは、外観、つまり、見た目を取り繕うという意味ですよね。清さん。あなたはボロ切れをまとった男性を乞食だと思いましたね? ですが、この男性は神様なのですよ」「神様!? これが!?」 清は思わず立ち上がり、絵をまじまじと見る。うたも座ったまま、絵画を見るが、どう見ても神には見えない。「西洋の神は、服に無頓着でしてね。大事な部分が隠れればそれでいいと思っているのですよ。この絵画は、飢餓に苦しむ土地の領主に、神が果実を与えている場面です。領主がもらった果実を植えて、神に言われた通り祈りながら水をやると、数日で大木になり、領地の住人全員が食べられるほど実ったという伝承です」「僕は、てっきり……」「人は見た目で判断する。顔に傷があったり、目つきが悪い人を見て、この人は悪い人なんじゃないかと思ったことはありませんか?」 文彦の言葉に、清はハッとすると、深々と頭を下げる。「僕が未熟でした。父は、お金があるように見せることで、力があるように見せかけていたのですね。僕達を守るために」「そういうことです」「あの、この絵をいただいてもよろしいでしょうか? 今日のことを忘れないように」「どうぞ、お持ちください」 文彦は壁から絵画を外すと、清に手渡す。清は両手で丁寧に受け取ると、改めてお礼を言い、絵画を大事に抱えて帰った。「やれやれ……」「すいません、うちの弟が」「いいんですよ。彼の気持ちは分かります
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47話

 数日後、文彦は仕事が忙しいのか、ずっと屋敷を空けている。かれこれ3日は彼の顔を見ていない。 うたが言い返したのがよっぽど聞いたのか、妙な物言いをする使用人は激減した。ふさとその取り巻きは相変わらずだが、余裕ができたうたには効かない。むしろうたが振り回しているくらいだ。「応接室の窓枠が汚れていましたよ。お客様が来たら恥ずかしい」「この空き部屋、いつ掃除したんですか? 埃っぽいですよ」 嫌味を言われるたびに、こんな調子で言い返していた。最初はムキになって言い返して来たが、2日もすれば更に言い返してくるのはふさのみとなった。 嫌味の応酬に飽き飽きしてきた4日目、来客がうたを訪ねてきた。「奥様、お客様がいらっしゃいました」「どなた?」「正一様です。応接室に通しておきました」「今行きます」 不思議に思いながら応接室に行くと、正一がソファの上にあぐらをかいて座っていた。「久しぶり、うたさん」「正一さん、どうなさったんですか?」「ふみとは上手くいってるのかって、おせっかい」 正一は白い歯を見せ、快活な笑みを見せる。「ふみのヤツ、無愛想で皮肉屋だろ? だから、どうしてるのかと思って」「喧嘩などはありませんが……」「やっぱり、なにかあったか」「え?」「ふみ、時々難しい顔して考え込んでるからさ。仕事であんな悩むようなヤツじゃないから、うたさんのことだと思って」「文彦さんが?」「俺で良ければ、聞くよ」「えっと……」 文彦について気になることはいくつもある。きっと、幼馴染の正一なら、何か知っているだろう。だが、夫婦の問題を彼に話すのは、ためらわれた。「ま、言いづらいよな」「すいません……」「いいって。夫婦のことだし、うたさんからしたら、俺は数回しか会ってない旦那の知り合いだもんな。でもアイツ、誤解されやすいし、ふみのこと、できるだけ知ってほしいから、勝手に話すわ」 そう前置きをすると、正一は文彦の昔話を始めた。昔の文彦は滅多に外に出してもらえず、彼の父が気を許した相手のみが集まる際に見世物として出されてたと言う。 正一の父も含めた彼らは、何日も食事をさせてもらえなかった文彦の前に残飯を置き、必死にがっつく彼を犬のようだと笑ったり、サンドバッグのように殴っていた。時には服を脱がされ、娼婦の真似事までさせられていた。「ひどい……」
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48話

 驚いて正一を見ると、彼は嬉しそうに笑っていた。きっと、本心なのだろう。「うたさんが来る前のふみは、本当に、人形みたいでさ。笑わせようとしても笑わないし、笑っても、冷笑っていうの? そういう顔しかしなかった。でも、うたさんが来てから、前より生き生きしてるんだよ。分かりにくいけど、なんか楽しそうというかさ。だから、うたさんなら、ふみを救えるんじゃないかって、本気で思ってる」「そうだと、いいんですけど……」「自信持って。ふみは確実に、うたさんの影響で変わってるから」「はい」 正一のおかげで自信を少し取り戻し、心が軽くなった。「私にできること、少しずつ探していこう」 正一を見送った後、決意を新たにする。 あの時文彦は、迷っていた。迷うということは、彼にも本物の夫婦になりたいという気持ちがあるのだろう。それなら、好機はまだある。 考えをまとめるため、気分転換をしようと外に出る。えみに相談をしようと、人力車に乗って実家がある町まで行くと、買い物袋を抱えたはるを見つけた。うたは人力車から降りて車夫に代金を払うと、はるに駆け寄った。「はるちゃん」「うたちゃん! びっくりした……。どうしたの?」「気分転換のお散歩。はるちゃんは、お買い物?」「うん。うたちゃんと水月様が、色々くれたでしょう? おかげで、母さんにこうして栄養のあるものを食べさせることができてるの」 はるは嬉しそうに買い物袋を持ち直した。中には新鮮な野菜がたくさん入っている。「お母さん、具合はどう?」「だいぶ良くなってきたよ。譲ってもらった贈り物の中に、薬も入っていてね。それを飲んだら、出歩けるようになってきたの。最近は、体力を戻すためにお散歩に行ったりしてるくらい」 母の回復がよほど嬉しいのか、はるの目には涙が光る。 現代ではあまり考えられないが、この頃は健康を願う縁起物として、薬を贈ることもあった。「そう、よかった」「ふたりには、感謝してもしきれないよ」「友達だもの。困ってたら、助けたいよ」「うたちゃんは、本当に優しいね」「はるちゃんも、優しいでしょ。お母さんが待ってるなら、これ以上引き止めるわけにはいかないね。またね」「うん、またね。本当にありがとう」 はると別れ、心が軽くなったことに気づく。ついでに少し冷静になり、自分が抱えている悩みは、えみには荷が重いと気づく
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49話

「どこに行ってたんですか」 帰宅すると、鬼のような形相のふさが待ち構えていた。「どこでもいいでしょう」「そういうわけには行きません。今は人手が足りないんです。手伝ってもらいますよ」 ふさは自分の足元に置いてあった掃除用具をうたに押し付けると、彼女の手を引き、歩き出す。「どこの掃除させようっていうんですか」「地下の書物庫ですよ。本の虫干しもしなくてはなりません」(書物庫って、文彦さんがいた……?) 彼が悲しき過去を過ごした場所に足を踏み入れるのだと思うと、なんとも言えない気持ちになる。よく言えば、愛する者が過ごしていた場所。事実を言えば、愛する者が閉じ込められていた場所。 文彦の秘密を暴いてしまうようで、胸が苦しい。「ここです。まずは本を廊下に出してください。夕餉の時間になったらお呼びしますので、それまで頼みましたよ」 ふさはわざとらしく大きな音を立てて扉を閉める。「本当に、性格悪いんだから」 うたはため息をつき、書物庫内を見回した。本棚の影になっていてほとんど見えないが、空気が淀んで重苦しい。 文彦がここから出てから誰も出入りしていないのか、埃が積もっていた。「はぁ、埃をどうにかしてからにしたいけど、本にも埃は積もってるでしょうしね……」 再びため息をつき、両頬を軽く叩いて気合をいれると、はたきでひとつの本棚の埃を落とし、廊下に積み上げていった。本の大半は分厚く重たい。うたが持てるのは5,6冊程度。そのため、ひどく時間がかかる。「台車でも用意してくれればいいのに、意地悪なんだから」 廊下と書物庫を何往復もして、ようやくひとつの本棚を空にすると、雑巾を濡らす。「何か、踏み台でもあるといいんだけど……」 大きな本棚の上は、うたでは届かない。文彦ほど身長があったとしても、満足に掃除できないだろう。 踏み台に使えそうなものはないかと、書物庫内を探す。書物庫が思ったよりも広く、端に行くのに1,2分ほどかかる。「何、ここ……」 奥につくと、一組の勉強机があった。壁には鞭や箒などがひっかけられ、木刀が立てかけてある。床には血痕と思われる染みがところどころにあった。 錆びた鉄製のドアを見つけ、そこを開けると、桶と手押しポンプがあった。その部屋にも血痕があちこちにある。 気分が悪くなり、書物庫に戻ると、先程は気付けなかった布の塊を見
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50話

「まだ1時間以上あります。しっかり掃除してくださいね。他の使用人達も、別の場所を掃除しているんですから」 ふさはそう言うが、食堂からは楽しそうな笑い声がする。(見え透いた嘘を……) 食堂に乗り込んで、彼らを叱ってもよかったが、人間とは不思議なもので、1度掃除を始めると、綺麗になるまで掃除し続けたくなる。 そのふたつは天秤にかけるまでもなく、うたは掃除を選び、水を取り替えに行く。ついでに塵芥箱(今で言うゴミ箱)も書物庫に持っていくと、ボロボロの布切れを押し込んだ。「やっぱり、少しでも埃を取り除いたほうがいいよね……」 二度手間になるのを承知で、掃き掃除をしていると、壁際に紐が上からぶら下がっているのを見つけた。紐は上の小窓に繋がっており、紐を引くと木製の小窓が開いた。壁のフックに紐を固定すると、夜風が淀んだ空気を追い出し、新鮮な空気を少しずつ送り込んでくれる。「これで掃除しやすいかな」 掃除をしていた地点に戻り、椅子に登って見渡すと、奥の本棚の上に何か乗っているを見つけた。遠くてここからはよく分からない。「なんだろ、あれ」 好奇心のままに何かが乗っていた本棚の前に椅子を運ぶ。そこは机に1番近い本棚だった。 本棚の上を見ると、2冊のノートだ。手で埃を払い、椅子に座って開いてみる。 2月4日。 あの人はいつも冷たい。 愛のない結婚なのは覚悟していたけど、こんな扱い、もう耐えられない。 繊細な文字でそう綴られていた。「日記……。誰の?」 読み進めていくと気になる文章を見つけた。 5月23日。 社交パーティ。あの人はご友人に私がどれほど愚かか言い聞かせるだけ。 西洋の紳士が、私をダンスに誘ってくださった。なんて素敵な人なのかしら。「もしかして、文彦さんの、お母様の……?」 6月1日 またあの方にお会いできた。エドワード様、素敵な方。 私をひとりの人間として扱ってくださる。 6月13日 あの人も子供も、私をぞんざいに扱う。けど、構わない。この家族には何も期待しない。 明日、エドワード様にお会いできる。 6月14日 ついに禁忌を犯してしまった。愛がないとはいえ、主人がいるのに、エドワード様と……。 けれど、後悔はありません。あの方といる時だけ、私は人間になれる。女になれる。 その後も、日記にはエドワードという西洋の紳
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