تسجيل الدخول櫻羅は飲んでいたお茶の湯飲みをそっとテーブルに置いた。湯飲みが卓上に触れる小さな音だけが、その場の静けさの中に響く。食堂ホールには他の宿泊客の談笑も聞こえていたが、このテーブルだけは重い空気に包まれていた。玲司も綾乃も、瑛士も叶翔も、誰一人として軽々しく口を開こうとはしない。櫻羅はそんな空気を感じながら、小さく息を吸い込む。そして、その席に集まった全員の顔をゆっくり見回しながら言った。「さっき廊下で会ったんです。慌てて来たみたいで、言葉も交わさずに部屋を探しに行こうとしていたみたいで……思わず部屋のキーカードを渡してしまいました」言い終えると、櫻羅は少し照れ笑いを浮かべた。あの時は深く考える余裕などなかった。心春を探して焦る和真の姿を見た瞬間、この人は本当に心春のことだけを考えてここまで来たのだと感じた。だからこそ、自然と体が動いていたのである。しかし、その言葉を聞いた叶翔は、少し怒ったような口調で櫻羅に向かって言う。「渡してしまったって、櫻羅……心春は今、和真さんに会いたくないんじゃないのか?」叶翔の表情には心春を案じる気持ちがそのまま表れていた。妹が傷ついている姿を見ているからこそ、和真を簡単に会わせることに納得できない。櫻羅はそんな叶翔の言葉を受け止めながら、和真の顔を思い出していた。廊下で見たあの切羽詰まった表情。焦りと後悔、そして心春を心配する気持ちが入り混じっていた和真の姿が脳裏に浮かぶ。しばらく黙ったまま視線を落とすと、静かに俯いて首を横に振る。言葉ではうまく説明できない。そんな複雑な思いが表情ににじんでいた。櫻羅が口を開かないことに業を煮やした叶翔が、勢いよく立ち上がった。椅子が床を擦る音が静かな食堂に響く。どこへ行こうとしているかは、その場に居る全員にわかっていた。和真を止めるため。あるいは心春の様子を確かめるため。叶翔自身も、その衝動を抑え切れなくなっていた。だが、その瞬間。「座れ、叶翔」玲司の低く落ち着いた一言が飛んだ。決して大きな声ではない。しかし逆らうことのできない重みがあった。叶翔は玲司を見つめたあと、不満そうに唇を噛みしめながら再び椅子へ腰を下ろした。そして悔しそうな顔で言う。「疑惑の渦中の和真さんが来たって、心春の心が晴れるわけでもないだろう。なんで……」妹を守り
一階の廊下で叶翔の姿をとらえた櫻羅は、待合スペースのソファから静かに立ち上がった。先ほどまで心春のことが気になり、落ち着かない気持ちでロビーを行き来していたが、見慣れた後ろ姿が目に入った瞬間、その表情が少しだけ和らぐ。スマートフォンを耳に当てたまま、足早に叶翔のもとへ向かって歩き始めた。一方、叶翔も櫻羅の姿が目に入った途端、スマホを耳に充てたまま、櫻羅の方へと歩き出していた。互いに相手へ電話を掛けたまま、同じ場所へ向かって歩いていることにまだ気づいていない。廊下の中央で向かい合った二人は、お互いにまだ、スマホを耳に充てたままだった。少しだけ照れたように見つめ合う。そして、ほぼ同時に口を開いた。「叶翔……なんでここに?」「櫻羅、心春と一緒じゃなかったのか?」スマホに向かって同時に発した言葉に、二人とも笑ってしまった。一瞬だけ廊下に笑い声が響き、重苦しかった空気が和らぐ。叶翔は肩をすくめながら笑う。「とりあえず切るか」叶翔の言葉に、櫻羅もスマホの通話を切った。画面を閉じて浴衣の袖へしまうと、改めて叶翔を見上げる。「いつ来たの?」そう尋ねる櫻羅の表情には、どこか安心した色が浮かんでいた。叶翔は食堂ホールの方を見て言った。「おふくろに呼び出されて、少し前についた。両親と、瑛士も一緒だ」突然の呼び出しだったため慌ただしく旅館へ向かったことを思い返しながら答える。櫻羅は納得したように小さく頷いた。「心春ちゃんは晩御飯のときに飲みすぎちゃったみたいで眠ってる……」心春の酔いつぶれた様子を思い出しながら苦笑する櫻羅。しかし、その言葉を最後まで言い切る前に、叶翔は苦笑して言った。「心春の奴……」昔から酒に弱いことを知っているだけに、呆れ半分、心配半分といった表情だった。しばらく顔を見合わせたあと、叶翔は穏やかな笑みを浮かべる。「櫻羅、もう食事は済んでるだろうが、同席しないか?」せっかく来たのだから一緒に過ごそうという自然な誘いだった。その言葉に櫻羅は頷き、叶翔の後について食堂ホールへと歩いて行った。二人が並んで歩く姿は、まるで長年連れ添った夫婦のように自然で、周囲の宿泊客も思わず視線を向けるほど絵になっていた。廊下の奥からは料理の香りと楽しそうな笑い声が聞こえてくる。温泉旅館ならではの落ち着いた雰囲気が二人を包み込ん
八階でエレベーターを降りた和真は、「八〇七号室」の扉を探して静かな廊下を歩いていた。ホテルの廊下には柔らかな照明が灯り、厚い絨毯が足音を吸い込んでいく。窓の外にはホテルの照明が広がっているが、和真にはその景色を眺める余裕などなかった。胸の内では、さまざまな感情が渦巻いている。神山雪乃の存在。康太という少年。そして、そのことによって深く傷つけてしまった心春のこと。自分の過去が、今になって最も大切な妻を苦しめている。その事実が、和真の胸を締め付けていた。やがて部屋番号「八〇七」のプレートが目に入る。目指すドアの前に立った和真は、キーカードを翳す前、ほんの一瞬だけ躊躇した。この扉を開けば、傷ついた心春と向き合わなければならない。どんな言葉を掛ければいいのか。どんな顔をすれば許してもらえるのか。答えは見つからない。それでも逃げるわけにはいかなかった。和真はゆっくり息を吸い込み、思い直すとキーカードをカードリーダーにかざす。「ピーッ」という電子音とともに、扉の開錠ランプが赤から緑色へと変わった。和真は静かにドアノブへ手を掛ける。音を立てないようゆっくりと押し開け、中へ入ると、背後でドアの鍵が「ガチャッ」と閉まる音だけが静かに響いた。その音が妙に大きく感じられ、和真は一瞬だけ立ち止まる。玄関口で靴を脱ぎ、部屋の奥へ視線を向ける。目の前には和室へ続くふすま。和真はそっと手を掛け、静かに開いた。少し薄暗いライトの明かりの中に、座布団を布団代わりにし、ショールを体にかけて眠る心春の姿が目に入った。旅館の部屋らしい穏やかな空気が流れる中、小さく身体を丸めて眠る心春は、どこか幼く見えた。かなり酒を飲んだのだろう。テーブルには空になったグラスや徳利が残されている。眠っている心春の頬は少し赤く染まり、長い髪が頬へと流れ落ちていた。和真はゆっくりと歩み寄り、心春の横へ静かに腰を下ろす。そして、心春の頬に掛かった髪を指先で優しく耳へとかけてやった。その指先は震えていた。心春が小さく、「……ん」と呻き、身動きした。眠りの浅い子どものように身体を少しだけ動かし、再び静かになろうとする。その姿を見て、和真の胸は締め付けられた。自分の若いころからのツケを、心春にこんな形で払わせるような目に合わせてしまった。本来なら何不自由
シャワーを浴び終えた琉空が、バスタオルを腰に巻き付けただけの姿で浴室から出てきた。まだ髪の先からは水滴が落ち、鍛え上げられた肩や胸元をゆっくりと伝っていく。高級ホテルのスイートルームには静かな空気が流れ、窓の向こうには都会の景色が広がっていた。ベッドに横になってそんな琉空を眺めていた神崎美玲は、口の端を挙げてフッと笑った。年齢差など忘れさせるほど、琉空の若々しい肉体は美玲の目を惹きつける。「琉空。ホントにキレイな体をしているわね。その顔といい、女の子が放っておかないのも納得ね」美玲はそう言い、ゆっくりとベッドに起き上がる。その口調には余裕があり、まるで褒め言葉を与える女王のような雰囲気が漂っていた。琉空はその言葉には反応せず、聞こえていないふりをして冷蔵庫を覗き込んだ。冷蔵庫の中にはホテルが用意したシャンパンやミネラルウォーター、色とりどりのフルーツが並んでいる。何事もなかったかのように飲み物を選ぶ琉空の横顔を見て、美玲も微笑を浮かべたまま浴室へと歩いて行く。浴室のドアが閉まり、やがてシャワーの音だけが部屋に響いた。しばらくして、シャワーを浴び終え、バスローブを羽織った美玲が部屋へ戻る。すると同じくバスローブ姿となった琉空が、冷蔵庫で冷やしていたシャンパンをグラスへ注ぎ、美玲へ差し出した。「ありがとう」美玲は受け取ったグラスを軽く掲げる。琉空はソファへ腰を下ろした。美玲はその膝に自然な動作で腰掛けると、シャンパンを一気に飲み干した。冷たい炭酸が喉を滑り落ち、火照った身体を心地よく冷ましていく。空になったグラスを見た琉空が、もう一杯注ごうとボトルを手に取る。しかし、美玲はそっとその手を押さえた。「もういいわ」そう言って琉空の首に腕を回し、そのまま琉空の胸へと顔を寄せる。しばらく静かな時間が流れたあと、美玲は小さな声で尋ねた。「琉空、私のお願い、聞いてくれたの?」琉空は優しく美玲の頭を撫でると、自分のスマホをバスローブのポケットから取り出した。画面を操作し、メモアプリに記しておいた内容を美玲へ見せる。美玲は顔を上げ、琉空のスマホの中身を見る。調べた情報は簡潔ながら整理され、人物関係や最近の動きまで細かくまとめられていた。それを見た美玲は、思わずクスッと笑う。「琉空、あなた探偵事務所でも開けば?その時は私が投資し
翌朝、壮真の顔を見るのも嫌だった美玲は、いつもより遅くまで寝室から出て行かなかった。昨夜の出来事を思い返すたびに胸の奥がざわつき、同じ屋根の下に壮真がいると思うだけで気分が重くなる。カーテンの隙間から差し込む朝の日差しは眩しかったが、美玲はベッドに身を横たえたまま、時計の針が進む音だけをぼんやりと聞いていた。やがて玄関の開く音が響き、しばらくして高級セダンのエンジン音が屋敷の前庭から遠ざかっていく。壮真が車で出かけたことを確認すると、美玲はようやくゆっくりと起き上がった。鏡の前に立ち、丁寧に身支度を整える。年齢を重ねてもなお美しさを保つため、日々欠かさない手入れを施し、上品なワンピースに身を包んだ。その姿には、名門・鳳条家の令嬢として育った気高さが今もなお漂っている。階下へ降りると、家政婦が静かに頭を下げた。「奥様、おはようございます」そして昨夜、壮真から預かったという高級ブランドの紙袋を両手で差し出した。「旦那様からお預かりしております」美玲は袋へ視線を向けたものの、中身を確かめようとはしなかった。ほんの一瞬だけ目をやると、興味を失ったように言い放つ。「あなたにあげるわ」それだけ言って踵を返し、見向きもしない。家政婦は少し驚いたものの、この光景には見覚えがあった。美玲は気に入らない贈り物や不要だと思った品を、こうして家政婦へ譲ることが少なくない。そのため今回も「ありがとうございます」と静かに頭を下げ、ありがたく受け取ると、誰にも見えないようそっと脇へしまった。美玲はそのまま玄関へ向かい、ヒールの音を響かせる。それを見送っていた家政婦が声を掛けた。「奥様、朝食はどうなさいますか?」美玲は振り返りもせず歩みを止めると、静かな口調で答えた。「外で食べるわ。それから、今夜は戻らないかもしれないけど、彼は気にしないから伝えなくていいわよ」その言葉には、壮真への冷え切った感情が滲んでいた。「かしこまりました」家政婦が再び頭を下げると、美玲は玄関脇のテーブルから愛車のキーを手に取り、そのまま神崎家の私邸をあとにした。目的地へ向かう車内では、お気に入りの音楽を流しながらハンドルを握る。先ほどまで胸を覆っていた重苦しい気持ちは、少しずつ薄れていく。これから会う人物のことを思うだけで、自然と口元には笑みが浮かんでいた。――今日
神崎家の広大な私邸のリビングには、不機嫌そうな顔の神崎美玲の姿があった。旧姓――鳳条(ほうじょう)美玲。日本有数の名門財閥・鳳条家の令嬢として生まれ育ち、幼い頃から一流の教育を受けてきた女性である。立ち居振る舞いは誰よりも優雅で、社交界では常に人々の視線を集める存在だった。その反面、気位が高く、妥協を許さない性格でも知られている。夫・壮真の女性問題には何度も激怒してきたが、それでも「神崎家の体面」を守るためだけに離婚という選択だけはしなかった。財閥同士の結婚とは、当人同士だけの問題ではない。神崎家と鳳条家、双方の信用や歴史が関わる。感情だけで婚姻を終わらせられるほど、彼女の立場は軽くなかった。その毅然とした態度から、社交界ではいつしか「氷の女王」と呼ばれるようになっていた。誰にも媚びず、誰にも屈しない。冷たいほどに美しいその姿は、多くの人間に畏怖すら抱かせていた。だが――。今夜ばかりは、その氷のような仮面にも亀裂が入っていた。壮真が「玲子」という愛人のマンションへ行っていることを知っていたため、美玲は不機嫌極まりなかった。広いリビングには高級家具が並び、暖炉には静かな炎が揺れている。だが、その温かな光さえ、美玲の心を和らげることはできない。テーブルの上には冷め切った紅茶が置かれたままになっていた。何度時計を見ても、針が進むたびに苛立ちは募るばかりだった。神崎グループの業績が目に見えて下がっているというのに、長年そばに置いているあの愛人にホテルのスイートルームのような豪華なマンションの部屋を買い与え、週に何度もそこへ通い、挙句は会社へも堂々と立ち入りを許している。会社の重役たちも陰では笑っている。社員たちも噂している。神崎グループのトップが、会社より愛人を優先していると。そのたびに、美玲は神崎家の人間として頭を下げる立場に立たされてきた。夫の不始末を片付けるのはいつも自分だった。それなのに壮真は何一つ反省しない。美玲は歯ぎしりをして悔しがった。「あの女……あの女を手放さないなら、見てなさいよ、壮真!!」怒りを押し殺した低い声が、静かなリビングへ響く。美玲は一人、ソファに座って怒りを抑え込もうとしていた。脚を組み、腕を組み、必死に感情を抑え込もうとする。しかし胸の内では怒りが渦巻いていた。やがて屋敷の外か







