LOGIN八階でエレベーターを降りた和真は、「八〇七号室」の扉を探して静かな廊下を歩いていた。ホテルの廊下には柔らかな照明が灯り、厚い絨毯が足音を吸い込んでいく。窓の外にはホテルの照明が広がっているが、和真にはその景色を眺める余裕などなかった。胸の内では、さまざまな感情が渦巻いている。神山雪乃の存在。康太という少年。そして、そのことによって深く傷つけてしまった心春のこと。自分の過去が、今になって最も大切な妻を苦しめている。その事実が、和真の胸を締め付けていた。やがて部屋番号「八〇七」のプレートが目に入る。目指すドアの前に立った和真は、キーカードを翳す前、ほんの一瞬だけ躊躇した。この扉を開けば、傷ついた心春と向き合わなければならない。どんな言葉を掛ければいいのか。どんな顔をすれば許してもらえるのか。答えは見つからない。それでも逃げるわけにはいかなかった。和真はゆっくり息を吸い込み、思い直すとキーカードをカードリーダーにかざす。「ピーッ」という電子音とともに、扉の開錠ランプが赤から緑色へと変わった。和真は静かにドアノブへ手を掛ける。音を立てないようゆっくりと押し開け、中へ入ると、背後でドアの鍵が「ガチャッ」と閉まる音だけが静かに響いた。その音が妙に大きく感じられ、和真は一瞬だけ立ち止まる。玄関口で靴を脱ぎ、部屋の奥へ視線を向ける。目の前には和室へ続くふすま。和真はそっと手を掛け、静かに開いた。少し薄暗いライトの明かりの中に、座布団を布団代わりにし、ショールを体にかけて眠る心春の姿が目に入った。旅館の部屋らしい穏やかな空気が流れる中、小さく身体を丸めて眠る心春は、どこか幼く見えた。かなり酒を飲んだのだろう。テーブルには空になったグラスや徳利が残されている。眠っている心春の頬は少し赤く染まり、長い髪が頬へと流れ落ちていた。和真はゆっくりと歩み寄り、心春の横へ静かに腰を下ろす。そして、心春の頬に掛かった髪を指先で優しく耳へとかけてやった。その指先は震えていた。心春が小さく、「……ん」と呻き、身動きした。眠りの浅い子どものように身体を少しだけ動かし、再び静かになろうとする。その姿を見て、和真の胸は締め付けられた。自分の若いころからのツケを、心春にこんな形で払わせるような目に合わせてしまった。本来なら何不自由
シャワーを浴び終えた琉空が、バスタオルを腰に巻き付けただけの姿で浴室から出てきた。まだ髪の先からは水滴が落ち、鍛え上げられた肩や胸元をゆっくりと伝っていく。高級ホテルのスイートルームには静かな空気が流れ、窓の向こうには都会の景色が広がっていた。ベッドに横になってそんな琉空を眺めていた神崎美玲は、口の端を挙げてフッと笑った。年齢差など忘れさせるほど、琉空の若々しい肉体は美玲の目を惹きつける。「琉空。ホントにキレイな体をしているわね。その顔といい、女の子が放っておかないのも納得ね」美玲はそう言い、ゆっくりとベッドに起き上がる。その口調には余裕があり、まるで褒め言葉を与える女王のような雰囲気が漂っていた。琉空はその言葉には反応せず、聞こえていないふりをして冷蔵庫を覗き込んだ。冷蔵庫の中にはホテルが用意したシャンパンやミネラルウォーター、色とりどりのフルーツが並んでいる。何事もなかったかのように飲み物を選ぶ琉空の横顔を見て、美玲も微笑を浮かべたまま浴室へと歩いて行く。浴室のドアが閉まり、やがてシャワーの音だけが部屋に響いた。しばらくして、シャワーを浴び終え、バスローブを羽織った美玲が部屋へ戻る。すると同じくバスローブ姿となった琉空が、冷蔵庫で冷やしていたシャンパンをグラスへ注ぎ、美玲へ差し出した。「ありがとう」美玲は受け取ったグラスを軽く掲げる。琉空はソファへ腰を下ろした。美玲はその膝に自然な動作で腰掛けると、シャンパンを一気に飲み干した。冷たい炭酸が喉を滑り落ち、火照った身体を心地よく冷ましていく。空になったグラスを見た琉空が、もう一杯注ごうとボトルを手に取る。しかし、美玲はそっとその手を押さえた。「もういいわ」そう言って琉空の首に腕を回し、そのまま琉空の胸へと顔を寄せる。しばらく静かな時間が流れたあと、美玲は小さな声で尋ねた。「琉空、私のお願い、聞いてくれたの?」琉空は優しく美玲の頭を撫でると、自分のスマホをバスローブのポケットから取り出した。画面を操作し、メモアプリに記しておいた内容を美玲へ見せる。美玲は顔を上げ、琉空のスマホの中身を見る。調べた情報は簡潔ながら整理され、人物関係や最近の動きまで細かくまとめられていた。それを見た美玲は、思わずクスッと笑う。「琉空、あなた探偵事務所でも開けば?その時は私が投資し
翌朝、壮真の顔を見るのも嫌だった美玲は、いつもより遅くまで寝室から出て行かなかった。昨夜の出来事を思い返すたびに胸の奥がざわつき、同じ屋根の下に壮真がいると思うだけで気分が重くなる。カーテンの隙間から差し込む朝の日差しは眩しかったが、美玲はベッドに身を横たえたまま、時計の針が進む音だけをぼんやりと聞いていた。やがて玄関の開く音が響き、しばらくして高級セダンのエンジン音が屋敷の前庭から遠ざかっていく。壮真が車で出かけたことを確認すると、美玲はようやくゆっくりと起き上がった。鏡の前に立ち、丁寧に身支度を整える。年齢を重ねてもなお美しさを保つため、日々欠かさない手入れを施し、上品なワンピースに身を包んだ。その姿には、名門・鳳条家の令嬢として育った気高さが今もなお漂っている。階下へ降りると、家政婦が静かに頭を下げた。「奥様、おはようございます」そして昨夜、壮真から預かったという高級ブランドの紙袋を両手で差し出した。「旦那様からお預かりしております」美玲は袋へ視線を向けたものの、中身を確かめようとはしなかった。ほんの一瞬だけ目をやると、興味を失ったように言い放つ。「あなたにあげるわ」それだけ言って踵を返し、見向きもしない。家政婦は少し驚いたものの、この光景には見覚えがあった。美玲は気に入らない贈り物や不要だと思った品を、こうして家政婦へ譲ることが少なくない。そのため今回も「ありがとうございます」と静かに頭を下げ、ありがたく受け取ると、誰にも見えないようそっと脇へしまった。美玲はそのまま玄関へ向かい、ヒールの音を響かせる。それを見送っていた家政婦が声を掛けた。「奥様、朝食はどうなさいますか?」美玲は振り返りもせず歩みを止めると、静かな口調で答えた。「外で食べるわ。それから、今夜は戻らないかもしれないけど、彼は気にしないから伝えなくていいわよ」その言葉には、壮真への冷え切った感情が滲んでいた。「かしこまりました」家政婦が再び頭を下げると、美玲は玄関脇のテーブルから愛車のキーを手に取り、そのまま神崎家の私邸をあとにした。目的地へ向かう車内では、お気に入りの音楽を流しながらハンドルを握る。先ほどまで胸を覆っていた重苦しい気持ちは、少しずつ薄れていく。これから会う人物のことを思うだけで、自然と口元には笑みが浮かんでいた。――今日
神崎家の広大な私邸のリビングには、不機嫌そうな顔の神崎美玲の姿があった。旧姓――鳳条(ほうじょう)美玲。日本有数の名門財閥・鳳条家の令嬢として生まれ育ち、幼い頃から一流の教育を受けてきた女性である。立ち居振る舞いは誰よりも優雅で、社交界では常に人々の視線を集める存在だった。その反面、気位が高く、妥協を許さない性格でも知られている。夫・壮真の女性問題には何度も激怒してきたが、それでも「神崎家の体面」を守るためだけに離婚という選択だけはしなかった。財閥同士の結婚とは、当人同士だけの問題ではない。神崎家と鳳条家、双方の信用や歴史が関わる。感情だけで婚姻を終わらせられるほど、彼女の立場は軽くなかった。その毅然とした態度から、社交界ではいつしか「氷の女王」と呼ばれるようになっていた。誰にも媚びず、誰にも屈しない。冷たいほどに美しいその姿は、多くの人間に畏怖すら抱かせていた。だが――。今夜ばかりは、その氷のような仮面にも亀裂が入っていた。壮真が「玲子」という愛人のマンションへ行っていることを知っていたため、美玲は不機嫌極まりなかった。広いリビングには高級家具が並び、暖炉には静かな炎が揺れている。だが、その温かな光さえ、美玲の心を和らげることはできない。テーブルの上には冷め切った紅茶が置かれたままになっていた。何度時計を見ても、針が進むたびに苛立ちは募るばかりだった。神崎グループの業績が目に見えて下がっているというのに、長年そばに置いているあの愛人にホテルのスイートルームのような豪華なマンションの部屋を買い与え、週に何度もそこへ通い、挙句は会社へも堂々と立ち入りを許している。会社の重役たちも陰では笑っている。社員たちも噂している。神崎グループのトップが、会社より愛人を優先していると。そのたびに、美玲は神崎家の人間として頭を下げる立場に立たされてきた。夫の不始末を片付けるのはいつも自分だった。それなのに壮真は何一つ反省しない。美玲は歯ぎしりをして悔しがった。「あの女……あの女を手放さないなら、見てなさいよ、壮真!!」怒りを押し殺した低い声が、静かなリビングへ響く。美玲は一人、ソファに座って怒りを抑え込もうとしていた。脚を組み、腕を組み、必死に感情を抑え込もうとする。しかし胸の内では怒りが渦巻いていた。やがて屋敷の外か
櫻羅が一階の大広間の前を通ると、障子越しに漏れる賑やかな声が耳に届いた。中では遅めの夕食を楽しんでいるたくさんの宿泊客の姿が見える。浴衣姿の家族連れや夫婦、友人同士らしい若者たちが笑い合いながら食事をしており、料理の湯気と笑い声が広い会場を包み込んでいた。美味しそうな料理の香りまで廊下へ流れてきて、櫻羅は思わず足を止める。しかし、その光景を見ても、自分が中へ入ろうという気持ちにはなれなかった。「まだ部屋には戻れないかな……」そうつぶやき、何となく、自分はこのまま帰ってしまおうかと考えていた。心春のお供で遊びには来たが、和真が現れたことで、自分の役目は終わったような気がしていた。きっと今頃、和真は心春のそばにいる。二人だけで話したいこともあるだろう。自分が部屋へ戻れば、かえって気を遣わせてしまうかもしれない。そんなことを考えながら歩いていると、自然と一人の顔が浮かんできた。「叶翔、ちゃんとごはん食べたかな……」そんなことをつぶやいていると、櫻羅も途端に寂しくなってしまった。朝からずっと心春と一緒だった。温泉街を歩き、お土産を買い、初めての温泉に入り、日本料理を食べた。どれも楽しく、思い出に残る一日だった。それでも、心のどこかではずっと叶翔のことを考えていた。今頃何をしているだろう。仕事は終わったのだろうか。ちゃんと食事はしたのだろうか。そんな些細なことまで気になってしまう。大広間を過ぎた辺りの廊下の端に、小休止できるように木製のベンチが置いてあった。赤い布が掛けてあり、前にテレビで見た時代劇のドラマに出てきた、お茶屋さんの景色に似ていた。櫻羅はそこへ腰を下ろした。木の温もりがどこか心を落ち着かせてくれる。しばらく静かに庭を眺めていたが、結局我慢できず、浴衣の袖からスマホを取り出した。画面には叶翔の連絡先が表示される。自分が電話をしたら心配するだろうか?でも、叶翔がちゃんとご飯を食べたか確認するためとか言えば、叶翔はきっと笑ってくれるだろう。そう考えると、無性に叶翔の声を聞きたくなった櫻羅は、叶翔の番号をタップした。呼び出し音が静かな廊下へ小さく響く。一回。二回。三回――。しばらく呼び出していたが、やがて叶翔が電話に出る。叶翔の周りは少し騒がしかったが、やがて静かになった。どこか人が沢山いるとこ
心春が眠ってしまったため、櫻羅は起こさないよう細心の注意を払いながら、静かに部屋を抜け出していた。座布団の上で穏やかな寝息を立てる心春の姿を見ていると、先ほどまで涙を流しながら胸の内を打ち明けていたことが嘘のようだった。櫻羅は布団代わりにもう一枚座布団を肩口へ寄せ、エアコンの風が直接当たらないよう向きを少し変えてやる。「ゆっくり休んでね……」誰に聞かせるでもなく小さく呟くと、起こさないよう音を立てず襖を閉めた。せっかく日本の温泉旅館に来たのだ。少し景色を楽しみながらホテルの中庭を歩いてみたかった。廊下へ出ると、館内は昼間とは違う静かな空気に包まれていた。遠くから聞こえてくるのは、大浴場の方から響く微かな話し声と、どこかで流れている琴の音色だけ。木造の廊下を歩くたびに、床板がわずかに軋み、その音さえも風情の一部のように感じられる。櫻羅はゆっくりと歩きながら窓の外へ目を向けた。昼間は多くの観光客で賑わっていた庭園も、夜になるとまるで別世界だった。中庭へ出ると、夜闇に照らされた幻想的な照明の光が、この巨大なホテルを美しく照らしている。石灯籠には柔らかな灯りがともり、小川には月明かりが映り込んで静かに揺れていた。庭に植えられた松や紅葉はライトアップされ、日本庭園特有の静寂さをより一層引き立てている。風が吹くたびに木々の葉がわずかに揺れ、竹垣の向こうから虫の鳴き声が聞こえてきた。櫻羅は思わず深呼吸した。温泉の湯気を含んだ夜風は少し湿っていて、とても心地よい。「きれい……」自然とそんな言葉が口から漏れる。櫻羅の育った街にも、こういった歴史のある建物は多かったが、それはすべて西洋のものであり、櫻羅にとっては子供の頃からなじみのあるものしかなかった。石造りの教会。古い城。大理石の広場。噴水や時計塔。そういった景色には見慣れていたが、日本庭園のように自然と建物が一体となった美しさは初めてだった。人工的に派手な装飾を施すのではなく、静けさそのものを楽しむ文化。その奥深さに、櫻羅はすっかり魅了されていた。「叶翔にも見せてあげたいな……」そう呟くと、浴衣の袖からスマホを取り出した。何枚も角度を変えながら写真を撮る。石灯籠。池。橋。旅館の建物。そして夜空。どれも美しく写っているように思えた。撮ったばかりの写真を見てみ







