「今日呼び出したのは、康太のことなんだけど―――」美玲がそう口にした瞬間だった。雪乃の胸が、大きく跳ねた。やはり、その話だった。ここへ呼び出された時から、ある程度は覚悟していた。それでも、いざ康太の名前を出されると、胸の奥に押し込めていた不安が一気に込み上げてくる。雪乃はまた椅子から飛び上がるように立ち上がり、大きく頭を下げた。「そのことについては、本当に申し訳ございません。美玲さんと結婚したことを知りながら………」自分でも何を言っているのか分からなかった。謝らなければならない。ずっと、そう思っていた。壮真と関係を持ったこと。その後、康太を産んだこと。そして、美玲という正妻がいることを知りながら、十年以上もの間、壮真から養育費を受け取っていたこと。いくら壮真が自分と康太を放っていたとはいえ、美玲にとっては許せることではないだろう。そう思った瞬間――。「黙って座りなさい、騒々しい」冷たい声が飛んできた。雪乃はびくりと肩を震わせた。反射的に顔を上げそうになったが、結局できず、そのままコソコソとイスに座り直した。膝の上で両手を固く握る。美玲は怒っている。そう思っていた。けれど――。「顔を上げなさい」今度の声は、先ほどよりも静かだった。雪乃は恐る恐る顔を上げた。そこにいた美玲は、何でもなさそうにコーヒーカップを手に取っていた。優雅な仕草でコーヒーを一口飲む。そして、静かにカップを皿へ戻した。カチャリ、と小さな音が個室に響いた。美玲は雪乃をまっすぐ見つめた。「壮真のことは、もう、どうでもいいの。私たちに子供ができなかったのだって、私も彼も、お互いを愛していなかったからなのよ。それに、あなたと壮真が付き合っていたのを、私は知っていたわ、結婚する前から」雪乃は息を呑んだ。――結婚する前から……知っていた?思いもしなかった事実だった。自分たちの関係を、美玲は知らなかったと思っていた。だからこそ、胸の奥に罪悪感を抱え続けてきた。しかし、美玲はすべてを知ったうえで壮真と結婚したのだ。美玲は椅子の背に背中を預けると、胸の前で腕を組んだ。「康太のことを聞いたときは……悔しかったわよ、女として。でも―――」その言葉だけは、少しだけ重かった。美玲にとって康太の存在を知った瞬間が、決して何でもない出来事だったわ
Última actualización : 2026-10-05 Leer más